On the Contemporary Prophecy

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娘たちは預言する

                        ペンテコステ的解釈学と女性の働き
                          ジャネット エバーツ パワーズ

 成長著しい初期のペンテコステ運動においては、あらゆる分野で女性が活躍していました。その働きは、説教、聖書教育、聖書学校の設立と管理、伝道集会の開催、教会の建設と教団の設立、宣教地での伝道活動、さらには著作や定期刊行物の編集までおよんでいます。

 20世紀に入る頃、ペンテコステ教会とホーリネス教会とは、多くの女性に按手礼を施していました。1920年以降、按手礼を受けた女性は減少したとはいえ、1955年には、それまで按手礼を受けた事のある女性の50パーセントは、ペンテコステおよびホーリネスの教会から輩出されています。他の主だったプロテスタント教会で按手礼を受けた者は、わずか17パーセントにすぎません。これらの数字は主要な教団の注意を引き、1990年のNCCのレポートでは、女性の働きを認める事においては、ペンテコステ派最大の教団であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッドが、主導的役割を果たしたと言われています。

 ペンテコステ運動の歴史においては、このように多くの女性が按手礼を受けたにも拘わらず、現在の動きは、ペンテコステ派の女性にとって必ずしも好ましいものではありません。アッセンブリーズ・オブ・ゴッドにおいては、女性の教職の数は増加しているのですが、按手礼を受けるまで進もうとする者の数は減少しています。女性たちは、福音の中心から遠い、枝葉の奉仕に当っているのです。主任牧師の働きをする者も宣教地で仕える者もわずかながらいるのですが、その多くは引退の年齢を過ぎているというのが現状です。日曜日、女性がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の講壇から説教することは稀になっていますし、若い女性が模範とするような女性もどんどん少なくなっています。

 この傾向にたいしては、ペンテコステ派内外から憂慮の声が上がっています。ペンテコステ運動の中の女性についての学びの多くが、男女平等主義の初期の姿を理想として、この運動でも男性の権威を重んじていることを取り上げ、これがどれほど解放されていないかということを、強調しようとしています。しかしこれらの見方は、ペンテコステ運動がその初期のころから、いかに大胆に女性の働きの問題を論じ、取り組んできたかという事を見落としているのです。ペンテコステ派の人々は議論の基盤に聖書を用いて、女性もまた、聖霊にまったく力付けられる事によって、神の言葉を語る能力を持つ器となりえる事を明言する一方、一般社会の中の女性についての伝統的態度も受け容れてきたのです。

 20世紀の初頭、ペンテコステ派の人々は、女性に按手礼与える事は非聖書的であり神が定めた男女の秩序を乱すものであるという非難にたいし、自らを弁護しなければなりませんでした。彼らは、ヨエル2:28や使徒2:16−17の聖句、あるいはマタイやヨハネの復活の記述に立って、女性も福音を語る権利を持つ者であることを精力的に擁護しました。キリストは、女性たちが行って、ご自分の復活について証をするようにお命じになり、聖霊は、その女たちが証をすることができるように、ペンテコステの日に力を与えてくださいました。神に逆らう彼らは、いったい何者だったのでしょう。しかし一般的には、彼らも、女性は「弱い器」であり家庭と教会政治においては、男性の権威の下にあるとみなしていました。ともあれ、このような立場は、自分たちのやり方が聖書的であると弁護できるようにし、他のあらゆるプロテスタント主要教団をはるかに越えて、女性の自由な働きを認めさせて来ました。

 ペンテコステ派の人々が、女性の按手礼について消極的であると非難を受けるようになったのは、主だった教団が女性の按手礼を認め始めた後の、最近の出来事です。女性解放論の立場に立つ学者たちが、ペンテコステ派の女性教職と、その教会内での機能について研究をはじめたのです。ペンテコステ派のやり方にたいする彼女たちの評価は、ペンテコステ派の人々が答える用意ができていないような、多くの新しい非難を産み出しました。それらの女性解放論者のひとりエレーン・ローレスは、地方の貧しいペンテコステ派女性教職たちについて調査し、何冊かの著書を出版しています。ローレスは、自分が調査しインタビューした女性たちに深い同情を抱いており、そのインタビューは、女性教職たちが、自分の召しと働きをどのように理解しているかを示すとても良い資料です。とはいえ、彼女はペンテコステ運動についても聖書に関してもたいした理解はもっておらず、女性教職者たちが働いている宗教背景についても無知であるため、その結論にはいくつもの誤認が含まれています。しかし、それらの欠点にもかかわらず、彼女の調査は、女性の働きに関するペンテコステ派の理解にたいして問題を提起するものであり、それらの問題は、現代アメリカ社会の中で答えられなければならないものです。

 ペンテコステ運動と言う宗教背景をかなりしっかり理解した上で、ペンテコステ派の女性教職について研究した人物に、マリー・マクリントク・フルカーソンという女性解放論に立つ神学者がいます。彼女が聞きたいと願って調査したのは、いわゆる女性解放論者とはまったく異なる伝統的キリスト教を受け容れていながら、なおかつ女性として力を与えられていると感じている、女性たちの声です。彼女はその学びのかなり多くの部分を、ペンテコステ派のチャーチ・オブ・ゴッド教団に所属しているダビデ・リューバックという人物の学びに負っていますが、彼は、ペンテコステ運動の中において女性の声が小さくなりつつあるという事について研究をした人物です。これらすべての学びは、ペンテコステ派の女性の働きにたいする見解が、ペンテコステ派教会内で働きを進めようとする女性の働きを、いかに制限しているかという事にたいして疑念を投げかけています。

 これらの女性解放論学者の心配は、若いペンテコステ派の女性教職者たちの中に現実に見られるものです。これらの学びの中で取り上げられた年配の女性教職者たちは、一般的に、聖書に基盤を置いた女性の従属を認め、自分たちの働きに関する理解を、伝統的な形に合う様に調整してきました。しかし若い女性教職たちは、教団や神学が保持している女性の働きに対する制約と、自分の働きに対する召命との調和に苦しんでいます。大切なのはペンテコステ運動そのものの中にいる学者たちが、この問題について発言することです。彼らはペンテコステ運動の複雑な動きを理解しているため、一般世界の、あるいは女性解放運動の枠にペンテコステ運動を押し込めて、結局、誤解や曲解に陥ってしまうという危険性が少ないからです。もちろん、この問題について内部の学者たちの真面目な調査を求めるからといって、外部の者たちには耳を閉ざせと言おうとしているのではありません。ただ、変化への勧めが、ペンテコステ派の解釈学に忠実な、内部の者から来るのでなければ、その変化が定着するとは思われないのです。

 ペンテコステ派の学者たちは、ペンテコステ運動内における女性教職の減少の理由として、運動の組織化や専門化、あるいは女性に対するアメリカ分化の変化や、改革派的福音派神学がペンテコステ派の女性に対する考え方の中に侵入してきている事などを挙げています。多分、この問題について最も深く切り込んだ分析は、ダビデ・リュウバックの「行って私の兄弟たちに告げなさい」という題の論文に著わされています。その論文において彼は、聖霊のバプテスマの教理に固有な権限の制約と、ペンテコステ運動の反文化的傾向が、女性の働きの低下の要因になっているのではないかと言っています。私の一文は、ペンテコステ派のユニークな聖書解釈の手法が、女性の働きをどのように励まし、また制約してきたかと言うことを、リュウバックの論文を基礎として語ろうとするものです。女性たちに自由に説教をさせ、ペンテコステ派の人々を女性の働きの強力な擁護者にして来たのは、彼らの聖書の読み方です。もし、ペンテコステ派の人々が外部の者の問に答え、福音の働きに関する女性の権利を弁護しようとするなら、自分たちのユニークな聖書解釈の豊かな伝統から学ばなければなりません。

 ペンテコステ派の聖書解釈のユニークさは、霊的体験が聖書の理解に大きな役割を果たすところにあります。ペンテコステ運動の初期の人々は、自分たちは聖書の叙述そのものを回復している、あるいは聖書の叙述そのものの中に再び入り込んでいるのだと考え、自らの生涯を持って聖書の出来事に関与し、その出来事を自分のものにしているのだと見たのです。御霊は、聖書を解釈する者に、聖書に記されているのと同じ御霊の現れを体験させる事によって、その解釈の正しさを裏付けようとしておられるのです。新しい体験というものは、新鮮な洞察力をももたらしますので、聖書も新しい意味を持つようになります。とはいえ、体験、信仰、行動などは、すべて、神の御言葉によって吟味されなければならないものです。このような解釈学の故に、ペンテコステ派の聖書解釈者は、聖書は元々の読者に対してどのような意味を持っていたか、またそれは現在の読者にとってどのような意味を持つものであるかなどという、解釈学的格差に気を使う必要がありませんでした。聖霊は、原典の著者の生涯の中に働いておられたのと同じように、今それを読む信徒たちの生涯の中にも働いていてくださるのですから、聖書テキストと読者との間の掛け橋はすでに掛けられて、すべての者が聖書テキストを理解できるようにされているのです。この、聖霊に導かれた解釈法はまた、一つのテキストの複数の解釈に可能性を開くものです。このペンテコステ的聖書の読み方が重視するのは、体験自体ではなく、自分の生活体験を聖書物語への参加とみなすことです。ペンテコステ派の人々にとって、聖書研究の目的は神の御心を見出し、それに立って行動する事なのです。

 このペンテコステ的聖書解釈は、歴史批評学的方法より、ハンス・フレイが呼ぶところの前批評学的解釈に近いものです。ですから、この解釈法が聖書叙述(訳註・聖書の中の物語の記述部分)に非常に高い価値を認めているのは当然のことです。ペンテコステ派の人々にとって、聖書は神学や歴史陳述のテキストブックではなく、聖霊によって記された、イエス・キリストの贖いの物語なのです。ですからペンテコステ派の人々は、聖書記述の中に体験の原型を見出そうとし、その記述には規範となり得る神学的価値があるとみなすのです。聖書の物語は、過去にたいしても未来のみ国の完成にたいしても連続性を持つものですから、やがて来るべき代の力は、現在も、ペンテコステ体験を通して、教会が用いる事ができるものです。物語の意味を決定するには、ふつう、物語の完結の部分が最も大切と考えられますので、ペンテコステ派の人々は、しばしば自分たちの体験と聖書物語の意味を、来るべき神の国という概念の中で決定しようとします。ペンテコステ的解釈学は、正しい体験は正しい教理に導くと主張する考え方を提示します。ですからペンテコステ派の人間は、聖書テキストに根差した神学的命題を決定する事よりも、自分たちの体験を聖書叙述の中に見出すことに、より深い関心を持っています。

 ペンテコステ派の人々は、聖霊のバプテスマと御霊のカリスマテイックな現れに関する自分たちの理解のし方を弁護するときには、いつも、これらの解釈学的手法を支持して来ました。しかし問題が女性の働きに移ると、ペンテコステ派の人々は、しばしば解釈学的な自家撞着に陥っています。一方では、ペンテコステの日の教会の体験と同様に、また、聖書の中に記されている他の女性たちの体験とも相反することなく、女性も男性と同じ聖霊体験を持っているのであるから、男性とおなじように福音を宣べ伝えるべき力を与えられていると公言しておきながら、この叙述と体験の解釈学を、教会と社会の中における女性の立場と言う問題にも適用することには、失敗してしまったのです。この不明瞭さは、ペンテコステ派の人々が伝統的教会の女性の役割を拡大し、御霊によって力を与えられた教職として説教する事を許しておきながら、御霊によって、女性も権威ある立場につく事ができるのではないかということについては、いまだに、確かな考えを持つ事ができないままでいるのです。もしペンテコステ派の人々が、女性解放論に立つ批評家によって提起されたこれらの疑問に答えたいと思うなら、彼らは、自分たちの叙述解釈学の御霊に力づけられた機能を回復して、それを、女性の働きの理解に影響を及ぼす聖書の個所に適用しなければなりません。

力を与えられた女性

 ペンテコステ運動は、19世紀の終わりにウエスレアン−ホーリネスの流れの中から出現してきました。この背景が、初期ペンテコステ運動の教職活動における男女平等主義的形態に、強い影響を与えました。ウエスレーは、聖霊体験が教会にとって非常に大切であると考えました。彼のその神学が、カリスマテイックなリーダーシップ(訳注・賜物の有無による指導者たちの選任 )を促進したのです。彼は、主の働きに関してカリスマテイックな資質を強調する事により、女性に対して新しい機会を開いたのです。メソジスト運動では、1761年には、すでに、女性たちが巡回伝道者や特定地域の説教者として活動していました。アメリカにおいてのウエスレアン−ホーリネスは、リバイバル運動と18世紀の社会活動主義に強烈な影響を及ぼしました。

 このアメリカのホーリネス運動においては、三つの主要な論が、女性も男性と同等であるという事を支持するために用いられました。第一は、ヨエル2:28を基にしたペンテコステ的な論で、使徒2:16−17にくりかえされているものです。フオベ・パルマーは、聖霊のバプテスマが女性に説教と預言をする資格を与えたのだと主張しました。彼女は力強い働きを推進めていましたし、ホーリネスの主要な季刊誌の編集にも携わっていたために、その見解は非常に大きな影響力を持っていました。

 第二は、信徒の聖化の結果という点を基にした論議です。女性もまた、贖いの功の故に、罪の呪いとその呪いに関わる劣等の立場から解放されているのであるから、呪いの悪影響はもはや、キリストにあって贖われ回復された者の共同体に及ぶものではありません。

 女性の平等についての第三の論は、ガラテヤ3:28の、キリストにあっての男女の一致ということに根ざすものです。初期ペンテコステ運動の人々が、聖霊のバプテスマと信徒の働きのために御霊が力を与えてくださるという事実を、ことさら強調したために、彼らが女性の働きの権利について擁護したとき、ほとんどペンテコステ的議論のみを用いました。彼らは使徒:16−17にあるヨエルの預言を、女性の預言の働きを充分に説明し正当化するものだと考えたのです。彼らは、女性は黙っているべきであると言う節に煩わされる事もありませんでした。なぜなら、それらの節は福音の宣教には関わりのないものだったからです。

 ペンテコステ的な異言の理解は、女性教職の資格の問題に関して非常に重要なものでした。異言は超自然的な賜物であり、聖霊のバプテスマを受けて語っている者の行為は、その人間の行為ではなく神の行為と考えられたからです。女性の教職たちは聖霊のコントロールの下で語っていたために、初期ペンテコステ運動の人々は、働きのための資格として伝統的に認められていたものを無視する事ができました。彼らは語る人間にではなく、御霊の現れに権威を認めたのです。

 初期ペンテコステ運動の中でも最も良く知られていた、マリア・ウッドワース・エターという女性教職の一人の説教に、当時のペンテコステ運動の女性の働きに対する弁護が明確にあらわされています。彼女は「福音の中の女性の権利」という説教の中で、聖書を用いて、それぞれの賜物を神の栄光のために用いなさいと、姉妹たちを励ましています。その説教の鍵となる聖句は使徒2:16−17にあるヨエルの預言ですが、彼女はまた、復活の記述やヨハネ4章の井戸端の女の物語を用いて、イエス様が女性たちに対し、福音を広めるように明確にお命じになったことを示しています。旧約聖書において預言した女性の例や、パウロと共に働いた女性なども、ペンテコステ運動の女性が見習うべき手本として挙げられています。彼女は、女性は黙しているべきであると言う聖句を、女性も男性も同じであると語っているガラテヤ3:28、あるいはパウロが設立した諸教会において、女性も祈りまた預言をしたことが明白に述べられているIコリント11:5などの聖句の権威に劣るものとして退けています。この預言の賜物は最大の賜物であり、神はそれを女性に約束されたのです。明らかに、彼女の興味の中心は福音を宣べ伝える事であり、女性たちが自分の弱さを口実に神に従う事を止めたりせず、かえって自分を通して、神が語ってくださることができるようにしなさいと、促しています。

 マリア・ウッドワース・エターは、おもに、ペンテコステ的な聖書の読み方からの議論に訴えて、ペンテコステ的な聖霊のバプテスマの議論には、ほとんど言及していません。ところが、現在のペンテコステ派の女性教職たちは、むしろ、ペンテコステ的な聖霊のバプテスマの理解をもって、自分たちの召しを理解しています。この聖霊のバプテスマの強調は、アライン・ロウレスが彼女の著書「主のはした女」で分析している召しの物語や説教にも、明らかに見られるものです。ロウレスは女性の伝道者や牧師の数の多さに驚いていますが、彼女たちのほとんどがミズリー州中部のペンテコステ派であり、自らを神のみ言葉を語るために召されていると語っています。これらの女性たちにインタビューをしている内に、ロウレスは、ペンテコステ派においては、み言葉を宣べ伝えるための神の召しの重要さは非常なもので、女性はふつう男性と同じ権威を与えられることはないという、自分たちの伝統的な文化背景を、無視できるほどのものである事に気付きました。み言葉の宣教のために、神が召してくださったと主張する女性たちは、自分たちの文化的しきたりを越える口実として、召しを用いる事ができたのです。

 伝道者や牧師として成功した女性たちは、自分の召しの物語をきちっと整えていて、その物語を、自分の働きを正当化するために用いています。女性の教職者たちの召しの物語の典型的な要因は、1)自分が他の者たちとは異なっていると明確に自覚している、2)自分の罪深い性質を認識している、3)伝道集会や宣教活動に強い興味を抱いている、4)はっきりした回心と福音宣教への召しを体験している、5)教職にならなかった場合の生き方もしっかりと想定している、などといったものです。しかし、召しの物語の中で最も重要な点は、それが、召してくださっているお方がまさに神ご自身であると、女性たちを確信させていることです。ほとんどすべての女性が、教職になるなどあきらめるようにと勧告を受けた体験を語っていますし、自分たちもまた、あえて、召しと思われるものとは逆の状況を作り出すなどして、神を試し、御心を確かめようとしています。しかしこのような抗いの常套手段とも言えるものが、かえって彼女たちに、自分は神の召しに従っているのだと確信させる事になりました。彼女たちの話しを聞く者もまた、同じように確信を持つようになったのです。神の力が、彼女たちの抵抗と躊躇と弱気を打ち破って下さったからです。それが、神が選んでくださったという事の証拠となったのです。聖書に馴染んでいる者ならば誰でも、彼女たちが預言者たちの召しの形を良く知っていて、自分たちの召しを、それらの物語に照らし合わせて理解していると、見て取る事ができます。彼女たちは、自分の働きを預言者的であり、御霊に力づけられたものであるとみなしているのです。

 ロウレスはまた、自分たちの中に働いておいでになるのは神であるという理解を補強するために、これらの女性たちが礼拝会において試すいろいろな方法を取り上げています。たとえばある礼拝会においては、まず聖書が読まれてそれから説教が始まりましたが、それは聖書に続く説教が神に啓発されているという主張を、はっきりと示すものでした。説教全体を通して語られることは、すべてと言って良いほど神のみ言葉の枠の中で語られ、終わりには、その説教が単純明快な神からのメッセージであるという、神への責任転嫁とも取れる締めくくりがされていました。異言のメッセージがあると、解き明かしに聖書用語の香りを加えることによって、女性の説教者は自分の権威をさらに強めていました。語っている声は彼女ではなく神である事が明らかであるというわけです。フルカーソンは、女性教職者が「油注ぎ」という言葉を用いて、自分たちを福音宣教の働きに当らせられる、神の方法を言い表している事を指摘しています。説教で使用される聖書のみ言葉は神の生ける言葉となり、その生ける言葉に対する会衆の応答が、神が説教を通して働いておられることの証拠となるのです。彼女たちは召しの物語も他の形の証もほとんど同じように用いています。召しの物語は他の物語ともあいまって、神の力強い働きを言い表しているのです。そしてこのようなことを話す目的は、神が人間の生活の中に働いておられるという事実を、共に体験しようと誘い込むことです。会衆参加型、聖霊主導型の性格を持つのペンテコステ派の礼拝会は、女性の証や説教に場を提供しているのです。

 聖書の読まれ方や証の重要性に見られる、ペンテコステ派の御霊に基盤を置いた解釈学は、説教の奉仕の機会を平等にするのです。もし神がお語りになる方であるならば、どのような人間であっても、神の器として用いられることができるのです。男性の中におられると同じ聖霊が女性の中にもいてくださるのですから、ペンテコステ体験とは、女性が神の代弁者として用いられる、新しい時代が到来したという事を示すものです。しかしこのペンテコステ的議論は、女性に力を与える聖書個所によるよりも、むしろ、聖霊のバプテスマに関するペンテコステ派の理解に重きを置いています。ペンテコステ派の女性教職たちは、自分の人生を、預言者の召しに関する聖書の記述や、聖霊のバプテスマの教理によって理解しているのです。働きに関するこの預言者的理解は、主の代弁者としての女性に力を与えるものですが、女性としての彼女たちに力を与えるものではありません。

制約された女性

 女性の働きに関する議論の中心は、正しい意味の霊的権威と言うものが、何によってもたらされるかということです。この問いに対する答えである聖霊のバプテスマの教理が、ペンテコステ派の女性たちに力を与えてきたのですが、一方では、彼女たちの働きに、様々な制約を生み出して来ました。聖霊のバプテスマの教理においては、働きに関する権威は人間という器よりも、聖霊の現れの中にありました。ですからこの教理が女性に福音宣教の権威を与えたとしても、女性の権威そのものの性質についてはなにも語っていないのです。働きに関するこの理解は、ペンテコステ運動の中で女性に重要な場を許してきたのですが、役職に就く権威を女性教職者に与える事はありませんでした。この区別は、女性の権威の性質と彼女たちが役職に就く権利との間には、当初から緊張があったことを意味しています。

 チャールス・パーハムとその弟子たちの間では、ほとんどの女性たちがホーリネス運動から来た者たちであり、男女が同等に働くのは当たり前のことでした。ペンテコステのリバイバルの始まりに当っては、女性たちが決定的に重要な役割を果たしたのです。しかしながらアズサ街においてさえ、使徒2章の記録は、女性は男性とは別の制約された活動分野を与えられていると言う、文化的理解に制約されて読まれていました。説教の権威は聖霊の内にあるのですから、聖霊のバプテスマを受けた女性は説教の権利こそ持っていましたが、男性とは異なっていて、男性の権威の下にあったのです。そしてこのリバイバルが、ホーリネス運動の女性平等主義神学に影響されていないプロテスタントの中に広がっていくと、ペンテコステの人々は、ほかの文化的神学的女性論に感化されてしまいました。リバイバルの前からあったチャーチ・オブ・ゴッドのような教会は、リバイバルは受けいれましたが、政治形態や女性に対する方針を変える事はありませんでした。チャーチ・オブ・ゴッドが、男性と同じように女性にも教職の道を開いたのは1990年に至ってからのことです。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッドにおいてはE.N.ベルが、教会の中で女性が権威ある立場を持っていたという例を、聖書の中に見出すことができないことから、女性は役職の権威を持つべきではないと論じました。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の創立者の中には、按手礼を受けた女性たちがいたという事実にも拘わらず、ベルの立場はこの教団の一般的見解となりました。とはいえ、これがアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの唯一の見解となった事はなく、その会衆制度的形態ともあいまって、女性たちは説教し、牧会し、礼典を執行し続けていました。1935年になって、この教団は正式に女性教職の按手礼を認めているのですが、1977年に至るまで、女性教職者と男性教職者の間には正式な区別が存在しました。アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが、神に召され賜物を与えられた女性の働きを、制約すべき正当な理由はないという公式見解を発表した1990年まで、この教団の中で、按手礼を受けたいと望む若い女性の数は減少し続けていました。

 この女性の教職の権威に対するふたつの相反する傾向は、ペンテコステ派の女性牧師を対象としたロウレスのインタビューの中で、明らかにされています。ロウレスは、彼女たちが、女性は男性に服従すべきものとして造られているという信念と、神のみ前においてはすべての人間は平等であると言う信念を、調和させる事ができないままでいると言うことを見て取っています。彼女たちの召しの物語は、自分の所属する団体の信仰のあり方に合致するように、注意深く表現されていて、彼女たちが自分の働きを正当化する考え方、たとえば神に対する絶対的信頼、あるいは男性にたいする服従などが強調されています。ロウレスはまた、これらの主張が、彼女たちの語る説教の中でも強調されているのを見ています。ペンテコステ派の女性たちの説教の中で最も一般的なのは、神に完全に服従する事の大切さと、救いの大切さです。もちろん、これらのことについて男性もまた説教する事は、ロウレスも認めています。しかしこれらの主題は、「消極的な受身の姿勢、服従、あるいは無価値で無力であるという自覚などの恐れに慣らされて来た、女性の関心を反映している」と彼女は考えています。たとえ、男性説教者にしても女性説教者にしても、説教の始めに当って、自分の説教が神の権威に恭順するものであると表現するのは一般的であるとしても、女性の場合は、さらに深い服従の表明がされなければなりません。女性自らが語る自分をいやしめるような話では、服従と言う主題が取り上げられます。彼女たちは教会においても家庭においても、常に、男性の権威に従順であると強調するのです。これらの女性たちは、男性の権威を横取りする事はできないと知っているのです。神が家庭にお与えになった位階制度が、教会においてもそのまま適用されているのです。

 ペンテコステの流れの外にいる女性たちは、ペンテコステ派の女性説教者の物語や説教の中にある、この主題に気付いたとしても、まったく違った解釈をほどこします。中でもロウレスは最も低く見積もった解釈をしています。彼女は、これらの女性たちのこれほど徹底した服従が、自由を得るための手段である事は認めますが、この服従と自由の同一視は女性たちに顕著な特徴であって、自分たちの不服従によって神の怒りを引き起こす事を恐れている現れであると考えます。彼女は、これらの女性が、エバの罪のためにしばしば非難されるのを甘んじて受け容れ、自分たちは無価値で罪深いものであると感じ、自分の救いに確信を持てないでいると考えるのです。しかしその一方で彼女は、これらの女性たちを賞賛しています。それは彼女たちが、社会文化が描き出した一般的女性像を打ち壊す、もう一つの物語の形を作り出したからです。異なった人生物語を書く事自体が、現状に対する異議の申し立てになります。

 フルカーソンの解釈は、これらの女性たちが活躍するペンテコステ派の内情にたいしてもっと同情的であり、また、さらに洞察に富んでいます。彼女もロウレスと同様に、これらの女性たちが、神に信頼するという主題を用いて自らの生き方を描きなおし、男性たちの反対の中で、教会の中での権威の場を作り上げた事に感心しています。しかし彼女は、自分をいやしめるような言葉を,自己嫌悪の言葉とは理解していません。むしろ、女性たちを「無きに等しい者」とみなす一般世界と、男性に従属させようとする文化の面前で、自らを、女性の一員であると主張する言葉ではないかと語っています。これらの女性が堅く立っている事ができるのは、男性にたいする信頼でも社会にたいする信頼でもなく、神に対する信頼があるからです。彼女たちは、女性の服従に関する聖句よりも、神の約束の方がより力のあるものと考え、その考えに従って行動しようとしているのです。そのような信仰を、到底、消極的な受身の姿勢ということはできません。

 ここに取り上げた、女性解放論の立場に立つふたりの学者は、共に、これらの女性たちを男性に服従する立場に甘んじさせている要因のひとつが、ペンテコステ的聖書の読み方にあると言うことを知っています。聖書全体が誤りの無い神の言葉であるというペンテコステ派の信仰は、女性に関して書かれているすべての聖句に従うべきだという事を意味しています。ペンテコステ派の聖書テキストの読み方に従うならば、男性は女性に対して権威を持っていて、家庭での位階は神がお定めになった秩序の一部なのです。この聖書の権威にたいするペンテコステ派の信仰によると、女性は教会においては黙っているべきであると言う聖句の指示は、文字通りに受け取るべきだという事になります。

 ロウレスは、ペンテコステ派の女性説教者たちが、使徒2:16−17を引用することによって、講壇の後ろに立つことを正当化している事、また自分たちが、終わりの日に魂の救いのために走りまわっている、単なる「主のはした女」に過ぎないと理解しあっている事を認めています。彼女はまた、これらの女性たちが、同じ節の中にある「娘」ではなく、まかない婦や家政婦を意味する「はした女」という言葉を選んでいるという、面白い点を指摘しています。ですから、女性説教者に力を与える聖句でさえも、神と男性にたいする服従を認める方向で解釈されているのです。

 フルカーソンは、ペンテコステ派の人々の聖書の読み方が、女性に、教会内で活動できる身分の主張を許すものである事に気付いていますが、ロウレスと共に、このような聖書の読み方に明らかに不満を抱いている事がわかります。彼女たちは共に、ペンテコステの人々が聖書の部謬性を信じ、それを字義通りに読んで行くのならば、ペンテコステ教会における女性の働きは、制約され続けるであろうと推測しています。しかし、はたして、この推測は当っているでしょうか。

女性に力を与えるために、ペンテコステ的解釈学を用いる

 ペンテコステ運動の初期において、この運動の人々は、聖霊のバプテスマが非聖書的であり、非常に疑わしい体験に基づいていると言う非難に、答えなければなりませんでした。彼らはまた、ペンテコステ運動に属する女性たちの、説教の権利をも擁護しなければなりませんでした。そこで彼らは、女性教職の問題を、聖霊のバプテスマの教理の傘の下に入れ、聖霊のバプテスマを弁護して論じる中で、その教理を宣べ伝える女性たちをも擁護したのです。そうすることによって、女性の権利についての文化的前提を見直す必要も無く、聖書の伝統的解釈にも手を触れずにおく事ができたのです。このような解釈法は、実際、非常に有効な弁証方法となりました。聖霊のバプテスマの教理は、ペンテコステ運動の中心をなすものでした。もし、ペンテコステ派の人々の聖霊のバプテスマについての説明が、人々を説得できなかったとするならば、この運動はその最も大切な特徴を失い、やがて死んでしまったことでしょう。キリスト教会に新しい運動が興ったとしても、一度にたくさんの伝統的教理に逆らう事はできません。ですからペンテコステ運動は、伝統的なまた文化的な女性の立場の理解に逆らう事によって、自らを損なってしまう可能性もあったのです。そして今見ているように、このペンテコステ派の聖霊のバプテスマの教理が、他の諸教団が女性に按手礼を授ける事を考慮し始める何十年も前に、女性に働きの力を与えていたのです。ここ最近の数十年に至るまで、ペンテコステ派の聖霊のバプテスマの教理の弁護が、福音宣教における女性の権利をも擁護し、女性のためにもペンテコステ運動のためにも貢献してきたのです。

 このペンテコステの教理を弁護し発展させて行く過程で、ペンテコステ派の人々はかなり発展した解釈学を展開してきました。しかし彼らは、この解釈学のすべての面を、女性にかかわりのある聖句に適用した事はありませんでした。ペンテコステ派の聖霊のバプテスマの教理を弁護した解釈学には、以下に記す4つの顕著な要因がありました。1)解釈に関して、体験が重要な役割を果たすと確認する。2)神学を発展させる中で、聖書の叙述文の部分の価値を主張する。3)教えの部分と叙述文の部分に区別を持ち込む伝統的方法、すなわち、パウロが記したものは教えであり、福音書や使徒の働きの叙述文より権威があると主張する解釈法を受け入れない。4)ペンテコステの終末論的次元、すなわち、教会とは来るべき代の力によって変革された共同体であり、やがて訪れるみ国の姿を反映するものであることの重要さを認めさせる。ところが、かつて女性に関する聖句に適用されたことがあるのは、第一の要因、すなわち、テキストを解釈するに当って、体験が重要であるというという事だけです。もしペンテコステ派の学者たちが、女性の働きに関して、外部の女性解放論者たちから投じられた数々の質問に答えようとするのなら、彼らは、初期ペンテコステ運動の中で聖霊のバプテスマを擁護するために用いられた解釈学を取りもどし、女性の役割に就いての聖句に適用しなければなりません。

 そのような解釈学に根ざした釈義とは、どのようなものでしょう。そこで、新約聖書の女性に関する文章の意味を明らかにするために、ペンテコステ的解釈学をどのように用いることができるか、具体例を挙げて示してみましょう。最初に取り上げるマルコ5:21−43は、女性についての叙述文が、女性の神学の発展のために、いかに用いられるかという事を明らかにするものです。2番目に取り上げられるIコリント11:2−16は、聖書の教えの部分と歴史に影響された部分に区別さえつけなければ、女性はその働き場において男性に服従しなければならないという、教理の根拠を崩すことができるということを証明するものです。

マルコ5:21−43

 ペンテコステ派の人々は、常日ごろから、ご自分のことを他の者たちに告げるようにと女たちにおっしゃったイエス様の物語や、井戸のほとりの女の物語などの、福音書の叙述文を用いてきました。ところが彼らは、福音書に記された女たちの物語の、神学的重要さに気付かずに来てしまいました。女性についての最も重要な福音書の記述のひとつに、マルコ5:21−43があります。ペンテコステ派の人々は、この長血の女の物語を、癒しの信仰の大切さを示すために用いてきました。また、イエス様とヤイロの娘の物語の中には、神の力は人間を蘇生させる事さえできるという、信仰の励ましを見てきました。しかしこの聖書記述は、クリスチャン社会における女性の立場についても語っているということに、気付かずにいたのです。

 初代の教会は、このふたつの物語が共に女性の立場についてのメッセージを伝えているために、ほぼ間違いなく、これらを「インクルーシオ」と呼ばれる、物語の中にそれと関係のあるもうひとつの物語を挿入する修辞学的方法で、いっしょに取り扱って来たようです。この手法はマルコの福音書においてはよく用いられています。マルコは、イエス様がユダヤ人たちの一般的習慣に反対して、トーラを再解釈しておられる物語を記述する場合、しばしば「インクルーシオ」をしています。しかし、マルコの福音書でインクルーシオされている物語、たとえば、宮清めと無花果の木への呪いなど多くが、マタイやルカの福音書ではインクルーシオされていません。ところが、長血の女の物語とヤイロの娘の蘇生は、3つの共観福音書すべてに、インクルーシオとして出てきます。(マタイ9:18−26、ルカ8:40−56)

 このように共観福音書すべてが、このふたつの物語を一体として扱っているということは、共観福音書の著者全員が、これらの物語は共に扱われるべきものであり、互いに照らし合わせながら解釈すべきものであると、理解していたと言うことを示すものです。これらふたつの物語は、レビ記15:19−33に記されている血に関する禁忌の注解であり、ふたつを一体として理解すると、これは、女たちがキリストにあってトーラの制約から解かれ、神の娘としての新しい立場を与えられたということを示すものです。

 長血の女の物語は、明らかにレビ記15:25−30の背景と対比されています。12年間にわたり、彼女は宗教的に汚れていて、彼女に触れる者すべて、あるいは彼女が触れる物すべては、汚れを移されることになるという状態にありました。このような汚れは、彼女の経済を危機に陥れただけではなく、社会的には彼女を村八分にしていました。彼女はどのような礼拝にも、また集りにも参加することができなかったからです。群集の中でイエス様に近づくことによって、彼女は宗教戒律を犯していました。彼女が触れるものすべて、あるいは彼女に触れる者すべては、彼女と同じように汚れるからです。彼女がイエス様に触れたとき、彼女の汚れはイエス様に移されたはずです。ところが、その瞬間、彼女は癒されたのです。イエス様が群集の中に彼女を探したとき、彼女は、イエス様と群集たちに罰せられるのではないかと恐れました。明らかにトーラを破っていたからです。しかし、イエス様は彼女を褒め、「娘」とお呼びになりました。このみ言葉をもって、イエス様は彼女に社会復帰をさせ、神のみ心を行った者として、ご自分との親族関係に入れてくださったのです。(マルコ3:35)マルコ1:40−44においてライ病人を清められたとき、イエス様は、モーセが人々に対する証のために命じたように、祭司のところに清めの供え物をもって行き、自分が清められたことを示しなさいとおっしゃって、トーラの要求を満たすようにお命じになりました。ところが長血の女の場合、イエス様は、この女がそれ以上しなければならないことについては、一切まったく触れておられません。レビ記によれば、彼女はその汚れた血漏のために、贖いをしなければならなかったはずです。彼女はトーラの要求と病の呪いから、まったく解放されたのです。

 ヤイロの娘の蘇生物語は、ちょっと見ただけでは、レビ記の血の禁忌に関する律法とは何の関わりも無いようですが、血漏の女の物語と並列されると、この物語の重要性がわかります。ユダヤ人の女は、12歳で結婚可能なひとり前の女と認められます。12歳で定期的な月経が始まるからです。したがってヤイロの娘は単なる小娘ではなく、レビ記15:19−24の宗教的定めに拘束されるものでした。たとえ女性の血漏が病気と関係のないものであっても、彼女は汚れによって病んでいるとみなされました。(レビ15:33)病と死を罪の結果のひとつと見ていた文化においては、女性の通常の月経もまた罪の呪いの一部と考えられていました。ですからヤイロの娘にお触れになったとき、イエス様は、女性に関わる汚れを移され、その汚れに関わる呪いを移される危険を犯しておられたのです。しかしイエス様は、血漏の女を取り扱われたとき宗教的汚れの問題を無視されたように、ヤイロの娘の手を取って死から生きかえらせ、家族と地域社会にお戻しになったときも、血の禁忌の戒律を無視なさったのです。

 これらのふたつの物語で明々白々なことは、ユダヤ教において女性たちを拘束していた血の禁忌の戒律は、クリスチャン共同体においては効力を失っているという事実を、イエス様がお示しになっているということです。女性を男性から隔てていた神殿の壁は取り除かれたのです。イエス様は、女性に関わる汚れの呪いを移されることを無視されただけではなく、この呪いをひっくり返して祝福に変えられたのです。これらのふたつの物語の中で、イエス様は女性を女性として祝福し、彼女たちを、ご自分の家族を作り上げるクリスチャン共同体の、正式な構成員として受けいれてくださったのです。ペンテコステ派の女性たちは、自分たちを「娘」としてよりは「はした女」として見ているというロウレスの観察は、このマルコ5:21−43の理解に照らして見ると、なかなか面白いものです。はした女は、その忠実な奉仕によってだけ、「父」のもとに近づくことができる僕にすぎません。一方娘は、自分は娘だからというだけで父に近づくことができ、また、娘であるからこそ受け容れてもらえるのです。ペンテコステ運動の初期の人々は、聖霊のバプテスマによって女性の立場は変わったのだと感じていました。ペンテコステ運動初期の文書には以下のように記されています。

 ペンテコステ以前には、女は女の庭で留められ、奥の庭には入ることができなかった。油注ぎの油は女の頭に注がれることはなく、ただ王と祭司と預言者の頭にだけ注がれた。しかし、主がペンテコステを注がれたとき、主は他の弟子たちと共にすべての忠実な女たちを2階座敷にお連れになり、その同じ部屋で、何の差別も無く、神が彼らすべてにバプテスマをお与え下さったのである。すべての女が聖霊による油注ぎを受け、男と変わりなく福音を語ることができるようになったのである。

 しかしながら彼らは、この新しい身分の根拠を、イエス様によって打ち建てられ、来るべき神の国を映し出す新しい共同体にではなく、聖霊のバプテスマに置きました。彼らは、「教会が外庭から中庭に入り至聖所にまで至る運動」であることは知っていましたが、女性にとっての教会の理解がどのような意味をもっているか、見ることができなかったのです。女性の新しい身分は、ペンテコステと共に、キリストのうちに根拠を持つものであると確認すると、パウロがガラテヤ3:28で宣言している「もはや男も女もない。あなた方はみな、キリストにあってひとつだからである」という真理は、クリスチャンの共同体において具体的に実現されなければならないということになります。

Iコリント11:2−16

 伝統的なプロテスタント教会が、女性は男性に服従すべきであるから教会の働きから除外されるべきであると論じるとき、彼らはきまって、パウロ書簡を根拠として持ち出します。男性と女性の関係を理解するのにもっとも大切な聖句は、Iコリント11:2−16です。ここでパウロは、男は女の頭であると言っているのだから、女性は男性に服従すべきであると論じられるわけです。しかしこのような伝統的解釈が、この聖句の唯一の理解ではありません。また、たとえそのようにこの聖句を理解したとしても、新約聖書には、他にも男女についての教えがあります。Iコリント11:2−16が、他のすべての聖句を無効にするほどの、権威を持つものであるかどうか確かではありません。しかし一般的に言ってペンテコステ派の人々は、この聖句に対するこのような解釈を受け入れ、他の聖句はこの解釈に照らし合わせて理解すべきだと認めて来ました。そのようにすることによってペンテコステ派の人々は、聖霊のバプテスマについて伝統的なプロテスタントの人々と議論するときには、受けいれなかった解釈学的前提、すなわち、聖書には教えの部分と叙述の部分との明確な区別があり、教理というものは教えの部分から建てられるべきであって、叙述文の記事からされてはならないという前提を、受けいれてしまったのです。ペンテコステの人々は、この部分は女性の働きを制約するものではないと言おうとしながら、あまりにもしばしば、伝統的プロテスタントのこの解釈学の前提を受けいれてしまった上で、彼らと議論しようしているのです。 もし彼らが、彼ら自身の解釈学を用いたならば、ずっと効果的だったに違いありません。その解釈学は、クリスチャン共同体における聖霊の役割についての伝統的解釈にたいして、彼らの聖霊のバプテスマの教理を立派に擁護したのです。

 この聖句に関して、ペンテコステの人々がまず指摘しなければならないのは、女性が公の礼拝会で祈り、また預言をしていたということです。マリア・ウッドワースのようなペンテコステ運動初期の人々は、女性の働きを支持するために、ためらわずにこの聖句を用いました。現代のペンテコステ派の人間も、その模範に従うべきです。またパウロは、男女の権威関係の問題を直接論じているのではなく、コリントの人々に、女性が祈ったり預言したりするときはベールを被るべきであることを説明しているのです。その指導を補強するためにパウロは、1)男は女のかしらであり女は男の栄光である、2)女がベールを被らないまま祈るのは正しくないという、ふたつの議論を進めています。ペンテコステ派の人々は、パウロの明白な意図を指摘することによって、パウロは、自分自身が建てた教会の特別な事情に向けて手紙を書いていたのであるという、誰でも知っている事実を再確認させることができます。聖句の背景にあるこの事情は、書簡もまた歴史に色づけされているのであって、教理をうち建てるに当って、福音書や使徒の働きより信頼できるとは言えないことを意味しています。ペンテコステの人々はまた、この聖句に関する最悪の取り扱いの幾つかを正すことができます。女性は男性に服従すべきであるという立場を、この聖句を用いて支持しようとする釈義者は、男が女のかしらであるという、パウロのそのときどきの事情に応じた副次的議論の意図を、あたかもこの節の主旨であるかのように取り扱っているからです。女性は説教すべきではないということを言おうとして、彼らの「かしら」の理解を持ち込もうとするなら、彼らはこの聖句の明快な意図に反しているのです。

 この聖句の基本的目的と背景がはっきりしたならば、実際の釈義に移ることができます。この聖句には解釈上の難点がたくさんあり、それらすべてをここで取り扱うことはできません。それらの難点の中のふたつが、この女性の働きに特に関わりがあります。まず、「かしら」という言葉の意味が明らかではないことです。この節においてパウロは、この言葉を比喩としても文字通りの意味としても用いているように思えます。実際のところ、比喩であるか文字通りの意味であるかの判断は困難です。またたとえ比喩であっても、それは「何かに対する権威」、「源」、「一致させている要因」のいずれとも考えられ、これだと断定することはできません。パウロの文章をよく調べると、上に挙げた3つのどれも可能であると考えられます。この節のすべての解釈学的困難さは、Iコリント11:10の、「ですから、女は頭にexousia epi をかぶるべきです。それも御使いたちのためです」という言葉に集約されています。exousia という言葉はギリシャ語で「権威」という意味ですが、伝統的にベールと訳されています。この節は女性の従属について語っていると考える伝統的見解によると、女性は夫の権威にたいする服従のしるしを頭におびるべきだということになります。

 この見解の難点は、新約聖書およびそれに関係する文書の中には、exousia がこのような消極的意味で用いられたことも、また、exousia epi という熟語が、文の主語となる場合以外には、外的な権威を意味する言葉として用いられたためしもないことです。ですからこの表現は、女性は自分の頭の上に権威を与えられていると、認めるような理解にすべきです。たぶんそれは、女性は、ベールを被るならば説教をすることができる権威を与えられているということなのでしょう。説教するときは、男も女も共に神の権威のもとにいるからです。「御使いたちのためです」という表現もまた、難題です。これは過ぎ去ろうとしている古い世界秩序の中の、霊的守護者について語っているという考え方にも一理あります。そうだとするとコリントの女性たちは、たとえ彼女たちがキリストにある新しい共同体の構成員として、古い秩序からは解放されているとしても、自分たちが住んでいる社会に敬意をはらって、預言をするときにはベールを被るようにと告げられたと言うことになります。この節が、たとえ他のどのようなことを意味していたにせよ、女性に対し、公の礼拝会において祈り、預言をする権利を与えていると言うことには、間違いがありません。

 女性の働きは非聖書的であると論じる反対者が、女性の福音に関わる働きの権利を明らかに支持する聖句を用いて論じるのを、ペンテコステの人々が許していることには驚いてしまいます。この節が女性の働きに何らかの制約を設けているとしても、それは服装に関わるものであり、女性が公の礼拝会で説教をしてはならないというたぐいのことには、一切触れられていません。この服装に関する制約は、1)習慣やしきたりを壊すことによって、礼拝において神の栄光を妨げることになるならば、それを行ってはならない、2)現在における神の終末的共同体に属しているという事実は、性別に関わるすべての相異が抹消されたと言うことではないという、ふたつの原則に立っていると思われます。ここにおいて、ペンテコステ派の終末論的理解が、教会に対してこの節が語っていることを明確にする助けとなることでしょう。「あなたの娘たちは預言する」というヨエルの予告の実現は、終わりの日が到来したというしるしのひとつであることは明白です。ですから教会は、来るべきみ国の代の姿を礼拝会や共同体としての活動の中で反映し、自分たちの中の娘たちが預言する事を励ます必要があるのです。しかし、だからといって、自分たちが住んでいる社会のしきたりを無視したり、聖霊の臨在によって男と女の間のすべての相異が取り除かれたなどと、思い違いをしたりしてはなりません。礼拝の中で説教をし、また祈る女性は、その権威が神からのものであるという明らかなしるしをもつ必要があり、教会が礼拝をしているときには、神の栄光を妨げないように振舞わなければなりません。

 結び

 ペンテコステ的解釈学は、およそ一世紀にわたって女性たちに力を与えてきました。たとえ、女性解放論に立つ学者たちやペンテコステ派内の若手が、女性に対するペンテコステ派の伝統的考えに挑戦したとはいえ、提起された問題は、徹頭徹尾ペンテコステ的な解釈学によって答える事ができるものです。ペンテコステ派の女性たちに力を与えるために大切なのは、ペンテコステ派の人々が女性解放論者の解釈学ではなく、自分たちの解釈学を用いる事です。女性解放論者たちは、家父長的宗教についての文化的批評を提供し、文化的に女性たちに力を与えようとします。しかしペンテコステ派の人々は、どのようなときでも、女性を霊的に力づけようとしてきたのです。自分たちは女性解放論者ではないと、ペンテコステ派の女性たちが主張するとき、彼女たちは自分の働きの力の源について、重要な発言をしているのです。ペンテコステの人々は常に世俗化に抵抗してきました。それは自分たちの力が、神に対する徹底的な信頼から来ることを知っているからです。ペンテコステ派の女性説教者たちは、文化的な力を得る事などよりも御霊との直接の体験を受け続ける事に、遥かに大きな関心をもっています。なぜなら、御霊の油注ぎなしには、彼女たちは働きのための力を得る事ができないからです。女性解放論が、ペンテコステ派の女性たちに、彼女たちが大切にしている力を与える事はまったく不可能です。しかし、ペンテコステ的解釈学はできるのです。

 ペンテコステ的見地から見るならば、特に頂けないのは、ペンテコステ派の人々が聖書を誤りの無い神の言葉と信じ、それを字義どおりに読む限り、その読み方によって抑圧され続けるであろうという、女性解放論学者の推論です。まず始めに彼女たちは、ペンテコステ派の女性たちに力を与えたのが、この聖書の字義通りの読み方であったという明白な事実を無視しています。もしペンテコステ派の女性たちが力を与えられ続けるとするならば、それは、み言葉と御霊によるのです。、ペンテコステ派の人々が、女性についての聖書の言及に対し、その独特な解釈学を適用する事こそが大切であるというのは、このみ言葉と御霊による力の付与に関わるからです。ペンテコステ派の人々がその独特な解釈学を適用するとき、彼らは、教職者としての女性に力を与えるペンテコステ的議論を、女性としての女性に力を与える議論に拡大して行けるのです。清めの議論、すなわちキリストの贖いの力により、女性の呪いと劣等は打ち砕かれたと言うことは、マルコ5:21−43によってはっきり支持されています。ペンテコステの人々は、常々、これと非常によく似た議論を、贖いによる癒しの議論に用いてきました。ですからそれを女性としての女性に力をあたえる議論に少しばかり拡張するのに、考え方の変革もさほど必要ではありません。ペンテコステ派の人々は、御霊の注ぎのうちに来るべき代の力が教会の上に注がれたと主張します。だとするならば、ペンテコステ派に属する者たちは、いかにしてこの来るべきみ国が、教会の中に具体的に実現するのかと言うことを見出すために、綿密に聖書を調べて見なければなりません。その来るべきみ国の具体的現れのひとつが、ヨエルの預言の成就として、自分の娘たちに、預言をするように励ます事です。もうひとつの現れは、ガラテヤ3:28の「男でも女でもなく」という原則を適用し、ペンテコステ派の兄弟姉妹たちの関係に、変化をもたらすことです。ペンテコステ派の人間として、聖書をよく調べて、投げかけられた、教会の中における女性の立場という問題に答えを見出そうとするなら、彼らは、御霊によって啓発されみ言葉に根差した、ペンテコステの女性たちに本当の意味で力を与える解決に、到達することができるでしょう。

 ここ数年ペンテコステ派の人々は、自分たちの運動の中の女性の歴史を見て、失望し始めています。ペンテコステ運動の中で、女性がその重要な立場を失ってしまう傾向にあるからです。彼らは、女性に関するペンテコステ的考え方の中に改革派神学が入り込んでいると見、ペンテコステ派の中で女性の働きが減少しているのは、カリスマ運動あるいは福音派信仰がますます取り入れられているせいであると判断しています。他の者は、今世紀の女性の役割の変化は非聖書的であると見る、ペンテコステ派の反文化的態度が、女性の働きを減少させているのではないかと言います。これは、女性の働きを支持する自分の教団の宣言にたいする、ペンテコステ派の人々の反動の中に見て取れるものです。またこのような傾向を、リバイバルの衰退のせいにすることも可能でしょう。リバイバルにおいては霊的力が支配しますから、社会の形態は妨げられて、霊的力を持つ女性が自由に活動する事ができるからです。しかしリバイバルが衰退すると、以前にあった社会的宗教的形態が力を取り戻してくるのです。ペンテコステ派の学者たちは、問題を分析する能力には長けています。しかし、真にペンテコステ的解決を提供している者はいないようです。

 しかしペンテコステ派の人々が、自分たちの伝統に確信を持ち、またその伝統が、働く女性に力を与えたということ、そして与え続けるであろうと言うことに、確信を持つには理由があります。ペンテコステ派の人々は、かつて按手礼を受けた事のある女性の半分は、ペンテコステ派あるいはペンテコステ派に非常に近い教会から出ているという事実を、忘れるべきではありません。今世紀における最も有名な女性教職のふたり、エイミー・センプル・マクフアーソンとキャサリン・クールマンは、共にペンテコステ派です。また今日、世界的に有名なペンテコステ派の女性伝道者が幾人もいます。デイジー・オズボーン、グロリア・コプランド(ペンテコステ派の中には彼女をここに加えたくないと思う人々もいますが、彼女は明らかにペンテコステ的な働きの理解に立っています)、マリリン・ヒッケイなどです。これらの女性たちはみな力強い働きを行っていて、ペンテコステ教会に大きな影響を与えています。ペンテコステ派の女性と同じくらい大きな影響を教会に与えた女性は、他のどのようなプロテスタント教会からも産み出されていないのです。

 つい最近ですが、私はミシガン州ホーランドのフエイス・クリスチャン・センターで、マリリン・ホッケイの集会に出ることができました。ロウレスとフルカーソンの学びに出て来るすべての女性たちのように、彼女も非常に良く整えられた召しの物語を持っていて、それをもって、自分の働きを正当化していました。彼女が話すときは必ず、神が彼女を通してお働きになっていること、神なくしては、彼女は何もできない事を強調していました。彼女はこの徹底した神への信頼を、男女を問わず、他の者を福音の働きへ乗り出させる励ましとして用いていました。もし神が彼女をお用いになることができたとするならば、神はすべての委ねた器をお用いになることができるというわけです。彼女は、「あなたにはできないという人々の声に従わず」、自分の夢をしっかり持ち続け、神が自分を通してお働きになることを信じる大切さを強調しています。しかし彼女は、多くの面で、ロウレスがインタビューをした女性たちの形には、合っていません。彼女はすべての集会で家族という主題で語っていますが、女性の服従に関しては、しばしば、神に信頼しまた服従すると語りながら、自分をいやしめるような男性への服従の言葉は、ただの一度も語っていません。彼女がただ御霊によってだけではなく、聖書の知識によっても力を与えられていると言うことは明らかでした。彼女は自分の召しの物語を語る際、聖書を引用し、集まった人々に前に出るように勧め、聖書のみ言葉を与える事によって力付けていました。聖書が自分の働きを制約しているというような事には、まったく触れていません。ロウレスとフルカーソンの学びの中の女性だけが、ペンテコステ派の女性のモデルではありません。マリリン・ホッケイのような女性の働きこそが、女性も力を持って働くことができるというペンテコステ的理解を可能にし、ペンテコステの人々に励ましを与える理由となるべきなのです。


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