Ecclesiology

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教会の力


 教会は、神の愛による贖いの業、すなわち御子キリストの十字架を通しての救いの働きを、キリストの大使としてまたキリストのみ体として継続するために、召され、遣わされたものです。しかも徒手空拳で働くようにではなく、聖霊の賜物と言う装備を与えられて遣わされたのです。そしてさらに、その賜物をより効果的にまた力強く大胆に用いるために、聖霊の力を付与されているのです。

A.聖霊と教会

 教会は徹頭徹尾聖霊に依存するものです。聖霊のお働きなくして教会は存在できず、継続も不可能でした。聖霊がいかに教会の存在と働きに関わっているか、主なものだけでも列挙してみましょう。@教会の誕生は聖霊の働きの結果です。キリストの弟子の集団は、聖霊が降られる前は単なる弟子の集団に過ぎませんでしたが、聖霊が降られ、その集団の内に宿ってくださった事によって、キリストのみ体すなわち教会となったのです。A人を改心させるのも聖霊のお働きです。誰も聖霊によらないではイエスを主と告白することができません。B信じた者をキリストのみ体にバプタイズするのも聖霊のお働きです。教会に信徒を加えるのは役員会でも牧師でもなく、聖霊の主権によります。C教会と言う共同体に宿るというだけではなく、ひとりひとりの信徒の内にお住みになるのも聖霊のお働きです。このようにして神との有機的交わりを可能にしてくださいます。D教会を活かし、成長させてくださるのは聖霊の働きです。聖霊の命の流れがあってこそ教会は霊的に生き、成長するのです。E教会を日々絶え間なく清め、キリストのみ姿に似るものとしてくださるのも聖霊の働きです。聖霊の助けがなければ私たちは罪の力に敗北してしまいます。F聖霊の実もまた、内に住んでくださる聖霊のお働きです。教会が聖霊の主権的お働きに身をゆだねるとき、聖霊は私たちのうちに実を結んでくださいます。Gキリストのみ言葉、神の啓示を理解させてくださるのも聖霊の働きです。霊的な事柄は聖霊によって教えられなければ人間は理解できません。H祈りをとりなして下さるのも聖霊の働きです。祈れないとき、切なるうめきを持って祈らせてくださるのは聖霊のみ業です。I教会に賜物を与えて働かせてくださるのは聖霊の働きです。J教会が正しい選択決定をすることができるように、導いてくださるのも聖霊の働きです。K迫害の中にある教会に、語るべき言葉を与えてくださるのも聖霊の働きです。L教会と共に働き、伴うしるしをもってみ言葉を確かなものとしてくださるのも、聖霊のお働きです。教会は聖霊を離れては一瞬たりとも生きて行けない者です。

B.聖霊のバプテスマ

 しかし、いま私たちが注目しているのは、教会に力を与える聖霊のお働きです。聖霊は、教会が宣教の使命を果たして行けるために、賜物を付与してくださいました。しかしそれだけではなく、その賜物を充分に使いこなすために、必要な力をも与えてくださるのです。聖霊の人格(personality)と働きに注意を向けるようになったのは、メソジスト運動とそのリバイバルであったとも言えるホーリネス運動の功績ですが、ペンテコステ運動の初期の指導者たちは、ホーリネス運動の人々が理解した「清めの体験としての聖霊のバプテスマ」を、「宣教の力のための聖霊のバプテスマ」と理解し直し、独創的な神学を構築したケズイックの流れを引き継ぎました。そしてこれが、その後のペンテコステ教会の一貫した神学となってきたのです。その聖書的根拠となったのは、ルカの福音書24章:47〜49節と使徒の働き1章8節です。

 「・・・罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、私の父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。」(ルカ24:47〜49)

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります」(使徒1:8)

 医者ルカが記録した、キリストのふたつの言及によると、たしかに聖霊のバプテスマは、キリストの証人となるための力を与えるものである事は明白です。キリストは、弟子たちがこの力を持たないまま、証人として全世界に出て行く事をお望みになりませんでした。それだけ、この力は弟子たちの宣教に不可欠であったと言えます。そしてこの聖霊からの力は、明らかにペンテコステの日の出来事によって、すなわち聖霊の降臨によってもたらされました。キリストの復活の姿を目の当たりにしてもなお、人々を恐れ身を隠していた弟子たちは、この聖霊の降臨の直後からまったく人が変わったように大胆になり、非常に力強い証人となって行ったのです。これは、福音書と使徒の働きを読む者は誰でも、すぐに気付くことです。

 もちろん、このようなペンテコステの人々の聖書理解を、さまざまな理由をつけて受け入れない人たちはたくさんいます。その中でも、福音派に属する人々は聖書の解釈をもって、ペンテコステ信仰を誤りであると主張します。これらの中には、ふたつの流れがあります。ひとつはカルビンの流れを汲む神学を持つ、改革派やバプテスト派の人々です。彼らは、聖霊は人が信仰を持った瞬間内住されるのであるから、すべてのクリスチャンは信仰を持った瞬間、聖霊のバプテスマを受けているのであると主張します。彼らは聖霊の内住と聖霊のバプテスマを同一の事柄と理解するのです。そしてペンテコステ神学を、メソジストとホーリネスの流れを汲む人たちの、第二の恵みの神学の変形と理解して、激しく非難します。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの神学は、第二の恵みに賛同するものではありませんが、聖霊の内住と聖霊のバプテスマを、聖霊の、ふたつの異なったお働きと理解します。ただ、ペンテコステの日の出来事は、贖いの歴史上初めて、聖霊が人々の上にお降りになったということであり、このときは、人々の内にお住みになる出来事と、バプテスマと呼ばれる出来事が同時に起こっています。その後の聖霊のバプテスマの記述では、「素直に読む限りすべて」、人々は先ずキリストを受け入れ、聖霊の内住を得ていたことが明白です。

 また、ルカの記述を読むと、聖霊は祈りへの答えとして与えられると記されています(ルカ11:13)。キリストが、将来の出来事としての聖霊の内住を想定して、このようなお話をしたとは考えられません。聖霊の内住は、個々の人間の祈りへの答えとして与えられるものではないからです。むしろ、聖霊はあたかも風のように、人に知られず気付かれないまま、人の内に住んでくださる方なのです(ヨハネ3:8)。ヨハネは、読者が永遠の命を持っていることに気付くように、第一の手紙を書きましたが、それはまた、御霊の内住に気付くことでもありました(Iヨハネ5:13)。したがってキリストは、ここで、内住される聖霊ではない聖霊を求めるように勧めているとしか考えられません。とはいえふたつの異なった聖霊があるわけではありませんから、聖霊の内住の体験とは異なった聖霊体験を、信仰を持って求めるように励ましてくださったのだと考えるべきです。そうだとするならば、これは聖霊のバプテスマ以外のことではあり得ません。

 さらに、聖霊のバプテスマの出来事は新約聖書の時代に限られていたとか、特別な宣教の転換期あるいは要の時期に起こった事柄で、現在はあり得ないというような、もっともらしい議論もありますが、ここでは、自分たちの主張を強弁するために、聖書を公平に読めなくなっているという、彼らの欠点を指摘するだけで、細部の議論には入らないでおきましょう。

 ホーリネス系の人々の批判は、あまり聖書的な議論ではなく、ただ、聖霊のバプテスマに伴うとペンテコステ派の人々が主張する、異言が嫌いであると言うことだけのようです。もともと聖霊のバプテスマという体験自体が、彼らによって宣伝されたものであり、彼らがその体験を否定する根拠がないからです。ただ、彼らの聖霊のバプテスマは清められたと感じる、主観的体験であり、聖書にその例を見ることが出来ないものであるのに対し、24  ペンテコステ派の人々の信じる聖霊のバプテスマは、宣教の力を付与する体験であり、聖書にその根拠を求めることが出来、さらに、異言と言う客観的に察知しうる出来事を伴うということを、聖書をもって説明出来るものであると言うことです。

 ルカの記述を見ると、聖霊のバプテスマを受けた人々は、大胆に福音を語ることが出来るようになっていることが明らかです。キリストが「力」と表現したものは、この大胆さに関係するのではないでしょうか。しかし、聖霊のバプテスマを証の力、宣教の力と理解したきっかけは、必ずしも聖書の理解によるものではなかった可能性もあります。現在のペンテコステ運動が起こる直前、初期のペンテコステ運動の指導者の一人は、聖霊のバプテスマを受けた人々が異言(ゼノラリア)25  を語ると言う現象について聞き及び、これは世界宣教のための特別な能力である、すなわち、たとえ宣教師たちが言葉の解らない土地に遣わされたとしても、ただちにその土地の言葉を話し出す事が出来る能力だと考え、異言の価値を強調しました。また事実、当時、この異言を信じ、まったく言葉のわからない土地へ、何の準備もなく宣教師として出て行く者たちも現れました。しかし間もなく、これらの異言の多くはゼノラリアではなく、グロッソラリアであることが判明し26 、大変失望する事になりました。しかしこのゼノラリアへの期待が、聖霊のバプテスマすなわち証の力という理解に、関係したのではないかとも考えられます。聖書の読み方においては素人であった当時のペンテコステ運動の指導者は、聖書の教えを先ず理解する事からより、自分たちの真摯な経験を聖書に照らし合わせて解釈する方向にあったからです。(これは必ずしも誤った方法ではありません。)そのような過程の中で、ルカが記録したキリストのふたつの言及に行き当たったというのが、ありそうなところです。


24   ホーリネス系の人たちは、清めのバプテスマの主張の根拠を、バプテスマのヨハネがキリストについて預言した言葉に求めます。彼らはまず、「聖霊と火のバプテスマ」というフレーズを、聖霊のバプテスマすなわち火のバプテスマと理解します。さらに火は清めるものと考えて、聖霊の清めのバプテスマと連想していきます。しかし、この預言の文脈を見ると、火のバプテスマとは聖霊の火のバプテスマではなく、裁きのことであることが明白です。
25   実在する人間の言葉の異言。
26
   実在する人間の言葉とは判別できない異言。


 聖霊のバプテスマが証の力、宣教の力に深く関わっていると言う事実は、聖書からもまた宣教の現場の実証からも疑いの余地はありません。ペンテコステ運動による宣教は、キリスト教の宣教歴史のなかで最も輝かしいものです。しかし、聖霊のバプテスマが宣教の力の付与であるという考え方、あるいは、聖霊のバプテスマは証の力を与えるためのものであるという理解は、果たして聖書の主張と調和するものか、もう少し注意深く学んでみる必要がありそうです。なぜならここに挙げたキリストのふたつの言及では、聖霊のバプテスマが宣教の力に関わっていることは明白でも、宣教の力の付与のために聖霊のバプテスマがあるという理解は、生まれて来ないからです。すなわち、聖霊のバプテスマの目的は、宣教のための力の付与であるとは言い切れないと言うことです。

 著者の現在の見解を言うならば、聖霊のバプテスマとは単なる力の付与ではなく、もっと幅の広いものであり、神との交わりのひとつの頂点であり、より親密な交わりへの入り口です。人は神と和解させられ、神との交わりの中に入れられます。しかし、現在の世界における神との交わりはまだ不完全であり、非常に浅いものです。聖霊のバプテスマは、この世における神との交わりのひとつの高嶺、多分最も高い嶺です。そしてその交わりのために特別に与えられるのが、人間の言葉の限界を超えたところでの交わりを可能にする異言です。異言は、証拠として聖霊のバプテスマに付随するのではなく、聖霊のバプテスマを聖霊のバプテスマとして形成させる、神からの賜物です。異言がなくては、聖霊のバプテスマという神との交わりの高嶺は、ありえないのです。異言は単なる証拠としての価値しかないのではなく、交わりの手段として、大きな価値を持つのです。ですから、パウロは誰よりも多く異言を語ることを喜び(Iコリント14:18)、すべての信徒が異言を語ることを望み(14:5)、異言を語ることを禁じてはならないと警告しているのです(14:39)。聖霊のバプテスマを宣教の力の付与のためと理解し、異言をそのバプテスマの証拠と理解する限り、私たちの仲間がときどき語る「異言を求めるのではなく、聖霊のバプテスマを求めましょう。力を求めましょう」というお勧めは、正当化されるでしょう。しかし異言そのものが、神との交わりの高嶺である聖霊のバプテスマを構成している大切な要因だとすると、パウロと共に、異言を語りましょうと言うことが出来るはずです。

 聖霊のバプテスマが力となるのは、特に大胆さと繋がる力となるのは、聖霊のバプテスマが神との交わりの高嶺であるからです。異言を通して、神との高く深く豊かな交わりを体験したものは、強烈な神の臨在感に浸ったのです。神が共におられ、内におられることを、非常な現実感をもって感じたのです。そのような実感はすべての恐れを消し去ります。宣教の大胆さはそこから来るのです。神との交わりの現実感が情熱を生み出し、献身を強烈にし、より頻繁に、激しく、効果的に賜物を行使する力となり、教会の働きのあらゆる分野に及ぶのです。同じ賜物を任せられた人間でも、聖霊のバプテスマを受けた者は、恐れることなく大胆に、情熱と喜びをもってその賜物を行使するのです。その結果、より小さな賜物しか任せられていなかった者も、大きな賜物を委託されていた者より、大きなことをやり遂げることが出来るようになるのです。宣教の力は、聖霊のバプテスマの目的ではなく、聖霊のバプテスマの結果です。しかし、宣教と言う視点から見ると、聖霊のバプテスマは、宣教の力の付与であるということが可能でしょう。神は教会が与えられた宣教の使命を遂行して行けるように、賜物を持って教会を装備し、聖霊のバプテスマをもってその装備を駆使する力をお与えになったのです。

 キリストは、弟子たちが聖霊のバプテスマを受けずに、エルサレムを離れることをお望みになりませんでした。すべての弟子たちがこの素晴らしい体験を持って、力に溢れて全世界に出て行くことを願われたのです。この体験を、聖霊の他の働き、すなわち新生に伴って聖霊がひとりひとりの内に住んでくださる働きと同一に見てしまったり、それと取り替えてしまったりしてはなりません。聖霊のバプテスマは、受ける側の自覚を伴う体験です。しかし聖霊の内住の体験は、内住をしていただく者が自覚しないうちに行われることが普通なのです。この聖霊の内住も、それに気付き、それを自覚して歩む信徒を励まし力付けるものに相違ありません。しかし、聖霊のバプテスマは単なる内住ではない、圧倒的な聖霊の働きかけなのです。

 聖霊の内住自体、神との交わりの素晴らしい回復です。罪によって断ち切られた神との交わりは、神のみ姿を捨てて人となられた神、インマヌエルなる神キリストが、人と共に住み人の間に宿を取られた事によって、人と人との交わり程度には回復されたのです。しかし、このキリストが十字架において贖いを成し遂げ、その血潮をもって罪を清めて下さった事により、聖い神が神のみ姿のままで人との交わりを回復出来るように、神殿の幕が上から下まで真っ二つに切って落とされたのです。そして贖いを成し遂げ、宣教の派遣を明確にして天にお帰りになったキリストは、聖霊をお遣わしになったのです。神のみ姿のままでおいでになった神、聖霊は、人と共に住むだけではなく、人の内にお住みになり、さらに深い交わりを回復してくださったのです。まさに、キリストが天にお帰りになる事は、私たちにとって益だったのです。現在のクリスチャンたちは、聖霊のリアリティを通して、弟子たちがキリストと共に過ごした3年半よりも、はるかに濃厚な神との交わりを経験するのです。

 少なくても、キリストの弟子たちは、キリストと共に生活したという体験によっては、あまり力を得る事がありませんでした。甦られたキリストに出会い、共に食事をした後でさえ、恐れと失望はなくなりませんでした。ところが、聖霊の降臨を体験して、あのように大胆不敵になったのです。このとき、弟子たちを大胆不敵にしたのは、自覚されないままに起こりうる聖霊の内住ではなく、強烈な体験として自覚できた聖霊のバプテスマによるのです。ただし、聖霊の内住は、たとえその瞬間は何の自覚もなしに起こったとしても、いつまでも自覚を伴わないままで行くというものではありません。それは、新たな命に生きる力となり、聖い生き方、愛の生き方、キリストに仕える生き方の力となるものです。それはまさに、新たに生まれた者の命であり、キリストのみ体を有機体とさせる要因そのものです。しかしそれはまた、パウロが「聖霊によって生きるならば聖霊によって歩もう」と勧めた通り、自覚を持つように励まされなければならない事もあった、そのような出来事なのです。それとは対照的に聖霊のバプテスマは、鮮烈な自覚を伴う出来事です。それは自覚を持って大胆にさせる出来事です。異言という神から与えられる超自然の現象を通して可能となる、神との深い交わりです。高いレベルでの交わりです。自らの言葉を知的に用いていては、どうしても到達できない種類の交わりです。

 またこの聖霊のバプテスマの交わりは、一回限りの交わりではありません。それはいくたびも繰り返される交わりです。繰り返されるたびに異言を語り、異言を語るごとに深められ高められる交わりです。パウロはその交わりの崇高さ、素晴らしさを充分に知っていたからこそ、自分が誰よりも多く異言を語ることができることを喜び、すべての信徒が異言を語る事が出来るようになるのを望んだのです。そして、このような交わりが宣教の力となったのです。聖霊のバプテスマの力は、「力」と表書きされた小包を受け取るようなものではなく、本来人間が持っていた神との交わりを回復した人間が、少なくてもその交わりの多くの部分を回復した人間が、その交わりの結果として持つ神への信仰と愛による大胆さと、神を愛しお仕えしたいと願う積極性がもたらすものなのです。
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