Ecclesiology

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教会論用語の理解



 聖書は「教会」という言葉を実に多様な意味で用いています。たとえば、「ヌンパの家にある教会」(コロ4:15)、「アクラとプリスキラの家にある教会」(Iコリ16:19)は、信徒の家に集まっていた教会のことでしょう。「全教会の家主ガイオ」という表現(ロマ16:23)は、コリントの町にあったいくつもの「教会」を総合して呼んだものでしょう。これは多分「コリントにある神の教会」(Iコリ1:2)と同じものだったと考えられます。また、「ガラテヤの諸教会」(ガラ1:2)とか、「マケドニヤの諸教会」(IIコリ8:1)という複数の表現もあれば、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられた教会」(使9:31)という単数の表現もあり、さらには「すべての教会」(IIコリ8:18)という言い方もされています。パウロが迫害した教会は、単にエルサレム教会だけに限られていたと考えるべきではありませんし、彼が展開した教会論のなかで「御子はそのからだである教会の頭です」と彼が語ったとき、そのみ体である教会はどこかの地方や町にある特定の教会ではありませんでした。キリストが「私の教会を建てる」とおっしゃった教会も(マタ16:18)エルサレムの教会でもローマの教会でもなかったはずです。

 このように、聖書は教会という言葉をいろいろな意味に用いていますが、それらを整理して理解するために伝統的に使われてきた用語があります。ここではそれらの用語の意味を明らかにしながら、さらに理解を深めることにしましょう。

A.地域教会と普遍的教会

 地域教会と普遍的教会という言い方は、教会の理解を深めるために最も頻繁に用いられている用語で、それなりに良い説明ではありますが、いささか意味があいまいなために、さまざまな誤解も産み出してきました。

1.一般的理解

 普通、教会という言葉は、何丁目何番地にある白い壁の教会とか、丘の上にある緑の屋根の教会という意味で、建物を指して使われています。これが聖書のいう本来の教会ではないことは、ここで敢えて説明する必要がないと思いますが、ただ、そこに集まり、その建物を自分たちの所有、あるいは自分たちの共通の活動の場と考えて、集まって来る人たちを、私たちは普通、ひとつの教会と考えて地域教会と呼んでいます。

 また、向こうの川岸にあるとんがった屋根の教会を、もうひとつの教会と考え、そこに集まっている人々を他の教会の人たちと考えます。これらの教会は所属している団体が異なり、集会の仕方も、活動も、考え方も、集まっている人々の種類も異なっていますが、それでも私たちは、お互いの間に、同じ主を礼拝しているという基本的な共通要因を認め、ある意味で、自分たちはひとつなのだという意識を持っています。現実には、いろいろ馬が合わないことがあり、そりが合わない主張もあり、互いに協力し合うのさえ不可能なことも当たり前です。それでも、私たちは、これらの違いや不協和音を乗り越えて、信仰による一致、御霊による霊的な一致というものを信じています。事実私たちは、世界中のあらゆる教会が、キリストを救い主と信じている限り、信仰と御霊によってひとつの教会に属していると信じています。そのひとつの教会が、普遍的教会と言われるものです。

2.より良い理解

 しかし、この伝統的教会の理解方法では、教会の真実の姿を説明するにはあまりにも不充分です。もう少し、掘り下げて考えてみましょう。

a.地域教会と管理上の個教会

 まず、聖書に見るエルサレム教会やローマ教会を、この地域教会とみなすには問題があります。なぜなら、都市の名前をもって呼ばれるこれらの新約聖書時代の教会の多くは、現代の一般的教会のような単数の会衆の教会ではなく、たとえば「ナルキソの家の主にあるひとたち」と呼ばれるような家の教会がいくつか集まる、複数の会衆から成り立っていた教会だったからです。最近は私たちの周りにも、伝統的な教会観から離れ、複数の会衆、あるいは「セル」などという観念をまとめて「教会」と考えている人たちも出てきていますが、地域教会と言うならば、これら、新約時代の家の教会のような会衆こそが、より確実に地域の実情の中に根ざした教会であったはずだからです。エルサレムの教会は当初こそ、ひとつの民族で類似した人々の集まりであったと思われますが、それでも言葉や文化的背景には大きな違いがありました。ローマの教会などは、さらにさまざまな人種、言葉、階級、文化が入り混じった、複数の会衆によって成り立っていたはずです。パウロがローマにいるクリスチャンたちに呼びかけたとき、「ローマにいるすべての、神に愛されている人々」と言って、さまざまな種類の、さまざまな会衆に属する「すべての」という意味を含めたのではないかと考えられます(ロマ1:7)。

 従って、当時のエルサレム教会、ローマ教会、あるいはコリント教会というような教会は、地域教会というよりは一種の行政区教会、管理上の個教会とみなす方が良いでしょう(Iコリ14:23)。パウロはエペソの教会の複数の長老たちを呼び寄せて別れを告げましたが(使徒20:17)、エペソの教会もひとつの行政上のあるいは管理上の教会でしたが、多くの家の教会とそれを指導する複数の長老たちがいたと理解すべきです。また、使徒の働き9章31節に語られている、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地に築き上げられた教会」は単数形で語られる教会ですが、これは普遍的教会のことでも地域教会のことでもなく、管理上のひとつの教会が地理的にも発展して複数の教会に変わって行く、過渡期の状態と考えるのが良いと思われます。

b.管理上の個教会と有機的教会

 ではこれらの管理上の個教会、行政上、あるいは単に地域的便宜上そのように呼ばれている教会は、どういう意味で教会なのでしょう。それは有機的教会として教会なのです。教会が有機的存在であることは常識として理解されていますが、それぞれの地域教会が互いに同じ救い主を仰ぎ、同じ命に生かされ、同じ聖霊の交わりによって保たれているという、霊的な有機性においてひとつの教会であり、幾つかの家庭集会などをひとつに集めた地域教会も、組織的にまた管理上、ひとつの「個教会」と認められている有機的教会ということです。これはたとえ実際の交わりが欠けていても、あるいは何かで争っていたとしても、その醜いありのままの姿で、ひとつであるという霊的な有機体です。同じ主の召しを受け、同じ主の贖いをいただき、同じ聖霊によってキリストのみ体にバプタイズされているという霊的な事実が、あらゆる不完全さを超えて、教会をひとつにしているのです。そのような例は、コリントの教会に見ることができます。

 これはまた、現在しばしば見られる、パラチャーチには所属していながら地域教会には所属していないというようなクリスチャン、あるいはどこにも何にもまったく所属していないクリスチャンにも、当てはまる理解の仕方です。あるいは、教団や、国家によって分断されている教会組織、さらに、小さいほうでは教区というようなものにも適用できる考え方です。これらはみな、外見上は異なった存在をしていますが、有機体としての教会と呼ぶことができます。問題は、有機的にひとつであるという霊的事実を、実際の生き方、実際のあり方、実際の協力、実際の交わりの中に、どのように表現し具現化していくかということです。霊的事実は、必ず実際の生き方に反映されていくべきであり、よりよく反映されるべきだからです。教会に所属しようなどと考えたこともない信徒も、本来は、キリストの体にバプタイズされ、ひとつの体にされているのだという霊的事実をしっかりと理解し、その上に、その霊的事実を具体化して行くべきなのです。互いに交わりがないばかりか争ってばかりいる隣同士の教会も、自分たちは霊的にひとつの有機体なのだという事実を、どのようにしたら最善に表現できるか、考えていくべきなのです。

 ましてや、ひとつの教団、ひとつの教区などというものは、たとえ教団の政治形態がどうであっても、また、管理上の個教会の政治形態がどうであっても、それぞれが同じ聖霊によって、キリストのひとつのみ体にバプタイズされたという霊的事実を、重く、しっかりと確認し、その事実に立って考え、行動すべきなのです。教団は教会なのか、あるいは単なる個教会の集まりなのかという議論は、行政上、管理上の議論としては成り立ったとしても、聖書神学の上からは成り立たないものです。教団は教会なのです。それは有機的な教会です。その有機的教会は、自らがひとつであるという霊的事実を、あらゆる機会を捉えて表現するのです。そのような理解のない教団や教区は、経営者たちの利害が共通するときだけに存在価値がある、中小企業組合のようなものに過ぎません。私たちの教団が、教会という名の商店の、中小企業組合にならないように、また、私たちの教職の集まりが、ちょっとした小企業の経営者たちが集まる、ロータリークラブのようにはならないようにと祈るものです。

 パウロはこの有機的教会のあるべき姿を、マケドニヤやアカヤの教会から献金を集め、飢饉に苦しむエルサレムの教会に送り届けるという働きで具体的に表現しました。また、自分が第一伝道旅行において建てた南ガラテヤの教会に、ユダヤ主義者たちが入り込んでかき乱した問題には、わざわざエルサレムまで赴き、多くの兄弟たちの意見を聞いたということでも、個人の宣教者としての自分ではなく、有機的教会の一員として働いている自分を認め、それを大切にしていたことがわかります。パウロは、自分が他の誰にも与えられていない啓示を与えられ、異邦人伝道という新たな任務に召されたのだということを盾に取って、エルサレムの兄弟たちを無視して、独自の伝道王国を作ることもできたはずです。しかし、彼は有機的教会を認めて、その原則を重んじ、謙虚にエルサレムまで出向いて行っているのです。パウロは自分の働きがエルサレム教会の管理下にあるとか、使徒たちの監視の下にあるというように考えたのではありません。ただ、有機体としてひとつなのだと考えたのです。

 昔から、神学者たちは、世界のすべての教会はこの有機性によってひとつであると考え、その教会を普遍的教会と呼んできました。ただし、この普遍的教会は、歴史の上で、単に霊的な次元に留まらず、管理上も普遍的な唯一の教会であるべきであると考えられたために、カトリック(普遍的という意味)教会という教会が誕生し、大きな誤りを犯し続けたという経緯があります。これは有機的一体性という霊的事実を、偏狭な人間的手段で、管理上でも政治上でも実現させようとすると、大きな間違いに陥るということを私たちに警告するものです。後述するように、この有機的一体性は、組織や戒律、形式や様態、あるいは信条や神学の一体を意味するものではなく、かえって、それらの多様性を意味するものであるべきだからです。

 また、この有機的教会という存在は、その性質上、どこの地域教会にも所属しないクリスチャンたちまでも含めるものであり、彼らの存在を許すものでありながら、彼らの存在を励まし増大させるものではなく、かえって彼らのあり方を否定し、彼らが地域教会に所属し、正しい形でその有機的な繋がりを表現して行くことを励ますものなのです。すべてのクリスチャンは、キリストのみ体にバプタイズされたという霊的出来事を、日常生活の中で、具体的に表現していく責任があるからです。それは、悪魔の支配から解放されたという霊的事実、神の子とされたという霊的事実、聖霊の宮となったという霊的な事実、清められたという霊的事実、さらにはこの世に派遣されているという霊的事実が、みな、毎日の生活の中で具現されていかなければならないのと同じです。

 ある人々には、教団や教派、あるいは教会の国家的制限などというものが、新約聖書には記されていないということを問題とします。確かにこれらは新約聖書には記されていませんが、ことさら問題にするべきことではありません。なぜなら、新約聖書の教会の形態は、あくまでもその当時の社会的実情の中に現された教会の姿であって、それらがすべてであるわけではなく、また、規範でもないからです。また、新約聖書の教会は完全な大人の教会ではなく、揺籃期の教会であり、過渡期の教会であったということです。現在の教会は、当時のグレコローマン文化の状況とはまったく異なった現実の中に生きています。従って、形態はまったく異なっていて当然なのです。ですから、パラチャーチの存在さえ、ある程度容認できるものです。それは、すでにパウロの伝道チームなどに芽生えていると考えられます。ただし、地域教会をまったく無視したパラチャーチの存在は、聖書神学的に許されるかどうかはなはだ疑問です。

c.普遍的教会と地域教会

 では、普遍的教会とはどのようなものでしょうか。それは、キリストが「私の教会を建てる」とおっしゃった時の教会であり、場所と時間を越えた教会です。それは神の贖いのご計画の中に始めから存在した、理念としての理想的教会であり、不変の教会です。従ってそれは超国家、超言語、超文化、超民族の教会です。ひとつの地域教会おいても、世界中のすべての地方教会を含めた教会においても、あるいは有機体としての教会においても、そのすべての理想的本質を現すことは、人間の不完全さと取り巻く状況のゆえに不可能でありながら、必ずどこかでその本質を顕現しようとする教会です。見えない教会でありながら、常に見える姿で自分を現そうとする教会です。世界中のすべての地域教会を包括している大きな教会でありながら、小さな地域教会にもすべてを現す機会を待っている教会です。パウロがキリストの花嫁と語った教会はこの教会です。キリストが頭であると語った教会はこの教会です。

 多くの場合、普遍的教会とはすべての地方教会の総合体と考えられています。世界に存在するすべての教会が、霊的にひとつとされている教会が普遍的教会と言うわけです。もし、そうだとすると、地域教会とは単に普遍的教会の一部分になってしまいます。地域教会が普遍的教会の一部分に過ぎないとすると、地域教会はそれぞれ、我々の教会は祈りの教会であるとか、交わりの教会だとか、伝道の教会であると言って、他の多くの大切な教会のあるべき姿を、無視することができるようになります。あるいは、若者の教会であるとか、金持ちの教会であるとか、白人の教会であるとか、日本人の教会であるというような、差別的な教会も存在を正当化することができることになります。教会が和解の共同体であり、すべての差別を超えた存在であるという聖書的理念は、教会成長学派の人々が提唱する、社会学的な均一質群の教会の成長原則、すなわち、同質の人間が集まる教会はよりよく成長する可能性があるので、教会はすべからく同質の人が集まるようにすべきであるという主張に負けてしまうことになります。地域教会が普遍的教会の一部分に過ぎないという理解は、不完全な地域教会が不完全のままでいることを正当化し、改善の努力をする意欲を削ぎとってしまいます。

 むしろ、地域教会とは、普遍的教会がある特定の場所と時間に自己顕現をしたものと理解すべきです。地域教会は、取り巻く状況と文化、さらには構成する人間のあらゆる弱さと不完全さのために、決して完全ではあり得ませんが、本質的に普遍的教会のすべての性質と力を内に秘めていて、いつでもそれを、その特定の場所において顕現させようとしているものです。地域教会は普遍的教会の一部分なのではなく、普遍的教会そのものの地域的存在です。ですから、地域教会は普遍的教会の一部を表現しているだけでは満足してはならず、一部だけを表現させることを目的としてはならないのです。それは、祈りの教会だとか、助け合いの教会だとか、金持ちのための教会だとか、白人のための教会だとか、中国人のための教会などという排除の教会の存在を、たとえどのような理由があっても、理念的に、許さないものです。地域教会はすべてを包含する普遍的教会の地域的顕現なのですから、どこにおいても、普遍的教会の性質と姿を現して行かなければなりません。

 私たちが聖書の中に見る教会は、普通、地域教会か有機的教会です。すなわち、ある特定の時と場所に自分を表現した、普遍的教会です。神の御心に永遠の昔から存在していた理念的な教会が、文化という限定の中に存在を明らかにした教会です。私たちはその特定の時と場所に表現された教会、文化の限定の中に存在を明らかにした教会を聖書の中に読みながら、普遍的教会そのものを読み取って行かなければなりません。超文化、超国家、超人種、超すべての差別の教会の姿を、探し出さなければなりません。その普遍的教会の隠れた姿を探し出す努力は、使徒の働きに見る教会の描写の中にだけではなく、書簡に記述された教会についての教えや、教会への教えの中でも続けなければなりません。つまり、使徒の働きのような叙述的文書だけでなく、書簡のような教育的文書の中に見る教会の姿も、普遍不変の教会ではなく、その普遍不変の教会の文化的適応の姿であることが多いのです。それらの適応の中から、適応の前の普遍の教会を読み取る努力こそが大切なのです。

 たとえば使徒の働きには、エルサレム教会が、貧しい者に食料を分配する働きの問題を解決するために、7人の人々を選び出したことが記されています。その選ばれ方や、選ばれた人々の資質、あるいは使徒たちが果たした役割などに、当時のエルサレム教会の生き生きした姿が現れています。しかし、これらの一つ一つの事柄自体が、そのまま普遍的教会の姿なのではなく、あくまでもあの時代、あの土地で、あの状況の中に、存在を明らかにした普遍的教会なのです。私たちに必要なのは、あの7人の選出の仕方をそのまま真似ることでも、7人の資質をそのまま現代の教会の働き人に求めることでも、使徒たちの権威を持ち出すことでもありません。そのようにさせた裏の力、陰の考え方、後ろにある見えない普遍的教会を探し出し、その普遍的教会の姿を、現在の私たちの教会のあり方に適応させることです。

 同じように、書簡の中に見ることができる教会も、その大部分は、当時のグレコローマンの文化の中で、それぞれの土地と人々と生活の実情に適応した普遍的教会で、普遍的教会そのものの姿ではないのです。たとえば、コリントの教会は異邦人の敗退した宗教と性風俗の中に、普遍的教会が神の国の力を持って侵入し、自分を表現した教会です。ですから、あのコリント教会の姿形を私たちが模範にする必要はないのです。どうやら盛んに愛餐会を行い、その中で、現代の聖餐式の原型となるようなことを行っていたか、あるいはその愛餐会自体が主の晩餐とみなされていたようですが、それをそのまま、規範として私たちの教会が取り入れる必要はないのです。

 エペソ人への手紙を読むと、エペソとその周辺の教会には、あるいは当時の教会全般にも、使徒、預言者、伝道者、牧師すなわち教師と呼ばれるような働き人たちがいたことが想定されます。しかし、それも、あくまでも当時の教会の在り方のひとつに過ぎません。普遍的教会が、あの当時の実情のなかで、そのような形で自己を表現したということであって、現在のすべての教会も、同様の役割と働き人を回復しなければならないと主張する、レストレーション運動の人々に同調する必要はありません。ただ言えることは、そのような教会の形も有り得るということです。また、たとえば、女は頭に被り物を被りなさいという命令も、当時の社会的・文化的要因を考慮した普遍的教会のあり方を示しているのであって、普遍的教会のあり方そのものではありません。ですから、現在の私たちの教会が、それを守らなければならないといういわれはありません。かえって私たちはそのような教えとなって現れた、背後の考え方、理念を理解し、それを現在の私たちの教会の中に反映させなければなりません。普遍的教会はそのような適応をさせた陰の力、後ろの理念なのです。

 しかし書簡の中には、普遍的教会の真実な姿がより直接的に、明快に教えられている部分もあります。たとえば、教会はキリストのみ体であるという基本的教えと、そのみ体の一部分とされたそれぞれの信徒たちの、共同体としてのあり方などは、普遍的教会そのものの姿が教えられているものです。これはすべての地域教会あるいは有機的教会が、その理念をそのまま受け容れていかなければならないものです。それらを軽視したり、無視したり、拒絶したりする教会は、本来あってはならないものです。ただし、キリストのみ体としての共同体が、特定の状況の中でどのように共同体としてのあり方を実現し、表現して行くかは、適応の問題であって、そのようなところに同一性、あるいは一致を求めるのは本来のあり方ではありません。

 ひとつの教団、あるいは教区など、非常に類似した文化と状況の中で、ある程度の同一性を求めることは、管理運営上有り得ることでしょう。しかし、それを求めすぎて、同一性があたかも教会であるかのように考えられてはならないのです。その同一性が、異なった文化、異なった社会背景、異なった人種、異なった国家にまで求められてはならないのです。最善の適応を考えた結果、たまたま同一であったという場合は構いません。ただ、同一という前提、同一性を求める先入観で進めてはならないということです。ですから、日本の教会の中では常識とされて、当然そうあるべきだと、誰にも問題にされずに受け入れられてきた習慣や伝統を、そのまま異なった国に持って行くことは、アメリカのキリスト教が、教会の中で抱き合ったりキスを交わしたりする習慣を、そのまま日本に持ち込み、「互いに愛し合うべきである。聖書は聖なる口付けをもって互いに挨拶をかわしなさい」と教えているではないかと、強要するのと同じくらい間違っているのです。

 書簡で教えられている事柄の、どれが普遍的教会そのものの姿なのか、どれが地方的文化的適応なのかを見極める働きは、易しいものではありません。読み方、観方によって見解の相違もあり得るでしょう。しかし、注意深い聖書の読み方をするならば、多くの部分では共通の理解を得られるに違いありません。このようにして、普遍的教会のあり方、教会の本質的なあり方に対する共通理解を持って、教会を建て上げていくことが、私たちに課せられた使命なのです。

d.見える教会と見えない教会

 見える教会とは、一般的に目に見える形で活動を行っている教会のことを言います。従って、ほとんどの場合、地域教会あるいは管理上の個教会、または比較的規模の小さい、たとえば聖書の中にある町の名を採った、有機的教会と同じに考えられています。これらの教会は、目で見ることが出来るからです。他の人たちは、本物のクリスチャンも偽者のクリスチャンも含まれている、現実の教会を見える教会と考えています。またある人たちは、あらゆる人間的弱さを抱え、争い合いながら、反目し合いながら、それでも神に従おうと努力している、本物のクリスチャンたちによって構成されていながらも、不完全な姿でしか存在しえない教会を見える教会と考えています。こういう意味では、単にひとつふたつの地域教会だけではなく、もっと広い地域に広がる有機的教会、あるいは世界中のすべての教会が、目に見える形で活動を行っている姿を、見える教会と定義することが出来ます。

 たとえば、地域教会が何かの活動をすればすぐ目に見えます。管理上の個教会が何かをすればすぐわかります。しかし普段はあまり協力していないひとつの都市の中にあるいろいろな教会、あるいはある地方のさまざまな教会が、何かの目的で協力し合う時は、有機的教会が見える教会となって姿を現します。さらに、国際的な超教派の会合や協力プログラムなどにも、普段は目に見えない形で潜んでいる有機的教会の姿が現れてきます。普遍的教会の有機性がそこに姿を現すという言い方も出来ますが、たとえ目に見えても見えなくても、またたとえ不完全ではあっても、有機的教会は常に存在している教会であるとも言えます。

 一方見えない教会は、普遍的教会と同じに考えられている場合が多いようです。普遍的教会は目には見えないからだと言います。他の人たちは、現実の教会の中からすべての偽りのクリスチャンを取り除いた、真実の教会を見えない教会と呼んでいます。誰が本物のクリスチャンで誰がそうでないかは、人間の目には見えないからです。また、あらゆる不完全さを取り除いたならば実現するであろう、完全な、理想的な教会、理念上の教会を見えない教会と考えている人たちもいます。その意味ではここで言う普遍的教会と極めて近いものと考えられます。すべてのクリスチャンは、たとえどこかの教会の会員になっていてもいなくても、教会に出席していようといまいと、あるいは福音に敵対する文化の中で、ひっそりと隠れて暮らしていても、神がご自分の子と認めて下さった者である限り、この見えない霊的共同体を構成しているのです。

e.戦いの教会と勝利の教会

 この表現はあまり多くは用いられませんが、教会のひとつの面を上手に語っています。すなわち戦いの教会とは、いまこの世に存在している教会のことを言います。まだまだ悪魔の支配するこの世で、戦い続けているからです。

 歴史上、教会はしばしば戦う相手を間違って戦ってきました。教会がキリストの軍隊であるという自覚は、教会はこの世においてキリストの権威を持ってあらゆるものを支配するのだという、誤った理解と自負によって、この世の権力や支配、また、権力者や支配者とその軍隊との戦いにのめり込ませてきました。中世の教会は回教徒との戦いに明け暮れる一方、キリスト教国の中の悪魔狩りに血祭りを上げました。植民地時代には、あたかもすべての異教徒が神の敵であるかのように看做して、過酷な取り扱いをしました。現在においても、異教徒たちや福音を受け容れない人々を敵とみなしている、勝利主義的教会がある一方、ヒューマニズムを味方に付け、あらゆる人間疎外をもたらすすべての社会悪と戦う教会もあります。

 しかし私たちの敵は、血肉ではなく、闇の世の主権者とその配下の者たちであることを、しっかりと確認し直さなければなりません。私たちはキリストの使者として、平和の君の代理として、和解の福音を託されたものとして遣わされています。私たちの敵は、戦いそれ自体を武器とする悪魔です。私たちが武器を取って戦うことが、すでに私たちの敗北なのです。エペソ書6章10−18節に記されている神の武具が、すべて防御用の武具であることは非常に示唆に富んだものです。剣さえも攻撃用の大きな剣ではなく、防御用の短剣です。私たちは悪魔に戦いを挑むことはしません。攻撃はしないのです。なぜなら、私たちがこの世に派遣され、神の子としてこの世で生き、与えられた福音宣教の使命を果たしていること自体が、すでに悪魔に対する最大の攻撃になっているからです。

 この世の不正、差別、抑圧に対して声を上げることは良いかも知れません。しかし私たちは、ひとたび不正を行っている人々、差別を行っている人々、抑圧を行っている人々と戦いだすと、その瞬間、私たちの負けとなるのです。私たちの勝利は血肉とは戦わないところにあります。悪魔の策略は、教会が戦ってはならないところで戦い、戦ってはならない相手に対して戦いを挑むように仕向けることです。そして、そのような戦いに打って出るとき、教会は敗北をするのです。しかし、地域教会が敗北することはあったとしても、どこかの地方に存在する有機的教会も敗北することがあったとしても、あるいは国際的な有機的教会すら、負けてしまうことがあったとしても、キリストがお建てになった普遍的教会は、決して倒されることがないのです。

 教会の敵は悪魔とその配下の者たちです。ただし、ここでいう戦いとは、必ずしも悪魔との直接的戦いだけを指しているものではないようです。いわゆるこの世の困難との闘い、闇との戦い、貧乏との戦い、福音宣教における戦い、さらには自分自身の不完全さや弱さとの戦いなど、教会が遭遇しなければならないあらゆる戦いが含まれています。ですから、この戦いに勝利をするためには、教会は、この世の存在であることを止めなければなりません。教会がこの世の存在であることを止めるには、キリストの来臨を待たなければなりません。その時、教会はキリストによって携え上げられ、キリストの姿に似せられ、一切の戦いから開放されるのです。その携え上げられ、一切の戦いから開放された教会を、一般に勝利の教会と呼びます。

 しかし、教会には、もうひとつの形でこの世の戦いを終える人たちがいます。それはキリストの来臨を待たずに、先にこの世を離れる人々です。彼らもまた、たとえまだ完全な姿にはされていなくても、この世の戦いからは開放された人々であり、彼らもまた、大群衆としてキリストの栄を賛美し、今まだ競技場で走り戦っている人々に声援を送っているのです(ヘブル12:1)。この人々が構成する交わりを、現在存在する勝利の教会と考える人たちがいます。
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