Ecclesiology

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はじめに


 聖書学校を卒業しておよそ38年間、私はずっと開拓伝道者として過してきました。残念ながら、牧師と呼べるほどの数の羊たちを、一度に世話をした事がありません。その間、23年は海外生活をし、21年間宣教師として働いたのですが、働きの内容はみな開拓伝道でした。自分の働きを省みて一番心残りなことは、どれも、納得できる教会形成に至らないまま、ここまで来てしまったことです。救われる人々はたくさん見てきました。しかし、救われた者たちの共同体である教会は、なんとも中途半端な状態に残されてしまいました。理由はいろいろありますが、中でも特に痛感しているのは、長い間、教会というものを知らないまま、教会を建てようとしてきた自分の過ちです。

 思えば、若いころ、教会というものについて学ぶ機会はほとんどありませんでした。高校一年の終わり近く、北海道の片田舎の小さな開拓教会で救われ、まともなクリスチャン生活も経験しないまま、熱心だけを先行させて高校卒業後ただちに聖書学校に入学しました。3年間の聖書学校でも「教会論」を学ぶ機会はありませんでした。卒業して最初の赴任は、東京の下町の開拓伝道所で、信徒が4人。6畳と3畳の部屋と2畳の台所。それに半畳の玄関と半畳のトイレがついたアパートを借りての、当時としては立派な出発でした。

 4人いた信徒の内2人は夫婦。一番しっかりしていた信徒は、1ヶ月後、夫の転勤でいなくなり、礼拝出席は自分を入れてせいぜい3人、あるいは4人。幸い家賃の1万5千円は、教団と母教会が2年の期限付きで出してくださいました。意地っ張りが災いして、このサポートを期限よりずっと早く打ち切ってもらい、いわゆる自給伝道にこぎ付けたのですが、月々の生活費は多くて3千円。普通は千5百円ほどでした。近くの電柱に結び付けられた「女給さん求む」の看板には、「日給5千円」の文字が踊っていました。

 そのような中でも、礼拝会の人数は増えて15人近くになり、洗礼を受ける者も何人も出てきました。L字型につないだ合計九畳の礼拝の場所は狭くなり、どこかにもっとよい場所を見つけなければならなくなりましたが、教会の経済はとてもそれを許すような実情ではありません。人口過密工業地帯の路地裏のアパートではありましたが、これ以上条件の良い場所など、何倍の家賃を出しても見つかりませんでした。日の当らない裏道のどんづまりに20坪、あるいは30坪くらいの売り地が2、3ありましたが、坪当たり30万円から40万円。とても手の及ぶ額ではありません。このような土地で、教会を建てるにはどうしたらよいのだろうかと、本当に悩みました。なにしろ、私が知っていた教会とは、教会堂があって、牧師の生活を支えるだけの献金ができる信徒がいて、日曜日の朝の礼拝会と夜の伝道会、そして週間の聖書研究祈祷会を滞りなく守る事ができ、欲を言えば、日曜学校と呼ばれる子供の集会もできていれば、それで「御の字」と言った程度のものだったのです。月々の家賃を払ってしまうと、牧師は、毎月、強制的断食をしなければ生きて行けないありさまの中で、坪30万、40万の土地を買って教会堂を建てるなど、「奇跡の信仰」も起こりませんでした。かといって、この狭いアパートで、献金額を飛躍的に伸ばすほどの信徒数にするのも、現実的ではありませんでした。

 ところが、そうこうしているうちに2年が経ち、こんどは土地の言葉でヤンバルと呼ばれる、沖縄北部の金武という小さな村に「宣教師」として派遣されました。全人口およそ5千人で、私がとりあえず住む事にした村の中心は、人口3千ほどでした。そしてこれを取り巻くように大きなアメリカ海兵隊の基地があり、町の両端に位置する基地の出入り口の周囲には歓楽街が広がっていました。ここで働いていた売春婦達の数がおよそ千人といわれていましたから、アメリカ人以外の総人口は4千人近くあったのでしょう。ベトナム戦争が泥沼化したころの事です。沖縄はアメリカの施政権のもとにあって、人々はドルで生活をしていました。

 ウチナーグチ(沖縄の言葉)がまったくわからず、信徒どころか一人の知人もいないこの土地で、ヤマトンチュー(大和の人間)と言われながら開拓伝道をはじめましたが、最初の1年で5人が救われ、そのうちの4人が高校卒業と同時に村を出て行ってしまいました。まだ23才の青年伝道者でしたから、救われる者の殆どが高校生でした。次の年、私より8年も先に沖縄に来ていた先輩の伝道者N先生に助けてもらいながら、他の集落に次々と家庭集会をはじめるようになりました。登り下りの多い曲がりくねった砂利道で、夜ともなればハブとアフリカマイマイをブチュブチュ、グチュグチュとひき殺しながら運転をし、集落ごとに異なる方言に戸惑いながらも集会を続け、1年後には、毎週5箇所で合計50人が出席するようになっていました。

 先輩のN先生は、このような田舎でのこういう伝道は、他に例がないわけではないと、秋田県で伝道しておられるという、どこかの団体に所属する牧師の話を聞かせて励まして下さいました。そして、この5つの集会をすべて礼拝会と位置付け、月々の本部への報告欄にも礼拝会として記入すべきだと、「悪知恵」を授けてくださいました。N先生も、このような田舎での伝道と教会のあり方について、真剣に考えておられたからこそ、そういうことをおっしゃったのでしょう。その年には確か16人だったか、18人だったかの受洗者がありました。次の年にも、それに近い数の者たちが洗礼を受けたと思います。とは言え、高校卒業生の100%が土地を離れてしまうため、教会全体の成長は微々たるものでした。

 人口密集地帯の東京の下町で、教会形成の可能性について悩んでいた私は、沖縄の過疎化の田舎で、まったく異なった問題に直面し、ただ悩むばかりでした。美しい会堂を建て、それなりの人数の信徒がいて、牧師が生活していくに充分な献金があって、毎週定期的な活動を続けて行くなどということは、現状では、夢のまた夢だったからです。

 そうこうしているうちに、私にも教団の正教師試験の受験資格が与えられ、面接を受ける事になりました。経験を積んだ牧師たちが試験官として居並ぶ部屋で、私は幾分予期していたとは言え、それを超える厳しい言葉に晒されました。まず、礼拝会というのは日曜日の朝、教会堂もしくは教会堂として使用している建物の中で行なわれる集会のことであって、ひとつの教会が5つの礼拝会を、しかも信徒たちの家で行なうという事はあってはならないから、これを改めるようにという勧告を頂きました。それらはみな家庭集会であって、礼拝会ではないと言うことでした。(結局私は、この勧告を無視してみな礼拝会として継続したのですが。)

 私に対する評価は、伝道はしているが牧会ができていないという厳しいものでした。集会人数に比べて献金額が異常に少ないという判断が理由でした。恐る恐る、「私が伝道している地域の経済状況を調査した上で、そのように判断なさったのでしょうか」とお尋ねしたところ、「いちいちそのような事はしていません」ということでした。そこで私は、「沖縄の人の平均収入は、本土に住む人の60%といわれています。さらにヤンバルの平均収入は、沖縄全体の平均収入の60%です。これを計算すると私が伝道対象としている人々の平均収入は、本土の人々の30%を少し超える程度になるのではないでしょうか」と説明しました。よせば良いのに、試験官をしておられる大きな教会の牧師たちが伝道対象としている、大都会に住む人々の平均収入の、約3割にも満たないであろうと言うこと。私の働きの献金は、にがうり(ゴーヤー)だとか、にが菜だとか、サツマイモだとか、まだ青いパパイヤだとかで、現金はほとんどないということまで説明して、憎まれ口を叩いた結果に終わってしまったような気がします。

 しかし一番心が痛んだのは、「君は誰にでも洗礼を授けるのか」と言われたことです。教団全体で100を少し超える教会があって、年間300人ほどの受洗者があった頃の話です。開拓をはじめたばかりの田舎の教会が、年間15人を超える受洗者を出すのは、何かが怪しいと思われたのでしょう。私は精一杯の皮肉を込めて、自分が洗礼を授けるのは、キリストを救い主として信じた「人間」であると答えたと記憶しています。豚や鶏に洗礼を授けていたわけではありませんし、キリストを信じていない人間に授けていたのでもないからです。

 このようなやり取りをしながら、不謹慎なことではありましたが、私の思いは他のところに飛んでいました。「教会とは何なのだろう。伝道とは何なのだろう。」正教師試験は見事に落ちました。翌年の試験も落ちました。私は、「教会とは?」と模索を続けていました。


   この時から30数年後の2003年に、これらの集落のひとつを訪ねる機会がありました。集落は過疎化のためにずっと小さくなっていましたが、当時洗礼を受けた姉妹たちがふたり、歓迎してくださいました。88才と83才になっておられました。もうひとり85才の姉妹もおられるとのことでしたが、ちょうど隣の集落に行っていて、会うことができませんでした。彼女たちはいまでも浜に降りては、一緒に賛美の歌を歌うそうです。また、そこからさらに車で20分くらい奥の集落に住んでいたお爺さんも、同じころ洗礼を受けたのですが、105才のいまも老人施設に健在で、しっかり信仰を保っているという事でした。30年間、ほとんどだれの助けも得ないまま、自分たちだけで信仰を守り通してきた彼女たちの涙に、目頭が熱くなりました。

 沖縄での5年間の働きに行き詰まりを感じて、私はフィリピンに向かいました。海外宣教に情熱を持っていたからという言いわけもありました。マニラにおいて学生、牧師、伝道者、宣教師など、いろいろな肩書きをもらいながら4年間過した後、北部の山岳地に住むイゴロットと呼ばれる人たちのために、本格的な宣教の働きをはじめました。海抜2千メートル以上の山々の頂きからふもとまで、点々と散在する家々、集落を回っての伝道です。もう一度、教会とは何か。このような地域、このような生活様式で生きている人々が形成できる教会とはどのようなものかと、考えなければなりませんでした。電気、水道、ガス、電話、病院はおろか、お店もないところです。車が行き着けるところまで行き、後はもっぱら歩くだけ。険し過ぎて馬も通れない獣道のような道を、1日3時間から10時間、谷川を登り尾根をこえて歩き続け、10軒、20軒の集落を訪ねては福音を語り、生活指導をするのです。1回の伝道旅行は7日間から10日間。これを雨の降らないおよそ6ヶ月間くり返し、次の乾季を待つことになります。白人の宣教師はおろか、同じフィリピン人伝道者でもここに入ってくる事はまずありませんでした。同じイゴロット族の伝道者も、ここで生活し教会形成をして行く事は考えられませんでした。ただ、そこに住んでいた信徒たちが、少し開けた場所で福音を聞き、自分たちだけで信仰を守り、教会らしきものを形成していたのです。

 このようなことから、私はますます教会のあり方について考えるようになりました。この土地、ここに住む人々に最もふさわしい教会のあり方、そして聖書の教える教会のあり方から寸分も違わない教会のあり方を求めて、いろいろな人々を訪ねました。そして驚いたことは、誰も教会について知らなかった事です。知っていたのは自分が育った教会のあり方や遣り方に過ぎませんでした。そこで、幸い近くに引っ越してきた神学校の図書館へ出向き、組織神学の本からはじめて、教会に関する文献を探しました。そして改めて驚いた事に、組織神学の中の「教会論」はどれもまったくの付け足しで、せいぜい特定の神学の、あるいは特定の教派の偏った教会論で、とても聖書的と言える代物ではない上に、組織的と言えるほどの内容を持つものはひとつもなかったのです。どれも、教会政治と礼典を取り扱っただけで、とても参考にはなりませんでした。その他の文献を見ても私がまず求めていた聖書的な教会論は、非常に断片的で、小さな局面だけを取り上げたもの以外にはなかったのです。私は、教会とは何かを知らぬまま、教会を建てようとしていたのです。

 教会とは何かを知らないまま、教会を立てようとしていた問題は、私一人の問題ではありません。多くの、あるいは殆どの伝道者、牧師、宣教師たちが、私と同じように、教会とは何かという根本的な問題をないがしろにしたまま、教会を建てようとしているのではないでしょうか。その結果、私たちの伝道と牧会あるいは宣教の働きに、多大な欠陥をもたらし、非常に大きな「つけ」を払わされているのではないでしょうか。思いここに至って、私は自分で聖書を読み、自分の実践伝道の中から生まれてきた様々な疑問や必要に答える形で、教会論を形成していく以外にないと結論したのです。

 したがって、私の教会論は誰かの神学の寄せ集めではありません。あくまでも自分の伝道実践の中から生まれた問題が起点であり、自分で読んだ聖書が基です。フィリピンの山奥の伝道から生まれてきた、極めて非学問的なものです。しかし、ひとたび周囲を見まわすと、教会論がないために多くの伝道者が苦労しているのが目につきます。牧師がとんでもない事をやっているのに気付きます。宣教が行き詰まっているのも理解できます。教会が傷ついているのがわかります。信徒が痛んでいる姿に心が疼きます。それで、私が自分なりに蓄えてきた教会論が、いくらかでも役に立つのではないかと、僭越ながら考えたわけです。それがこの教会論をまとめようと考えた理由です。そういうわけですから、この教会論には、一般の「論文」に見られるような、他の著書からの引用もほとんどありません。これはもっと優れた教会論の出現のための、単なる露払いです。お読みになった方がこれをたたき台にして、いろいろ考えてくださり、切り刻み、批判し、反論を加え、改善して、より高度な教会論を構築してくだされば、私としては満足です。

 私が教会論を進めるにあたって、気を付けたことがふたつあります。ひとつは教派や神学的伝統に偏らないと言うことです。残念ながら多くの神学、特に教会論の分野は伝統や教派の偏見に満ちています。みなそれぞれ聖書を用いて、「聖書的」である事を標榜しているのですが、目的が、自分たちの神学と伝統を主張し、また擁護するためのものである事が多く、自分たちの主張に合致しそうな聖書の言及だけを集め、合致しない聖書の言及は放置し、こじつけとも言えるような無理な解釈をほどこしたり、文脈を無視して用いたりする事が随分行われています。私が望むのは、私たちの教会の伝統や形式、あるいは神学というものを擁護することではなく、聖書の中から真実の教会の姿を探り出し、その教会に、私たちの時代と場所に自己顕現をしてもらう事なのです。もちろん、このように言う私自身、自分の中に、自分が育った神学的環境というものがあり、必然的に、それに影響されながら考えているという、不可避の欠陥を抱えています。ただ、そのような欠陥を強く意識して、避ける努力をしながら、論を進めたいと考えています。

 次に、「聖書的」な教会の姿を探り出すのには、聖書を調べるのが当然ですが、ここで幾つかのことを避けなければなりません。まず、新約聖書に記されている教会の姿は決して理想的な教会、あるいは、神が教会とはこうあるべきであるとおっしゃるような教会、神のみ心にある教会ではないと言うことです。新約聖書に記されている教会は、間違いも失敗も短所も弱点もある教会で、私たちが理想の教会として模範にし、手本にすべき教会ではありません。新約聖書の書簡を読むと、当時の教会の「惨めな」姿がたくさん記されています。また、その組織、形態、活動などにしても、あくまでも、当時の時代と場所、あるいは人間、言語、その他の様々な要因を含んだ、「文化に適応した教会」のあり方であって、それらを超えた、「超文化的な教会」のあり方ではないと言うことです。つまり、使徒の働きに記されているような教会に戻ろうというのは、そのスピリットにおいてはうなずけない事もないのですが、組織や形態あるいは活動と言う面では、まったく間違ったことなのです。ただ言えることは、教会はあのようなグレコローマンの文化の中で、あのような形で存在することが許され、成長し続けたという事実です。

 また、新約聖書が、こうあるべきだと直接教会に教える形で語っている場合でさえ、それが文化的制限の中で語られているとするならば、その文化的状況を理解し、その教えがなぜ語られる必要があったのかという理由を探り、文化を超えた教会のあり方を見出して行かなければなりません。その上で、私たちの文化の中ではどうあるべきかを話合わなければならないのです。

 したがって、最も重視されなければならないのは、聖書が普遍的教会のあるべき姿や形について直接言及している部分であり、またその言及が、実在の個教会に反映されて実現していると判断される部分です。使徒時代の教会が私たちの教会の模範となるとしたら、そのような条件を満たした場合に限られるのです。
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