Ecclesiology

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教会の一生



 ここでは、神の贖いの歴史の中における教会の一生について考えてみましょう。いわゆる教会史とは異なる、神の贖いのご計画とその計画の遂行の中で、教会はどのような存在なのかを探る試みです。

A. 教会の起源

 ある意味で、教会は生まれる前から存在したものです。それは単に、やがて発展して教会となって行った、運動や組織や集団が存在したという意味ではありません。

1.大初から

 教会は、天地が造られる前から、お造りになった神のみ心の中に存在していました。(エペソ1:4−11)引照としてあげたエペソ書の部分には、直接「教会」という言及はありませんが、教会について語っていることは明白です。私たち、すなわち個人個人としての私たちに留まらず、キリストの体を形成する者として召された私たちは、み前で聖く傷のない者にされるために世界の基が置かれる前から選ばれ(V4)、神の子とされるために定められていたのです(V5)。それは、神があらかじめお立てになったご計画に従ってのことでした(V9,11、ロマ8:28−30)。従って教会は、神の贖いの歴史の途中から、状況の変化に応じて考え出された対応策として出現したものではありません。始めから神の贖いの歴史の中に組み込まれ、重要な役割を与えられ、時が満ちて(エペソ1:10)ご計画の遂行として登場したのです。

2.神の栄光をほめたたえるため 

 神の天地創造は、ご自分の栄光を現すために行われました。贖いのみ業もまた、終局的には神の栄光を現すものです。同じように、教会も神の栄光を現すことがその究極の目的とされています。教会は信徒たちの自己目的のために、人為的に作り上げられたものではありません。その存在と活動のすべてをかけて、神の栄光を現すために計画され、建てられているのです。

 教会は、自分たちに課せられた最大の役割は神の栄光を現すことであることを、しっかりとわきまえて活動しなければなりません。教会が教会自体の栄誉や名声を求めたり、その中の個人が、自分たちの名誉や知名度を誇ったりするようなことがあってはならないのです。神の栄光を現す器として立てられたものが、自らの栄光を追求するのは大きな罪だからです。

 教会はその存在と活動のすべてをかけて、神の栄光を現すのですが、教会にしか出来ない、すなわち、他のどのような被造物にも出来ないような方法で、神の栄光を現すことが定められていえます。それは、「ほめたたえる」という行為です(エペ1:6、12、14)。ただほめたたえるということならば、自然と呼ばれる被造物たちにも(詩96:11−12、イザ55:12)、み使いたちにも可能です。多分、み使いたちの歌う賛美はあたかも純正和音で作られた曲のように、透き通り澄み切って、この上なく美しいことでしょう。しかし、贖い出された者としての感謝と喜びを持ってほめたたえることができるのは、小羊の血潮に罪を清められた教会だけです。夫であるキリストに愛の歌を歌うことができるのは、夫自らに血の代価をもって贖いだされ、花嫁と定められた教会だけなのです(黙15:3,4)。それはみ使いたちの歌う歌声ほど美しくはないかもしれません。しかしそれは、低音の恐ろしげな響きが高音の美しい音色を際立たせ、要所要所に組み込まれた不協和音が圧倒的な盛り上がりを作り出す、悲惨な罪の奴隷の生活を経験した者だけが歌い上げることができる、喜びの歌声なのです。

3.恵みの器として

 神の贖いのご計画の中での教会の設立は、イスラエル民族に代わる「別の農夫たち」、「神の国の実を結ぶ国民」、「他の人たち」として、イスラエル民族に与えられた使命を引き継ぐ役割を与えられたものです(マタ21:33−46、マル12:1−12、ルカ20:9−19)。キリストはこの悪い農夫の譬えの中で、イスラエルという言葉も教会という言葉も用いていませんが、イスラエルと教会の関係について述べられたということは明らかです。イスラエル民族は神の恵みの器としての自らの役割に気付かず、ただ、自分たちが神の祝福の民であるという事実に酔いしれて、特別な選民意識を持って他国民を軽蔑し、神の祝福を全民族に及ぼすという、先祖アブラハムを通して与えられた任務を、放棄してしまっていたのです。

 注目すべきことは、キリストが教会の誕生以前から、神の贖いの歴史における教会の役割について、明確に語っておられたという事実です。イスラエルの失敗をあらかじめ知っておいでになった神は、イスラエルに代わるものとしてあらかじめ教会の設立を想定しておられたのです。キリストがこの世界に来てくださったのは、ただ代償の死をもって人類に救いをもたらすためだけではなく、その代償の死がもたらす祝福を全人類に分配していく、弟子たちの集団を作り上げるためだったということについては、先に述べた通りです。キリストがこの物語をお語りになった時点では、教会はまだ存在していませんでしたが、キリストは予言としてお語りになっているのです。 

 教会が、イスラエルに代わる神の恵みの器として立てられているという事実は、ペテロの言及によっても明らかです。(Iペテ2:9)ペテロは、教会が「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」であると語っていますが、これらの呼称はすべて、イスラエル民族に与えられていたものです(イザ43:20−21、61:6,66:21、出19:6、申7:6、)ペテロはさらに続けて、教会に与えられた役割が、神のすばらしい救いのみ業を語り伝えることであると語って、教会が、恵みの器としてのイスラエルの役割を引き継いだものであることを教えています。

B. 教会の胚芽

 教会は突然出現したものではありません。どこからともなく忽然と姿を現したのでもありません。キリストが注意深く育てておられた、弟子たちの集団から教会へと成長発展して行ったものです。

 キリストは確かに罪人の身代わりとなって死ぬために、この世界においでになりました。しかし、キリストはその公生涯の時間と労力の大部分を、弟子を作るという働きに費やされたのです。その公生涯のごく始めに、キリストは弟子になるにふさわしい人物を見つけ出す働きに着手されました。それから見つけ出した候補者たちを注意深く観察しながら訓練し、訓練しながらもさらに他の候補者たちを見つけ出しています。ご自分に従って来た多くの人々の中から、将来の共同体の核となり、土台となり(エペ2:20)指導者となれる資質を持ったものたちを探し出すために、さまざまな訓練と試みを与えて評価し、さらに徹夜の祈りをもって12人の弟子を選出しています。そしてこの12人の中心であったペテロの告白を賞賛して「この岩の上に私の教会を建てる」とおっしゃいました。この時キリストはアラム語でお話になっていたのか、ヘブル語でお話になっていたのか、あるいは、70人訳の言葉を用いてエクレシアとおっしゃったのかは不明ですが、マタイは霊感を受けてキリストの言葉をギリシャ語で書き残したのですから、キリストは教会を意味していたはずです。

 ですから、キリストがお与えになった訓練は個々人の弟子としての訓練を超えた、将来お建てになる教会の胚芽としての、弟子たちの一団の訓練だったのです。ひとりひとりの人間は、それぞれ個人としてキリストの招きに応じました。しかし、キリストは彼らを、キリストに従う一団の中に入れ、その一団に対して特別な倫理をお与えになりました。それは、古い律法に対する新しい律法であり、自分自身を愛するように隣人を愛することに対して、キリストが愛してくださったように互いに愛し合うことでした。これはあくまでも「互いに」という相互愛の命令、すなわちキリストに従う者たちが作り上げる一団への命令であり、単にキリストに従う個人への命令ではないのです。

 もちろん、キリストに従った者たちが、キリストのそのような意図を理解していたわけではありません。多くのものはあくまでも個人としてキリストに従っていたことでしょう。しかしキリストの訓練は、明らかに共同体を想定していたのです。このようなキリストの意図がもっとも明白に表されているのは、多分、ヤコブとヨハネの母が、自分の息子たちをそれぞれ右大臣と左大臣にしてほしいと願い出た時の、キリストのお答えの中ではないかと思われます。そこにおいてキリストは、この世の人々の組織管理の形を神の国の中に持ち込んではならないこと、すなわち、神の国の中での管理のあり方は、この世の人々の管理とは異なることを説明しています。キリストは弟子たちが作り出す、神の国の共同体、教会を想定して語っておられたのです(マタイ20:20−28)。

 キリストは、ご自分の弟子の一団にやがて誕生する教会を見ながら、教会にとってもっとも大切な働きと機能を、実践を通してお教えになりました。互いに愛し合う共同体として存在するために、許し合い、受け容れ合い、謙遜を持って仕え合うことをお教えになり、キリストのお与えになった権威と聖霊の力によって神の国の到来を宣言し、人々を悪魔の力から解放し神の国に迎え入れていく働きを、具体的に教示して行かれたのです。そして、ご自分の死が間近に迫ってきた時に、改めて全世界の宣教をお命じになり、さらに別の助け主である聖霊の存在を明らかにし、ご自分がこの聖霊を通していつまでも彼らと共にいてくださることを約束してくださいました。

 このように考えて行くと、キリストが洗礼をお受けになったという出来事も、今まで言われていたように、単に罪人たちと同じになってくださったということだけではなく、やがて形作られる教会の頭となるべくして、洗礼をお受けになったのではないかと考えられます。キリストは教会の頭ですが、この頭という言葉は、体全体を支配し動かす権威ある部分と言うよりも、最初の部分という意味合いが強いのだそうです。それはパウロの言う、キリストが「長子となられるため」という意味にも通じるものです(ロマ8:29)。

C. 教会の誕生

 一般的に、教会が誕生したのはペンテコステの日であると考えられていますが、異論がないわけではありません。伝統的なプロテスタント教会の中には、旧約のイスラエルの民は教会であったと主張する人々もいます。いささか自分たちの理論に溺れ、聖書の語っていることを公平に読み取ることを怠った結果と言えます。また、強いデイスペンセーション(時代真理)神学を採る人たちは、それぞれの主張に合うように、教会の誕生を使徒の働きの8章や13章あるいは28章などに置くようですが、これにはかなり無理な「読み込み」の聖書解釈が必要になります。またペンテコステ系には、自分たちの聖霊のバプテスマの神学に都合が良いように、聖霊の内住に始まる教会の誕生を、ヨハネ20:22に記されている、甦りのキリストが弟子たちに息を吹きかけられて「聖霊を受けなさい」とおっしゃった出来事に求める人たちがいます。この時にすでに聖霊の内住があったのだと解釈すると、ペンテコステの日の聖霊の降臨は聖霊のバプテスマの経験だけであり、聖霊のバプテスマの経験は新生の経験の後に起こると主張する、伝統的ペンテコステ神学に合致するためです。しかし、公平に見て、この主張も聖書の全体的な学びからすると、かなり無理があると言わざるを得ません。

1.キリストによって建てられた

 教会はキリストによって建てられたものであり、人間の創意や工夫の産物ではありません(マタイ16:18)。あるいは能力のある人物や、人々の集団が合意によって建て上げたものでもありません。人間の建てたものならば、倒れることもあるでしょう。しかし教会はキリストご自身がお建てになったものであり、どのような力、たとえ悪魔の力をもってでも、これを倒すことはできません。キリストの権威と力と誠実さが、教会の拠って立つところです。パウロは、キリストが教会の土台であるという表現で、このことを語っています(Iコリ3:11)。

 キリストが「建てる」とおっしゃった時点で、教会の設立は未来に関することでした。従って、旧約時代のイスラエルの民は教会であったという考え方は、このキリストのみ言葉と調和しません。たとえ70人訳が、イスラエルの民を指すカハールという言葉をエクレシアと訳していたとしても、またその訳をヘブル書の著者が引用していたとしても(ヘブル2:12)、さらに、祝福の器として神に召されたイスラエルと、同じく祝福の器として神に召された教会の共通点を列挙し、カハールの後期の意味が神に召されたイスラエルの会衆という意味を強めたとしても、それをもってイスラエルの民は旧約時代の教会であったと断定するのは、理論の飛躍です。

 キリストは「私の教会を建てる」とおっしゃって、教会が「神の民」であるイスラエルとは異なる、「キリストの」と呼ばれる新しい民、新しい集団であることをお示しになりました。パウロは、しばしば教会を「奥義」という言葉で表現していますが、彼の言う奥義とは、パウロの時代までは隠されていて、公には示されていなかった神の贖いの計画のことですから、教会は旧約のイスラエルではありえなく、あくまでも新約の時代の贖われた人々の集団であり、贖いの業に参与する集団なのです。教会はイスラエルではなく、すでに学んだように、イスラエルの民に取って代わる新しい民なのです(マルコ12:1−12)。確かに教会は旧約のイスラエルの性質、資質、あるいは特権を継承していますが、教会自体が旧約のイスラエルの継承ではありえなく、ただ、旧約のイスラエルに与えられていながら、与えられたイスラエルが理解しなかった、神の救済のご計画を実現する同体として、教会は建てられているのです。

2.聖霊の宮としての教会

 ペテロの説教によると、「キリストは甦って天に昇り、神の右に挙げられ、約束の聖霊を受けて、その聖霊をお注ぎになりました。」それがペンテコステの日の出来事です(使徒2:33)。この日以前にも聖霊はキリストと共に働いておられましたが、弟子たちにはまだ与えられてはいませんでした。聖霊は、キリストが栄光をお受けになってから注がれる定めになっていたからです(ヨハネ7:39)。弟子たちの一団が教会と認められるようになったのは、キリストが栄光をお受けになった、すなわち甦って天に昇られた後であり、栄光のキリストによって遣わされた聖霊が教会を宮としてお住みになった時、すなわちペンテコステの日の聖霊降臨の時とするのが、やはり最も妥当であると考えられます。教会が単なる「人々の集団」と本質的に異なるのは、人間が目的や意識を共有することによって作り上げる共同体ではなく、聖霊の宮として聖霊に住んでいただくことによって、文字通りキリストの命の流れる有機的共同体、有機体となるということなのです。その聖霊の内住によって、教会は神とキリストと聖霊の交わりを得、その交わりによって神からの新たな命をみなぎらせることによって、信徒相互の命に生かされた交わり、すなわち有機体としての交わりが可能となるのです。聖霊がお住みにならないのならば、教会は単なる人間の集まりに過ぎません。それは共同体であるかも知れません。しかし真の意味での共同体、すなわち命を共有する有機的共同体とはなり得ないのです。

 肉体をとって人となってくださったキリストご自身が、訓練なさっていた時の弟子たちの一団は、その訓練がキリストの権威と力によるものであって、いかに優れていたとしても、あくまでも神のみ姿を捨てて人となられたキリストの訓練であり、本質的には人間が人間を訓練する訓練と異なるところはありませんでした。それは、目的と心がけをひとつにする人間的集団に過ぎなかったのです。しかしこの集団が、神そのもののみ姿を持ったままの聖霊の内住を得て、神的起源と内容を持つ、霊的有機体としての教会、キリストの命を宿す有機体となったのです。

3.使徒の働きの「教会」の用例

 使徒の働きの中で「教会」という言葉が最初に用いられているのは、アナニヤとサッピラの物語においてであり、この時点で、弟子たちの一団はすでに教会としての自覚を持っていたことを、うかがい知ることが出来ます(使徒5:11)。従って、キリストが「私の教会を建てる」と宣言されたときから、このアナニヤとサッピラの物語の間の数年間に、教会の誕生があったと結論することができ、ペンテコステの日の教会誕生という考え方と矛盾しません。

D. 教会の成長

 一般に教会の成長というと、教会成長学派の影響で、管理上の個教会の人数や、経済の成長ということに目が向きがちですが、聖書は、そのような意味での成長とは幾分次元の異なる、教会の成長について語っています。

1.質的な成長

 質的な成長とは、一言でいうと、教会の信徒一人ひとりが、しっかりとした信仰に立って生きることです。キリストを信じる信仰によって新たに生まれたという霊的事実を、しっかりとわきまえて毎日の現実の生活の中で、具体的に表現して行くことが出来るようになることです。パウロは、「もし・・・御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」と語っていますが(ガラ5:25)、パウロの言うことは、「私たちはいまや御霊によって生きているのだから、その事実を現実に生かして行こうではないか」と言うことです。古い自分に死んで新しい自分に生きているという霊的事実を、日常の生活の中で明らかに現して行こうと言うことです。それは、神を神として生きることです。神に神としての尊敬をはらい、感謝をささげ、あらゆる面で神に喜ばれる生き方をしようとすることです。神をすべてのすべてとして生きることです。

 生まれたばかりのクリスチャンは、実にひ弱な存在に見えます。しかし、聖霊を命として内に宿しているこの赤子は、やがて立派な大人になる潜在能力を内に秘めているのです。その能力を、内に住んでおられる聖霊の励ましによって現して行くことが大切です。そしてその潜在能力はあらゆる方面に現されるものです。

a.聖書知識においての成長

 質的な成長として、先ず第一に、基本として、聖書知識における成長がなければなりません。あらゆる霊的な事柄の知識は、霊感を受けた書物である聖書に基づくものですから、聖書の知識なしには正しい意味の成長はありえないのです。神についての知識、キリストについての知識、聖霊についての知識、人間についての知識、神の救いの計画についての知識、贖いの知識、信仰の知識、救いの知識、神に仕えることの知識、聖い生活についての知識、永遠の命についての知識、神の国についての知識など、すべてが聖書にも基づくものであり、聖書の教えから離れた知識はありえないのです。ですから、教会が成長するためには聖書の学びを重んじなければなりません。人間は知・情・意という三つの要素を持っているそうですが、まず、知においてしっかり成長する必要があります。

 しかし聖書の知識は、主知主義的な学びによって得られる知識だけの成長ではありません。聖書の知識というものは、一般の文学や学問の書に対するような態度を持って学ぶべきものではないのです。なぜなら、聖書に記されたキリストのお言葉が示すように、聖霊が私たちを教えてくださるからです。霊感をもって聖書を書かせてくださった聖霊が、今、私たちと共にいてくださって、その聖書を私たちに解き明かそうとしてくださっていることを、悟らなければなりません。私たちの聖書の学びは、この聖霊の照明の助けがなければ、まったく不完全なものとなるのです。ですから聖書の学びは、というより、聖書を読むときはいつでも、聖霊の解き明かしを求める祈りと瞑想をもって、始めるべきなのです。み言葉を前にするとこは必ず、聖霊の助けを祈り期待すべきなのです。 このような聖書の学びを通してのみ、正しい信仰の成長が現れるのです。

 また、聖書の学びの方法にはいろいろありますが、目的は、聖書の語っていることを学び取ることです。そのためには気をつけなければならないことがたくさんありますが、主なものをいくつか挙げてみますと、まず、聖書に素直に聞くという態度を持つことです。多くの人たちが聖書を読み取る代わりに、聖書に自分たちの考えや主義主張を読み込んでしまっています。言い方を変えると、聖書の言っていることを素直に学ぶのではなく、聖書を利用して自分たちの主義主張を訴えているのです。神学者たちは自分の継承した神学を擁護しようと、聖書が語っていないことを聖書に語らせようとします。牧師たちは自分の平和思想や政治の信条を聖書に語らせようとします。信徒は自分に都合の良い「み心」を、聖書をもって証明しようとします。とても残念な事実です。この様な態度では決して聖書を正しく理解することはできません。

 次に、聖書を細切れにして読まないで、あるいはあちこちと探り読みをしないで、ひとつの書をしかりと読み通して、その書の語っていることを理解することです。それは1節や2節だけを引き出して前後の関係を無視して解釈する弊害を少なくします。前後関係から切り離された解釈は、非常に誤りに陥りやすいのです。確かに聖書は一貫した書物ではありますが、40人ほどの原語も文化も異なる人々が、1600年もの期間をかけて書き上げた、別々の書物まとめたものです。書物の性格も形式も異なっています。そのようなことをみな無視して、拾い読みや探り読みをして繋げていくと、知らず知らずのうちに、自分の好みのように聖書を用いることになってしまいます。これまでの組織神学と呼ばれる学問の多くが、そのような欠点を持っています。

 さらに、それぞれの書の書かれた時代と背景を考慮しながら、理解しようとすることです。各書にはそれぞれの著作の理由と目的があり、背景となった事情があります。それらに無知なままでは、正しく理解することは困難だからです。聖書は現代の私たちのために書かれた書物でありながら、あくまでも、まず書かれた当時の読者を第一に想定して書かれたものです。そのことを考慮に入れずに読んでしまうと、正しい意味に行き着くことが出来ません。

 また聖書を学ぶという時、多くの信徒にとって原語で学ぶことは不可能であり、当時の世界の社会情勢や背景を知ることも容易ではありません。したがって、聖書についての補助的書物も必要になってきます。自分ひとりだけで祈りながら聖書を読むという態度は、非常に霊的に映りますが、実際は正しい方法ではありません。聖書辞典、原語に関する参考資料、あるいは歴史背景に関する資料などは、是非必要です。それだけではなく聖書注解や神学の書物も非常に大切であり、良い補助になります。説教は「神の言葉」であるといいながら、聖書一書の人であれなどとおっしゃる方々もいますが、聖書以外の書物を読むなということは、説教も聴くなというのにひとしいことです。一般に、書物のほうが説教よりは内容が整っていますし、間違いも少ないものです。

 聖書に関する資料には、当然間違いがたくさん含まれていて注意を要しますが、それでも教会の知恵であり教会の宝なのです。自分のひとりよがりな聖書理解に陥らないために、これらの書物を読み、客観的な理解に到達するのが得策です。それでいながら、神の言葉はあくまでも聖書だけであることをしっかりと把握し、一書の人として聖書を学ぶことが大切です。プロテスタントでは一般に聖書を大切にしますが、しばしばそれは印刷された書物としての聖書、物質としての聖書に取り替えられてしまう傾向を持っていることに、注意をしておかねばなりません。使徒パウロは、物質としての聖書、書物としての聖書を、いつもすべて持ち歩いていたのではなかったことを、思い起こすべきです。パウロは彼の心の中、また記憶の中にしっかりと聖書を持ち歩いていたのです。

b.神との関係においての成長

 質的な成長は聖書の知識の成長だけではありません。聖書の知識と共に、また、聖書の知識に立った神との交わりによる、具体的な体験的知識も大切です。もしこの知識がなくなると、クリスチャンの成長は未信者の聖書学者の、知的水準の向上と同じことになってしまいます。

 クリスチャンの成長は、神体験の成長です。まじめな信仰を持って聖書を読むということ自体がひとつの神体験ですが、その聖書に立って行動することによって、日々の生活の中で強く神を体験し、深く神を知ることになるのです。神に信頼し祈り、称え、神を中心にした生き方をしていくと、内に住んでくださった聖霊が働き、とりなしてくださり、神との交わりを濃厚にしてくださるのです。そしてその交わりの体験が、たとえば生活態度の変化だとか、考え方の変化だとか、人間関係の変化だとか、あるいは肉体の癒しだとか、あるいは必要に応じた助けというような体験が、聖霊の証印あるいは聖霊の初穂と呼ばれる宝として、クリスチャンの中に蓄えられて行くのです。神は人間と同じように人格(神格)をもっておられる方ですから、お付き合いと交わりによってこそよりよく知られるのです。私たちは祈りと信仰の行為によって、神を知っていくのです。神についての知識が聖書によって養われ、その知識に基づいて信仰を通して神と交わると、さらに、単なる頭の知識としての神を知るのではなく、人格者としての神を理解して行くようになるのです。

 このようにして神を知ると、神に喜ばれたいという気持ち、神のお役に立ちたいという願いが起こり、神を知る程度に応じてその気持ちと願いが強くなって行きます。そして、自分は虫にも劣り、救いに値しない罪人であることを、み言葉とみ言葉を実践しようとする行為を通して、強烈に自覚するのです。幼子が自分ひとりでは生きていけないということをしっかり知って、親に頼って生きる以外はないと本能的に悟っているように、自分も神に頼って生きる以外に道はないと知って、ますます信仰の心を定めるようになります。幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできないからです。このようなことが明確になると、私たちの世界観、価値観、人生観が変わり、パウロのように、生きるにしても死ぬにしても神の栄光のためという、徹底した生き方が出来てきます。それは、日常の生活の中でも、教会生活の中でも、あらゆる局面で、神に喜んでいただけるような生き方をしたいという、切実な願いとなって現れてきます。そしてそれは、神の御栄光のために、積極的に自らを奉げて行く行動を生み出し、神の贖いを通しての救いの御計画に、自分自身を投じて行くことになって行きます。自分の幸せのための信仰から、神の御心のままにお仕えする信仰に変わることです。

 しかし、神の御心のままにお仕えする信仰とは、牧師の言うことにすべて「ハイ」と答えて従う者になることではありません。多くの牧師が、自分の言うことに従順な信徒を作り上げて喜んでいますが、それは牧師に従順なだけであって、本当の意味で成長したクリスチャンではありません。成長したクリスチャンとは神の御前におけるひとりの人格として、自分の考えと行動に責任を持って生きることです。自分の選択と決断に責任を持てる人間になることであって、自分の選択を放棄することではありません。牧師にただ従順なだけの信徒は、神の御前における一人の人間としての責任を放棄しているのです。

 教会が牧師の指導に従うことは悪いことではありません。多くの場合良いことでしょう。しかし、あくまでも聖書の教えに立って、ひとりの人間としての責任を担った、信仰の決断をすることが前提です。自分の責任で聖書を読み、聖書を理解し、聖書の教えを実行する能力を身につけることです。それが、牧師の言うことに従うことと同じであるならば、それでよいのです。ところが、牧師の言うことに盲目的に従う信徒が以外に多いのです。それは信仰ではなく洗脳です。牧師の言うことを、聖書の教えに立って判断できる信徒を育てるのが、牧師の働きの醍醐味です。牧師の言うことに対して、反対のための反対ではなく、聖書の教えに立って、堂々と反対の論陣を張ることができる信徒が現れることが、牧師の本当の願いでなければなりません

 あるいはまた、成長したクリスチャンとは、いわゆる「ノリノリ」のクリスチャンになることでもありません。ペンテコステ系の教会の特徴のひとつは、非常に感情的であることです。人間は「知・情・意」を持っています。信仰は全人格に関わる事柄ですから、当然、知・情・意のすべてに関わります。したがって感情的であることは決して悪いことではありません。かえって、感情のない信仰は信仰ではありません。私たちは情熱にあふれた信仰を持ちたいものです。大いに感情的でありたいものです。しかし感情に流されることは間違っています。それは「知」を疎んじ「意」を忘れることであり、人間としてのバランスを失ってしまうことだからです。

 ところが実際には、私たちの教会の中では、ある種の作為的な感情操作が行われる場合があることを、認めないではおれません。たとえば大衆伝道などでは、大音響のPAシステムを用いて扇情的な音楽を流し、知よりも情に訴えて、信仰の決心をうながす場合がよくあります。また、礼拝会やその他の「恵まれる集会」では、音楽や照明が扇情的に用いられます。出席者たちがリズムに乗り、手拍子に乗り、足踏みに乗り、PAシステムを通した大音響に陶酔していくのを見ると、違和感を持たざるを得ません。信仰に伴う感情が自然に盛り上がって、あふれ出るのは大いに結構です。しかし主催者側が、予めそのような状況を作り出そうと操作をすることには、絶対に反対しなければなりません。このような状況からは、ひとりひとりの信仰の知的考察、知的選択、知的決断が忘却のかなたに置かれてしまうのです。すると、そこに残るのは、大衆心理の感情的流れです。そのような所で形成された「信仰」は、大衆の感情に乗った信仰、いわゆる「ノリノリ」の信仰であって、本来の信仰のあり方から遠いものです。それは信仰と言うよりはむしろ、大衆洗脳です。政治的にはヒトラーやスターリンが用いた手法であり、宗教的には多くのカルト集団が行っていることです。金儲けを主眼とするショー・ビジネスでは、きわめて一般的に用いられている手段です。このような「ノリノリ」のクリスチャンをたくさん作り出すのが、成長させることでないことは言を待ちません。ところが実際上は、このようなノリノリのクリスチャンも活発に活動し、献金もし、伝道もするために、牧師たちはつい、このような作為に手を染めてしまうことになり、それが習慣的になり、それを弁護するようになるのです。

 結局、信仰者として成長するということは、神の御前におけるひとりの人間として、神との関係において、自分の力で考え、選択し、決定し、その考え、選択、決定、そしてその結果に対して責任を持つ者になるということです。これは民主主義の基本となる考え方とよく似ています。いわゆる個人としての自覚、個人の確立です。民主主義では、すべての人間には人間としての尊厳があるということを前提として、その人間としての尊厳を自らの中に認めて、自己の責任で考え、選択し、決定し、その結果にも責任を持つということです。また互いにそのような決定をする個人を尊重しあうということです。それは基本的人権に属すことであると言われます。

 しかし信仰者としての個人の確立は、個人の尊厳にあるのではありません。現代の神学者たちはしばしば近代ヒユーマニズムに影響されて、神のみ姿に似せて造られた人間としての尊厳を基本に、人間の尊さを語りますが、人間の尊さは神に似せて造られたところにあるのではありません。なぜなら人間は、罪のためにその尊厳を失い、もはや神に愛される価値を失ってしまったからです。人間が大切な価値ある存在であるというのは、そのように、本来与えられていた神に似たものとしての尊厳を失ってしまったにもかかわらず、神の愛の対象とされているという事実にあるのです。神に愛される価値を失っているにもかかわらず、なおも愛されているからこそ、神の愛は恵みなのです。恵みとは受けるに値しないものが受ける愛のことです。クリスチャンが、神に似せて創造された人間の本源的な尊厳を主張すると、神の人間に対する愛は「恵み」ではなく、愛される価値のある者が当然のこととして愛されるだけのことになってしまいます。

 私たちは、本来愛される価値を持っていないにもかかわらず神の愛の対象であるという事実、神に愛されているという事実をしっかりと把握し、神の愛の対象としての自分の価値を自覚しなければなりません。また、同じように神の愛の対象である、他人の価値を尊ばなければならないのです。この、神に愛されている自分の価値に目覚め、神のみ前にひとりの人間として自由と責任を与えられているということを、しっかり理解して行動するようになることが、クリスチャンの成長です。このような中から、自らの選択として神に従うことを選び、神に受け入れられ、神の栄光となる生き方をしようとするのが、成長の証です。

 ですから、たとえば、教会全体が燃え上がって熱い信仰を持っていることは素晴らしいのですが、その教会からひとりだけ遠くに離れて住むようになると、火が消えてしまうようでは、本当の意味で成長した信仰ではありません。まだまだ他人の信仰に頼った信仰だからです。現代風の賛美でノリノリになっているときは燃えていても、歌も自由に歌えないような迫害の中では、燃え上がらない信仰はまだ弱々しいのです。個々のクリスチャンが、牧師に指導されたからではなく、教会決議があったからではなく、教会全体がノリノリになったからではなく、神に愛されているひとりの人間として、考え、選択し、決断し、その結果に責任を持つことが大切なのです。

 特に、クリスチャン生活の中には、聖書に直接教えられていないような問題に直面し、聖書には明確な答えが示されていない選択を迫られることがあります。成長していないクリスチャンは、牧師に考えてもらおうとします。牧師に相談をし、意見を聞くのは良いことですが、考えることも選択することも牧師に任せ、その責任を牧師に転嫁するのは間違っています。あるいは、教会が声明を出すべきだとか、教会としての判断を明確にすべきだなどと言い出すのも誤りです。聖書に明確に教えられていることに対して、教会が声明を出すのはかまいません。「私たちは平和のために祈ります」、「私たちは敵のために祈ります」というのは結構です。しかし私たちは「自民党に反対します」、「憲法改正に反対します」、「自衛隊に反対します」というのは、聖書の直接的な、あるいは明確な教えとしては出てこないのです。したがって、共同体の教会としてそのようなスローガンを掲げてはならないのです。そのようなことについては、それぞれのクリスチャンが確立した個人として、神のみ前における信仰と良心をもって、責任をもって考え、決定し、行動しなければならないことなのです。それができるようになってこそ、成長したクリスチャンなのです。

 日本人は常に共同体感覚の中で生きてきました。自己の確立ということが叫ばれて久しいのですが、まだまだとてもそれができるような状態ではありません。個人の大切さや個人の価値ということがまだ認められていないのです。また、認められては困るような生き方をしているのです。なぜなら、それは個人としての責任が求められるからです。たとえば、癌の告知などは、個人の確立が前提とされる文化のアメリカなどでは当然のこととして行われます。人間は一個の人格として、事実に直面し、それに対応する責任を持っているからです。と言うより、先ず、自分に関する事実を知ることは、自分の権利であり、その権利は何者によっても犯されてはならないからです。ひとりの確立された人間として事実に直面して生きるのは、権利であると共に義務なのです。ところが共同体文化の日本では、あるいは日本的共同体感覚の中では、事実に直面させるのは「酷だから、かわいそうだから」と、事実を隠しておくのです。知る権利と対面する義務を、思いやりをもって奪ってしまうのです。このような甘えの共同体の中では、事実を事実として伝えることが、愛のない行為、思いやりが足りない行為として非難されるのです。確立した個人は、それが良いことであろうと悪いことであろうと、事実に直面する義務と権利を認めて対処するのです。

 クリスチャンとして成長するということは、神の愛と義に身をゆだねて、じたばたせずに、「はい」ははい、「いいえ」はいいえとして、画策しないことです。神にゆだねるのですから、クリスチャンは一般のヒユーマニストや一般の民主主義者より、さらに確立した自己を持つことができるのです。「すべてのことを互いに働かせて、私たちのために良くなるようにしてくださる神」を信じているからです。ところが日本においては、教会の中で、あるいは牧師たちの間でさえ、事実を事実として認められず、また、事実を事実として語ることができず、隠したり誤魔化したりしなければならないことが非常に多いのです。「臭いものには蓋」、「見ざる聞かざる言わざる」、「物言えば唇寒し」の文化が、まだ、「はい」ははい、「いいえ」はいいえの、聖書の教える素朴な神信仰に勝っているのです。

 本当のクリスチャン信仰の成長は、神のみ前におけるひとりの人間として、自分の生き方に責任を持つことです。思いやりという名の甘えを、自分に対しても他者に対しても認めないことです。なぜ他者に対しても認めてはならないかというと、それは他者の人権を侵すことだからです。そしてまた、そのような感覚が「身内」の中の不祥事の隠蔽につながるからです。それはたちまち社会的な犯罪となる性質のものです。

 またこのように、神のみ前における責任ある自分と言うものを自覚して生きる人間は、当然のことながら、人間関係においても神のみ前に生きる責任を自覚することになります。人間関係においても、神に喜ばれる生き方をしようと努力するのです。損得を考えずに誠実に付き合い、犠牲を厭わずに愛し、他人の口を気にせずに真実を語るようにされていくのです。神を知る知識と神に対する信仰の成長は、信徒たち一人ひとりをこのように変えて行くのです。

2.共同体としての成長

 しかし聖書が教える教会の成長は、個々人の信徒が質的に成長することで留まってはいません。パウロはガラテヤの教会に向けて、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」と語っていますが(ガラ4:19)、信徒の共同体である教会が、キリストの姿まで成長することこそ、パウロが心血注いで働いた目的です。さらにパウロはエペソの教会に対しても同じことを強調して、ひとつの文節の中で、「キリストの体を建て上げるため」、「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」、「私たちが・・・・・あらゆる点において成長し、頭なるキリストに達することができるため」と語り、最後に、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によってしっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちにたてられるのです」と結んでいます(エペソ4:11−16)。それは、信仰の成長だけでも知識の成長だけでもなく、「一致」への成長なのです。またコリントの教会に対しては、「私はあなた方を清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです」と語りました。パウロは「神の熱心をもって、熱心に」、コリントの信徒たちが誤った教えに陥らないように、あたかも、年頃の娘を持つ律儀な父親のように、警告をしているのです。

 ここではっきりとわかるように、パウロが力をこめて語ったことは、共同体としての成長です。キリストのみ体である教会とは関わりなく、個人として成長することではなく、あくまでもみ体としての成長、共同体としての成長です。個々人の成長が全体の成長のなかで行われ、個々人の成長が全体の成長を促す成長です。それはまたパウロがIコリント12章で強調した、互いに体の器官として痛みを共有し弱さを補い合って生きることです(Iコリ12:1−31)。このような意味から、パウロは教会に対する最も許しがたい罪として、分裂を挙げているのです。たとえ一人ひとりの人間としてどのように立派に成長したとしても、教会に亀裂を持ち込んでは何にもならないのです(Iコリ1:10−15,3:1−17)。

 個人主義の哲学を背景とした神学によって育てられた私たちは、どうしても個人としてのクリスチャンの霊的成長、信仰の成長、人間としての成長、人格の形成などに重きを置き、そこに注目します。ひと頃とても盛んだった教会成長学派が強調した「弟子造り運動」も、個人の弟子化を目指しています。たしかに、聖書は個人の成長もないがしろにはしていません。しかし、もっと大切にしているのは、教会としての成長、共同体としての成長です。弟子造りといっても、共同体としての教会の存在を無視して、本来あるべき姿の弟子は絶対に造り得ないからです。個人の成長が教会全体の成長の益にならないようであっては、有機的共同体である教会としては情けない状態なのです。パウロがコリントの教会に向けて、あたかも異言の賜物が程度の低い賜物であるかのように語っているのは、異言の賜物というものは語る個人の得を高めはするが、解き明かしがされない限り、共同体全体の益にはならないからです。パウロは、共同体の成長を高く評価し、このときは特に共同体の益を強調していたために、まず個人的な徳につながる賜物を低く見積もったのです。パウロ自身が、自分という個人の霊的生活にとっては非常に大切であると考えていた、異言を語るという素晴らしい賜物も、それに伴う個人の霊的成長も、公同の集まりをしているときの教会全体にはあまり益にならないために、評価されていないのです。

 もう少し日常的な、卑近な例を挙げるならば、ひとりひとりのクリスチャンたちがギャンブルをやめ、放蕩をやめ、酒を慎み、言葉にも行いにも品格を漂わせることはすばらしいのですが、そのように立派になっても、他の弱いクリスチャンたちの困窮に無頓着だったり、まだ成長していないクリスチャンを見下して生きたりするよりは、そこまで立派にならなくても、まだときどきギャンブルをしていても、少しばかり放蕩癖が残っていても、他のクリスチャンたちの弱さを思いやり、困窮を助け、進んで彼らのために犠牲になり、そのためには自分のクリスチャンとしての成長さえ後回しにすることの方が、よほどすばらしいのです。

 さらに、質的な成長にはもうひとつの面があります。それは目的の共有です。ひとりひとりのクリスチャンが贖いのみ業のために、また主の栄光のために生きる決心をし、自分のすべてを捧げることは素晴らしいものです。そして、そのようなクリスチャンたちをたくさん見ることができるのは幸いです。しかしもっと素晴らしく、さらに幸いなのは、主の贖いのみ業と栄光のために、共同体として献身していくことです。自分たちが召されたのは、ただ単に神の祝福をいただき、幸いな生き方をするためではなく、祝福の器として主の救いのみ業を全世界の人々に宣べ伝えるためであるという事実を、教会全体として理解し、確認しなおし、そのためにすべての賜物、まさに千差万別の賜物、種々雑多な賜物をことごとく動員していくことです。たとえ賜物の多くは直接宣教の働きに関わるものではないとしても、すべての賜物の積極的活用が教会全体を健康にし、より強力にひとつの業、宣教の働きを推進していくことができるようにするのです。

 これはすなわち、教会全体としてキリストの生き方を自分のき方とすることです。教会全体の中に主のみ姿が形造られ、主が愛してくださったように互いに愛し合うと同時に、キリストの受肉の目的である罪人の救いを目的として生きていくことです。キリストが父によって遣わされたように、私たちもまた、教会としてこの世に遣わされているのだという霊的事実をしっかりと把握して、その霊的事実を現実の生活の中に活かしていくことです。人生の重荷を取り去ってほしくてキリストの下に集まっていた集団、自分の幸せを求めて神をさえ利用してきた自己中心な者たちの集団から、神の栄光のために自分たちのすべてを投げ出すことができる、神中心の人々の集団になることです。そのようにして「心を新たにすることによって作り変えられ」、教会という共同体の中での自分という個人の役割を明確に理解して、すなわち、自分に対する神のみ心は何かということをわきまえて、行動する人たちの集団となることです(ロマ12:1−8)。

 また、このような成長は、人間の努力によっては不可能であるということを、わきまえておかなければなりません。教える側も教えられる側も、訓練する側も訓練される側も、人的な努力と能力でこれを達成できるものではありません。新しく生まれたものとしての特質、すなわち聖霊の内住、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」を宿していることによって(エペソ1:23)、キリストの命をあふれ漲らせていただいて、はじめて可能となるのです。それは「信じるものに働く神の全能の力の偉大さ」によってのみ達成されるということです(エペソ1:19)。共同体の成長は、命の源であるぶどうの幹に繋がり、幹からの命をしっかりと吸収することによって可能なのです。そしてひとつひとつの枝々が、幹からの命によって生かされて作り出す養分は、幹に還元され、運ばれ、さらに他の枝々の命とされていくのです。

3.地理的・量的な成長

 キリストは、誕生直前の教会に対して、「全世界に出て行き」「すべての国民を弟子としなさい」とお命じになりました(マルコ16:15、マタイ28:19)。また昇天を目前にして、「地の果てまで」という表現を用いて、教会の地理的な発展成長を使命としてお与えになりました。地理的成長はおのずから量的な成長に繋がります。教会は始めから全世界的広がりを持つべき共同体として建てられ、その実現を目指して進むものです。教会が世界中にその姿を現すようになったのは、民族や帝国の台頭、植民地主義や自由主義経済など、多くの要因を背景としています。しかし、それらすべてを超えて、教会は始めから全世界のあらゆる国民を対象として存在するものとして、すべての権威を与えられたキリストご自身によって創設されたものであるという事実があります。

 また、キリストがお用いになった「国民」という言葉は、本来、「民族」と翻訳するのがふさわしいといわれています。この事実から見えてくるものは、教会は民族、国家、言語、文化などの人為的あるいは人間的境界線を越える、超国家、超文化、超人種、超言語的な集団、すなわち普遍的集団であるということです。教会は、その設立者によって、普遍的な存在としてもくろまれていたのです。国民と訳されている言葉が、本来は民族と訳されるべきものだとすると、教会は単にすべての国家の中に存在するだけでは本来の創立趣旨に到達しておらず、与えられた使命をまだ完全には遂行していないことになります。現代の国家のほとんどは単一民族によってなるのではなく、多くの民族が複雑に絡み合って存在するものだからです。キリストが果たしてどのような意味をこめて「民族」という言葉を選択されたのかは、今となっては厳密に定義することは不可能ですが、現代流に考えれば、単なる血族的な民族という意味を超え、職業集団や階級集団なども含まれるべきだと主張する人々もいます。

 ともあれ、教会はあらゆる人為的な境界線を越え、すべての人々の集団の中に存在して行くべきものです。これを人数的な成長という面から見ると、まず、地域教会内の数的増大、特定地域の中での教会数の増大、地域を越えた拡大、そして、民族や国家を超えた異文化への拡大となります。また宣教戦略という面から考えると、地域教会の設立という点的な戦略、それらの点を共同体意識でつなぎ合わせる線的な戦略、さらにその線を面に変えて地域全体を覆っていく戦略が考えられるでしょう。その上に、飛び火的な宣教師の派遣ということも必要になるでしょう。そしてそれらすべてに、単なる表層的な福音の伝達ではなく、人心の奥深く、文化の奥深くまで到達する浸透の宣教が必要になるでしょう。

 このように考えると、教会はまさに和解の福音による和解の共同体として、成長して行かなければならないことがわかります。ただ、あらゆる民族の中に教会が存在するというだけに終わらず、あらゆる民族の相違と抗争の歴史を超え、怒りと敵意を終息させる、神の贖いによる和解を基とした和解をもたらすものとしての存在を、明らかにして行けるように成長しなければならないのです。ですから、他民族に対する敵意を露にした民族主義的教会、他民族や他の言語集団あるいは社会層に対する差別を露骨に示した孤立的教会などというものは、本来、教会の存在理念に反するものなのです。パウロが和解の福音という主題を取り扱ったとき、明らかにこのような和解を念頭に置いていたのです(エペソ2:11−22)。

4.成長への2種類の活動

 教会にはその成長を促す2種類の活動があるように思われます。それらの活動はまた、成長の当然の結果として現れてくるものです。これらは、キリスト在世当時の弟子たちの活動の中にも、また、使徒時代の弟子たちの中にも見ることが出来ます。それは、キリストに触れた者たちの自主的な、自然発生的な活動と、目的化された組織化された活動です。

 キリストの噂が全土に広まったのは、キリストに接触した者たちが、勝手におしゃべりをした結果です。誰に命じられたのでも、教えられたのでもありません。彼らの中に生じた興奮と期待、喜びと感動がそうさせたのです。サマリヤの女は、頼まれもしないのに、自分がしていた恥ずかしい行為をわざわざ持ち出してまで、キリストについて証して語りました。癒された者たちはキリストの命令に背いてまで、自分の体験を通してキリストについて語りました。ところが、キリストはそのような自然発生的・自発的証には満足せず、弟子たちを訓練し、組織し、より明確な目的と活動指針を与えて派遣されました。

 同様に、使徒時代の教会も、多くの名もない信徒たちによる単純な証が、宣教の主な動力となっていました。彼らは、エルサレム市内はもとより、サマリヤ人やエチオピアの宦官に対する宣教、あるいはアンテオケを始めとする異邦人社会の中にまで、福音を語り伝えています。歴史によると、ローマ教会も、あるいはアレキサンドリアに早くから存在した強大な教会も、どうやら信徒の自発的な宣教活動によって始められたものだということです。しかしその一方で、聖霊はバルナバとサウロを異邦人伝道のために召し、より明確な目的意識と方策をもった働きをさせています。そしてこの働きは、より効果的な活動を目指して、小さいながらも組織的形態を持つようになって行きました。

 また、教会内の愛の交わりという面でも、まず自然派生的な任意の助け合いから始まって、必要に応じて組織化が行われています。始めのうちはエルサレム教会内だけのものだったこの働きは、パウロによって、民族と国境を越えた働きに拡大されて行きました。また、教会内の教育や管理という方面においても、使徒たちの指導を除いては、個々人の自由な参画から始まったと言える部分が多かったようですが、かなり早い時期から組織化が行われて、より効果的な活動ができるように整えられていったように読み取れます。

 このようにして見ると、教会の成長のためにはこの自発的・自然発生的活動と、組織的な活動が欠かせないことが明らかになってきます。どのように自発的活動が盛り上がっても、それを上手に取り込んで組織化しなければ、効果的な成長には結びつきません。どれほどしっかりとした組織を作り上げたとしても、情熱のこもった自発的な参画がなければ、組織はたちまち形骸と化してしまいます。

E. 教会の完成

 教会は、悪魔が支配するこの世に存在する限り、戦いの中にいます。悪魔の支配に抵抗して戦うために、この世に遣わされているからです。また、教会はキリストご自身によって建てられた天的な起源を持つものですが、人間の集まりとして、極めて人間的な弱さを持っているものです。こうして教会は悪魔という敵と戦いながら、自らの弱さや不完全さとも戦い続けなければならないのです。

 しかし教会の戦いは、いつまでも続くものではありません。教会はやがて、「雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主に会い、しみも傷もないキリストの花嫁として迎えられ(エペソ5:26−32、IIコリ11:2)、華やかな「小羊の婚宴」が開かれます(黙19:6−9)。教会は準備の整った花嫁として、その婚宴に臨むのです。そしてこの準備の整った、しみも傷もない花嫁としての教会は、単なる夢物語や空手形に終わるものではありません。なぜなら、そのためにこそ、キリストはご自身を捧げてくださったのであり、キリストの目的が達成されることなしに、挫折してしまうことはありえないからです。またこれを遂行させているのは、キリストの愛であり、三位の神のもっとも本質的な性質から出ていることだからです。 

 パウロはまた、この教会の完成の時を、「御国を受け継ぐこと」という言葉でも表現しています(エペソ1:13−14,4:30)。その時教会は、悪魔の支配から完全に移され、神の支配の中、すなわち御国に入れられ、そのすべての祝福を世継ぎとして受け継ぐのです。それはまた、贖われることであり、子とされることであり、救われることでもあります。それらすべては、すでに私たちの中に起こった事実ではありますが、それが完成するのは、私たちが御国を受け継ぐ時のことなのです。そしてこの救いの完成の確実な保証として、神は私たちに「聖霊をもって証印を押して」くださいました(v.13)。聖霊ご自身が、「私たちが御国を受け継ぐことの保証」なのです(v.14)。

 この「聖霊の証印」がいかなるものかについては、いくつかの考え方があるようですが、単純に聖書を読む限り、「聖霊が私たちの内に宿ってくださっている事実」、あるいは、「聖霊が私たちに働きかけてくださっている事実」と考えるのが最も自然です。その事実はクリスチャン体験の中に如実に、明らかに、現実の力として現れてくるものであり、パウロが、「神の国は言葉ではなく力である」と語った聖霊のお働き(Iコリ4:20)、キリストが、出エジプト記8章19節に記されている呪術師たちの表現を用いて、「神の指」とお語りになった(ルカ11:20)、聖霊の顕著なみ業のことだと考えられます。このような聖霊のみ業を拝して、私たちは聖霊のお働きが確かなものであることを確信し、その聖霊が必ず、私たちを救いの完成、贖いの完成へと導いてくださると、望みを持つことが出来るのです。そういう訳で、今私たちが見る聖霊のみ業は、「御霊の初穂」となるのです(ロマ8:23)。

 すなわち、生活の改善や人格の形成などの心に関わる聖霊の働きや、病気や怪我あるいはその後遺症の癒しなどに関わる聖霊の働きは、やがて私たちがいただくことになるキリストに似た姿と、朽ちない完全な肉体への保証として与えられるということです。この世における悪魔との戦いに対する勝利は、やがて与えられる完全な勝利への保証なのです。十字架で主イエスが勝ち取られた勝利は、そしてその成果としての贖いと救いは、やがて到来する「未来」の神の国の完成において完結するのですが、私たちは今、私たちの内に宿り私たちと共にお働きになる聖霊の働きによって、その神の国を私たちが受け継ぐこと、そしてその神の国において、完全な人間性の回復と完全な肉体の回復が、間違いなく果たされることを確信するのです。また、キリストの愛によって生かされた共同体の中の人間関係においても、聖霊のお働きは顕著であり、それがまた、やがて現される御国での聖徒の交わりを彷彿とさせ、確信させるのです。

 キリストは、この教会の完成についてまったく別の言葉でお語りになっています。天に挙げられる時を間近にして、キリストは弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたもおらせるためです」(ヨハネ14:2−3)。私たちがキリストに迎えられるとき、教会は、この世に遣わされた目的である宣教の使命からも解かれて、悪魔との戦いと自分たちの不完全さとの戦いに、ひとまず終止符を打つのです。

 その後の教会がどのようになるかについては、終末論の立場によって随分理解が異なりますが、いつまでもキリストと共にいること(Iテサ4:17)、再びキリストと共にこの世界に来ること、第一の復活にあずかった者として、神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間王となること(黙20:6)、「新しい天と新しい地」というまったく異なった世界の秩序の中に入れられ、神と共にそして神の愛と慰めの中に至福の生活をすること(黙21:1−6)などを、聖書の中からうかがい知ることが出来ます。

 また、教会の完成とは別の事柄ではありますが、関連のあるものとして、ヘブル書12章23節の長子たちの教会という表現に触れておく必要があるでしょう。この長子たちとは誰を指すのかによって考え方も変わってきますが、現在のこの世に存在する教会とは、別の次元の教会の存在も考えられます。それは一般には「勝利の教会」と表現されているもので、すでにこの世での戦いを終えて、死んで行ったクリスチャンたちによって構成される教会であると言われていますが、この一節だけからの推測の域を出ないために、細かく取り扱うのは避けるのが賢明かと思われます。

 とは言え、キリストの再臨を待たずに死んで行ったクリスチャンたちが、キリストの來臨と共にまず甦らされて、地上に残っていた教会と共に天に引き上げられ、キリストに似る完全な姿に造りか変えられて、キリストの花嫁となるのですから、彼らが肉体の死という、贖いの歴史から見ると小さな出来事によって、教会と関係のないものとされるとは考え難く、むしろ、次元の異なるところに移された教会と考えるのが適当と言えそうです。

 ここで、ちょっとわき道にそれて、著者が見た光景についてお話しましょう。もう20年以上も前のことです。当時私は、宣教師としてフィリピンで働いていましたが、ときおり、マニラ南部のモンテンルパというところにある、重罪人を収容する刑務所での伝道活動を支援していました。ここには多くの死刑囚をはじめ、およそ4,5千人の囚人たちが生活していましたが、私の友人が関わっている働きが主に用いられ、たくさんの奇跡が起こっていました。高い塀と有刺鉄線と軽機関銃で隔離された刑務所の中は、日本のように独房があるわけではなく、集団生活をしていましたから、囚人たちの抗争、集団暴力、殺人、麻薬などが後を絶ちませんでした。そのような中で福音は力を発揮して、囚人グループのボスたちを始めとして多くの者が救われ、すっかり様子が変わってしまいました。

 刑務所の中の特別集会に招かれたある日のことです。250人を超えると思われる熱気にあふれた集会の中で、ひとりの囚人が証を始めました。フィリピンの貧しい男性の多くのように、バスケットボール用のトランクスひとつのその男は、全身刺青で覆われていましたが、どうしたことか頭までツルツルに剃りあげていました。彼は満面の笑みを浮かべ、大きな身振り手振りで、朗らかに話し出しました。「やあ、みんな。俺が誰だかわかるよな。昨日椅子に座らせられたんだけど・・・・・。」 私の隣にいた囚人が説明をしてくれました。「彼は昨日電気椅子に座らせられたんです。」 「椅子が故障していて死ねなかったので、修理が終わるまで、みんなと、もう少しお付き合いを続けることになった。そういうわけでよろしく。」 彼が頭を剃り挙げていたのは、スタイルではなく、電極板を頭に張るためだったのです。彼は続けて言いました。「俺の人生はめちゃくちゃだったけれども、このモンテンルパに入れられて、キリストに出会って、俺はすっかり変えられた。そのことはみんなが一番良く知っている通りだ。俺がキリストに出会ったということ、そしてキリストによって造り変えられたということは、俺にとって何よりもリアルな体験だ。だから、今の俺にとって電気椅子は少しも怖くない。キリストが約束してくださった永遠の命は、俺が体験したキリストの出会いと同じように、俺の中でリアルなんだ。俺が変わったことと同じだけリアルなんだ。永遠のみ国でまたみんなと会えるという望みもまた、俺にとってリアルなんだ。」

 彼は「聖霊の証印」などという高度な教えを学んではいなかったでしょう。しかし、彼のリアルなキリスト体験が、彼の永遠命への、そしてキリストの約束の成就への証印となっていたのです。数ヵ月後に再びモンテンルパを訪ねたときには、彼の姿はありませんでした。しかし、私にとっても彼と会えたということはリアルな体験であり、彼とまた会えるということも、リアルなことになりました。


     モンテンルパには刑務所が3つありますが、これはその中でも一番刑の重い者が入る「マキシムム・セキュリテイー・エリア」での出来事です。現在ここで服役していた者の多くが救いを受け、特赦を得て釈放され、「娑婆」で牧師として働いている者も少なくありません。今年ここで責任を持っていた友人に会ったときの話では、「25人はくだらないだろうな」ということでした。現在は彼の息子が責任を持って働いています。
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