Church with Politics

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君が代・日の丸について(2002年教職研修会)


緒論

 「君が代・日の丸」については、戦後日本の国民全体の中で、随分議論されてきました。特にキリスト教界においては、大戦中の弾圧と妥協と言う挫折の苦い経験から、またある少数のクリスチャンたちの間からは、絶対に妥協しなかったと言う「誇り」から、かなり先鋭化された議論が交わされてきたものです。またなんらかの理由で、このような議論に関わる事を、そっと避けてきたクリスチャンもかなりの数にのぼると思われます。

 私たち日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団はと言えば、今日まで、教団として正式にこの問題に取り組んだことは無かったように思います。たしかに、社会問題に関わってきた先生がたが、色々な場で啓発的な意見を披露しておいでにはなりましたが、それらも、教団全体の見解として発表されたものではなかったと理解されます。あるいは、JEAなどの協力団体との関わりから、声明文のたぐいの共同発表者となったことはあったかも知れません。ともあれ、今回の教職研修会においてこの問題が取り上げられた背景には、教団として何らかの共通理解を持つべき時期に来ているのではないかと言う判断が、教団の執行部また研修会の準備担当者達の間にあったのだと思います。

 そのような中で、発題者のひとりと任じられた私の役割は、君が代・日の丸そのものを論じることではなく、またその背後に横たわる天皇制の問題や軍国主義化傾向の問題について語ることでもなく、宣教論的見地から論じることです。それによって、「私たちが宣教のビジョンを共有する」という目的のために、たとえわずかでも貢献することができれば幸いとするものです。そこで私は、あえて結論を先に申し上げることによって、多くの同労者諸氏の強い反発を呼び起こし、できれば僅かの賛同をも期待し、それを眠け覚ましの弾みとして、論を進めて行きたいと思います。

 私たちの教団は、君が代・日の丸の問題に対して意見の統一を図ろうとすべきではなく、公式見解のたぐいも出すべきではありません。これは、それぞれの教職・信徒たちが、自分の信仰と良心で判断するところによって行動すべき事柄だからです。したがって、指導者としての教職に求められるのは、特定の見解を信徒たちに強要するのではなく、より聖書的な物事の見方、判断のし方、そしてクリスチャンとしての正しい歩みかたの基本を教え、その具体的適応として、この問題をも一緒に考えることです。

I. 宣教と日本の精神土壌

 ずいぶん前から、日本宣教の困難さの大きな理由のひとつとして、日本の精神土壌、特に、天皇制と深く関わる独特な共同体意識が挙げられてきました。君が代・日の丸もまた、単に軍国主義の問題としてだけではなく、天皇制にからんで日本的共同体意識を作り上げる、「日本宣教の大きな妨げの要因」として論じられてきました。個人の意思、選択、決定が、共同体と言う集団によって妨げられ、捻じ曲げられ、抑圧されるのが当然とされる日本の精神土壌、文化の中においては、個人の価値と尊厳を謳い、個人の選択決定を神聖なまでに重要視するキリスト教は、決して受け容れられないというのです。そこで、このように論じる人たちの多くは、宣教論的見地から天皇制を目の敵にし、君が代・日の丸は排除されるべきであると考え、日本的共同体意識を取り除き個人の尊厳を認めさせることこそ、日本宣教の最優先課題だと主張します。

 しかしこのような主張は、日本の共同体意識、そしてそれと関わる天皇制・君が代・日の丸を、自分たちの宣教不振のスケープゴートにしているように思うのです。日本人独特の共同体意識と言われるものが、どこまで天皇制との関わりの中で形成され、君が代・日の丸がどの程度その強化に力を発揮してきたか、まだまだ、学問的に納得できるほどの調査がされているわけではありません。他にもたくさんの要因があったはずです。日本人的共同体意識なるものの大部分は、天皇制や君が代・日の丸より早い時期から、それらとはまったく別のところで形成されて来たと考えることさえできます。その共同体意識をさらに強め、自分たちの目的達成のために悪用しようとする人たちが、天皇制あるいは君が代・日の丸さえもうまく取り入れ、利用してきたとも言えるのです。

 さらに、日本人的共同体意識は、本当に福音宣教の妨げになって来たのでしょうか。確かにそのように言い続けられてきました。しかし、本当でしょうか。あるいは、日本人独特の共同体意識と言うものが、それほど福音に反する、あるいは聖書の教えに反するものでしょうか。私はむしろ、西欧化された福音、聖書理解、宣教方法に問題があるように思うのです。日本に入ってきたプロテスタントのキリスト教は、徹底して西欧的なキリスト教です。聖書の教えが西欧的に解釈され、西欧的に適応されたキリスト教です。それが「本物のキリスト教」、あるいはキリスト教そのものとして持ち込まれているのです。そのようなキリスト教が、生まれ故郷である西欧文化圏に留まる限りは、ある程度その正当性が保たれるかとも思いますが、他の文化に持ち込まれてはならないものです。日本宣教の問題は、日本の共同体意識にあるのではなく、持ちこまれてはならない「混じり物入りのキリスト教」を、持ち込もうとしているところにあるのです。

 私は、西欧キリスト教のもっとも明白な特徴は、個人主義とギリシャ的思考にあると判断しています。今回のテーマに関わるのは、個人主義の方です。個人主義もまた、ギリシャにその発生源があるといわれていますが、ルネッサンスやフランス革命を経て西欧諸国に広く根をおろし、アメリカと言う国で大輪に開花しました。私たちに伝えられた福音、聖書理解は、この個人主義文化の中で育成されてきたものです。日本人の共同体意識が、まず最初の「異物」として排斥しようとしているのは、キリストの福音、聖書が教える教えではなく、この西欧個人主義化した特殊な「キリスト教」、持ちこまれてはならないキリスト教ではないでしょうか。西欧個人主義は、聖書の教えではありません。単に、存在が許されているひとつの主義に過ぎません。その中には、ちょっと注意して見るだけで、随分たくさん、聖書の教えにそぐわないところがあります。

 日本的共同体意識にも、聖書にそぐわないところがたくさんありますが、多くの在り方のひとつとして、西欧個人主義が存在を許されているように、充分、存在が許されるべきだと思うのです。事実、聖書の信仰はどのような文化の中でも存在できるということは、聖書からも歴史からも証明されます。また、西欧個人主義の先入観、色眼鏡なしに聖書を読むと、聖書そのものが非常に強い共同体文化の中で書かれたことが、すぐに分かります。聖書の教える信仰は共同体を前提とした信仰であり、共同体を生かし共同体を形成する信仰です。ですから、日本の宣教のために日本の共同体文化を敵視して、それを取り除こうとか、変えてしまおうとかする必要はなく、すべきではないのです。むしろ、聖書の共同体意識を前面に押し出し、日本の共同体文化と戦わず、かえってそれを受け容れ、取り込み、昇華し、強化するような宣教方法が望ましいのではないでしょうか。共同体意識の中で生きてきた日本人こそ、共同体意識の中にあって形成された聖書をより正確に理解し、より聖書的な神学を構築する可能性を秘めています。個人主義哲学の中で育てられた欧米人に、聖書の共同体感覚を理解することは困難な仕事です。それは例えば、欧米の神学には教会論がすっぽり抜けていることに表れています。教会とは、本来、徹頭徹尾共同体だからです。

II.普遍的福音と宣教者への躓き 

 宣教は必ず躓きを作り出します。福音は狭き門であり、滅びの宣告ですらあるからです。しかし、福音が福音であることから必然的に起こる躓き以外の躓きは、心して作り出さないようにすべきです。ひとたび躓いた人間は、その躓きを作り上げた人々の語ることには耳を傾けないものだからです。語った福音のために躓かせてしまったならば、しようがありません。また語り方がまずかったために躓かせてしまうのも、許されるかも知れません。しかし、福音と関わりのないことで躓かせてしまい、結果として福音に敵愾心を持たせてしまうようなことは、決してあってはならないのです。

 君が代・日の丸は、福音ではありません。福音が福音であるために、絶対に必要なものでもありません。福音は君が代・日の丸に関係無く存在するものです。ですから、君が代・日の丸を福音にからめるようなことをして、余計な躓きを作り上げてはならないのです。君が代・日の丸に対するひとつの意見、ひとつの立場を福音と絡めて語ると、それは福音の日本文化への適応ではなく、福音の日本化になってしまいます。これは絶対にあってはならないことです。

 君が代・日の丸に対するクリスチャンの態度は、聖書理解から直接生まれるものではなく、その適応です。クリスチャン信仰そのものでもなく、その適応です。適応には、当然、様々な意見があり、色々なやり方が考えられます。適応として、クリスチャンの間でも取り扱いの異なる問題に関し、特定の立場や意見を教団の統一見解とし、牧師の揺るがない立場とすることは、その見解や立場に納得できない人々を、福音以外のもので福音から遠ざけてしまうことになります。すべての人々は、福音を聞いてその福音につまずく機会、あるいは受け容れる機会を与えられなければなりません。福音は普遍的なものだからです。人種、国籍、文化、政治的信念、その他どのようなものによっても、福音を聞く機会を奪われてはならないのです。福音の普遍性を損なってはならないのです。

 現在の日本では、天皇制とは別のところで、皇室に対する敬愛が非常に高まり、共産党の党首まで、この事実を認めて妥協せざるを得なくなっている程です。皇室に反対しては票が取れない時代になりつつあるのです。君が代に対しても、あまり過激な反対論は聞かれなくなり、日の丸も、大多数の国民に国旗として受け容れられるようになりました。ほとんどの人たちは、それらがかつての軍国主義の象徴であり、天皇制に重なっていたことは知っています。しかし今、それらがすぐさま軍国主義や天皇制の復活に繋がるとは考えません。せいぜい皇室との関係を認めるにすぎません。このような中で君が代に反対を唱え、日の丸を拒絶することは、福音以外のもので、始めからより多くの日本人を敵とすることになってしまいます。たとえ敵を作っても、躓きとなっても、正義は正義として追求しなければならないと主張する人たちもいますが、その人たちは、福音よりも正義を高く掲げる種類の人たちです。私たちは福音をもっとも高く掲げる教団に属していると信じています。極端な言い方をいたしますが、私の関心事は、戦争をなくし人殺しのいなくなる社会を作る事ではなく、戦争犯罪者も人殺しも、永遠の命に入れることなのです。

 パウロは、偶像礼拝の環境の中で偶像礼拝をテーマにして福音宣教を試みたとき、偶像礼拝を罪と決めつけて敵を作ることを避け、無知でいたことを指摘するだけに止めています。それどころか、偶像礼拝をしている人々の宗教心の高いことを賞賛し、偶像崇拝者の詩までも引用して彼らとの共通点を探し出し、躓きとなる敵対心を興させないように努力しています。そこには、偶像礼拝を神学的に論じたとき、あるいは教会に対して偶像礼拝を避けるように教えたときの、厳しいパウロとはまったく異なった姿があります。しかしパウロ自身に矛盾は無く、妥協もありませんでした。あったのは賢さです。君が代・日の丸が、はたしてある種のクリスチャンたちが言うように偶像礼拝なのか、それとも単なる間違いなのか、あるいは偶像礼拝でも間違いでもなく、日本国民としての当然の良き習慣であり伝統なのか、大いに意見の分かれるところです。私たちの教団の中でさえ、統一見解を出すのは困難なことでしょう。教職が教会の中で「個人的見解」として、これは偶像礼拝だと言っても、あるいは、良い伝統であると言っても、それは許容範囲に入るかも知れません。それでも、あくまでも個人的見解であると言うことを、明確にしなければならないと考えます。また外部に向けて、教会の公の見解としてそれを言うことは、宣教学的に愚かなことであり、福音の普遍性という基本的な性格に、傷を付けてしまう危険な行為と言えます。福音は普遍的であるゆえに、普遍的に聞かれるようにしなければならないものだからです。パウロは紛うことない偶像礼拝者たちに対して、偶像礼拝を取り上げて説教をしたときさえ、福音が、偶像礼拝者たちの多くを敵にまわしてしまう断罪の言葉としてではなく、福音として聞かれるように、知恵を尽くして努力しているのです。福音は普遍的なものであるがゆえに、すべての人間にとって「敵の言葉」としてではなく、まず、福音として聞かれるように、語るものは細心の注意を払うべきです。

III. 教会の多様性

 教会は多種多様な人々によって形成されるものです。社会学的には、いわゆる均一化現象が起こるのはやむを得ないのですが、宣教論的に、また教会論的にも、本来、福音以外の要素で均一化を図り、牧会成果の向上を目指してはならないものです。パウロは教会の多様性を守るために戦い、鋭い論陣を張りました。当時のグレコローマンの多種多様な人種、文化、原語、世界観、人生観の中でそうしたのです。もし、当時の教会内で統一化傾向が強まり、たとえば、「ローマの植民地政策に対する統一見解」を作成するなどと言う事態となったら、それこそ目も当てられない混乱に陥って、教会としての一致は保てなくなってしまったことでしょう。パウロは割礼問題につては福音の本質に関わるものとして、激しく論じています。しかし、単に文化や習慣に関わる食べ物や日にちの問題については、互いに相手を思いやり受け容れることによって、福音に関わりの無い事柄で教会に分離をもたらさないように、注意を促すだけに止めています。どちらの味方もしていないのです。パウロは福音の本質に深く関わる問題以外で、多様性を否定して教会に分裂を持ち込むようなことは、極力避けているのです。キリストの弟子達の初期集団に、教会の理想を見ていたのかも知れません。キリストの弟子には、政治的最右翼の熱心党から、左派傀儡政権集団のサドカイ人に近い者、さらには「宗主国の犬」であった税金取りまで含まれていました。

 パウロにとっては、教会の多様性はまさに教会の命でした。キリストの福音の本質、和解の本質に関わる事柄だったからです。パウロにとっての和解は、すべての者が同一見解を持つことによってもたらされる和解ではなく、神との和解を土台とした贖罪論的な和解であり、その具現化としてまた実践として、隔ての壁が取り除かれるべきだったのです。それは多種多様な政治見解、立場、職業、人種、文化など、おおよそ、ありとあらゆる相異を包含し、また乗り越えた和解でした。言いかえると、人々は自分の政治的信念、社会的見解、あるいは伝統や習慣と言ったものを変えることなく、福音によって、まず、和解させられたのです。そしてその和解の後に、より福音的な物の考え方ができるように教えられ、育てられて行ったのです。福音的な物の考え方をすると言うことは、政治的見解をひとつにするとか、社会的問題に対して同じ立場に立つと言うことではありません。むしろ、異なった見解や立場に立つ者たちが、互いに尊敬し、愛によって受け容れ合うことでした。ですから現在の私たちの教会にも、君が代・日の丸あるいは天皇制、その他どのような政治的社会的問題に対しても、異なった意見を持つ者がいて良いのです。むしろ、いなければならないのです。


.ある人たちの教会成長論の中で、ひとつの地方教会の中には、必ずその教会の一致を保たせている、「福音以外の統一要因、一致要因」すなわち「ホモジニエテイ」があり、それが何かを見極め、強化する事が教会の成長には重要であると論じられる一方、多様性はむしろ成長を妨げる要因とみなされたのか、省みられなかった


IV. 被害者意識的発想

 歴史的に見て、日本のキリスト教には、いわゆる進歩的な人々、幾分左翼的な思想を持った人たちとの接触の中で、育ってきた部分があります。共産党や社会党と言った政党の設立にも、指導的クリスチャンたちが関わっていました。多くのクリスチャンたちの物の見方が、左翼系の人々の物の見方に、何となく似ているのもうなずけます。左翼系の人々の論にも大いに賛同すべき点はあるのですが、なんとしても彼らは、日本の歴史の中で常に亜流であり続けたせいか、論調全体が強い被害者意識に覆われているのです。もともと、日本人全体も、大多数の諸外国の人々と同じように、被害者意識を強く持っていて、加害者であった事実、あり続けている事実に気付いてさえいないところがあります。「弾圧された、無理強いされた、自由が無かった、基本的人権を蹂躙された、このようなことが再び行われてはならない、だから君が代・日の丸には断固反対である」と言い募るクリスチャンたちの論調にも、この左翼的傾向と、被害者意識的発想、権利の主張がにじみ出ているように思えて、少なからずうんざりするのです。基本的に、聖書的思考形式と被害者意識的発想、権利の主張は相容れないものです。隣人諸国に出かけて行って、加害者として謝罪するという、立派なクリスチャンたちもいらっしゃいますが、それでも、その背後には、私たちも国許では迫害され強制されて、心ならずとも抑圧者にさせられてしまったのだという、被害者意識の共有欲求があるように感じられてなりません。

 ひとの足を踏みつけても痛くありません。踏みつけられた足はとても痛みます。日本のクリスチャンたちが、君が代・日の丸に反対し、軍国主義化に危惧を感じているのは、再び被害者になることを恐れてでしょうか。もし、そうであるならば、必要なのは君が代・日の丸に反対することではなく、しっかりとした信仰を身に付け、軍国化にも迫害にも耐えられるクリスチャンになることです。あるいは、再び加害者に仕立て上げられることを恐れてでしょうか。もし、そうだとしたら、私たちは今現在、立派な加害者であり続けている事実に、どうして気付こうとしないのでしょう。目を閉じ続けているのでしょう。この資本主義経済の中で、私たちが繁栄の福音という偶像礼拝に踊っていた間にも、世界の貧しい国々では、毎日、何万人の子供たちが餓死していたのです。そして、今も餓死し続けています。資本主義自由経済という大義名分の中で、私たちクリスチャンも、飢えて死にかけている子供たちの手から、食べ物を「合法的に」奪い取って、食べ飽き、食い散らかしているのです。(添付資料参照)

 私たち日本のクリスチャンは、どうして君が代・日の丸に対してこれほど強い、痛々しいと言えるほどの関心を持ちながら、このような、もっともっと緊急で重大な問題に、しっかりと心を止めないのでしょう。被害者意識から物事を考えているからではないでしょうか。日本における福音宣教がままならないのも、国家がそれを妨げている政策を取っているからであると、心の片隅で感じていないでしょうか。そんな風に感じているところが、あるのではないかと「感じるため」、わたしは個人的に、君が代・日の丸に反対する人たちに同調したくないのです。


.非常に個人的なことになって恐縮なのですが、私は宣教師として、日本軍に蹂躙されたフイリピンの山岳奥地で活動して来ました。福音宣教という至上の使命に従ったまでのことではありますが、かつての日本が犯した犯罪を、ひとりの日本人として、心から謝罪したいと思ったからでもあります。そこで活動している間、特に始めのころは、幾度となく日本軍の戦争犯罪について聞かされました。それに対して私は一度も、言葉で謝罪したことはありません。ただ、自分はこのフイリピン人たちのために命を失っても良いと思い、かなりの危険を覚悟しながら、黙って、彼らと共に彼らのために働きました。私は被害者意識的発想が嫌いです。

.ロザーンヌ世界伝道会議以来、日本の福音派諸教会も世界の飢えた人々を援助する働きに「宣教の一端として」乗り出しています。これを宣教の一端とすることに私は反対ですが、いま取り扱っている問題と重なるのは、君が代・日の丸に過敏に反応する福音派諸教会が、そのような貧困・飢饉が人為的なものであることに目をつぶり、それを生み出している自由主義経済の構造的悪、富める国の身勝手な取引の悪に対しては口を閉ざしていることです。日本も、その中の日本人クリスチャンも加害者であり、このままでは今後も長い間加害者であり続けるのです。アジアの飢えた人々を多く知っている私は、今でも罪悪感なしには贅沢なものを食べることができません。

.ちなみに世界の国歌・国旗に目を向けると、手前味噌に自国を賞賛するものがほとんどです。国旗の多くが、回教や仏教あるいは道教の旗印です。十字架を染め抜いた国旗でさえ、多くは反キリスト教的意味と象徴を持ち、血なまぐさい過去に彩られています。しかし、自国の犯罪の歴史を刻むような国旗であっても、あるいは福音の本質に反する国歌の内容であっても、それに戦いを挑むクリスチャンと言うのは、日本以外にあまり知りません。


V.教会の使命としての福音宣教

 1974年のローザンヌ世界伝道会議以来、世界の福音派指導者の多くは、この会議のまとめ役であったイギリスの学者、ストットの考え方に非常に強く影響されてきました。ストットは、宣教、つまり教会がこの世で果たさなければならない使命、教会がこの世に存在する目的を、伝道と社会活動のふたつと考え、それはあたかも一本の車軸の両輪のようなものであり、決して切り離すことができないと説明しました。そしてその社会活動には、慈善的な活動と、社会や政治の悪に対して戦いを挑んで行く活動の、ふたつが含まれると主張したのです。ストット自身は、それより少し前に中南米で大きな広がりをみせた、解放の福音の影響を受けて少々過激で戦闘的ですが、日本の福音派指導者達の多くは、さすがにこのあたりは口を濁して、穏便に収めようとしているようです。

 ともあれ、ストットの考え方の重大な欠陥は、聖書的根拠が希薄なことです。福音派指導者の多くが、彼の意見を支持しているのは不思議なことです。聖書をきちっと調べた結果ではなく、社会的問題をないがしろにして来てしまったという、罪悪感がそうさせたのだと思います。また、彼が広い分野で優れた業績を残し、非常に尊敬されている学者であるため、思わず拝聴してしまったというのも、ありそうなことです。福音派といえども、案外、聖書以外の要因によってその神学を揺さぶられているのです。日本でも同じことが起こっています。特にJEAにおいてはその傾向が著しく、福音派諸教会の社会問題への意識移行とも思える現象となっています。ちなみに、JEAでは1986年の設立以後、1989年に大嘗祭に対する反対声明を出したのに始まり、1992年にはPKO協力法案に反対する声明、1995年には戦争責任を認める謝罪声明、1999年には、新ガイドライン関連法に対する反対声明、そして、国旗・国歌の法制化に対する反対声明と、矢継ぎ早に反対声明と言う形で政治問題に取り組んでいます。

 これに対し、私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の人間は、少々素人的ではありますが、まじめに聖書を読み、まじめに聖書に聞こうという姿勢を貫こうとしています。自己の体験や周囲の状況を、神学的考察の「きっかけ」とはしますが、それで神学を構築するようなことはせず、あくまでも聖書がどのように語り、どのように示しているかと考えます。今回取り扱っている君が代・日の丸は、政治的戦いに関わる問題ですので、聖書はこれにつき何と言い、どのように示しているか調べて見ましょう。


.「宣教」という言葉は、英語の「ミッッション」の翻訳で、もとを正すと、ラテン語で「派遣」を意味する「ミッシオー」から来たものだとのことです。このラテン語は、ギリシア語新約聖書が、「遣わす」という動詞に用いた、「アポステロー」の翻訳として用いられたものです。この「アポステロー」の名詞形が、使徒を意味する「アポストロス」です。そういうわけでミッションとはもともと、「使命を伴った派遣」のことでした。そこから、派遣の使命、目的という意味に用いられるようになってきました。したがって教会の宣教とは、教会がこの世に派遣された使命、目的、あるいは、教会がこの世に存在させられている理由のことです。ただし、この言葉が近代の「宣教」を意味するように用いられた背景には、大航海時代の植民地政策にからむ負の遺産があり、君が代の問題を問うほどの厳密さを持つと、現在この言葉を用いるのには、いささか躊躇しなければならなくなります。

.1975年、Let the earth hear His voice というタイトルで、ロザーンヌ世界伝道会議の誓約が、会議において発表されたすべての論文と共に出版されてから、私は機会あるごとにこの誓約に対し、特にその中心となったストットの宣教論に対し、聖書から考察して反対意見を述べてきました


A.外部のことを裁くのは教会の務めではない

  教会が社会問題、政治問題にも積極的に関わり、発言をして行くべきであると主張する人たちは、「教会はこの世における神の義の代行者である」と語ります。しかし教会が神の義の代行者であると言う教えは、聖書のどこにも見出されません。教会が社会的問題や政治的問題に積極的に関わり、発言をするように、また、社会悪、政治悪と戦うようにという教えもありません。反対に、霊感されたパウロは、 教会の内部の問題を裁くことは教会の務めであるが、外部の者を裁くのは「現在の教会」に与えられた務めではないと、明確に書き残しています。(Iコリ5:12‐13、6:2新改訳)。ですから、教会は社会の悪と戦うべきであると言う主張は、聖書の正しい読み方から出てきたものではなく、特定の主義あるいは神学を前提にした、考察、論理的結論として出てきたものです。これは聖書への読み込みです。神学的な考察、論理的結論は、聖書の明快な教えあるいは言及に、常に道を譲らなければなりません。

  また、しばしば旧約の預言者たちの例が取り挙げられ、教会も現在の預言者として神の義を代弁し、社会の悪を断罪し、政治の悪を糾弾しなければならないと主張されます。しかし旧約の預言者たちは、あくまでもイスラエル・ユダという神の民、あるいはその「神権政治」の為政者たちに対して、いわば内部に対して語っていたと言う事実を無視してはなりません。直接的には外部の民族に対して語りかけているように読める場合でさえ、基本的にはイスラエルとユダ、すなわち内部に対するメッセージの中で語られているのです。ルカ文書が示すように、教会は預言者としての性格を持つものですが、旧約の預言者の務めを、そのまま現在の教会の務めに適応することが、はたして許されるのでしょうか。預言者たちも私たちも、共に神の代弁者ではありますが、その務めは同じではありません。 

 キリストもパウロも、教会が内部に対して、義と裁きを執行しなければならない場合があることを認めていますが、外部に対してはそれを認めていません。さらに、教会には、外部のことを裁く使命が与えられていませんから、外部のことを正しく裁く能力も与えられていません。それにもかかわらず歴史の中で、教会やその中の権力者が、自分には外部の人々や事柄を正しく判断し裁く権威、あるいは義務があり、それを執行するための能力も与えられていると、誤って信じてしまったときがありました。そのとき、多くの場合、教会は加害者となってしまいました。カトリック教会の数多くの誤りと犯罪は言うに及ばず、プロテスタントの歴史の中にも、たくさんの汚点があります。神の義を自分の手に取ったとき、クロムウエルは何をしたでしょう。カルヴィンは何をしたでしょう。彼らの誤った確信によって、実に多くの命が奪われたのです。教会が権威を振るうまでは至らなかったとしても、社会的・政治的問題に対して誤った発言をして、多くの人々を苦境に陥れ、死にまでも至らせた例は、枚挙にいとまがありません。そのために、非常に多くの人々が、福音から遠ざけられてしまった事実、教会がその使命を果たせなくなった事実を、宣教学的立場からすると、決して見逃すことができません。現在の私たちには、自分の考えや判断を絶対化せず、異なった意見や立場にも、正しい可能性があると認める鷹揚さと、自分にはわからないことがたくさんありますと言える、謙虚さが大切です。

B.教会はキリストの代理である

 さらにキリストは、カイザルの物はカイザルにとおっしゃいました。これはキリストを政治論争に巻き込み、政治的意見を語らせることによって、彼を陥れようとする反対者たちのたくらみに対する、キリストのお答です。キリストはここで、政治は、政治を任せられている者の手に返しなさいとお答になり、政治はご自分の使命ではないことを明らかにし、ご自分の使命ではないことに関わることを、拒否なさったのです。キリストはすべての者、すべての事柄の裁き主です。しかし、それは栄光の主としておいでになる「未来のキリスト」の姿であり、このときのキリストの姿ではなかったのです。

 教会はキリストの大使であり代理です。確かに、キリストの働きをこの世で遂行し続けるために、この世に派遣されています。しかし、教会は第一降臨のキリストの代理ではあっても、第二降臨のキリストの代理ではないと言うことを、わきまえなければなりません。これが重要です。第二降臨のキリストは栄光の主、義の裁き主であり、そのとき、私たちもまたキリストの栄光にあずかり、共に裁く者になるのでしょう。しかしそれは、あくまでも未来に属することです。現在の教会は、犠牲をもって贖いの業を遂行なさった、謙卑のキリストの代理であり、裁きの執行者ではなく、贖いの業の執行者なのです。教会が神の義の執行者だとすると、それはあくまでも贖いの業に示された神の義の執行者であり、謙卑の中に痛みをもって行われるものです。私たちは、第一降臨のキリストが遣わされたように、遣わされているのです。  

 キリストと同じようにこの世に遣わされている私たちは、キリストが生き働かれた原則に立って、生き、働きます。キリストの時代、キリストの生きた場所は、ローマの植民地として、大変惨めな状態に置かれていました。抑圧があり、搾取があり、差別があり、社会悪と政治悪に満ちていました。そのような中で、キリストはただの一度たりとも、政治的な発言をしていません。社会悪を改革しなければならないともおっしゃっていません。かえって、「強いて一里行かせようとする者には、その人と共に二里行きなさい」と教えて、ローマの軍隊、すなわち宗主国ローマに対する無抵抗の従順を説かれたのです。キリストは、ローマの軍人に対しても、戦争は悪であるとか、侵略国ローマに仕えることは罪であるとかおっしゃらず、憐れみをもって接しておられます。らい病(言葉に問題がありますが)患者に対しても、なんの差別も無く接触しておられますが、当時のらい病患者に対する差別的な社会の仕組みに対しては、一言もお話なさいませんでした。

 それでいながら、キリストは「貧しい人に福音を告げる者、捕らわれている人を解放する者、圧迫されているものを自由にする者」として、お働きになったのです。(ルカ4:18)その働きは、ある種のクリスチャンたちが主張するような、抑圧する者、搾取する者、圧制を行う者に対する戦いではないのです。キリストはいつも貧しい者のために施しをしていました。また、富に対しては、厳しい言葉を用いて戒めておられます。しかし、富んでいる者に対して社会的な戦いをするようなことは無く、貧富の差を生み出している社会構造に、挑戦することもありませんでした。

 キリストに倣う者としてのパウロは、徹底していました。そのパウロは宗主国ローマに対して反旗を翻すようなことはせず、かえって、為政者のために祈るように勧めています。比較的寛容であったと言われるローマの為政者たちではありましたが、現代日本に生きる私たちには、まさに、想像を絶するような暴君であり、侵略者であり、抑圧者であり、搾取者であり、差別者でした。このローマの政治のあり方に対して、あるいは、個人的にも大いに迷惑をしたであろう裁判制度や囚人に対する取り扱いに対しても、一言の不満も語っていないのです。また社会の仕組みとしての悪、奴隷制度に対しても、パウロは非常に寛容な態度を取っています。彼は、奴隷制度が非人間的であることについて、充分以上に知っていた筈です。しかし、それを人間性に対する犯罪であるなどと糾弾せず、かえって、その犯罪的制度に従ってことを進めながら、その制度を根底から覆すことになる、贖罪愛に根ざした兄弟愛を説いているのです。パウロは、奴隷制度には反対でしたが、その制度に向かってまともに反対のムシロ旗を押し立て、社会に混乱を及ぼし、福音宣教の妨げを作り上げることを、良しとしなかったのです。(ピレモン他)同じことが、性差別の問題についても言えます。パウロは、たとえ間違っていたとしても、基本的に神の御心に反するようなものであっても、当時の社会通念を大切にし、それに従って行動しました。しかし、神にあっては男も女も無いと、明確に原則を教え、意識として、性差別を廃止しているのです。

C.キリストは突如として再臨される

 あるクリスチャンたちは、キリストの肉体を持った再臨を信じません。他のクリスチャンは、自分たちの手で、キリストがおいでになるにふさわしい社会を作り上げてこそ、はじめて、キリストが再臨なさるのだと信じています。どのような終末論を信じているかということが、クリスチャンたちの社会活動、政治活動に決定的な影響を与えます。社会を良くしようというのは良い働きだと思います。政治を良くするのも大切です。しかし私たちは、キリストの突然の再臨を、より可能性の高い、聖書的な理解のし方として期待しています。必然的に、他の終末論を採るクリスチャンとは、考え方も行動も異なってきます。福音派と言われるクリスチャンたちの多くも、実は、社会派と言われるクリスチャンたちと、基本的に同じ終末論を採用している場合が多いことに、注意を向けなければなりません。社会派の人たちは、社会活動や政治活動によって神の国(理想社会)を来らせようと努力し、福音派の人々は、福音宣教によって神の国(理想社会)を来らせようと努力してきました。方法論は異なっても、明らかな共通認識があるのです。

 福音派の人たちは、社会的活動にのめりこんで伝道をないがしろにして行く、社会派の人たちに危惧を感じて、彼らから身を引いて来ました。ところがこの福音派の人たちも、最近は、あまりにも伝道一辺倒になりすぎて、社会の問題や必要に目をつぶってきたと言う反省と罪悪感から、時計の振り子が反対側に振れるように、どっと、社会運動に流れるようになってきました。一方、伝道に見向きもしなかった社会派の人々が、当然ながらどんどん衰退して行く自分たちの教会の姿を目の当たりにして、危機感を募らせ、伝道の重要性に目を開いている面もあります。どちらにしても彼らは、自分たちの手で、キリストが王として来臨し支配するに見合った、理想的な世界を作り上げようとする共通点を持つのです。それに対し、私たちは、キリストの突然の再臨、千年期前再臨を期待する、「根本主義」のクリスチャンであり、基本的に異なった神学に立っていることを理解しなければなりません。ただ立派な、有名な指導者が社会活動をすべきであると主張しているからと言って、神学の違いに気付かぬまま、その主張を受け容れてはならないのです。

 私たちは、方法論はどうであれ、私たちの努力で神の国を作り上げられるとは信じていません。この世界が徐々に改善され、改革され、キリストがおいでになって支配するにふさわしい国ができあがるとも、信じていません。社会活動によっても、政治運動によっても、あるいは福音伝道の結果として人心が新たにされることによっても、この世界が良い方向に向かうとは信じていません。そういう意味では、私たちの世界観は悲観論的です。キリストが教えられた通りであり、パウロが信じた通りです。そういうわけで、私たちは他のクリスチャンたちほど、社会活動や政治活動に重要性を認めていないのです。もちろんそれは社会に背を向けることでもなく、世捨て人のように生きることでもありません。キリストもパウロも、初代のクリスチャンたちも、社会の中で、しっかりと社会に対応して生きていました。社会的に大きな働きをした者も、政治的に力を持って働いた者もいたことでしょう。しかし彼らは、上にあるもの、目に見えないもの、永遠のものに目を注いで生きていました。自分たちの国籍は天にあることを知っていたからです。

 以上、キリストが教会をこの世にお遣わしになった目的はただひとつ、福音伝道にあった、ご自分が十字架の上で成し遂げられた、贖いの業にかかわる働きの遂行にあったという事実を、しっかりと確認することが大切です。教会にはいろいろな働きがあり、機能があります。しかし使命は、教会がこの世に使わされた目的は、ただひとつです。

結論

 君が代・日の丸に対して、教団として何か言わなければならないと考える必要はありません。私たちには、この世に向かって神の正義を宣言し、悪を告発する預言者の役割は与えられておらず、何が正義であり何が悪であるかと言うことを、正しく判断する能力も、悪い社会や政治を断罪して行く権威も与えられていないのです。贖いのみ業にかかわる神の愛と正義を徹底して語り伝えるならば、それで良いのです。それ以外の働きに不用意に関わって、本来の使命の遂行の妨げとしてはならないのです。

 社会悪に対して目を閉じるのではありません。しっかり目を見開いて、第一降臨のキリストの目をもって周囲の社会を見、第一降臨のキリストの使命であった贖罪のみ業を推し進めて行くのです。その場合私たちは、君が代・日の丸を利用し、天皇制までも取り込んで悪用し、軍国主義化を推進する人々の犠牲になることも、覚悟しておく必要があります。パウロも、自分がやがてローマの手によって殺されることを知っていました。しかし彼は、そのローマの為政者のために祈るだけで納得していました。すべてが、愛と正義の神の手にあることを理解していたからです。やがてキリストが、すべての人、すべての物事を公平に裁いてくださる、義なる裁き主としておいでになることを、知っていたからです。

 そういうわけですから、私たちの教団は、君が代・日の丸の問題に対して意見の統一を図ろうとすべきではなく、公式見解のたぐいも出すべきではありません。これは、それぞれの教職・信徒たちが、自分の信仰と良心で判断するところによって、行動すべき事柄だからです。したがって、指導者としての教職に求められるのは、特定の見解を信徒たちに強要するのではなく、より聖書的な物事の見方、判断のし方、そしてクリスチャンとしての正しい歩み方の基本を教え、その具体的適応として、この問題をも一緒に考えることです。

付記

 ついでながら、現在、私たちの教団はJEAに加盟していますが、JEAが発表する政治的声明は、必ずしも私たちの教団が一致して賛同するものではないことを、どこかで明らかにすべきだと考えます。JEAの活動の主たる目的は、宣教の協力という素晴らしいものだとしても、その宣教の定義が、ストットの宣教論に立ったものであるならば、私たちは警戒しなければなりません。ストットは、社会活動をしていない教会は、教会としての使命をはたしていない、はなはだ不完全な教会だとさえ言っているのです。そしてその社会活動には、政治や社会機構に対する糾弾や闘争さえも含まれているのです。私たちの教団は、政治や社会機構に戦いを挑む義務を課せられた教団ではなく、伝道に使命を持つ宣教教団であるはずです。

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