Ecclesiology

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共同体としての教会の続き



E.キリストの姿に似ていく共同体

 クリスチャン人生の目的と希望のひとつに、キリストの姿に似る者となることがあります。私たちがキリストに似る者となることは、単に私たちの望みであるだけではなく、神が、天地創造の前から、あらかじめ定めていてくださった事です(ロマ8:28−30、ピリ3:21)。

 クリスチャンは、キリストの代償の死によって死んだ者であり、罪を赦され、罪から開放された者です。キリストの血潮によって罪を被われ、聖められた者です。さらにキリストの復活を通して、キリストの正しさを私たちに移し与えられて、今や、神の前に正しい者として立つことが出来るようにされています。私たちは神の目からご覧になると、キリストの功によって義人であり、聖徒なのです。しかし、この義人であり聖徒であるという貴い身分は、霊的な事実であって、日常の現実の生活の中での私たちは、パウロと共に、「私は本当にみじめな人間です」と叫ばなければならない者です(ロマ7:24)。

 私たちは今の不完全さに痛み、悲しみ、苦しみます。しかし一方では、日々聖霊の励ましによって生かされ、聖霊の助けによってキリストの姿に似るように造り変えられているのです。そして、私たちがキリストの姿に似る者になるという栄光は、間違いなく達成されます。全知全能の神が永遠の昔から予めお定めになった事ですから、頓挫したり覆されたりすることは絶対にあり得ないのです。そのために神は、私たちの周囲に起こるありとあらゆる出来事を、逆境も順境も互いに働かせて益としてくださるのです。また、神の熱心がそのことを達成させようとして、私たちの味方となってくださるのですから、私たちはどのような敵とも大胆に戦い、勝利を勝ち取ることが出来るのです(ロマ8:26−39)。

 キリストの姿に似ていく私たちの成長は、私たち自身の努力と聖霊のお働きにより達成されます。人間がどのように努力しても、決してキリストに似る者とはなれません。聖霊が人の内に働いてくださって初めて可能となるものです。しかし、聖霊が励ましてくださっているにも拘わらず、自ら努力をしようと思わない人の中に、聖霊は働きを始めようとなさいません。それが一般原則です。私たちは、自ら努力をすると共に、聖霊が私たちの内に自由に働いてくださるように、聖霊に身を委ねなければなりません。聖霊は、私たちが信頼して私たちの人生をお任せすると、私たちの中に働いて、様々な聖霊の実を結んでくださいます。この実は私たちの品性に関わるもので、私たちがキリストの姿に似て行くために欠くことが出来ないものです(ガラ5:22−23)。

 しかし聖書が教える成長は、個人としてのクリスチャンの成長もさることながら、むしろ、地域教会全体としての、あるいは管理上の個教会全体としての成長を、大切にしていると考えられます。もちろんそれが、より広範囲の有機体としての教会に拡大していくことは望ましいことですが、聖書が直接強調するのは、地域に存在する教会の成長です。クリスチャンの成長は、単に個々のクリスチャンの成長で終わるのではなく、必ずキリストのみ体という共同体の中で、他の肢体に良い影響を与え、共に成長して行くことを促すものでなければなりません。先に挙げた聖霊の実も、そのすべてが人間関係に関わる性質、あるいは品性です。「喜び」さえ、ひとり秘かに喜ぶ喜びではなく、人々の中の喜び、人々と共に喜ぶ喜びと考えたほうが良いでしょう。

 クリスチャンの品性の中には、もちろんまったく個人的なとい言うより、神と自分との関係にのみ関わる品性というものもあることでしょう。しかし、神と自分との個人的関係のみにかかわる品性というのは以外に少なく、ほとんどは、何らかの形で人間関係に繋がっているものです。ですから、私たち個人の霊的成長は、何らかの形で、教会全体に影響を与えるのです。そして大切なのは、そのことを強く意識して行くことです。

 また聖霊の賜物についても同じことが言えます。聖霊の賜物は、どちらかと言うと品性ではなく、能力に関わるものが多いようですが、その賜物が、用いる個人の益に関わるだけで、他のクリスチャンたちの益にはならないとするならば、すでに述べた異言のように、教会の集会の中での評価は低いのです。もちろんパウロは異言の大切さを理解していました。それは個人の信仰生活の中では、非常に大切なものでした。ですから彼は、すべてのクリスチャンが異言を語ることを望むと同時に、自分が誰よりも多く異言を語ることを神に感謝しているのです(Iコリ14:5、18)そして、当然、異言を通して神とより親しく交わることによって達成される、個々のクリスチャンの成長は、必ず地域教会や管理上の個教会、さらには有機的教会に、好ましい影響を及ぼして行くものです。しかし、それでも教会全体の成長ということを重視するならば、異言のように先ず個人の成長に関わる賜物は、集会の中では、そこにいる他のクリスチャンたちの益になるように、注意深く用いられなければならないのです。パウロが、教会全体としての成長をいかに大切にしていたかということを理解するなら、彼が、一般集会での異言の賜物を低く評価していた理由がわかるのです(14:19)。一万語の異言より五つの知性の言葉を話したいとパウロが言うのは、あくまでも、一般の集会という公の場を想定しての事なのです。プライベートの祈りの中では、まったくその逆の言い方も可能なのです。

 現在の私たちの教会においても、賜物の行使がとても重んじられています。特に、何となく劇場化しているような私たちの集会、パフォーマンスが喜ばれているような観がある私たちの教会では、個人の賜物の美化と賞賛が、あたかも映画や歌の世界の表彰式のように華々しく行われ、教会全体の益などというものがあまり考えられていないように感じます。異言を含めてすべて賜物は、その賜物を任せられた本人のためにではなく、教会全体の益のために与えられたもので、秘かに用いられてこそ本物なのです(マタイ6:1−18)。賜物は個人のクリスチャンに与えられたものでなく、教会に与えられ、その管理が個人に委ねられているだけなのです。賜物の管理を任せられたに過ぎないものが、自分の益や自己獲得のために賜物を用いたのでは、公用のものを私用に供する犯罪となります。

 さらに、アメリカ型のキリスト教であることから、なかなか抜けきれないでいる私たちの教会は、アメリカの文化的弱点がこの辺りに大きく影響していることに、注意をしておかなければなりません。アメリカの子供の教育の方針のひとつに、徹底して褒めて指導するというやり方があります。少しでも良いことをしたら、みんなの前でおおいに褒め、喜ばせ、さらに良いことをする意欲になるようにするのです。悪いことを指摘してそれを直すより、ずっと効果的だと言われています。しかしそこには見逃しに出来ない副作用があります。子供は、何をするにも褒められることを前提として、褒められるために物事をするようになるのです。それが子供の頃からの生活環境ですから、当然、大人になっても褒められること、賞賛を受けることを目的として働くのがごく自然になります。何が大切で重要な働きか、何が必要な役割かと考える前に、何が目立ち、みんなに認められる働きかと考えるようになります。大切な役割に付くことより、目に付く役割を求めます。そして、互いに褒めあい、感謝状だとか盾だとか交換し合うことに忙しくなります。キリストがおっしゃった「右の手のしていることを、左手に教えるな」という戒めは、アメリカのキリスト教では通用しません。賜物が個人の栄誉のために用いられてしまっているのです。

 さらに、パウロが語る教会全体の成長は、強い者が弱い者の弱さを担い、痛んでいる者の痛みを共有し、劣っているように見える部分をことさらに大切にし、互いにいたわり合い、自分以外のすべてのクリスチャンの存在を喜び、その必要性を認めて生きることによって達成されるものです(ロマ15:1,2,Iコリ12:14−27)。それは喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くこと、高ぶった思いを抱かず、身分の低いものへ順応すること、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めることでもあります(ロマ12:15,16,14:19)。これは、端的に言って、強いものが弱いもののために、自分の個人的成長さえ犠牲にして行くことを意味します。強く足の速い人が一等賞を得るために走るのではなく、弱く、足を痛めている人のために立ち止まり、後戻りをしてその人の足をかばって支え、一緒に歩くことです。「あんな奴がいるから、俺は一等賞を逃したと悔やむのではなく、自分の強さが、他の人の弱さのおかげで役に立てた」と喜ぶのです。弱い人がいなければ、強い人の強さなど何の意味もないからです。私たちも、ともすれば大きな教会の牧師と付き合いたくなります。成長している教会と交わりをしたくなります。成功した働きを取り込みたくなります。それはそれとして、おおいに結構なのですが、自分より弱い立場にいる牧師、小さな教会で苦労している伝道者、いつまでも成功には遠く及ばない働きに、忠実に関わり続けている同労者とのお付き合いを大切にしたいものです。

 クリスチャンを含めて、多くの人間にとって、喜ぶ者と共に喜ぶほど困難なことはありません。泣く者と共に泣くのは以外に簡単です。そして泣ける自分に感動さえ出来ます。しかし、喜んでいる人を目の前にして、共に喜ぶのは至難の業です。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむというのは案外優しいのです。しかし、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が喜ぶということが出来ないために、教会の中には、様々なやっかみがあり、中傷があり、競り合いがあり、虚勢の張り合いがあり、陰口、つげ口、悪い噂話が絶えないのです。アナニヤとサッピラは、喜ぶ者と共に喜べなかった夫婦です(使徒5:1−11)。バルナバがうらやましくて、しょうがなかったのでしょう。ユウオデイアとスントケというふたりの女性リーダーも、互いに相手が賞賛されるのを喜べなかったために、つい、張り合いになり、分裂の元になり始めていたのかも知れません(ピリ4:2)。牧師が成長している隣の教会の牧師の悪口を言う。宣教師が自分の働きについては誇大報告をしながら、共に働いている宣教師の働きについては、過小評価しか出来ないということもよくあります。しかし、その牧師も、隣の教会の牧師が、何かとんでもない失敗をして困っていると、たいていは喜んで助けます。過小評価しか出来ない宣教師も、いざとなったら犠牲を払っても助けに行きます。助けることは、以外に易しいのです。

 このように、確かにパウロは個人としてのクリスチャンが神に召されて、キリストのみ姿に似る者とされる栄光についても語っているのですが、彼の強調点はむしろ、教会全体の成長、共同体としての成長にあったと思えるのです(エペ2:21,4:13−16)。特に注目されるのは、キリストがご自分を捧げられたのは、ひとりひとりの人間のためではなく、教会を愛し、教会のためにそのようにされたのだと言われていることです。私たちは、神が私たちひとりひとりを愛し、そのためにキリストを十字架に付けてくださったと信じています。しかしパウロが教えるのは、キリストが愛されたのは教会であり、キリストがご自信を奉げてくださったのは、教会のためであるということです。つまり、愛されて救われたひとりひとりが、教会を形成するようになったのではなく、キリストは始めから教会として愛し、その教会のために贖いのみ業を行ってくださったと表現されるほど、共同体としての教会が大切だということです。そして、キリストご自身がこの教会を聖め、「しみやしわやそれらの類のものが一切ない、聖く傷のない栄光の教会として、ご自分の前に立たせてくださるのです(5:26−27)。パウロが、「あなたがたを清純な処女として、ただひとりの男性であるキリストに奉げることにした」と語ったときの「あなたがた」とは、複数の処女ではなく、ひとりの処女である教会のことなのです(IIコリ11:2)。私たちがしみもしわもない者としてキリストのみ前に出るのは、個人個人としてではなく、キリストの花嫁という共同体として出るのです。

 では、共同体としてキリストのみ姿に似て行くとは、具体的にどういうことでしょう。パウロは、この共同体としてキリストに似る者になることを、「キリストの体を建て上げる」、「完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」、また、「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」などという表現で語っていますが、そのためにはまず、信仰の一致、神の御子に関する知識の一致が必要であることを教えています。またそれには使徒、預言者、伝道者、牧師、教師などと言われる指導者たちの必要性を認め、信徒全員がそれぞれに与えられている力量にふさわしく働き、互いに貢献しあうことが必要であり、それらが愛のうちに行われることが肝要であると言われています。(エペ4:11−16)。さらにまた、この文節の後には聖い生活が強調されていることなどから考えて(4:17−25)、パウロは、教会が指導者たちの指導によって、教え導かれ、すべての信徒が活動して互いに貢献し合いながら、正しい知識に裏打ちされた正しい信仰によって一致を保ち、愛にも、聖さにも欠けるところがなくなることを期待していたと考えられます。

 実際パウロは、ひとりひとりのクリスチャンの聖い生活、キリストに似る成長にも言及していますが、教会全体がキリストの姿に到達するために、教会の中から不順なものを取り除くことに苦心している様子が伺われます。パウロが語る教会内部の懲罰の目的と手段を見ても、共同体としての取り計らいであることが明白です。他の信徒に対する悪影響ということが、最も重要な尺度だったようです(Iコリ5:6−8)。

 教会の中に孤高の聖徒がいてもだめなのです。至高の学者がいてもだめなのです。孤立した信仰の巨人がいてもだめなのです。孤独な愛の使徒がいてもだめなのです。信仰も知識も愛も聖さも、全員で分け合わなければ本当の価値を持たないのです。教会全体として知識の一致と信仰の一致、聖さを求める一致と愛を追及する一致を持たなければ、本当の成長ではないのです。

F.神の支配の共同体

 教会は「神の国」と深い関わりを持っています。教会を論じるのに、神の国との関係を語らないで終えることは出来ません。教会は神の国ではありません。神の国は教会よりもさらに大きな概念であり、キリストの宣教と教えの中心であり、弟子たちの宣教の本題でもありました。キリストの宣教は神の国の到来の宣言で始まり(マタ4:17)、常に「神の国の福音」がその教えの中心をなし、(マタ4:23、9:35、24:14)、弟子たちの「神の国」への期待に答える会話で終わっています(使徒1:6)。キリストの昇天後の、弟子たちの宣教の主題もまた「神の国」でした。ルカは使徒の働きを、ローマに監禁されたパウロが大胆に「神の国」を宣べ伝え続けたという記述で締めくくっています(使徒28:31)。

 神の国の「国」という言葉は、「バシレイア」というギリシャ語の翻訳ですが、その第一義的な意味は「王の支配」でした。そこから支配の及ぶ範囲、すなわち王国という第二義的な意味が出て来たものです。ところが、ここ350年ほど英語圏の教会に最も大きな影響を与えて来たキング・ジェームス(欽定)訳が、これを「kingdom」と訳しているところから、英語圏の教会の宣教地となった多くの土地の聖書も、これに倣って、それぞれの言葉で「国」の意味に訳して来たという経緯があって、日本語聖書もまた「神の国」と訳しています。キング・ジェームス訳が世に出た1600年代の英語では、「kingdom」の第一義的意味は「王の支配」であって、「王国」は第二義的意味に過ぎませんでした。ですから、キング・ジェームス訳が「バシレイア」を「kingdom」と翻訳したのは正しかったのです。ところが時代が移ると共に、英語の意味の第一義と第二義が入れ替わり、英語圏の教会が世界宣教で大きな役割を果たすようになった1800年代には、「支配」が「国」と理解されるようになっていたのです。ですから現在、英語圏の教会の宣教地という歴史を持って来た多くの土地の聖書が、キング・ジェームス訳に倣って「神の国」と訳しているところは、「神の支配」と理解し直されるべきものです。

 また、「天国」あるいは「御国」という言葉も、実質的に、神の国とまったく同じ意味です。ユダヤ人は神と言う言葉を口から出すことさえ恐れ多いと考えて、一般に天という言葉を代用していました。ですから、ユダヤ人に宛てて書かれたと言われるマタイの福音書では、他の福音書が「神の国」と言っているところも、ほとんどの場合「天国」あるいは「御国」となっています。

 聖書の教える「神の支配」の概念は非常に奥深く、ここで論じ尽くすことが出来るものではありませんが、現在の論を進めるに当たって必要な、最低限度の説明をしておきましょう。神は時と空間を越えた絶対の存在者であり創造者です。従って、すべてのものは神の支配の下にあるのです。しかし、人間の罪のために、「この世」という人間の住む次元あるいは範囲が、「この代」という一時的な期間に限って、直接的には「悪魔の支配」の下に入ってしまいました。罪のために命の源である神から離れ、霊的には命を失ってしまった人間は、「死人」として(エペ2:1、5)、この悪魔の支配の下で人間の社会を築き、文化を創り上げてきました。しかし神は、この命を失った人間を愛し、悪魔の支配から開放して再び命を与えるために、ご自分の支配をこの世とこの代に及ぼそうとしてくださいました。

 神の支配には「今すでに」と言う一面と、「やがて必ず」という一面があります。つまり、神の支配は「すでに到来していて今ここにあるのだ」という面と、主が約束してくださったこととして「やがて必ず到来するのだ」という面があるのです。キリストが「神の支配は近づいた」とおっしゃったとき、遠くから少しずつ近付きつつあるということではなく、今、もうここに来ているのだという切迫感のある意味で宣言されたのです。ですから、キリストが「神の指」あるいは「聖霊の力」によって悪霊どもを追い出し、病を癒しておられたという事実が、神の支配が到来しているという現実を示しているものだったのです(マタ12:28、ルカ11:20)。しかしながら、その一方で、キリストのお言葉もまた弟子たちの記述も、神の支配はやがて来るべきものとして表現しています。また、神の支配が来るようにと祈ることが勧められているのです。

 このような二重性は、神の支配に関わるすべてのことでも同様です。すなわち、私たちはすでに救われていますが、やがて現される救いを待ち望んでいます。すでに贖われていますが、贖いの日を期待しています。もうすでに神の子ですが、やがて神の子とされることを願っています。すでに神の支配に入っているのですが、神の支配に入れられることを夢にまで見ています。つまり神の支配は、今、私たちが現実に体験するものでありながら、やがて現されるものなのです。すでに到来したにもかかわらず、まだ、待ち続けるものなのです。

 言い換えるならば、今の私たちは、「聖霊の証印」すなわち「聖霊の手付金」あるいは「聖霊の保証金」としての神の支配、「前味」としての神の支配、「初穂」としての神の支配を体験しているのです。私たちがすでに神の支配の中に入れられている事実は、私たちの内に住み、私たちを生かしてくださっている聖霊のお働きによって、毎日具体的に明らかにされています。私たちはいまや罪の奴隷ではなく、義の奴隷として、神に仕える者として生きています。神の支配の力が、日常生活のあらゆるところに現され、私たちは日々新たに造り変えられています。神の支配と言う新しい次元に入れられ、すべてが新しくされた者として生きています(IIコリ5:17)。

 私たちが今の世界で経験する神の支配はこのように素晴らしいものです。しかしこの世で経験する神の支配は、神の支配のすべてでは有りません。私たちがこの世で経験する神の支配は間違いなく神の支配そのものでありながら、神の支配のすべてではないのです。それはやがて現される完全な神の支配のごく一部に過ぎないのです。ですから今の神の支配の素晴らしさに酔って、満足していてはならないのです。もっと素晴らしい、完全な神の支配が現されるからです。自分の中に現された神の支配、すなわち、古い罪の奴隷の生活から新しい義の奴隷の生活に変えられた現実は、本当に素敵な体験です。また体験した肉体の癒しも神の支配の現われで、みんなに証して聞かせたい体験です。しかしそれで満足し、納得してしまってはならないのです。なぜなら、罪からの完全な開放、病からの完全な開放は、来るべき神の支配において実現されるものだからです。今の体験は、たとえどんなに興奮させられるものであっても、手付金に過ぎず、前味に過ぎず。初穂に過ぎないからです。神は、やがて現される完全な神の支配がどのように栄光に富んだものであるかを、このような方法で私たちに示して、励ましていてくださるのです。

 主イエスの十字架によって、すでに悪魔は打ち破られています。悪魔の支配は終わりを宣告されているのです。しかし、悪魔の力はまだ残っています。この世この代におけるその支配も、まだ完全な終わり迎えてはいないのです。悪あがきがまだ続いているのです。私たちはこの悪あがきと戦っているのです。そしてそこここで、悪魔とその手下どもにしてやられることもあるでしょう。ただし、主イエスにある限り、私たちは決して悪魔に負けることなく、圧倒的な勝利者となるのです。勝利者イエスは悪魔を完全に打ち破り、永遠の牢獄に閉じ込め、その力と影響力を、私たちの周囲からことごとく拭い去ってくださるのです。そのときに、完全な神の支配が私たちの世界にも打ち立てられるのです。

 ですから、現在の私たちが体験している神の支配は、悪魔の支配を侵略しつつある神の支配です。最後のあがきでたけり狂っている悪魔の支配を打ち破りながら、神の支配が福音を武器として押し寄せているのです。教会は、神の支配の権威をもって福音を語り、蘇りのキリストのみ名によって悪霊を追い出し、病を癒すことによって悪魔の支配を侵略し、あたかも漁師が魚を捕獲するように、魂を神の支配の中に捕獲することによって、神も支配を広げて行きます。福音を宣べ伝えるクリスチャンたちは、ただそれだけで神の支配の強力な兵士であり、教会はこの兵士たちの共同体として、神の支配の軍隊なのです。神の支配の兵士たちに福音以外の攻撃兵器は不要でした。他に必要だったのは、パウロがエペソ書で挙げている防御用の武具だけでした。神はこのような微力な者を神の支配の軍隊とされたのです。このように現在の私たちの世界は、神の支配と悪魔の支配との戦いの場なのです。

 そして、やがて悪魔とその手下どもが完全に滅ぼされ、その影響力が払拭され、完全な神の支配が固く打ち立てられるのです。そこにおいては、神の義が燦然と輝き、神の愛がすべてを覆うことになります。神のシャロームがすべてのものを満たすことになります。もはや死もなく、悲しみもなく、痛みも涙もない世界、神が人と共に住んでくださる世界が出現するのです。私たちは、今体験できる救いを通し、癒しを通し、この神の支配を僅かながらも味わい、味わうごとに、この神の支配を想うのです。

 教会とは、この現在における神の支配を体験し、やがて来る神の支配を待望する人々の共同体です。ただ個人的に神の支配を体験した者たちが集まるだけではなく、その集まりの中、その人間関係の中に、やがて現される神の支配の本質が遺憾なく発揮される、神の支配の共同体なのです。神の救いに与った者はすべて、神の支配すなわち神の支配に召されたものであり、教会とは神の支配の中に召されたものたちが構成する共同体なのです。そこには神の公義が現され、神の愛が豊かに宿り、ひとりひとりが信仰を通していただいた新たな命によって、神の御心にかなった従順な生き方をしようと努力するのです。

 この世はまだ悪魔の支配の中にあります。ところが教会は、この世の中に存在しながらこの世に属さず、神の支配の中にあり、神の支配を明らか表現し宣言しながら神の支配を広げているのです。教会はやがて完全に現される神の支配を、不完全ながらまた部分的ではありながら、紛れもない正真正銘の神の支配を、ひとりひとりの構成員の生活の中に、また、共同体としての教会の人間関係の中に、具体的に現実のものとして体験して行くのです。教会は聖霊の宮と呼ばれるほど、神との豊かで深い親密な交わりを喜ぶことが出来ますが、それは「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住んでくださる」、「やがての神の支配」の前味です。今、キリストの命が教会を生かして有機的共同体としてくださっていますが、それはやがていただく完全な命の保証です。人生が変えられ、肉体が癒され、喜びと愛に満たされるのは、やがて神さまご自身が私たちの目から涙を完全に拭い去ってくださることの初穂です。そして教会は、やがてまったく作り変えられてキリストご自身のみ姿に似る者とされ、互いに完全な愛をもって愛し合います。そしてそのときを目指しながら今生きている教会は、愛によって救われた体験と、内に住んでくださる聖霊の励ましによって、愛することが出来るようになっているという事実によって、互いに愛するようになって行きます。完全な神の支配を、悪魔の支配するこの世にありながら、先取りして行くのです。教会は、新たな愛の模範であるキリストの贖いの愛を体験し、愛することが出来る新たな力を聖霊の交わりを通していただき、互いに愛し合う共同体として、この世にあって神の支配を体現して行くのです。

 すでに述べたように、教会は神の支配そのものではありません。神の支配は教会よりももっと大きな、また、もっと奥行きのあるものです。ただ教会はこの世に有って、神の支配を現実の存在として示し、体験し続けるものです。神の支配は福音を通してこの世で力を示して行きます。神の支配は言葉ではなく力です。しかし、神の支配はそれで留まることなく、この世において神の支配の共同体を作り、その人間社会の中に支配を実現するのです。教会はやがて現される神の支配を、今の世界で体現するものです。その中ではやがて現される神の支配の、あらゆる性質と性格が現されて行くものなのです。

 教会は、自らが神の支配の共同体であることを自覚し、「支配をきたらせたまえ」という祈りを、さらに熱心に奉げ、その祈りに合致した生活をして行くようになるべきです。キリストが「まず、神の支配と神の義を求めなさい」とお教えになったとき、「神の支配」と「神の義」という二つの異なったもの、あるいは二つの類似したものを求めなさいとおっしゃったのではなく、ひとつのもの、すなわち、神の義の現われである神の支配を求めなさいとおっしゃったのです。私たちは、教会の中に神の愛の支配が現われることを望み願うと共に、義の支配が行われるようにと熱心に求め、自らが愛と義を実行すべきなのです。他者が愛と義を実行することを願うのではなく、自らが実行して行くことが出来るように祈りながら、実行して行くべきなのです。

 私たちは、自分が所属する地域教会や、教団などと呼ばれるさらに広い有機的教会が、果たして、このような神の支配の体現として存在しているかどうか、深く考えてみる必要があります。教会の政治、教区の話し合い、教団の運営などに、この神の支配の性質が現されているでしょうか。キリストが愛してくださったような愛が現されているでしょうか。神の正義が具体的に反映れているでしょうか。まだまだ日本的な、「物言えば唇寒し」、「寄らば大樹の陰」、「臭いものには蓋」の文化習慣が堅持され、愛と正義が隅に押しやられたままの、結局、強いものが得をする共同体ではないでしょうか。

 日本人は会議などであまり発言しないことで有名です。よく言えば、日本人は先ず聞くことから始めようとする落ち着きと謙遜を持っているのですが、実際は、多くの場合、自分の意見や考えを隠していて、先ず他人の意見を聞いて誰がどのような考えを持っているか判断し、その他人の意見に衝突しないように自分を偽り、正義を曲げ、あわよくば「大樹の陰」に寄ろうとするのです。そこまでは行かなくても、人間関係を重んじるあまり、真実や事実をないがしろにしてまでも、他人に迎合しようとしているのです。このようなことが、それを行っている本人たちを始め、誰にも気付かれずに教会の中で行われて行く限り、日本の神の支配の共同体は、神の支配の名に恥じるもので有り続けるでしょう。

 私がこれまでに見聞きした色々な教会の中で、最もユニークなもののひとつが、さきにも触れたフィリピンのモンテンルパ刑務所にある、マキシムム・セキュリティー・のエリアの中の教会です。この教会は、教会とは呼ばれずに「聖書学校」と呼ばれていましたが、実態はむしろ聖書を教えることを強く打ち出した、刑務所内の教会でした。

 あるとき私が訪ねますと、ちょうど礼拝会の真最中で、広い舞台の上で、何人もの男たちが手をつなぎながら歌い、踊っていました。おかしなことですが、フィリピンでは、仲の良い男同士が手をつなぐことは普通ですし、教会の中では時折こんなことが起こります。35度をかなり超えると思われる気温が、椰子の葉で葺いた屋根の「聖書学校」に入った途端に、5度は上がったのではないかと感じたほど熱烈な礼拝会です。一列に手をつないで、賛美に夢中になっている男たちの真ん中の二人の姿を見たとき、私は不覚にも涙をこぼしそうになりました。片方の男はこの刑務所で一番大きな、「バハラナ」という名のギャング集団のボス で、500人ほどの子分を抱えていた男です。もう一人は二番目に大きな集団のボスで、やはり数百人の子分を支配していました。この二つの集団が刑務所の中で抗争をくり返し、多くの血が流され、数え切れないほどの命が失われてきました。M16で武装して、高い物見やぐらの上から監視している刑務官たちの重要な仕事のひとつは、この二つの集団が広い刑務所の敷地の中でかち合わせをして、抗争に発展しないように上手に動かすことでした。そんな二人が、今、神の支配に招き入れられて、神の支配を体験し、手をつなぎあって共に力いっぱい神を賛美しているのです。神の愛と神の義が彼らの生活を取りまとめ、まったく新しい人間関係を作り上げたのです。彼らが共に神の召しに与って、キリストの血による兄弟となってからというもの、刑務所全体がとても穏やかな場所となってしまいました。血が流されることがずっと少なくなり、命が失われることも、滅多になくなってしまったのです。


  「バハラナ」とはタガログ語で「なるようになるさ」と言うほどの意。

 釈放された手下たちを使って、刑務所の中から娑婆の犯罪組織にまで力を及ぼしていたバハラナのボスは、6歳のときにストリート・キッドになり、16歳で逮捕されるまでありとあらゆる犯罪に手を染めてきました。彼自身の言葉によると、「犯罪の名前を挙げてみなさい。自分は、それらのすべてをやってきた。殺した人間の数も覚えていない。ただし、婦女暴行だけは例外だ。おれはいまだに童貞だよ」と言うことでした。彼が受けた判決は三重死刑と300年の禁固刑という、日本ではありえないものです。そして、刑務所の中でもたちまち悪の頭角を現し、大ボスになったのです。私が会った時の彼は、すでに40歳を少し越えていました。その間、彼は、やはり自分でも覚えていないだけの囚人たちを殺し、刑務官までも殺していました。官憲が彼を処刑するのを恐れたために、彼は死刑の執行を免れていたのです。彼を死刑にすると返って刑務所内の統率が取れなくなって、大混乱に陥ると考えられたわけです。

 私たちが刑務所内に入るときは厳重な警護が付きました。M16を脇に抱えた刑務官が7,8人、私たちを取り巻いて移動するのです。平和になったとは言え、まだまだとても恐ろしいところでした。刑務所を訪ねてきた人たちが、人質になることもありました。しかし、ひとたび「聖書学校」に入ると、そこは神の支配が如実に現われる、まったく異なった世界でした。救われた喜びと感謝、互いに罪を告白し赦し合った平安、同じ主を神と仰ぐ一体感が、集まっていた200人を越える数の人々を覆っていたのです。ボスと手下の関係、拮抗する力と力の関係、恐怖と憎しみの関係が、キリストの愛に触れて兄弟の関係に変わってしまったのです。M16を所在なさそうに抱えて遠巻きにしている刑務官たちを尻目に、私たちは刑務所の中で、神の支配を体験していたのです。教会とは神の支配共同体です。

 バハラナ・ギャングのボスはその後特別に仮出獄が認められ、さらに恩赦、特赦が加えられ、ついに釈放されて、今は「娑婆の聖書学校」も出て、牧師として働いています。彼のモンテンルパの生活はちょうど30年間でした。彼の人生の中に明確に現われた神の国、モンテンルパの教会を力強く治めていた神の支配が、政府の高官たちも動かし、彼を釈放させたのです。

G.公義の共同体

 教会は神の義が公に現される場です。それはまず、教会は新生を経験し、神の霊である聖霊、すなわち聖い霊を内に宿している人々の共同体であり、その聖い霊の力に支配されることを良しとした人々の集まりです。悪魔の支配の中にいて神に敵対して生きている、一度誕生しただけの人ではなく、二度目の誕生を経験し、神の新たな命を与えられ、一般に神の国と呼ばれる神の支配の中に入れられ、神のみ心を行うことが出来る力を付与されている人たちの集団です。実際、公議の共同体という教会の性質は、和解の共同体や愛の共同体と共に、神の国の共同体と言う概念の中で論じられるべきものかも知れませんが、一応、分けて論じてみます。

 「聖」という神の性質は「正義」という行為を生み出します。神の聖が支配するところは、神の正義が現れるところです。聖い神が支配しておられる人々が形成する共同体は、共同体として、聖い神の正義の支配の中にいます。そして神が支配する神の国は、神の正義が公にされる場、すなわち神の公義の場でもあります。ですから、キリストが「まず神の国と神の義を求めなさい」とおっしゃったときの、神の国と神の義とは同義語であり、実はひとつのリアリティ、事実なのです。

 クリスチャンとは、すでに述べたように、神の国に召し入れられた者です。神の支配の中に入れられたという霊的事実は、聖霊の内住によって様々な可視的事実として現されますが、中でも、人間関係の中で正義が公に行われるというのが、もっとも顕著な現われのひとつです。教会こそ、やがて現される完全な神の支配の、「聖霊の初穂」として(ロマ8:23)、神の義が実現すべき場なのです。

 では、教会が義の共同体として神の義を現すとは、具体的にどういうことでしょう。まずそれは、教会全体が神の聖さと正しさを理解するところから始まります。神が絶対に聖い方であり絶対に妥協なく正義を求める方であることは、キリストの十字架によってもっとも明確に現されています。キリストの十字架を自分の罪との関わりにおいて理解しているクリスチャンは、誰でも、この神の聖さと正しさを理解できる素地を持っています。この神の聖さと正しさが、教会の人間関係のすべての局面を支配すべきだということが解るはずです。しかも、その聖さと正しさは、常に、愛という神のもうひとつの性質との関係の中で、現されるものです。神が絶対の聖さだけの神ならば、罪ある人間を滅ぼすだけで事足り、十字架は不要だったことでしょう。神が完全な愛だけの神ならば、罪ある人間を許して受け入れれば事足り、十字架は不要だったことでしょう。

 神の聖さと正しさを理解したならば、神の子たちの共同体がどうあるべきかということも、ある程度理解できます。神の徹底した聖さと正しさを反映した共同体が教会であり、その中では、正義が公にされなければなりません。クリスチャンひとりひとりは、自分の損得や都合を先に発たせずに、常に何が善であり正しいことかを考えて、判断し、行動するように成長しなければなりません。特に、指導的な立場にある者は、常に神の正しさを身に帯びる者であるべきです。少なくてもそのように努力する者でなければなりません。

 ところが、一般に見る教会はこの点においてもまだまだ弱さを抱えています。多くの場合、そこには文化的な問題が絡んでいます。言い換えると、日本の教会には、日本の教会独特の弱さがあり、アメリカの教会にはアメリカ独特の弱さがあるということです。また、フィリピンの教会にはまさにフィリピンらしい弱さがあります。あくまでも一般的な言い方ですが、フィイリピンの教会の集会で、たとえば、ベンチの上に財布を置き忘れると、先ず間違いなく、たとえあわてて取りに戻ったとしても、なくなってしまいます。時計でもカメラでも、置いておくとすぐ消えてしまいます。フィリピンの私たちの教団の総理が日本の教会を訪れたとき、みんな教会の玄関に靴を残し、傘を残し、コートまでも残して会堂に入るのを見て、「フィリピンで同じことをしたら、全部なくなってしまう」と驚いていました。なんでも置きっぱなしにする癖のある私の妻は、しょっちゅう会堂の中で物をなくしていました。フィリピンではこれが当たり前なのです。

 さらに、多くの開発途上国では同じような傾向がありますが、特にフィリピンでは、極端に現れる問題にネポティズム(親族重用主義・血縁主義)があります。文化においては多様なフィリピンではありますが、一般に共通しているものに家族・親族を何よりも大切にするということです。大げさではなく、親や兄弟、さらには親戚たちを助けるためならば、どんなに悪いことをしても、文化的には許されるのです。多くの貧しい家族の中から、年上の女の子は日本に身を売って、いわゆる「ジャパユキさん」になります。政治家は自分の周りの仕事をみんな家族や親族に分け与え、お手盛りをし、賄賂を取り、横領をします。新聞が彼らを告発し、裁判所も彼らを有罪とします。しかし社会は彼らを許します。彼らが家族や親族を助けることは当然であり、社会的には悪いことをしていないからです。ですから、次の選挙ではまた当選します。しかしもしネポティズムをせず公平なことを行うと、彼は社会的に嘲笑され、最も悪い人間になってしまうのです。そしてこのような考えと習慣が、そのまま、教会の中にも入り込み、家族・親族による不当な教会の支配や不公平が、平気で行われるようになるのです。

 アメリカの宣教師たちは、このようなフィリピンの教会の現状を見て嘆き続けていていました。ところがそのアメリカの教会では、繁栄の福音というのが流行ったことがあります。神様を信じたならば、神様があらゆる面で祝福してくださるのだから、豊かな生活が出来るようになるのが本物のクリスチャンであると、だから我々はすべからく豊かに生きるべきだと、神の名をもって贅沢さを求めました。その結果、世界中の貧しい国の人々がどれほど犠牲になっているかなどということは、考えてみるほどの余裕さえありませんでした。彼らのほとんどは、自分たちがむさぼりという偶像礼拝の罪を犯していることには、まったく気が付かなかったのです(コロ3:5)。やれ通商条約だWTOだと、経済力と軍事力を肩に着て自分たちに都合の良い規則を作り、開発途上国や弱小諸国に無理難題を押し付ける、先進諸国の多くのクリスチャンが少しの良心の痛みも感じていないのです。儲け第一、自分の幸せ第一の、現代資本主義の武器となっているグローバリズムを、道徳的には白も黒もないとしか考えられないほど、ちょっと自分に有利なことが、他人を大きく苦しめることになっているという事実にまったく気が付かないほど、善と悪に無感覚になっているのです。フィリピン人クリスチャンが財布ひとつ盗むより、あるいはネポティズムで家族・親族を助けるよりさらに大きな罪です。その罪の最たる繁栄の福音を福音であると言いくるめて、金持ち国家のクリスチャンたちに搾取され続けている、貧しい国家の一般の人々にまで宣伝していたのです。

 では、日本の教会はどうなのでしょう。すでに触れたように、「臭いものには蓋をしろ」、「長いものには巻かれろ」、「見ざる聞かざる言わざる」、「出る杭は打たれる」、「寄らば大樹の陰」、「物言わば唇寒し」、「物言わざるは腹ふくるる業なり、穴を掘りて言い入りはべりけめ」などという、「日本文化と言う名の悪魔の支配」が、まかり通っていないでしょうか。その結果、弱いものが無視されることにはなっていないでしょうか。力のある者の横暴が、見過ごしにされていないでしょうか。正しいことを正しいと言わなくなったこと、「はい」を「はい」と言わなくなり、「いいえ」を「いいえ」と言わなくなったことが、「大人になった証拠である」と考えられるようなことが、こともあろうに、教会の中でも常識化しているのではないでしょうか。

 他人を思いやると言う名目の影で、過ちや間違い、あるいは犯罪さえ隠蔽してしまう日本人の感覚が、教会の中にも侵入しています。日本では、たとえば癌の告知をするのは可哀そうだと言って隠そうとします。アメリカあたりでは、神の前に生きる人間として、あるいは一個の確立された人間として、人間は自分の責任で事実に直面しなければならないと考えられています。ですから、病名を告げるのが当然であり、告げられないのは、基本的人権のひとつである知る権利を無視されたことになるのです。このようないとも簡単な原則が、日本では思いやりと言う甘やかせで、曖昧にされてしまうのです。そのような意識が、また簡単に社会的犯罪の隠蔽、たとえば、会社の悪事や警察の悪事の隠蔽につながるのです。この事実を公にすると、多くの人間に迷惑がかかるから隠しておこうという、言い訳が正当化されるのです。

 日本の国会は、会社や公共機関の悪事の隠蔽を少なくするために、内部告発をしやすくしようと法改正を行いました。ところがいざ蓋を開けてみると、以前よりますます内部告発がし難い仕組みに改悪されていました。  日本では、多くの人々に悪影響を与えるからと、犯罪を隠しておくことのほうが、その犯罪を内部告発するよりも、良いことなのです。日本においては、内部告発は最も悪質な犯罪なのです。日本の法律では昔も今も、内部告発をした人は絶対に報われず、社会的制裁を受ける仕組みになっています。そしてそのような感覚が、秘かに教会の中に紛れ込み、教会が公義の共同体としての本質を失うほどになっているのです。


   2004年の通常国会での内部告発法改正。

 このように、何が正義であるかを判断するのは難しいことです。教会の中でも文化的な背景でこれほど違うのです。それぞれ自分の欠点に気付くことは、なかなか出来ないのです。また、加害者側の人間は、自ら、自分が加害者であることに気付くことは滅多にありません。ほとんどの場合、被害者側の人間が大声で泣き、叫び、訴え、抗議し、戦って、やっと少し理解してもらえるのです。加害者が被害者より先に加害の事実に気付くことが大切なのですが、残念ながら、使徒の働きに記されているエルサレムの教会でさえも、先に気付いたのは被害者側の人たちであったようです(使徒6:1)。このようなことから、教会の中には、弱い者の弱さを理解する強い人、傷つく者の痛さを感じる健康な人が、賜物として必要になってきます。弱い者の弱さを担うということは、単に愛の問題だけではなく、正義の問題にも関わっているのです。

 パウロは、教会内の人間関係のいざこざは、教会内で解決すべきであると勧めています。また、教会にはそのようにする能力があるはずであると論じています(Iコリ6:1−8)。本来義の共同体である教会が、正義の問題を自分で解決出来ずに、教会の外に持ち出して裁判を求めること自体が、その当事者たちを始めとして教会の敗北だということです。キリストも、不完全な人間によって構成される教会には、そのような紛争が必ず起こることを予測してか、教会としてそれにどのように対処すべきか、極めて原則的なことを示しています(マタ18:15−18)。判断の前に複数の承認の声を聞くというキリストの教えは、旧約聖書の教えと同じですが、判断が公正に行われるように、すなわち公義が行われるようにという配慮によるものです。

 教会の中でのすべての紛争を教会内で解決するということは、現実問題として不可能かも知れません。しかしここでパウロは、単に表面上の公義を求めることよりさらに高い教会の倫理を示しているのです。パウロはまず、互いに正義を主張し合うことの間違いを指摘しています。教会が義の共同体であるということは、構成するすべてのクリスチャンが、自分の義を主張し合うことではありません。自分が絶対正しいと抗弁することではないのです。パウロが示したより高い倫理は、訴えられたならば訴えられたままにしておくということです。抗弁しない。自己弁護しない。自己の正しさを主張しない。自己の正当性をあげつらわない。自己の権利を擁護しないということです。それをすることが敗北なのです。

 正しい者が正しさを主張しない共同体が教会だとすると、教会は不正の共同体になるのではないかと、いぶかる人がいるかもしれません。しかし、どうやら教会の正義は、正しい人が自分の正しさを主張して成り立つのではなく、共同体として、全員が正しいことを求めて歩くことによって成り立つようです。互いに厳しく罪を指摘し、裁き合い責め合うのではなく、互いに罪を痛み合い、共同体として励まし合い共にその罪を克服して行くべきものです。他人の目にある塵を取り除くことに熱心になるのではなく、自分の目にある梁を取り除いてもらおうと、一所懸命になることです。他人の食べ物や着物、生活態度の違いに目くじらを立てるのではなく、互いに兄弟姉妹としての自由を尊重し、受け入れ合って行くことです。訴えられても争わない態度、損をするのならば損をしてもかまわないという態度は、神がすべてを知り、正しく裁き、正しく報いてくださるという、厳しくも大らかな信仰から来るのです。このように考えると、教会が義の共同体であるということは、自分の権利を主張しあう共同体ではなく、互いに自分以外の者の権利を尊重しあう共同体であることがわかります。

 ですから、教会の義というものは常に愛と関わりを持つものです。共同体として公平に義が行き渡らなければならないと考えるのは、取りも直さず、すべての者を愛するということでもあるのです。義が愛の後ろ盾を持たないまま歩き出すと、ただ、死をもたらすだけです。愛があってこそ義は生きるのです。神がお求めになるのは犠牲ではなく哀れみです。義を遂行するために愛を犠牲にしてはなりません。愛を追求するあまり、義をないがしろにしてもなりません。教会は、時にはその構成員に対し厳しい処分をしなければならないこともあるでしょう。しかしそこにおいても大切なのは、愛を持って行うということです。パウロも厳しい処分をしなければならなかったことがあったようです。しかし彼の処分の動機には、処分される当人に対する愛と、共同体としての教会に対する愛が含まれていたのです(Iコリ5:5、Iテモ19−20、IIテモ2:16−18)。

 だいぶ昔の事になりますが、私は自分が責任を持っている教会の信徒のひとりを、どうしても教会から追放しなければならないような状況に、追い込まれた事があります。教会全体がずいぶん痛みましたし、責任者の私もとても悲しく、苦しみ続けました。そしてついに、祈りの中で自問自答させられました。「お前は彼を憎んでいるから、嫌っているから、処分しようと思っているのではないか? お前は彼を愛しているか? お前は彼のために命を捨てることが出来るか?」 長い葛藤の後に私は、「自分は、彼の救いのためならば、命を捨ててもかまわない」と、答えることができるようになりました。そこで私は彼を教会から追放する決心をしたのです。ただ、感謝なことに、彼はその直後悔い改めて、素直に神様に立ち返ったために、処分を実行するには至らなかったのですが、当時の私なりに到達した愛のあり方でした。

 もうひとつ、ここで考えなければならない大切な問題は、教会は部外者に対して義を主張して行く共同体かということです。社会の悪に向かって、声高に義を叫ぶ共同体かということです。教会があたかも旧約聖書の義の預言者であるかのように考えて、社会の悪に向かって大胆に叫ばなければならないと説く人たちがいます。しかし、この人たちは聖書の理解に立ってそのように主張しているのではなく、自分の立場や主義主張を聖書によって正当化しようとしているに過ぎないのです。聖書には彼らの主張の根拠がないからです。新約聖書は、教会が福音宣教以外の目的で、外の社会に声を上げるべきだとは教えていません。旧約の預言者たちも、あくまでもイスラエルという代行神聖政治社会に向けて語ったのであり、たとえ、他の国に対しての預言であったとしても、イスラエルとの関係の中で語られているに過ぎません。それなのに、教会が外に向けて義を叫ばなければならないと主張するのは誤っています。社会問題に関する彼らの考え方は正しいかもしれないし、間違っているかも知れないのです。なぜなら教会は、外部の人を裁くほどの能力を与えられていないからです。教会は、何が正しく何が誤っているかと言うことに関して、原則的な判断は出来ます。しかし複雑な社会の複雑な問題の正邪を正しく判断するのは、教会の能力を超えています。パウロははっきりと、「外部の者を裁くのは私たちのすることではない」と教えています(Iコリ5:12−13)。

 実際、先にも述べたように、教会の善悪の判断は、聖書があるにもかかわらず、非常に文化に影響され、世界中の教会が一致して善悪の判断など出来るはずがないのです。教会内の事柄でも一致出来ない教会が、どうして世俗の問題で一致出来るでしょうか。戦争が起こると、アメリカの教会の大部分はアメリカが正しいと思い、フランスの教会の大部分がフランスは正しいと判断し、日本の教会も日本の行為は正当だということでしょう。教会にできることは、謙虚に、「私には解りません」と言うことです。そして、原則的に正しい事のために祈ることです。世界に正義が行われますように、平和が来ますようにと。  

 また教会が、自分の考えは聖書に基づいているから正しいと考えたとすると、そこに大きな落とし穴があります。福音派や正統派に属する人々は、ともすれば、自分たちは聖書の教えをそのまま信じ受け容れているのだから、自分たちの主張は聖書の主張だと考えてしまう傾向を持っています。一見、社会派の人々が聖書の中に自分たちの考え方を読み込んでいるのと、反対のように見えます。しかし、問題は類似しています。福音派や正統派の人々も、聖書の教えている事を信じているのではなく、自分が理解した聖書を信じ、それを絶対の神の言葉と信じているのです。聖書は絶対の神のみ言葉であり、誤りのない指針ですが、それを読む人々、それを解釈する人々の、読み方、解釈の仕方は必ずしも正しいとは限らないからです。ですから、福音派や正統派の人々は、自分たちの見解が聖書の教えとは異なっている可能性があるにもかかわらず、それに気付かず、あたかも絶対に正しい聖書の主張のように語り、他のすべての見解を絶対に誤っていると糾弾するところに、間違いがあるのです。そのような間違いを犯す教会の正義は、外部の悪と戦うことによっては示されません。教会は正しいと思うことを他者に向けるのではなく、教会内部に向けなければなりません。また、ひとりひとりのクリスチャンは、自ら正しいと信じるところを他のクリスチャンに強要するのではなく、それを持って、自らを治めるべきなのです。教会の正義は、悪に手向かわず、悪に対して悪を持って報いないところに現されるのです。教会の正義は社会の悪と戦うことによってではなく、社会の悪になじまないことによって悪に勝利をするのです。パウロが悪魔の策略に対して立ち向かうことを教えた時、彼が列挙した神の武具はみな防御用の武具であり、攻撃用の武具はひとつもなかったことに、もう一度注意をしたいものです(エペ6:10−17)。

 パウロの時代の、たとえば奴隷制度、たとえば男女差別、たとえば植民地政策に対して、パウロは抗議運動を組織したり啓蒙運動を起こしたりはしませんでした。教会は一般社会の悪に対して、糾弾したり断罪したりしていないのです。しかし、パウロの建てた教会は、その公義と愛の精神によって、そのようなものの最も手強い敵となっていたのです。ピレモンは、自分のところから逃亡した奴隷のオネシモを、キリストのゆえに、大切な兄弟として迎えたことでしょう。女性たちは、基本的に当時の社会の習慣に従って生きるように教えられながら、男性と変わりなく尊いものであるということを教えられました。ローマの圧制に対しては反乱を企てたことがないばかりか、為政者のために祈りながら、彼らの強制する悪には親しまず、自らを正義と愛で律して行きました。教会の正義は浸透して行く正義で、上から強制したり押しつけたりする正義ではないのです。これまで教会は、しばしば外部の悪に向かって面と向かって戦うことによって、自ら悪となり果て、悪に飲み込まれてきました。それが、教会の歴史の悲しむべき事実です。教会がすべての善悪をわきまえて、裁くことが出来るようになるのは今のこの世ではなく、後の世に属することだからです(Iコリ6:2−3)。

H.共通目的の共同体

 教会は同じ神の召しに与り、同じ救い主キリストの血潮の贖いを受け、同じ聖霊のバプテスマによって、キリストのみ体である教会に連なるようにされた者の共同体です。その根源においてひとつです。教会はその中でキリストの命を共有し、互いに愛し合いながら共に成長します。しかし、教会は相互愛、相互支援の互助団体ではありません。教会は外部に対する働きをも共有するものです。外部の人々に対する責任を持ち、外部の人々のために犠牲を払うものです。

 すでに述べたように、教会は宣教という使命を与えられて、この世に遣わされています。教会の外部に対する働きである宣教こそが、教会がこの世界に存在しなければならない理由、存在目的です。教会は共同体であり、宣教の使命は共同体としての教会に与えられたのですから、教会は、教会全体としてこの目的を共有しているのです。宣教は教会の中の特殊な人々、特別に選ばれた人間、少数のエリートの仕事ではありません。教会を構成するすべての信徒の共有の仕事であり、共同の目的です。この世に対してすでに死に、神の国に生まれ変わって神の国の国籍を持ち、朽ちない栄光の神の国を相続するにふさわしくなるために、朽ちない肉体とキリストのみ姿に似る者とされるという、素晴らしい約束をいただいている者が、依然として悪魔の支配するこの世に留まらなければならない理由は、この世に死んでいる者たちに命をもたらすためなのです。

 この世こそ、神が死者たちに命を与える、救いの場です。この代こそ、神が罪人の救いのために設けておられる恵みの時、救いの日なのです。罪のために命の源である神から断たれ、動物的な生物学上の命しか持っていない人間が、本来の人間としての命を再び与えていただけるのは、今の時代のこの世界以外にはないのです。だから教会はこの世に留まります。教会はあの世である神の国に属します。また、やがて来る代のみ国に属する者です。しかし、その教会が自らの不完全さに泣きながらこの世に生き働くのは、この世が、刈り入れ場であり、漁場だからです(マルコ12:1−12、マタイ4:19)。自らの弱さに痛みうめきながらこの代に生活するのは、この代が完全な闇の代が来る前の、光のある間だからです(ヨハネ12:36)。

 そういう訳で、教会はこの時代のこの世界に存在する、神の救いのエイジェント(代理)です。神の救いをもたらすために働く、人々の集団、共同体です。そしてその共同体を構成するひとりひとりが、神の救いを体験しているのです。神が教会をご自分のエイジェントとしてお立てになったのは、教会が人々と同じ痛みを持っていた者たちであり、現在もまた同じように痛みながら生きているからです。

 教会は共同体として、宣教をこの世における自分の存在目的として働きます。しかしそれは、教会に所属するすべての信徒が、直接宣教の働きに関わるという意味ではありません。教会の中には非常に多くの種類の人々がいます。説教や司会といった目立つ仕事に向いている人もいれば、掃除だとか方付けだとかに向いている人もいます。路傍に立って伝道するのが得意な人もいれば、じっと病院で付き添うのが上手な人もいます。お話は下手でお話にならないけれど、とりなしのお祈りだったら何時間でもじっくり座り続けることが出来る人もいます。指導力はないけれど地道な補佐的な仕事なら、非常に信頼出来る人もいます。扇動者的なことには向いているけれど、しっかりとして計画性のある仕事には合わない人もいます。教会には実に雑多な背景と資質と能力を持った人々が集まります。みな、神が召してくださるのです。神は、お召しになったこれらの多種多様な資質と性質と背景を持った人々を、改めて賜物として教会にお与えになったのです。

 さらに、これらの人々が持っている様々な能力もまた、聖霊の賜物であると言われています。人々が賜物であり、その人々が持っている性質や能力もまた賜物なのです。その上さらに、聖霊がお与えになる超自然の能力もまた賜物です。よく理解しておくべきことは、これらすべての賜物が教会に与えられるという事実です。個人のクリスチャンの所有になるのではありません。自分の命さえ自分の物ではなく、まず、血潮の代価によって主に買い取られて、主の所有となり、それから、教会に与えられたのです。ですから、すべての賜物は個人の利害のために用いられるべき物ではありません。また賜物はどれも、みな教会の徳を高めるために与えられるものであって、教会の徳を破壊するような用い方をしてはならないものです。すべての賜物は互いに働き合って、教会の益になるのです。ある賜物は弱い信徒を励まし慰めます。ある賜物は愚かな信徒を教え導きます。他の賜物は傷んでいる信徒の傷を癒します。まだまだたくさんの種類の賜物があり、それらがみな複雑に絡み合いながら教会全体の益のために働きます。すべての賜物が直接宣教に関わる物ではありません。奉仕に関わる賜物、教えに関わる賜物、支援に関わる賜物、慈善に関わる賜物、いろいろたくさんあります。しかしそれらすべてが働いて、教会を健康に成長させ、教会全体として宣教の働きが出来るようにするのです。

 そういう訳で、教会はあらゆる能力と資源を持ち寄って、宣教のために尽くすものです。大切なのは、宣教が教会の務め、教会の任務、教会の使命として、教会に与えられているということです。教会の中の誰かにではありません。宣教の賜物という賜物は教会に与えられていません。宣教は、あらゆる賜物の動因によって遂行される任務、使命だからです。現在、宣教の働きが少数の特殊なクリスチャンたちにだけによって行われているのは、非常に残念なことです。すべてのクリスチャンは、何らかの形で宣教に参画すべきです。宣教の共同体である教会に連なった者として、宣教を自らの存在意義として、貢献すべきなのです。歴史的に、教会は聖職者制度を整え、あるいは官僚的な教職優越思想を持ち込み、教会の働きの大部分を本来の働きの担い手である信徒の手から奪い取って、わずかな特権的教職者の物としてきました。現在の私たちの教会を見ても、宣教の働きのほとんどは、伝道者と言われる牧師や宣教師によって進められています。そのために神が教会に召し入れられた、能力のある多くの人々が見過ごしにされ、聖霊が教会にお与えになった賜物が無駄にされています。

 教会が制度を整え、教職者と言われる人々がさまざまな責任を持って働くことは、それなりに意義があります。しかしそのような制度が、教会全体の宣教に対する情熱を削ぎ、働きを阻害するとするならば、断固としてその制度を作り直さなければなりません。教会全体が宣教に参画するのは神のご計画であり原則です。教職制度は人間の制度であり、適応に過ぎません。適応が原則を妨げてはならないのです。適応は原則を生かすものであるべきです。エペソ書4章11−12節によると、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師と呼ばれる人々の働きは、聖徒たちを整え、奉仕の働きをさせ、キリストのみ体を建て上げるためであると言われています。このような人々の働きは、それが制度化された中での立場であれ、あるいは極めて自由な環境の中での呼び方であろうと、自分たちだけで教会のあらゆる仕事をすることではなく、聖徒たち、すなわち、一般の信徒たちを整え、彼らが目的に沿った働きができるようにすることです。ここで、「整え」と訳されている言葉は、元々、外科医の骨折の治療に用いられていたものであり、ペテロたち漁師が網を繕っていた物語の「繕う」という言葉にも訳されていて、準備する、修理するというほどの意味があります。現在の教職者の働きも、聖書の教えの原則に従うならば、信徒たちを教え訓練し、彼らに与えられた本来の働きをすることが出来るように、彼らを整え準備をさせることです。このようにして、教会全体が互いに協力し合いながら、宣教の働きに邁進して行くのです。

 教会は宣教の共同体であり、宣教は、共同体としての教会に与えられた使命であることを、教会全体が正しく理解するならば、現在、私たちの周囲で行われている宣教の働きの多くが、姿や形を変えることになるでしょう。

 私が宣教師として活動していた頃、強調していたことのひとつに信徒による伝道、信徒による牧会がありました。あるとき、7〜8人の信徒の協力を得て、10ほどの会衆(地域教会)をまとめて一つの管理上の教会を牧会していた協力牧師が、このような話をしてくださいました

 このところ3週間ほど、ある会衆の指導的な信徒のひとりが、10数人を引き連れて礼拝会を休んでいました。彼らは全員、細く急な山道を40分程も歩いて行かなければならない小さな集落から、毎週、忠実に礼拝に出て来ていたのですが、突然、来なくなってしまったのです。少なからず心配していましたが、何しろ電気も電話もない、それぞれ歩いて数十分から数時間離れた集落に散在している、いくつもの会衆をまとめているのですから、連絡もすぐにはままならないでいたところ、今週の日曜日の午後の集会にひょっと顔を見せました。(日曜日の午後には、10ほどの会衆の中から来られる人だけが自由にやって来て行う、フェローシップ集会がもたれていたのです。)

 「おい、どうしたんだ。心配していたぞ」というと、彼はこう答えるんです。「自分の集落からもっと多くの人たちが集会に行けて、もっと多くの人たちが救われるように、ずっと祈りながら近所の人々を誘っていたのですが、遠いからなかなか行けないと言うんです。 それで、決心して、自分たちの場所で、自分たちで礼拝会を開くことにしたんです。そうしたら、ハレルヤ!! いま20人以上の人たちが礼拝会に来るようになって、何人も救われました。」 そこで少し厳しく叱っておきました。「どうして勝手にそんなことをやったんだ。僕に黙ってやったなんてとんでもない。初めから僕に話して、みんなで祈って協力してやったら、20人以上ではなく、40人以上になっていたかも知れないのに。せっかくの君の努力が、充分に結果を出せないことになってしまったではないか。よし、来週はぜひその礼拝会に行って一緒に喜び、祝福をしよう。神様が君たちを用いて、もっとたくさんの人々が救われるように。」

 この牧師は決して頭が良い方でも、説教が上手な方でもありませんでしたが、信徒たちを励まし「おだてて」どんどん奉仕をさせるのがとても上手でした。彼が責任を持っていた教会は、私たちの教区では、内容においても人数においても最も早く成長した教会です。このとき叱られた信徒はそれから成長して、立派な信徒牧師となり、50人程の会衆を牧会するようになりました。

 宣教の働きは個人の働きではなく、教会という共同体の働きであるということをしっかり理解すると、個人主義的な宣教にも、ある程度の歯止めがかけられることになるでしょう。牧師たちは、互いの競争意識を少しばかり和らげることになるでしょう。宣教師たちも、張り合うのを少しばかり抑えて、互いに認め合い、協力し合うことが出来るようになるでしょう。他の教団、他の団体、他の国の働き人とも、互いにみ体の一部であることを強く意識して、協調し合う事が出来るでしょう。牧師や宣教師の間から、醜い闘争心や虚栄心がなくなり、目立つ仕事や、賞賛を受ける仕事を選ぶこともいくらか少なくなり、大切な仕事を大切な仕事として、取り組むことも出来るようになるでしょう。大きな教会を建てた牧師を見て、隣の教会の牧師は心から喜べるようになるでしょう。良い働きをしている宣教師を見て、近くの宣教師たちは心から神を崇めることが出来るでしょう。多くの人々が教会に対して抱いている不信は、互いに争いあう宣教師たち、互いに張り合う牧師たち、互いに軽蔑しあう教会の存在です。それが共同体としての宣教に、大きな妨げになっています。

I.個人が生かされる共同体

 このように、共同体としての教会という概念は、聖書の教会観の中心を成すものですが、その反面、聖書は個人の大切さも強調しています。もちろん、神に似せて造られた者としての尊厳を持った、一個の人格としての個人などという言い方は、何か非常に聖書的なように聞こえますが、必ずしも聖書の教えているものではありません。むしろ、人間は大切なものであるという前提を、聖書の中に読み込んだヒューマニズムの考えに過ぎません。人間は罪を犯して後、神の前に価値を失った存在であり、尊厳を失ったものだからです。というより、神の敵となり、神にとって反価値的存在となっているのです。

 人間は本源的尊さを持つものではなく、その存在も、尊厳も、気高さも、すべて神に負っているに過ぎません。人間そのものに尊厳と価値を認めると、神がこの価値ある人間を愛するのは当然のこととなります。価値のない者を愛する愛である神の恵みが、単に、愛する価値のある者を愛するだけの、交換条件の愛と成り下がり、恵みではなくなってしまいます。神に負っていた人間の尊厳は、罪によって神との交わりを絶たれたことによって、失われてしまったのです。従って神の救いは、本源的尊さを所有していた人間を、神がめ愛でて救いに入れ、教会に加えてくださったものではありません。かえって、神にとって価値のない者、忌むべき罪にまみれた存在としての人間が、ただ、一方的に神の恵みを受け、すなわち受けるに値しない者に注がれる愛である恵みを受け、救われたのです。

 人間が愛され大切にされなければならない理由は、「人間の命が全世界よりも尊いから」ではありません。これはキリストのみ言葉を完全に誤解して引用したものです。キリストは「人が、たとえ全世界を獲得しても、自分の命を失ってしまったら、何の益になるか」とおっしゃり、主観的な価値判断を述べられたのであり、客観的に、一個の命の価値が地球より重いとおっしゃったのではありません。罪によって価値を失った人間を愛し、大切にしなければならない理由は、その人間にまだ神の姿のかけらが残っているからではありません。むしろ、たとえ本来的な価値は失われていたとしても、なおもその人間を愛して止まない、神の愛のゆえなのです。どのような罪人でも、価値のない人間であると思われても、事実価値のない人間であっても、神の愛の対象であるゆえに愛される価値を持つのです。人間の価値は人間自身の中にあるのではなく、価値のないその人間をなおも愛して止まない、神の愛の中にあるのです。

 従って、教会に連なるひとりひとりが、それぞれ固有の尊厳と価値を持って教会に加わったのではありません。本来価値も尊厳も持ち合わせていなかった人間が、罪によって命の源である神から隔離されて霊的に死んでいた人間が、恵みによって救われ、キリストのみ体である教会にバプタイズされた事によって、キリストに繋がり、キリストの命をいただいて「生きる」ものとなり、本来の人間としての尊厳と価値を取り戻して、神のみ前における一個の人間として大切な存在となったのです。ですから、キリストのみ体である教会に繋がっていないクリスチャンなどというものはあり得ません。個人の自由によっては、教会に加わることも教会を離れることも出来ないのです。

 個々のクリスチャンは、それほど不可分に教会と繋がっています。このように、教会の共同体としての特色を強調すると、現代個人主義の文化にあっては、あたかも時の流れに逆行する考えかた、時代錯誤の感覚を持ち込もうとしているように思われる危険性があります。戦後の日本でも、西洋風の個人の権利や自由が強調される中で、共同体というものの欠点や弱点が攻撃されてきました。確かに私たちの周囲に一般的に見られる共同体は、多くの場合、個人の犠牲の上に成り立っている共同体です。共同体全体の益のためにという名目のために、個人の権利がないがしろにされ、個人の自由が妨害されることがたくさんあります。そのような共同体の中では、ともすれば、小さい者や弱い者が最も犠牲になり、大きい者、強い者が利を貪り、益を獲得することになります。

 たとえば、フィリピン文化も基本的に共同体文化です。社会生活のすべての側面に共同体感覚が強く染み込んでいますが、中でも、家族という共同体が最も重要です。この場合は親戚親族を含めた大きな家族です。また、小さな集落における、共同体感覚も非常に強力です。それぞれ自分勝手、身勝手な人間たちがこのような強力な共同体を構成して生きて行くと、どうしても、強い者が得をして弱い者が損をする形になってしまいます。部落の中で一番勢力のある家系の、一番力を持っている家族がいつも利を得て、その中でも力を持っている者が常に得をします。もちろん、よくしたもので、多くの場合そのような力を持っている人間は、あれこれと弱い者、貧しい者の世話を見て助けます。それが共同体文化の良いところです。小さく弱い者は、大きく強い者の助けを得、庇護を受けるのを当然と考えて生きています。とはいえ、大きく強い者の助けはいつも不充分です。結局、弱い家系の弱い家族の、その中でも最も弱い者にしわ寄せが集中することになります。最も弱い者は、いつも押しつけられ、押しのけられ、搾取され、略奪され、無視され、失敗の責任をとらされ、功績を奪われてしまいます。このような共同体では、弱い者の逃げ場がまったくなくなってしまいます。現代のように人々が自由に移り住む時代ではまだ、姿をくらますという方法も残されていますが、実際には、常に押しやられてきた人間には、そのようなことを思いつくほどの能力も、それを実行するほどの力も無くなってしまいます。

 そこで、このような文化背景のフィリピンには、一風変わった病気が知られています。最も弱く小さな存在に甘んじて来た人たちの逃亡先が、異なった土地ではなく空想上の異なった世界になるのです。突然、小さく弱い彼、あるいは彼女は、空想の世界に逃避するのです。若い娘なら、突然、お姫様か良家のお嬢様になったかのように振る舞い始めます。すると周囲の人々は心得たもので、みんなで、しばらくの間、彼女をお姫様や良家のお嬢様のように扱うのです。そこで彼女は数日から数週間、日ごろの耐え切れないような抑圧を忘れて、すっかりお姫様になりきって開放されるのです。そしてしばらく経つと、彼女は正気に返り、また元の生活に戻って行きます。男の場合は、面白いことに、交通整理の警察官になったつもりになる例が多いと言われています。ものすごい数の車を、ピッピーと笛と手振りで操る警察官は、権威と力の象徴と映るのだろうと考えられています。ただ、そんな「警察官」に出くわした運転手には迷惑なはなしですが、諦めるしかありません。また、このような自己逃避を繰り返すと、精神に異常を来たすようになると言われています。

 これは、小さい者、弱い者にしわ寄せが行く、一般の共同体の悪い面が非常に興味深い形で現れている例です。日本においても、共同体の悪い面はたくさんあります。フィリピンほど強力な共同体が存在しなくなってしまった現代の日本ですが、日本独特の共同体の悪い側面はいたるところにあります。たとえば、諺を取り上げてみましょう。「見ざる、聞かざる、言わざる」「臭いものには蓋をしろ」「長いものには巻かれれろ」「寄らば大樹の陰」「出る杭いは打たれる」「もの言えば唇寒し秋の空」「物言わざるは腹ふくるる業なり、穴を掘って言い入りはべりけめ」。このように諺で言われていることが、実際の日常生活でふんだんに行われているのです。結局、強い者が得をする、弱い者が損をする社会です。弱い者は強い者のお情けと、時々の善意に期待して生きる他ないのです。自己主張をしてはならないのです。

 そのような中では、ひとりひとりの意見や考えは滅多に取り上げられません。言葉に注意して物を言わなければ、言った内容の善し悪しではなく、多くの場合、まず、言った者がきちっと立場をわきまえて言ったか、言い方が正しかったかなどということで判断されてしまいます。低い立場、弱い立場にある人の考えや意見は、先ずこの種の、二重、三重の厳しい採点をくぐらなければ、聞いてさえもらえないのです。強い立場の人や上位者の採点だけではなく、弱い者たちの中の「よくできた奴ら」のもっと厳しい批判も覚悟しなければなりません。そういう文化の中では、個々人の特色や固有の可能性というようなものは、全体の、というより、一部の強い者の取りまとめた全体の中に、埋没させられてしまいます。

 普通言われる日本の共同体は、結局強い者が共同体を支配し、強い者の主張が共同体の考え方となり、強い者の益のために存在することになります。強い者に反対の声を上げると、それがどのように正しい考えであろうと、多くの者を代表する声であろうと、共同体への反逆として捕らえられるのです。たとえば、日本の政権を担っている自民党の代議士は、日本の政府の意向に沿わない行動した個人としての日本人を、「反国家的、国家の敵」とみなす発言をします。少しでも権力に近い人はそのような発想しか出来ないのです。あらゆる考え方、人生観を持った人々が共存する日本を認めることが出来ないで、権力者たる自分たちの意見に同調しないものは、日本人でないかのようなことを言い出すのです。そして、かなり多くの平均的日本人は、そのような自民党の代議士の言うことに、疑問を感じないのです。まだまだ、「お上に逆らっては」生きて行けない日本なのです。

 人間は本来保守的な存在であると言われています。変化を嫌うのです。変化は必然的に新しい適応を要求します。これは人間にとって軋轢となり負担となります。ですから、保守的であるというのは自然な自己防御でもあるのです。特に社会の中で指導的立場にあるものは、社会が通常に機能している限り、断じて保守的であり続けます。したがって、独創的な人間、進歩的・斬新的・発展的人間は、のけ者にされ、排除され、良くても無視されて行くことになります。この人間の本来の保守性と共同体感覚が結びつくと、いよいよ個人が失われてしまうのです。そのような文化の中で育った者は、常に周囲の顔色をうかがうことになります。自分の意見を言わず、他の人の言うことに無意味に同調します。いつも大勢に流され、権力に流され、自分を見失ってしまいます。いわゆる自己確立のできていない人間になってしまいます。

 教会の中にも、このような例はたくさん見ることができます。日本独特の、静かな、物言わぬ信徒がたくさんいます。牧師の言うことが絶対の教会があります。自分で聖書を学ぶことを教えられず、ただ牧師の言うことを恐れ入って崇め奉るだけの信徒がいます。そのような信徒を「従順な良い信徒」と思い込んでいる牧師がいます。教会の中で個人が確立されていないのです。自分の特質、自分の固有の能力、賜物を生かしきれていない信徒がたくさんいます。それに気付いていない信徒がもっとたくさんいます。そして、自分の特質や能力あるいは賜物というものを、生かす場がないとフラストレーションを感じている信徒が、僅かながらいるようです。

 本来、キリストのみ体である教会は、個人が生かされる共同体です。個人を犠牲にし、個人を埋没させて成り立つ共同体ではありません。かえって個人の価値を認め、個人の尊厳と個人の特色と多様性を生かす共同体です。そのあたりが、普通の共同体とは大いに異なるところなのです。パウロは、コリント第一の手紙の12章全体で、個人が生かされる共同体としての教会を語っています。彼の強調点は、キリストのみ体のすべての部分が、それぞれ、神のみ心に従って体の中に備えられたものですから、大小に関わらずすべての部分がその存在価値を認められ、与えられた機能に応じて活動することが期待されているということであり、さらに、どのように小さくまた弱い者であっても、その存在を無視されたり、また犠牲にされたりせずに生きるようにと、配慮されているという事実にあると読み取ることができます。もし、教会の中に差別が存在するとしたら、それはむしろ、強い者や富める者がぞんざいに扱われ、弱い者や貧しい者が大切にされる差別です(ヤコ2:1−9、マタ18:1−14、ルカ4:18)。そのようにすべての個人が生かされてこそ、全体の徳となるのです。個人が自ら進んで他者の、あるいは全体の犠牲になることは大いにあり得ますが、全体が、あるいは他の部分が、小さな個人を犠牲にすることはあってはならないのです。この非常に高い教会論を述べている章が、多くの人たちに、ただ賜物について語っているように軽視されているのは、非常に残念なことです。実際12,13,14章は、賜物の章ではなく、キリストのみ体の章、教会論の章です。13章も愛の章ではなく、教会論の中での愛を取り扱っているのです。

 このように教会は、聖霊が自分たちの中にバプタイズしてくださる人々を、すべて受け入れ、彼らの居場所と活動の場を提供できなければなりません。どのように役立たずに見えても、いかに邪魔な存在に思えても、どれほど手がかかり世話が焼けようとも、また、いつも自分の意見と対立し馬が合わなくても、顔を見たくない声も聞きたくない人であっても、聖霊がキリストのみ体にバプタイズしてくださったならば、その人は、神のみ心に従って教会の一部分とされたのです。どのようなことがあっても、絶対に、その人を拒絶したり蔑視したり無視したりすることは許されないのです。かえって教会は、身分の低い人や貧しい人、弱い人と歩調を合わせ、そのような人々と交わりを深めるように、特別に心を用いるものなのです。強い人の強さは、弱い人があって初めて強いのです。弱い人の弱さは、強い人の強さが生かされるためにあるのです。

 日本式の共同体社会の特色、あるいは世界中の共同体社会の特色とも言えるものに、多様性を嫌い、均一性、あるいは類似性が強調されることがあります。アメリカなどの個人主義が進んだ文化の中では、多様性が貴重な財産あるいは価値として認められます。かつて、日本の総理大臣が、日本はアメリカなどの多民族国家とは違い、単一民族国家であるから優れている、という趣旨の発言をしたことがあります。日本が単一民族国家であるという認識自体が誤っていますが、それよりも、アメリカ政府筋の人々がこれに激しく反発して、アメリカのアメリカたるところは、多民族国家であり、あらゆる民族の人々が「民主主義」という大儀を受け入れて生きるところに、真実の強さがあると主張したことがありました。アメリカのように、個人の権利を最優先にした民主主義国家では、自分は他の人間とは違う一個の人間なんだという主張が、当然のこととして認められ受け入れられるのです。ところが日本では、他人と異なるということを嫌います。みんな一緒、みんな同じ、他人に合わせる、協調するということが、何よりも大切であると教えられ育ちます。 良い事をしようとして、存在している平穏さを壊すより、何もしないで平穏さを楽しむ事のほうが、社会的に正しいと考えられているのです。


  しばらく前に、米軍関係の家庭集会をしていたときのことです。婦人会をするとのことで、牧師である私はベビ−シッターになり、子供向けテレビ番組を見ることになりました。すると番組の中で、20人くらいのすべて人種の違うと思われる子供たちが、ひとつの歌をくり返しくり返し歌っていました。「白黒茶色、黄色もあるよ。黒い目、茶色い目、青い目。長い髪、短い髪、縮れた髪、真っ直ぐな髪。背が高い子も低い子も、太い子も細い子も、歌が好きな子も、踊りが好きな子も、絵描きが好きな子も、外で走るのが好きな子もいるよ。みんな違ってるよ。でも、みんなみんな仲間だよ。みんな同じ世界の子供だよ。」次の日に、日本の子供向け番組を見ていると、「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね。そーよ、母さんも長いのよ。」と、同じ帽子、同じ服、同じ靴の子供たちが歌っていました。異なっていることが当然であり、良いことであり、それこそ力であると考えるアメリカと、同じであることを美しいと感じる日本の、違いが現れていて面白いと思いました。

 教会は、すでに述べたように徹底した共同体です。しかしこの共同体は、すべてを同じにしてしまう、個人の特色が消滅してしまう共同体ではなく、個々人の存在価値と特色を最大限に認めた共同体です。それぞれが違うということを前提とした、共同体です。

 それは、あたかもアメリカという多民族国家のように、それぞれの個人の違いを大切な要素として取り込みながら、個々人が自己中心に勝手に考え勝手に行動するのではなく、あくまでもキリストの愛というひとつの固い絆で結ばれ、キリストの命というひとつの命によって生かされている、堅固な共同体なのです。この共同体の本質を、パウロはキリストの体という表現で、見事に言い表しています。

 教会の中では、個人が大切にされなければなりません。個人の違い、個人の特色、小さい者、弱い者、貧しい者が自由に生き、自由に発言し、その発言がどのようにされたとか、誰によってされたとか言うことを抜きにして、その内容によって判断されるべきです。「長いものには巻かれろ」「見ざる言わざる聞かざる」「出る杭は打たれる」などという日本的な、教会の中の考え方であってはならず、そのような空気の中で会議を行うことなども、あってはならないのです。教会はすべての側面において、個人を生かす方向で考え、行動すべきです。そして個々のクリスチャンは、自分の損得ではなく、他者の益のために働くことを喜びとし、主のみ栄えのために生きことを光栄とするのです。

 ところで、このような教会の共同体としての側面、すなわち、すべての信徒の存在価値が認められ、大切にされるべきであるということと、教会の中の特定の目的のための機能の中では、選択排除の作用があるという側面とを混同してはなりません。一方はすべてを包含し、他方は特定のものを選出するのです。地域教会の中においても、管理上の個教会においても、あるいは有機体としての教会にしても、かならず、ある特定の機能を目的としたグループを必要としています。地域教会の中で子供の教育をしようとすると、当然、子供の教育に関心と能力を持っている者が選ばれなければなりません。ひとつの管理上の教会の中で、役員会を構成しようとすると、当然、指導力とクリスチャン品性を持っている者が、選出されなければなりません。有機的教会として、協力して海外宣教を行い、宣教師を送ろうとするならば、当然、宣教師としての資質と、能力を兼ね備えている者が、送り出されるべきです。このように、ある特定の分野の働きをするためには、その働きにふさわしい者が選ばれ、その働きにふさわしくない者が選ばれてはならないのです。ここに、すべての者を包含する共同体の論理を持ち出してはなりません。これはあくまでも、特定の働きのための選択、選別、そして排除なのです。

 ですから、たとえば、宣教師として送り出された者が、しばらくしてから、その宣教師の目的の働きにふさわしい、資質と能力を持っていなかったことが判明したならば、その宣教師はできるだけ早くその働きを止め、自分に最もふさわしい働きを探し出し、その働きに就くべきなのです。すべての者が存在価値を認められるべきであると論じるのは、この場合間違っているのです。なぜなら、ここで問われているのは存在ではなく、働きだからです。「キリストのみ体」というパウロの表現を借りるならば、手は口の働きをしようとしてはならないし、させようとしてもならないのです。同じように口は足の働きをするべきではなく、足は鼻の働きをさせられてはならないのです。そこに、かわいそうだから宣教師にしておくとか、一度宣教師になった者を止めせるのは残酷だという、憐憫の情を入れてはならないのです。大切なのは個々人に与えられた機能を認め、それに従った働きをしてもらうことです。個々人も、神が自分に与えてくださった能力を、厳密に、また客観的に判断する必要があるのです。

 言い方を変えると、共同体としての教会は聖霊が教会にバプタイズしてくださったすべての信徒を含みます。この世の中で福音宣教を遂行するために、神がお選びになった最善のチームでありますが、非常に広範囲で複雑な働きを含みますので、単純なチームワークの概念にふさわしくなく、むしろ、ボデーミニストリー(体の働き)と呼ぶのが適当と思われます。その中では、福音宣教の働きをするには最もふさわしくないと思われる種類のクリスチャンたちも、神から必要な立場と役割を与えられていると考えられます。レスリングをする強靭な肉体にも、自分では動くことができない弱々しい肝臓だとか腎臓だとか言う臓器があって、非常に大切な役割を果たしています。弱々しく動くこともできないから、役に立たないのではないのです。しかし、その体の中で特定の働きをするグループは、より小さな狭い範囲の働きをするチームワークなのです。チームは、その目的を遂行するために選び抜かれた人々によって構成されます。足ならば足としての機能を果たします。手ならば手としての機能を高めるために鍛錬します。ですから、この観念の中で、いわゆる教会ではないがきわめて教会的な存在である、パラチャーチの存在が正当化されるのです。

 パラチャーチは教会そのものではありません。しかし、教会の働きの一分野をより効果的に積極的に推進するために、有機的教会の概念の中で作り上げられたチームなのです。10 多分、教会の歴史上最初のパラチャーチは、パウロを中心とした伝道チームであったのではないかと思われます。現代では、さまざまな目的のために組織された非常に多くのパラチャーチが存在します。伝道を目的とした団体、出版を目的とした団体、音楽を目的とした団体などが目白押しです。そしてそこでは当然、資質と能力とが問われます。その目的遂行のために必要な能力を持っていない者は、その組織に入る価値がないのです。


10  筆者は、パラチャーチに所属して働くだけで、どこの地域教会にも加入していないという、クリスチャンのあり方には賛成できません。すべてのクリスチャンは地域教会の会員として、キリストのみ体の部分としての役割を果たすべきだと考えています。多くのパラチャーチは成長したクリスチャンで構成されていて、それなりに問題はあるとしても、救われて間もなく、この世の臭気をそこいら中に撒き散らしているクリスチャンの、世話をしなければならない面倒くささを持っていません。それは、教会ではないのです。

 パラチャーチとまでは言い切れないとしても、教会の中の特殊な職務を全うするには、それだけの資質を求められます。宣教師としての資質と能力を欠く者が、宣教師として派遣されてはならず、牧師としての資質と能力を持たない者が牧師として任命されてはならず、計算のできない者が教会の会計を任せられてはならず、子どもの教育に関心のない者が、教会学校の子どものクラスを任せられてはならないのです。どのような人間であっても、すべて重荷を負って苦労しているものは、キリストのもとに招かれています。しかし、十二弟子になれたのは十二人だけであり、七十人に選ばれたのは七十人だけでした。その中に選ばれず、悔しい思いをした人たちもいたのです。 

 キリストの弟子の中には、明らかに種類の違う、あるいは従う決心の固さの違う人々がいました。キリストはご自分の下に来る者がいかに罪深く、弱く、惨めな人間であっても、彼らを拒絶なさることはありませんでした。キリストが拒絶なさったのは、自分が病気であることを否認しようとする病人たち、すなわち偽善なパリサイ人やサドカイ人、あるいは律法学者といった人々です。自分の弱さと醜さを知っているものは、キリストに助けを求めたときに、必ず受け入れられ、答えをいただいたのです。どのように弱く、また、価値がないように思われていた人間も、キリストは受け入れ、彼らをご自分の弟子とすることを恥となさいませんでした。すべて重荷を負って苦労している者は、キリストの下に来ることができたのです。

 しかし、キリストに従い、キリストのみ心を自分の心として仕えようとする人々、キリストのお働きに参与したいと望む者、キリストの贖いの働きを自分の働きとして継続していこうとする者、すなわち献身者には、キリストは非常に厳しい基準をお定めになったのです。親兄弟、妻子を捨てなければならないとおっしゃいました。完全な自己否定をお求めになりました。中途半端な献身者たちは、みな拒絶されてしまいました。「空の鳥には巣がある、狐には穴がある。しかし人の子には枕するところがない」というお言葉は、数ヶ月の間キリストに従って旅を共にしながら、ベッドが硬い、野宿はいやだと、不平をこぼしていた弟子に対するお言葉だったのかも知れません。「死人のことは死人に任せておきなさい」とは、いつも家族だとか親戚だとかを気遣う優しさのために、ついつい、神のことを第二にしてしまっていた弟子に対するお言葉であったのでしょう。「鋤に手をかけてから後ろを振り向く者は、神の国にふさわしくない」とは、キリストの一行に加わりながら、ときどき友人のところに戻ったり、親族のことを気にかけたりして、果たさなければならない大切な仕事をするときになって、役に立たないことが時々あった、そんな弟子に対するお言葉だったとも考えられます。

 キリストは、一方では、人生の重荷と痛みに悩む者、罪の結果の悲惨な生活にあえいでいる者は、どのように弱く不甲斐なく役立たずであっても、ご自分に従ってくることをお許しになりました。まさに人の弱さを知り、痛みを味わってくださった大祭司のお姿があります。ところがもう一方では、非常に厳格で一片の妥協も赦さずに、徹底した献身を要求しておられます。まるで、今まさに出陣しようとしている武将が、配下の者に「お前の命は俺が与った。俺と一緒に死んでくれ」と、献身を求めている姿そのものです。

 一般信徒ならば、土曜日の真夜中にもかかわらず、電話で牧師をたたき起こし、何時間もめそめそと泣き言を並べ、くどくどと他人の悪口を言い続けて、すべてのことで責任転嫁をし、挙句の果ては牧師には愛がないから、もう教会には行かないとダダをこねていたかと思うと、日曜日にはニコニコ顔でやってきて、寝不足で赤い目をした牧師の説教を「どうも力がなかったですね。どこかお悪いのでしょうか」などと、白々しいことをいう信徒でも、教会には居場所があるべきです。何回警告しても、パチンコが止められず、借金がかさみ、消費者金融に手を出し、怖いお兄さんに脅かされて牧師に泣きついて、もうパチンコには手を出しませんと両手を着いて詫びていながら、三月もすればまた、パチンコと自己破産で牧師を煩わす信徒でも、教会には居場所があるべきです。幼い子どもを抱えて次々と男を取替え、また捨てられたといっては牧師のところにやってきては、「神さまは、どうして私だけに、こんなひどい目にあわせるんでしょうね」とのたもう女も、牧師は拒絶すべきではありません。イエス様がゴミ捨て場のようなお方でしたから、私たちの教会も、牧師も、ゴミ捨て場で良いのです。

 しかし、牧師がそのような信徒と同じであってはならないのです。昨日は恵みの高嶺を歩んでいたはずなのに、今日は死の影の谷にいるような不安定な情緒では、牧師は務まりません。少々の家庭の問題や経済の問題で、信徒に相談に行くような牧師では、教会の指導はできません。信徒の問題を抱え込み、いちいち落ち込んでしまっていては、牧師はみな鬱病になってしまいます。宣教師になって開発途上国などに行ってみると、もっと大変です。同じ献身者仲間の牧師とさえ、言葉がなかなか通じません。気持ちが通じません。会話が成り立ちません。誤解に誤解が続きます。食べ物はおいしくありません。すぐお腹が壊れます。お医者さんは信頼できず、薬もよく効きません。トイレは汚いし、水がありません。交通の便は悪いし危険だらけです。このようなところで忠実にキリストに従うためには、徹底した献身が必要なのです。一般信徒と同じような感覚では、とてもキリストに従い通すことはできません。

 キリストは何ヶ月も生活を伴にし、行動を伴にし、常に弟子たちを観察し続けて、彼らの資質を見極めておられたのです。その上で一晩祈り、熟慮し、12人の弟子たちをお選びになったのです。このときは12弟子の中には選ばれなかったけれど、やがて信仰の成長を遂げ、立派な弟子に成長した者もあったかも知れません。たとえば、マルコは若すぎたのでしょうか。バルナバは優柔不断なところがあったのでしょうか。想像の域を出ませんが、大いに有り得ることです。

 パウロの第一伝道旅行の際でしたが、同行していたマルコが途中で帰ってしまったことがありました。第二伝道旅行に行こうとしたとき、同行者のバルナバは、再び、甥にあたるマルコも連れて行こうとしますが、パウロはこれを拒絶したために激しいやり取りが交わされ、結局、伝道隊は二手に分かれてしまいます。仮に、宣教師の召しなどという概念がパウロやバルナバにあったならば、召されているならば連れて行く、召されていないならば置いて行くと、問題は簡単でしたが、本当の問題はそのように単純なものではなく、非常に高度な神学問題、あるいは文化的問題である、ユダヤ主義にあったと考えるべきです。第一伝道旅行で、パウロとバルナバはガラテヤ書が宛てられた地域の教会を建て上げました。ユダヤ教の会堂を回り、ユダヤ教をしっかり信じ、メシヤの出現を待ち望んでいた人々に、ナザレのイエスこそメシヤであると語る伝道でしたから、現在の日本における伝道などとはまったく異なり、直ちに多くの救われるものが起こりました。その上、会堂の中で教育や管理を受け持ち、指導的な働きをしていた者たちも多数いたのですから、その人たちを長老として任命し、次の町へと旅を続けることも容易でした。

 ところがそのような「簡単な」伝道にも、大きな落とし穴がありました。簡単であったがゆえに、彼らのユダヤ主義的傾向は強く残ったままでした。そこで、パウロたちが去った後、エルサレム教会からユダヤ主義的福音理解をした者たちが訪れて来て、ユダヤ主義の教えをし、割礼を受けるように教えたとき、ほとんどの者が何の疑いもなくその「異なった福音」に流れてしまったのです。その結果、パウロはガラテヤ書を書かなければならなくなり、エルサレム会議で調停をしなければならなくなったのです。幸い、エルサレム会議においてユダヤ主義の誤りが明らかにされましたが、問題は、そのユダヤ主義の傾向を強く持っていたと思われる、マルコの取り扱いでした。

 マルコは、多くの人が考えるようなひ弱な若者ではありませんでした。少なくてもパウロとは同年代あるいはむしろ年上で、大祭司の親戚としてエリートであり、金持ちであり、高いサドカイ派の教育を受けていたはずです。彼はパリサイ派とは異なっていましたが、神殿と祭儀を大切にし、ユダヤ民族であることを誇りにしていました。また、多くの年上の弟子たちがキリストを見捨てて逃げてしまった中で、キリストの後をつけようと試みた、数少ない弟子の一人でした。途中、裸で逃げる羽目にはなりましたが、勇気があったのは事実です。彼が逃げたのは単に怖くなったというだけではなく、大祭司の親戚としての立場もあったことでしょう。そのマルコが、パリサイ派のエリートであったパウロの教えに、心から同調するのは易しいことではなかったはずです。旅行の途中から、自分の叔父のバルナバが伝道隊の長を退いて、脇役だったパウロが長になったのも、面白くなかったかも知れません。マルコ自身も、キリストの弟子としてはパウロよりずっと先輩だったのです。

 しかし、マルコが我慢できなかったのは、それらのことだけではありませんでした。パウロが、信仰による救いを宣べ伝えていたことです。信仰による救いは当然、割礼を無用とし、神殿礼拝を無用とし、ユダヤ民族の優越を否定し、特権を無視することにつながりました。しっかりとしたユダヤ主義の教育を受けていたマルコは、パウロの信仰による救いの教えから、このようなことをたちまち理解したことでしょう。それは、熱心なユダヤ主義者であり、特に祭司階級として、神殿と祭儀に関わって生きていくはずのマルコには、絶対に許せなかったことなのです。たぶん、まず間違いなく、これがマルコの途中放棄の本当の理由だったと考えられます。そして、そのようなマルコであったために、神学にうるさいパウロ、福音の普遍性という新しい啓示、奥義を与えられ、それを任せられていたパウロには、非常に危険な人物と見えたはずです。ましてや、第二伝道旅行で訪れようとしていた先は、この神学問題で大揺れに揺れた直後の、ガラテヤの諸教会だったのです。11  マルコがひ弱な若造で、以前、途中放棄したことがあるから、今回連れて行くのはいやだなどという「了見の狭い」パウロではなく、福音の真髄のためにとことん戦うパウロだったために、彼は、マルコを連れて行くことを拒絶したのです。その点、まだ普遍的福音の真理の大切さを明瞭に理解していなかったと思われるバルナバ、あるいはもともと優しい性格のバルナバは、マルコを連れて行こうとしたのも理解できるのです。誤解をなくすためにもういちど確認しておきますが、パウロが拒絶したのは「同労者としてのマルコ」であって、「主にあってひとつとされた兄弟マルコ」ではなかったのです。


11  著者は南ガラテヤ説を取っています。北ガラテヤ説に比べると、明らかに使徒の働きと書簡の間に調和があるからです。この説によると、パウロがガラテヤ書を書き送った教会は、もともとガラテヤ人とわれる人々が住んでいた、現在のトルコの北部で黒海に近い地域にあった教会ではなく、ローマ帝国が行政上ガラテヤ地方と呼んでいたもっと広範囲の地域にあった教会、すなわち、パウロが第一伝道旅行で設立した南部の教会であったと考えます。このように考えると、パウロが第一伝道旅行で設立した教会は、パウロが去って後すぐに、エルサレムから来たユダヤ主義の人々に影響され、割礼を受けなければすなわちユダヤ人にならなければ、救われないと信じるようになってしまいました。それに対し、パウロは直ちにガラテヤ書を書き送り、その上で、エルサレム会議を招集してもらい、そこで割礼問題に決着をつけたに、第二伝道旅行に赴こうとしたものと考えます。そのように理解すると、マルコに関するパウロとバルナバの激しい反目も、なるほどと思えるのです。

 大切なのは、共同体としての教会の中でも、ひとつの目的遂行のためには厳密な選択排除が行われるという事実です。徹底して愛の共同体を説いたパウロではありますが、目的遂行を任務とした「パラチャーチ」には、非情とも思われるほど厳しかったのです。この点を混同してしまうと、パラチャーチは機能を果たせず、目的を遂行できなくなってしまいます。個人が生かされるということと、わがままが通るというのは別です。体の個々の部分は、それぞれに与えられた機能に従って存在を認められ、活動するのです。日本語では「ない袖は振れない」といいますが、目に足の働きはできないし、足に背中働きはできません。小指に親指の働きを期待してはならず、耳に鼻の活躍を望んでもいけないのです。足の働きに目が加わったり口を挟んだりしてはなりません。目は目の機能を生かし、足の働きに貢献するのです。
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