On the Contemporary Prophecy

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ペンテコステ神学と預言の実践


 このところしばらく、「個人預言」が再び少々胡散臭い問題として、話題に上るようになっています。胡散臭いというのは、私たちがペンテコステの交わりに所属して、基本的には現代の預言の可能性を認めていながら、個人預言に関しては、なんとなく納得できないでいるというか、疑いの目を向けざるを得ないところがあるからです。そしてそれを上手に説明できないために、自分たちの中でも、牧会の働きの中でも、中途半端な取り扱いしか出来ないでいることが多いからです。そういうわけで、今年の教区教職修養会ではこのことを取り上げて学ぶことになったものと心得ます。

 個人預言と言うのは、神が特定の個人に関わる事柄に対して、他の人間の口を用いて、言葉でもって介入して来られることです。私が知っている幾つかの具体例を挙げてみましょう。

@ 日本人。29歳。女性。自分の教会に訪問して来た、預言の働きをすると自称する伝道者に、「あなたは音楽を通して神様にお仕えするようになります」と預言され、その気になって、音楽を学ぶために仕事をやめ、アメリカのクリスチャンの学校に入って音楽を学び、卒業もしましたが、もともと音楽の素質はあまりなかったために、音楽で神様に仕えることは最低限しかできず、良い職場も失って苦労しています。預言を受けたとき、彼女はたまたまその教会のグループの中で歌っていました。ちょっと目立つ娘だったので、「預言者」の目に触れたのでしょう。

A フイリピン人。50歳。 男性。伝道者。訪問して来たオーストラリア人伝道者に、「音楽伝道者になります」と預言されましたが、「私がトランペットを吹いているからといって、音楽伝道者になれる素質があるわけないでしょう」と相手にせず、まじめに、普通の伝道者をやっています。このオーストラリア人は、自分が預言を賜物として働き、多くの人々の心の中まで見抜いて言い当てるために、皆からとても恐れられていると、自慢げに話していました。

B アメリカ人。50歳。女性。伝道者の秘書。結婚していましたが、訪問してきた預言者に、「あなたは家庭を捨てて献身し、私と結婚して秘書として働きなさい。貴女の救われていない家族は、貴女が預言に従うならば救われます」と告げられ、その伝道者と結婚しました。[1]

 このような例は、他にも沢山あることでしょう。すべてが悪い結果をもたらしたとは限りません。たとえば、私が個人的にお付き合いを持っていた伝道者は、癒しの器としても用いられていましたが、

 集会で、「そこにおられるあなた、神様はあなたのリュウマチを、今晩癒すとおっしゃっています。」と言うような言い方で、初めて見る人々の病気を的確に語り、癒しの働きをしていました。これもある種の個人預言であり、癒しの働きとあいまって、伝道の力となっていたように思います。しかしなにぶん個人預言と言うものは、祈りと牧会配慮をもって取り扱ってきた個人の問題に、突然、神の名をもって介入して来るもので、牧師の立場からすると、取り扱いに苦慮するものです。個人預言を受けた者が、その預言に疑いを持った場合にはあまり問題になりませんが、問題なのは、その預言を信じ、神からの絶対の導き、あるいは命令と受け取ってしまった場合であり、特にそれが聖書の教えと相反する場合、あるいはどのように考えても、賢い選択と思えないような場合です。

T. 個人預言の歴史的背景 

 ペンテコステ運動は、反啓蒙運動、反合理主義運動、あるいは反理神論運動として起こったという、大きな一面を持っています。人間の合理主義的考え方が行き過ぎ、聖書の奇跡を信じられなくなったり、聖書の記述自体は事実として信じるとしても、現在における神様の直接介入を信じることが出来なくなってしまったりした、18世紀、19世紀の大多数のクリスチャン信仰に対する、猛烈な反発運動でもあったのです。ペンテコステの信仰者は、神が不変であることを主張し、「キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わることがない」というみ言葉を旗印にし、今日における神様の奇跡的介入を期待したのです。そのような中で、正しいかどうかは別として、時代真理的な「後の雨」という考え方も取り入れられて、今こそ回復の時であるという主張が生まれ、あらゆる賜物が回復されるという信仰と、初代教会に帰らなければならない、初代教会の形態を取り戻さなければならないという主張も現れて来ました。そういう状況にあって、預言の回復もまた当然のこととして受け入れられ、「預言者」や「預言者職」の回復さえも主張する、レストレーション運動が繰り返して起こって来ました。

 預言が受け入れられ、預言者が受け入れられ、預言者職さえ回復されたと主張し、それを実行する人々が出現する混沌の中で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド[2] は、公式には、あまり強固な神学的立場を明確にせず、様々な意見や立場の者を受け入れ、福音主義的な聖書観を強調しながら自由に論争させて、自然の淘汰に任せる方法、あるいは、神様のご配慮にお任せするすると言う方法を取ってきました。ですから、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ると、常にかなり極端な主張や活動が現われてきていながら、全体としては、遠心的な分散乖離をもたらす非聖書的主張が中心となることはなく、常に基盤として立つ福音的な聖書の理解に一致して行こうとする、求心的な方向を保ち、組織的には緩やかでありながら、強いまとまりを持った運動として成長して来たと言えるのです。言い方を変えると、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは常に非聖書的見解や極端な主張をする人々を内に持ち、またその教えに晒されながら、大きな捕らえ方では、それらの人々を直ちに排除するのではなく、忍耐と時間をかけて、聖書をもって指導しながら、そのような主張や見解が沈静するのを待つという方向性を保って来たのです。[3] 

 大きな目で見ると、個人預言もそのような主張の一つとして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中に存在し続けてきたものです。それで、公式の出版物の中には、ときおり、個人預言の誤りを指摘し注意と警告を促すものも含まれなければならなかったのです。そのような努力の甲斐もあってか、現在もアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にあっては、個人預言は周辺的な誤りの一つに過ぎず、それを実行している人々の多くは、むしろしっかりした指導者や、警鐘を鳴らす人を持たないことが多い、単立系のペンテコステの人々です。[4] 私たちもまた、現行の個人預言の問題を、異端狩りのような取り扱いをするのではなく、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統的な寛容性をもって対処したいと思います。

U. 預言とは

 預言者は、旧約時代には先見者とも呼ばれていた通り、予言者としての働きもしていました。従って、預言と先見、すなわち予言には強い関連性がありますが、私たちはいま、予言とは言わずに預言と言い、預言者と言います。預言には、神様のお言葉を預かりそれを語るという、より広い意味があります。神の代弁者です。その語る言葉の中には未来に関わる事柄も、特定の個人に関わる事柄も含まれるのです。

 また預言は、必ずしも神からの直接の介入、あるいは啓示を受けて語るだけのものでもありません。神からあずかっている言葉、たとえばモーセの律法やその他の聖書の言葉を学び、理解し、それを、聖霊の励ましを受けて、それぞれの時代と状況に適応して語ることも預言でした。実際のところ、旧約時代の預言者たちも、神からの直接啓示、直接介入を受けて語ることより、聖書を学び、また、自分の信仰体験の中で経験的に学び取った神のみ心を、神の霊に感じて的確に語った場合の方が多かったと考えられます。

 しかし、たんに神の言葉を学び、それを適切に適応することを厳格に学ぶだけでは、学者になってしまい、それを語ったとしても預言者ではなく、教師になってしまいます。預言者として絶対に必要なのは、神様との密接な交わり、霊的な生活であり、語るときにも、直接、聖霊の励ましを感じて語るということです。そこにあるのは、学者としての権威ではなく、聖霊の励ましを感じて語る権威です。そのような意味で、新約と旧約の中間時代には、わずかな例外を除いては預言者が出現しなかったと言われるのでしょう。

V. 終末の預言の回復

 旧約時代には、神様の直接介入の預言を含め、預言の賜物はごく一部の人々に限られていました。しかし、ペンテコステの日を始まりとして、新約時代には、ヨエルによって預言され、ペテロによって解釈され、さらにルカによって自分の神学として打ち出されたように、[5] 神の霊は文字通りすべての人に注がれ、すべての人が預言をする者となるようにされたのです。新約時代には、基本的に、すべてのクリスチャンは預言をする者とされているのです。ただし、すべてのクリスチャンが、常に神様の直接介入の預言をするようにされたという意味に、理解する必要はありません。旧約時代の大預言者でさえそうではなかったはずなのです。

 しかし、すべてのクリスチャンは、旧約時代のイスラエルの民とは異なって、キリストの贖いのみ業を通して清められ、復活を通して義とされ、神の姿を放棄された人としての神ではなく、もともとの神のみ姿を保ったままの神であられる、聖霊と交わることが出来る者とされ、甦りのキリストによって義とされ、聖霊を注いでいただいたのです。それによって、クリスチャンは常に、聖霊なる神の励ましを受け、力付けを受け、神から預かっているみ言葉を語ることが出来るのです。それは、単なる学びから得た聖書知識を語ることではなく、聖霊の直接の励ましを受け、聖霊の感動を受けながら語るのです。そして、そのように神の言葉を語ることが預言であり、すべてのクリスチャンの義務なのです。そしてまた、そのような新しい霊的環境の中で、神の直接介入としての預言もまた、神がそれをしようとお思いになるならば、神はいつでもすべてのクリスチャンをお用いになることが出来ると言う意味で、可能なのです。すなわち、すべてのクリスチャンは、いつでも神の直接介入の預言をする事が出来る、潜在的可能性を与えられているのです。

 そういうわけで、パウロがすべてのクリスチャンにそれを求めるように勧めている通りに、すべてのクリスチャンは今、預言の賜物をいただくことが出来るし、またいただくべきなのです。しかし現実には、すべてのクリスチャンがそれを得ているのではありません。すべてのクリスチャンに開かれていながら、一部のクリスチャンしかそれを所有していないというのが、パウロの時代の「あらゆる賜物が豊かに用いられていた」コリントの教会にあってさえも、残念な現実でした。そして現在の私たちの教会にあってはさらに残念な現実なのです。

 使徒行伝において「預言者」として認められていた人々は、多分、ときおり預言をするという程度ではなく、常日頃から、この賜物を特別に力強く、充分に用いていた人々だったのでしょう。彼らの中には、アガポのように、直接の神の介入としての預言、あるいは予言をする人物もおりました。ペテロやパウロはそのような預言をしました。あるいはパウロと一緒に仕事をしたアンテオケ教会の指導者たちの中にも、預言者と呼ばれるにふさわしい人々がいました。また、エルサレム会議の後に書簡を託されて遣わされた、ユダとシラスも預言者であったと記されています。伝道者ピリポの4人娘たちも預言をする事で知られていましたが、もしかすると、彼女たちはまだ預言者と呼ばれるには少し早すぎたのかも知れません。パウロに洗礼を施したアナニヤもまた、そのような賜物を用いています。

W. 個人預言の必要性と必然性

 私たちの信仰と生活に必要な掲示は、すべて聖書を通して与えられていると言うのが、プロテスタントの福音派の基本的理解です。聖書は完結した書物であるという立場で、これに書き加えたり省いたりしてはならないと信じています。神は霊感をもって聖書を書かせ、さらに特別な聖霊の導きをもって混乱のさなかにあった教会を導き、聖書正典を編纂させてくださったと考えています。カトリックのように、聖書を編纂したのは教会なのだから、教会は聖書と同等の、あるいは実質的にはそれ以上の権威を持つとは考えず、聖霊が教会を用いて聖書を編纂させてくださったと理解し、教会はこの聖書に従うものであると考えます。したがって、聖書は、神が人間に必要とお考えになるすべての啓示を含んでいると理解するのです。神はこれ以上聖書に書き加える必要性を認めておられず、聖書以外の啓示の書物を与える必要も認めておられないと考えるのです。そのような考え方が、様々な異端から教会を守り、正しい道を歩ませることになったのです。

 このようなプロテスタントの基本的な神学は、当然、預言の必要性と重要性の論議に影響を及ぼします。ある人々は、聖書が完結したのだから、新しい啓示は不要であり、預言も不要である。神は不要なものをお与えになることはないのだから、預言はありえないと主張します。これが合理主義の考え方とあいまって、長い間プロテスタント神学の中心的な流れになっていたものです。そして、問題は、彼らはその合理主義的考え方に支配されて、現在働いておいでになる聖霊の存在までも軽視して、聖書を読むときに光を投げかけ、理解を与えてくださる聖霊のお働き[6] まで無視してしまったことにまで継続しています。(ヨハネ15:26) そのような中で、プロテスタント神学は冷たい学問となり果て、教条主義になってしまったのです。

 ペンテコステの神学の基本は、聖霊は今私たちに働きかけ、私たちと共にいて働いてくださっていると考えることです。したがって、ペンテコステの神学は、聖霊との体験を伴う、実存的な神学です。聖書を読むときも、神学を学ぶときも、伝道するときも、その他どのようなときも聖霊が共にいてくださり、守り、導いてくださると信じています。聖書の教えを実際の生活の中で体験すると言うところに、ペンテコステの神学の特徴があり、またそのような経験を一つの要素として、ペンテコステの神学が築かれているのです。私たちはいま、神が必要であると判断された時はいつでも、啓示を与えられ預言も与えられると信じています。[7]

 神が必要であると判断されるのは、私たち人間が必要であると判断するのとは異なっています。神はすでに、ご自分が人類にとって必要と判断された掲示はすべて、聖書の中にお与えになりました。そして人類には、それを理解出来る知的能力を与え、また理解させる働きをなさる聖霊を遣わしてくださいました。ですから、聖書と同等の性質や内容、あるいは価値を持つ啓示は、現在必要ではないのです。しかしながら、個々の人間の置かれた状況や理解の程度によっては、神がその人間あるいは人間たちに対して、聖書と矛盾しない、啓示をお与えになる必要性をお認めになるかも知れません。それは神様の主権に属することであって、私たちの許可を必要としません。[8]

 一方、人間側から考えるならば、たとえ人間に必要な信仰と生活に対する基本的な啓示は、すべて聖書の中に啓示されているとは言っても、私たちのすべてが聖書をことごとく理解しているわけではありませんし、正しく理解しているわけでもありません。またたとえ基本的な事柄においてはまったく正し理解していたとしても、その適応の選択肢において迷うことはいくらでもあります。そのような時、私たちは導きと助けを願い求めて祈ります。この場合、私たちのペンテコステ信仰では、気休めで祈るのではなく、具体的な、神様の何らかの介入を期待してお願いするのです。ペンテコステ信仰では、今も聖霊の具体的な導きと助けを期待するのです。こちらの男性が良いか、あちらの男性が良いか、若い女性は迷います。そして神様の導きを求めて祈ります。聖書が教える信仰のあり方、結婚のあり方すべてを良く学び、能力の限りを尽くして考えた上でもまだ祈ります。日本の神学校に入るべきか、海外の神学校へ行くべきか迷い、祈ることもあります。私たちは、神様が正しい判断を与えてくださるように祈るだけではなく、神様の、何らかの直接介入の余地も残し、またそれを期待して祈るのです。

 このように考えてみると、私たち人間が今必要としているのは、むしろ個人預言や指示預言が多いということがわかります。将来に関する予言もまた、人間側からは必要と感じることがあるでしょう。この人間側の必要を、神が妥当と判断なさるか、あるいは聖書の基本的教えを、人間が、聖霊の助けと自分に与えられている能力によって理解し、自らの責任で選択決定をするようにと、判断なさるかの問題です。

 神が啓示をもって、しかも預言と言う手段をもって、人間生活に介入されるのは神の主権に属し、可能なことですが、それをすべき神の側の必要性、つまり必然性があるかどうかなのです。神には出来ると言うことと、神がなさると言うこととは別だからです。新約聖書の中にも、具体的な行動を示したり、特定の状況の中にいる者たちを励ましたり、警告を与えたりするための、啓示があり、また預言もありました。[9] しかし、その頃は聖書が完結しておらず、啓示が終了していなかった、すなわち、人々は神の直接の啓示、導き、あるいは預言に頼らざるを得なかった状況であったという事実を考慮しなければなりません。ですから、こと神のみ心に関する啓示は、聖書の完結と共に、その必要性と必然性が非常に小さくなったと考えるべきです。神のみ心に関する大概の問題は、完全な献身をもって、すなわち自己中心を捨てて、神中心の正しい信仰態度をもって、キリストのみ体である教会という理解の中で、聖書に教えられている基本をしっかりと学び適応することによって、解決されるのです。[10] 

 現在の私たちの周辺に起こる問題は、私たちの理解力と、聖霊の照明の働きによって明らかにされ、また歴史的に蓄積された教会の理解によって、さらには交わりとして現存する教会を通して教えられる、聖書の教えによって明らかにされ、克服されるべきなのです。

X. ルカとパウロが語る預言

 ルカが語っている預言は幅が広く、基本的に、聖霊によって感動を受けて語る神の言葉であり、その中には聖書の学びや信仰経験を通して学び取った神の御心が含まれる一方、聖霊の直接の啓示によるものも含まれていることについてはすでに述べました。また、パウロがTコリント12〜14章で語る預言も、基本的にはルカと同じであると理解するのが正しいと思われます。そうするとパウロが非常に高く評価をした預言と言うものは、必ずしも聖霊の直接啓示による預言だけではなく、聖書の教えをしっかりと学び、それを聖霊の感動によって現在の状況に適用して語る説教や、聖書の教えを心に蓄えていた者が、その場の状況や必要に応じて、聖霊に励まされて語り出す即興的な説教でもあったと理解できます。直接的な啓示を語る預言の可能性を否定する必要はありません(ヨハネ 16:13−14)。 特に聖書が完結していなかったコリント人への手紙を書いた時点では、直接啓示の預言の必要性は、現在のそれよりも高かったことでしょう。しかし、むしろ、それらは基本的に聖書の教えを単なる教えとして語るのではなく、聖霊の感動、励まし、押し出しを感じて語る、説教だったと考えるほうが、しっくりします。

 また、パウロが語っている「異言の解き明かし」というのは、果たしてペンテコステ信仰を標榜する人たちが一般的に主張してきた、「異言を通しての預言」なのでしょうか。パウロの教えを素直に読むならば、そのような理解は、預言を強調したいという思いと、異言に意義を与えたいという願いの産物だと考えられます。パウロはその一連の教えの中で、異言は神に向かって語るものであるとはっきり述べており、神が人に向かって語るための手段であるとは教えていません。ルカの記述を読むと、異言はむしろ、神の大きなみ業を賛美する言葉であることがわかります。(使徒2:11、10:46)そのような神に対する賛美も、解き明かしがされるならば、教会の徳を高めるものであることをパウロは認めていますが、教会の公共の秩序を乱しても良いほど、大切だとは考えていなかったのです。もしそれが、神からの直接啓示であるならば、パウロはそのような言い方はしなかったことでしょう。このように理解すると、パウロの一連の教えは非常に明白なのです。つまり、異言による神の直接啓示の預言と言うものは、パウロの知らないものだったと考えるべきなのです。[11] 

Y. 現代の預言運動

 現在行なわれている預言運動の多くは、今は「終末の霊的覚醒期」であると判断し、霊的回復期、あるいは聖霊の賜物の回復期であると理解する、時代真理的考え方の影響を受けた人々によって進められています。すでに述べたように、中には教会の形態や「教会の職」も初代の教会の姿に戻すべきだと考え、盛んに按手を行い、使徒職や預言者職の回復などに非常に熱心な人々もいて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中にも、そのような傾向をもつ人々がいます。時代真理神学のすべてが誤りだとは言い切れないところもあり、時代真理的な終末観を持って聖書的を理解する余地もあると判断しますが、預言の回復は、現在と言う終末にではなく、終末の初期であったペンテコステの日に起こった事柄であり、それが今も継続していると理解すべきものです。

 また、聖書に記されている使徒や預言者や伝道者などは、職と理解するべきではなく、機能的に、そのような働きをもって教会の中で認められていた人のことに過ぎず、それを現在の教会の中で「職」として回復しようと言う試みは、間違っていますし、たとえ、初代の教会にそのような職制が在ったとしても、それを現在の教会のモデルと考えるのは聖書の解釈の間違いです。初代の教会は現在の私たちの教会が模倣しなければならないモデルではなく、コリントの教会を引き合いに出すまでもなく、あくまでも、当時の実情の中に自分を表現した教会なのです。間違いや失敗を沢山抱えた教会だったのです。また、すでに述べたように、預言の理解もまた異なっています。したがって、現在盛んに個人預言を行なっている人々には、個人預言の間違いと言うよりも、まず預言の理解に、このような間違いがあるのだということを、知らなければなりません。

 現在、ある人々の間では預言者の学校と言われるものがあり、教会では預言の練習をしていると聞きます。互いに向き合って、「主はあなたにこのようにおっしゃいます」と、自分の頭に浮かんで来たことを大胆に話す練習を重ねると同時に、自分が、本当に神のみ思いを語っているかどうか判断し、神のみ思いを語ることが出来るようになるように、祈り、鍛錬をするのだそうです。

 その一方では、預言を受ける人々は、その預言が本当に神からのものであるかどうか、良く吟味をするように訓練させられるのだそうです。その訓練の仕方、何に気をつけるべきかと言うことについては、具体的な指導も行なわれています。その指導のすべてが無益なのではありませんが、基本的に、聖書の教えることと異なっています。聖書にはそのような訓練をしなさいという命令も、そのような学校があり実際に練習がされていたと言う記述もないからです。[12] 

 さらにまた、人間は深い神のみ思いを理解することは出来ないのです。(Iコリ2:11) ですから、このようなやり方に対して言えることは、「主のみ名をみだりに唱えてはならない」と言うことです。主からのものであるかそうでないか、語る側の者が予め吟味されることを前提にするような、源の曖昧な預言は語ってはならないものです。そしてたとえ語るものが主からのものであると確信を持って語り、事実そうであったとしても、聞く者は、なおもその内容を聖書の教えに照らして厳しく聞き分けなければなりません。なぜなら現在の預言は、たとえ神の直接の啓示であったとしても、語られる言葉の一つ一つすべてが霊感を受けているわけではなく、誤りの入る余地があるからです。また、たんに感情の高まりであたかも預言のように語る人も在り得るからです。

 では、預言は軽んじられるべきでしょうか。そうではありません。聖霊の励ましを受けて語る聖書の教え、あるいは福音は、大いに強調されなければならず、その場の実情や必要に応じて即興的に語られる聖書の教えと適応は、大いに勧められなければなりません。これを牧師や伝道者の専売特許にしてはなりません。しかし、聖霊の直接啓示を受けて語る預言は、よほどのことがない限り、つまり、神様の側の必然性がない限り、ありえないと考えるべきでしょう。そのような預言に従いなさいという聖書のみ言葉もありません。私たちはそのような預言に対して、聖書に従うような忠実さをもって従う義務を持っていません。私たちは本来、聖書に聞くべきなのです。とは言え、私たちは、聖書主義を掲げる伝統的な改革派の人々とは異なっています。私たちは、聖霊の直接の照明を受けて聖書を読み、聖霊の励ましと感動を与えられて聖書の教えを語るのです。

 実際、ペンテコステ教会で生まれ育ってきたものとして、著者も、個人的に預言なるものを随分聞いてきましたし、異言の解き明かしなるものも、しばしば聞いてきました。そして極めて安全に言うことが出来るのは、それらの殆どは、聖書的な概念を感動を持って語る、信仰の励まし、あるいは罪への警告、あるいは、たとえば世の終わりに対して備えをするように、滅びて行く魂に対して情熱を持つようにと言うような、一般的お勧めであり、聖霊の直接介入と理解しなければならないものはありませんでした。

 自分の心の中にあるもの、あるいは潜在意識を、聖霊の励ましによって語りだしたもの、あるいは時と場合によっては、たんに感情の高まりを抑えきれずに、語りだしたものでしょう。「主は仰せられる」という言葉で始まり、あたかも神の直接啓示があったかのように語り始める場合ですら、主が直接お語りにならなければならないような内容を持つことは、殆ど在りません。むしろ、語る人が興奮したか・・・・・悪いことではありません・・・・聖霊からの感動を受けて語ったに過ぎないのでしょう。そして、先入観のゆえに、つまり、預言とはこのようにあらねばならないという先入観のゆえに、「主は仰せられる」と口走るのでしょう。

 私たちは、その「預言」が基本的に聖書の教えるところと合致しているならば、アーメンということが出来ます。そして、その励ましや警告、あるいは注意のゆえに、神に感謝をいたします。ただ、異言の解き明かしについては、聖書に前例のないものであるためにこれに重要性を置かず、ただその解き明かしは、神の直接介入という部分を省いて、その人の感動が語らせていると理解してよいのではないでしょうか。

結び

 結局私たちは、個人預言の存在の可能性自体は、非常に特殊なケースとして認めざるを得ません。聖書にはそのような例があり、現在もあり得ることを否定していないからです。しかしそれが頻繁に、日常的に行なわれるというのも聖書の教えではありません。また預言をする者は、聖霊に満ちた人でなければならないと言うのが、ルカの記述から導き出される理解であり、預言をする場合は、神のみ名をもって語ることに恐れを感じないだけの、確信を持って語らなければなりません。一方語られる預言は、聖書の教えと調和していることが前提であり、聖書の基本的教えとその適応範囲内に留まっていなければなりません。つまり、聖書と矛盾していてはならず、聖書が教えていない新たなことを教えるものであってもならないのです。[13] そしてまたその預言に従うかどうかは、その預言を与えられた人の責任に任せられていると言えます。聖書は、現在の私たちがそのような預言に聞き従わなければならないとは教えておらず、聖書に従うように教えているからです。したがって、個人預言を与えられた人は、その預言が聖書に矛盾していないことと、聖書の教えている範囲を越えていないことが明白ならば、それに従っても差し支えありません。またその預言が、本当に神からのものであると確信できたならば・・・・・・・・・それは易しいことではありませんが・・・・・・・それに従うべきなのです。[14]

 私たちは、聖書が現在のように正典化されていなかった時代、個人預言やそれに近い預言が非常に多かった時代でさえ、あくまでも書かれたみ言葉が、語られる預言に優先していたと言う事実を、厳粛に受け止めたいと思います。(申13:1−5)[15] さらに、パウロは当時の預言者の機能を認めていましたが、彼が書くことがその預言に勝るものであることを主張しました。それは、霊感を受けた聖書が啓示の預言に勝ると言う意味です。(Iコリ14:36−37) 

 牧会者として、私たちは、すべての信徒が常に聖霊に満たされ、励まされ、押し出されて、神のみ言葉を語る者、新約的な預言者になるように、積極的に励まし勧めたいと思います。そうしてそのような預言の場を、信徒たちに積極的に提供すべきです。新約の時代にあっては、すべての信徒は預言者であるべきなのです。そうするならば、その中でまたその過程で、聖霊の直接啓示としての預言をする者も現われて来ても、驚くに当たりません。そしてその預言をする者が本物の預言者であるならば、権威に服従する者でなければなりません。(IIペテ2:1、9) それは、主の権威に従うことであり、霊感を受けた主のみ言葉である聖書に従うことであり、さらに、主のみ体である教会の権威に従うことです。現在の預言者であると自認する人たちが、最も陥り易い過ちは、預言をする事が出来ると言うことで、あたかも自分が特別に高い存在であるかのように振る舞い、聖書の権威も教会の権威も無視し、誰の言うことも聞かなくなり、自分の主張する預言を最終的な権威とすることによって、主の権威も拒絶することだからです。

 また牧会者として、個人預言を生業とするような伝道者は、招かないようにするのが賢明です。お招きしてしまった人が、個人預言を自分の働きの一部として取り入れていることがわかった場合は、個人預言をしないようにお願いするのが良いと思います。私は個人預言ではなく、聖書の教えに立つ信徒を育てる義務を持っていますので、個人預言はお控えくださいと申し上げるのです。

 現在の預言運動を推進している人々が行なっているような個人預言、たとえば、個人預言をするということで人を集めたり、人々を並べて次から次へと預言をして行ったりする活動は、現在でも個人預言の可能性があると信じている私たちから見ても、聖書的前例と神学的裏づけを欠くと言わざるを得ないだけでなく、実際上、それらの個人預言には、街角の占い師や八卦程度の価値も見出すことが出来ません。占い師や八卦に金を払う人は、知りたいことがあるから、その問題について尋ねて答えをもらうのです。しかし個人預言の多くは、預言者の方から、勝手に語るのです。これでは、おみくじを引くような、たんなる遊びに過ぎません。多くの個人預言の内容は、それを知ったからと言って、ことさら何かの益になるようなものではありません。

 また、信徒たちの中に個人預言に関心を持っていたり、それを受けたりしたものがいるとするならば、むきになってその問題点を指摘するより、聖霊の照明に頼って聖書を読み、教会の積み重ねてきた聖書の理解を参考にし、それを正しく自分の状況に適用できるように祈り、聖書の教えに立つ信徒となるように励ますべきです。その場合、その信徒が受けた個人預言は、聖書の教えと矛盾していない限り一つの可能性として受け止め、指示預言の場合であっても、それが明確に神からのものであるという確信が与えられるまでは、直ちに従うことはせず、一つの示唆、一つの選択肢として、大切にするように教える程度で良いのではないかと考えます。



[1]  このことは、アメリカアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職者向けの季刊論文誌パラクレート、1998年の第2号にも例として取り上げられています。

[2]  日本ではアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と呼んでいますが、アメリカでは教団色を嫌い「フエローシップ」すなわち交わりと捕らえて、そのような呼び方をしています。また、今日のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの世界的広がりを見ると、教団として捕らえるより、交わりとして捕らえるのがふさわしいと思えます。

[3]  最近の出来事としては、ベニー・ヒンのアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドへの加入と脱退の経緯が好例です。

[4]  個人預言をするような人々の多くは、自分に与えられる神の啓示の言葉には耳を傾けても、聖書の教えや、教会の指導者を通してお語りになる神の言葉には耳を貸さない傾向があり、気に食わなければ組織を離れ、単立になる例が多いようです。

[5]  ルカは単にイエス・キリストと初代教会の史実を歴史として記録したのではなく、明確な神学的主題と目的を持って記したものです。マタイ、マルコ、ヨハネに比較すると、ルカの上下二巻の歴史書は、その初めから終わりまで一貫して、信じる者に力を与える聖霊の働きに焦点を当てていることが解ります。

[6]  ヨハネの福音書に記されている、イエスの別れの教えの中では聖霊論が中心でありその中で、聖霊の照明の働きに関する教えが重要な位置を占めています。

[7]  私たちに現在与えられる啓示は、霊感を(厳密な神学的な意味での)伴っていません。すなわち、その啓示を預言などで表現する場合、その言葉の一つ一つにまで、神の導きが与えられているとい言う保証がありません。ですから、現在の預言を正確に録音し書き写したとしても、それは聖書と同じ権威を持つものではありません。聖書が霊感を受けた書物であると言うのは、その一字一角まで聖霊の承認を受けた言葉であると言うことであり、単に啓示の書物だと言うこと以上のことなのです。

[8]  個人的体験ですが、私がまだ沖縄で開拓伝道をしていたときの出来事です。午後早く、40歳くらいの男性が訪ねてきました。彼は伊江島という離島に住んでいましたが、普段から彼が仕えていた神様に、「朝早く発って金武村を訪ね、大通りを歩いて、大きな白い十字架が描かれている家に入り、そこの主人に詳しく話を聞きなさい」と言われ、8時間かけて訪ねて来たということでした。そこで私は、およそ5時間近くもかけて、天地の創造から始め、キリストの十字架、甦り、永遠の命、新天新地に至るまで、丁寧にお話して上げました。彼はその間非常に熱心に聞き入っていたものです。私はその時、彼が仕えていた神を「異教の神」と理解していましたので、なんとも心穏やかでなかったのですが、今は、天地をお造りになった神が、アブラハムを異教の地から呼び出されたように、この男性の真面目な宗教心にお答えになって、伊江島から私のところまで送り、救いの道をお教えになろうとしたのかも知れないと、考えています。

[9]  ペテロはアナニヤとサッピラの物語、コルネリオの物語などで、パウロはバルイエスとの対面やコリントの働きの中、ローマ途上の船旅の場面で、ダマスコのアナニヤはパウロの回心後の指導に関わって、アガポは飢饉とパウロのエルサレムでの受難についてこの賜物を行使しています。

[10]  ロマ12112の正確な解釈による

[11]  この「異言を解き明かした預言」は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史の中では一般的に認められていますが、特に最近、正しい聖書解釈の方法が学ばれるようになってからは、私の理解しているような異論も出されています。

[12]  ときどき預言者の学校と言う表現を聞きますが、これは多分Iサムエル19:20の「預言者の一団」という言葉(新改訳)が、英語では[school of prophets] と言えるところから来た間違いだと思います。Schoolには一つの群れという意味もあるからで、学校とはかぎりません。

[13]  30数年前、ティーンチャレンジを創立したデビッド・ウイルカーソンが、自分が見た幻を語った長いテ−プを公にしました。内容は黙示録をさらに細かく説明するような性質のもので、ある人々を興奮させました。ただ、かれはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職として非常に用いられ、有名な人物ではあったにもかかわらず、全体としては、彼の預言は無視される方向にあったと理解しています。

[14]  ローマに行かないようにと聖霊に示されて忠告したアガポたちに、憤然としてローマに向かったパウロの例は、ユニークです。この場合、聖霊は将来を示しただけで、指示はしていなかったのです。

[15]  4節で言われている「主にしたがって歩み・・・・・・・主の命令を守り」と言うのはモーセの律法に従えと言う意味です。


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