Ecclesiology

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召されたものとしての教会



 教会はとても大きく、巾広く、奥行きのあるものです。短い言葉で簡単に定義できるものではありませんが、まず、教会という名称に関わる事柄を取り上げて、教会とは何かということを、いくらかでも明らかにして行きたいと思います。

A.召されたもの

 日本語の「教会」という言葉は、エクレシアというギリシャ語の翻訳として用いられています。エクレシアと言う言葉は、新約聖書に87回出てきますが、もともと「〜から」という意味の「エク」と、「招く、大声で呼ぶ」という意味の「カレオー」というふたつの言葉がひとつになって、「呼び出す」と言う意味の「エンカレオー」という動詞になり、さらにこれが名詞に変化して、「呼び出された者たちの集り、会合、会衆」という意味のエクレシアになったものです。

 実は、エクレシアという言葉は、クリスチャンたちによって用いられ始めるずっと前から、古代ギリシャ都市の議会の呼称として広く用いられており、この古代ギリシャの議会が、現代の民主主義に通じる議会であったことは、良く知られている事実です。また、使徒の働きの著者ルカは、パウロがエペソにおいて騒動に巻き込まれた時の暴徒たちを、エクレシアと呼んでいますから、このような呼び方がごく一般的であった事がしのばれます。(使徒の働き19:31)。

 さらに、一般に70人訳と呼ばれる旧約聖書のギリシャ語訳は、紀元前2、3世紀に完成されたと考えられていますが、この中で、イスラエルの会衆を意味する「カハール」というヘブル語が、エクレシアと訳されています。70人訳は当時非常に広く用いられていて、キリストの弟子達の多くもこれに親しんでいたと考えられますが、ギリシャ語を話す弟子であった殉教者ステパノも、イスラエルの会衆のことをエクレシアとギリシャ語で呼び、それをルカがそのまま記録したと考えられます。(使徒7:38)また、ヘブル書2:12は詩篇22:22の引用ですが、会衆という言葉がエクレシアと翻訳されています。日本語では口語訳も新改訳も「教会」と訳し、新共同訳は「集会」と訳しています。

 初代のクリスチャンたちは、当初、自分たちのことを「弟子たち」(使徒2:41)とか「この道の者たち」、あるいは単に「信じた者」とか「聖徒」と呼んでいたようです。また、ユダヤ的背景の強いヤコブ書では、一度だけですが、教会がユダヤ教の会堂を意味する「シナゴグ」と言う言葉で呼ばれています(2:2)。これは初代の教会が、ユダヤ教の会堂の形態から発展してきたことを伺わせると共に、そのようにも呼ばれていた時期があったことを示すものです。初代の教会の歴史を記している使徒の働きで、エクレシアという言葉が教会という意味で最初に用いられているのが、5章11節である事からも推測できるように、一般のクリスチャンたちが、自分たちの集りあるいは交わりを、エクレシアという言葉で表現するようになったのは、少なくても、キリストの昇天後しばらくたってからのことだったと思われます。

 また、彼らがエクレシアという言葉を選んだ経緯には、多分、当時のクリスチャンたちの一大決意があったのではないかと想像されます。なぜなら、それはギリシャ都市の一般の議会や、町内会の集まり、あるいはわけもわからないで騒ぎ立てるだけの暴徒など、様々な人々の集りと混同される危険がありましたし、当時70人訳が広く読まれていた事実から、イスラエルの会衆と間違われる危険もあったからです。それにも拘わらず、彼らが敢えてこのエクレシアという言葉を選んだのは、教会の本当の姿が、まさに「召された者たちの会衆」と呼ばれるに相応しく、その他の言葉ではどうしても、教会の全体的な姿を表現できなかったからでしょう。そのように考えると、初代のクリスチャンたちが自分たちの集り、つまり教会について語るとき、最も大切なこととして認識していたことは、「召し出された者たちの集りである」という事実であったと考えられます。たぶん、これが最も簡潔な教会の定義であると言えるでしょう。

 ついでながら加えますと、教会のことを英語では「Church」 と言いますが、これは「主のもの」という意味のギリシャ語「キュリアコン」から来たといわれています。この言葉は、新約聖書では主の晩餐と主の日にそれぞれいちどずつ用いられているだけで(Iコリ11:20、黙1:10)、教会という意味では一度も用いられていません。この言葉が教会の集会場所を指すようになったのは、使徒時代以降のことと考えられています。日本語の「教会」は、教会の本来の姿を幾分かは表現しているとはいえ、「教える」という意味が強すぎて、個人的には好になれませんが、他に適当な言葉があるようにも思えません。あえて言うならば、「召会」でしょうか。私たちの教団名は、英語のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドという名前をそのまま用いていますが、「神の集会」いう意味で、教会の本来の意味をよく伝えていますし、「集会」を複数形にしているのも当然とはいえ、なかなか良いと思います。これを漢字にして「神召会」と訳したのは、まさにエクレシアより傑作ですが、残念ながら、教会という名が定着した後であり、またひとつの団体の名前としては、意味不明と言われそうで、いくつかの個教会の例を除いては、団体名としては残らなかったようです。ただし、台湾や香港の私たちの姉妹教団では、立派に「神召会」で定着しています。ただし、英語でアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの前に、定冠詞の「The」が入っているのは、いささか独りよがりの感がしないでもありません。

B.新約聖書の「召し」という言葉

 新約聖書は、教会が召された者であるという意味で、カレオーの変化した形の言葉を60回ほど用いています。日本語では「召し」あるいは「招き」、さらにはそれらの動詞の形に訳されています。

 召しという概念は、教会の中でしばしば誤解されて用いられてきました。多くの場合、召されるという言葉は、伝道者として召される、牧師として召される、説教者として召される、あるいは宣教師として召されるというような意味合いで用いられてきました。しかし、これは新約聖書が強調する召しとはまったく違うものです。新約聖書が「召し」と言う場合、その90%以上が、教会がこの世から、あるいは悪魔の支配から召され、呼び出され、神の国に招待されているという意味で用いられているのです。すなわち、聖書の言う召しとは、基本的に、救いと言う事実を神の側からの行為として捕えた表現であり、救いそのものなのです。

 例外のひとつは、使徒の働き13:2でバルナバとサウロが召されたと言われているところです。この場合は神が彼らのためにお定めになった「働き」への召しです。それから、彼らがマケドニヤに渡るきっかけとなった幻についての言及で(使徒16:10)、彼らは、福音を語るという働きと、マケドニヤという場所と、マケドニヤ人という対象に対して、特定の期間に限って召されたと信じたと言うことです。また、パウロは独身の状態や奴隷の身分の状態を指して「召し」と言う言葉を用いた例があります(Iコリ7:20)。これは昔カルビニストたちが職業を「召し」と呼び、それぞれの職業は神の召しであるからそれを変えてはならないと教えたり、ある人たちが独身は召しであると主張したりする、よりどころとなったものです。

 また、神の働きの中での「聖職」に対する召しとしては、ただ一度だけ、ヘブル5:4で旧約時代の大祭司に関わって用いられていますが、祭司職が失われた新約時代にこの用法を適用して、牧師や宣教師という「聖職」への召しの根拠とする事はできないでしょう。また、ロマ1:1あるいはIコリント1:1で、パウロが使徒として召されたと主張しているように理解できるところがあります。しかし、これはそのような「聖職」への召しの存在を先入観として持っている、翻訳者たちの訳の間違いだと考えられます。文法的にはそのように訳す事も可能だと思いますが、文脈からは違うと判断されます。いずれの場合も数節後には、一般のクリスチャンたちに対して「召された」という同じ言葉をもって呼び掛け、「共に同じ救いに与った我々」という意味を込めているのですから、パウロは自分が使徒として召されたと言う事を言おうとしたのではなく、召されて、使徒となった、すなわちまず救いに与って、それから使徒となったと言っているのだと判断されます。パウロはIIテモテ1:9−11においても同様の言いまわしをしています。

 このように、新約聖書は召しと言う言葉をもって救いという事実を表現し、救いが人間側の努力や功績によらず、神の側からの働きかけによるものである事を強調しているのです。救いに関する神のご意志と手段を、人間の意思や手段に対比しているのです。教会がエクレシアと呼ばれるようになったのは、自分たちは自分たちの意思によらず、自分たちの働きや功績にもよらず、まったく、神の側の圧倒的な働きかけ、抗しがたい神のみ心によって、呼び集められた者の共同体であると認識されたからに違いありません。

 このような神の絶対の召しに対し、人間の自由意志による選択、あるいはそれに関連して、いわゆるカルビニズムとアルミニズムの論争があることは、よく知られています。聖書では神の絶対主権による選びと召しが強調されていると共に、人間には自由意思が与えられ、神の提供される救いの招きを受け入れる事も、拒む事もできると教えられているからです。カルビニズムとアルメニズムの論争はいつ果てることなく続いていますが、この論争自体に大きな欠陥があり、不毛な論争です。それは神の絶対の自由を、人間の限られた自由と同じレベルに引き下して、論じ合うという欠陥です。神の自由と人間の自由が直接衝突してしまうのは、神の自由と人間の自由を同じ高さ、同じ線路に置いて走らせるからです。本来、神の自由は根源的な自由であり、無制限の完全な自由です。それに対し人間の自由はあくまでも許されている自由に過ぎず、与えられている自由です。それは時間と空間、また、人間に与えられている有限の能力というものによって、必然的に制限された自由です。神の自由と人間の自由では次元が異なるのです。

 喩えて言うと、人間の自由は金魚鉢の中にいる金魚の自由です。金魚は金魚鉢という場所と、金魚が生きている時間と、金魚の能力の範囲内で、まったく自由なのです。人間も、宇宙船地球号という金魚鉢のなかで、許されている命が続くかぎり、与えられた能力の許す範囲で、まったく自由なのです。自分の能力の限りに考え、選択し、創造し、活動する自由があります。与えられた環境の中で生きるという限り、まったく自由です。ひとりの人間として生きる長さがどれだけか、あるいは人類として生かされる長さがどれほどかは不明ですが、その中で自由です。しかし、人類の生きる長さも無限ではありません。神が許される範囲の中で無限なのです。したがって、神の自由な選びと召しが人間の自由な選択と衝突する事はあり得ないのです。人間はまったく自分の自由意思で、神が提供される救いを選びますが、その人間選択は神の選びと召しの中にあって行なわれるのです。

C.この世から召し出されたもの

 教会とは召し出されたものです。教会はこの世と呼ばれる世界から、神の選びにしたがって呼び出されたものです。この世とは、悪魔の支配する世であり神の支配である神の国に対峙するものです。それは生まれ出るすべての人間が、一度は必ず生まれる闇の世であり、そこにおいて人間は、心の望むままに生きる自由を持ちながら、悪魔にしたがって罪の奴隷として生きる自由だけしか持ち合わせず、生まれながらにみ怒りを受けるように定められ、罪と罪過の中に死んでいたものです(IIコリ4:4、エペソ2:1−10)。

 ところが教会は、そのような中から神の絶対のご意志によって選ばれ、召し出されたのです。もはや悪魔の支配を受けて罪を犯し続けるのではなく、悪魔の支配と罪から解放されて、神の支配である神の国の中に入れられ、良い行ないができるように造り変えられ、神の子としての身分を与えられ、永遠の命を与えられ、神の国の国民として、やがて完成される神の国を目指して、まっしぐらに進もうとしているのです。教会はいまだにこの世に生きていながら、この世に属してはおらず、寄留者として旅人として生きているに過ぎません。

D.神の国に召し入れられたもの

 神の召しには、召し出されるという意味合いと同時に、召し入れられる、あるいは招待されるという意味があります。教会が神の国に召し入れられたという、聖書の直接の言及はIテサ2:12に一度だけあるだけですが、悪魔の支配するこの世から召し出されたということは、悪魔の支配に対峙する、神の支配の中に召し入れられたと言うことであると、容易に推測できます。また、キリストがお話になった神の国のたとえからも、それは充分に可能な考え方です。(マタイ13:1―52) あるいは「召し」という言葉が、キリストの交わり(Iコリ1:9)、平和(Iコリ7:15)、自由(ガラ5:13)、一体となる(コロ3:15)、清潔(Iテサ4:7)、キリストの栄光を得る(IIテサ4:14)、永遠の命(Iテモ6:12)、永遠の資産の約束(ヘブ9:15)暗闇から光り(Iペテ2:9)、キリストと共なる苦しみ(Iペテ2:20,21)祝福を受け継ぐ(Iペテ3:9)、などという表現と共に用いられている事実は、召しとは神の国への召しであると語っていることがわかります。

 神の国とは、単純に「神の支配」のことですが、非常に大きな概念で、キリストの教えの中心であり、使徒たちの宣教の核心でした。この神の国を、キリストは今この世界で私たちが現実に体験するものでありながら(マタ12:28、13:1−52、23:13)、やがて来たるべきものとして描いています(マタ25:1−46)。それはパウロも同じです(Iコリ4:20、Iコリ6:9−10、15:50)。

 今この世で体験できる神の国は、癒しなどの奇跡をもって悪魔の支配に勝つ事や、正しい行ないによって人間の生活の中に働く悪魔の力に勝利して行く事、あるいはそのように勝利できるようにされた人々の、人間関係の中に現されて行きますが、あくまでもまだ不完全なものです。その内容においては正真証明神の国の現れであっても、まだ、神の国の力が完全に現れているのではなく、いわば前味のように、あるいは手付金や保証金のように、後に現れる完全なものへの保証として現されているのです(エペソ1:13−14)。神の国に召し入れられた者は、また、神の国に生まれた者、上からあるいは再び生まれた者であり(ヨハネ3:1−10)、神の霊がその人を宮として住んでくださる者です。こうして、悪魔の支配のもとで神に敵対して生きていた者が、神と和解させられて(ロマ5:1)神の支配の中に入れられ、神の霊に住んでいただく新しい存在となるのです(IIコリ5:20)。

 聖書は神の国のこのような二重性が、たとえば救われること、子とされること、贖われること、聖められることと同じであると教えています。私たちはすでに救われているのですが、やがて来る完全な救いを待ち望んでいます。すでに子とされているのですが、やがて子とされることを待ち望んでいます。すでに贖われていながら、贖いの日を待望しています。すでに神との和解を得ていながら、さらに和解を待ち望んでいます。聖くされていながら、完全に聖なる者とされる時を待ち焦がれているのです。これは、救われること、子とされること、贖われること、あるいは聖くされることなどが、神の国に入れられるという大きな霊的事実の、様々な局面であることを示しています。私たちは悪魔の支配から神の支配の中に招き入れられたのですが、まだ、「この世この代」においては完全な神の国の現れを待って、悪魔と戦い続けなければならないのです。しかし、私たちの主イエスがすでに完全な勝利を取っておられるために、私たちの勝利もまた、確実なものとして約束されているのです。私たちは来るべき栄光を待ち望んでいるのですが、すでにその栄光の中にいるのです(Iペテ5:10)。

E.共同体に召されたもの

 神の国に召されるということはまた、キリストの体と呼ばれる共同体にバプタイズされる事です。(Iコリ12:13、コロ3:15、ヨハネ17:11−23) 救いを受けたすべての人、すなわち神の国に召されたすべての人は、例外なく、このキリストの体といわれる共同体に、召し入れられているのです。しかもバプタイズという言葉が示唆するのは、単に繋がれる、結ばれるというような弱いものではなく、水の中にどっぷりと漬けられてあらゆるところに水が浸透するように、キリストの中に浸りきるような強い繋がりです。事実、パウロはこのキリストの体の繋がりを、人間の体の有機的な繋がりと同質なものとして説明しています(Iコリ12:12−27)。

 召されたものは、ただ単に神の国の中で一個の個人として生きるのではなく、新しい共同体を形成して生きるのです。悪魔の支配の中で、それぞれがそれぞれのために、わがままに自分勝手に生きていながら、一致して悪魔の意思に従って生きていた者が、神の和解を受けて、また、あらゆる人々とも互いに和解させられて、すべての相違を超えてひとつとされて生きるのです(エペソ2:12−22)。したがって、本来、この共同体に繋がっていないクリスチャンはあり得ないはずです。この繋がりは普遍的教会との霊的繋がりというような、ほとんど実態のない理念上の観念的繋がりではなく、具体的な個々の地域教会の交わりの中で、実現されて行くものです。誤解を避けるために言い直すならば、普遍的教会との霊的な繋がりという崇高な理念は、具体的に地域教会の交わりの中で具現化され、実現され実行されて行ってこそ、はじめて霊的事実として認められるのです。

 ですから、具体的に、地域のクリスチャンたちの交わりの中で実際に活動していないクリスチャンなどというものは、本来存在してはならないし、存在できないはずなのです。それにも拘わらず存在しているというのは、たとえその個人がどれほど人格に優れ崇高な人物であったとしても、まさにぎりぎりの最低のレベルで、憐れみの神に存在を許されているに過ぎません。これまでの神学に教会の理解が不足しているのは、また不足している事に気付かずにここまで来ているのは、共同体というものをネガティブに捕えて来た近代欧米個人主義と民主主義の哲学を下敷きにして、キリストの教えを解釈し、神学を構築してきたためです。

 キリストがこの世に来て下さった目的は、十字架で贖いの業を完成させるためであったことに疑いを挟むものは、少なくても福音派を自称する人たちの中にはいないでしょう。しかし、福音派の人々がいま真剣に理解しなければならないのは、キリストはご自分を信じる者たちをひとつにまとめ、教会という共同体を建て上げるためにも来て下さったという事実と、その事実の重要さです(マタイ16:18−19)。教会は、神の国に招き入れられた人々が作り出した任意の団体ではありません。偶然に、自然の成り行きで出来たものでも、だれか優秀な人間の創造性による創作でもありません。あくまでも、キリストがお建てになったものであり、神の永遠の御計画によったものです(エペソ1:4−14、IIテモ1:9)。

 ですから、神の国に招き入れられたものは、教会に加入すべきかどうか迷うべきではなく、加入させられているという霊的事実を、最も良い形で具現化して行くには、どのようにすべきかと考えるべきなのです。また教会の指導者たちは、自分たちの教会員としてふさわしいかどうかと、救われた人々についてあれこれと詮索をするのではなく、その人が神によって教会に与えられたという事実を、まず謙虚に認め、受け入れるべきなのです。その人を招き入れてくださったのは神であり、その人の内に住んでくださったのはキリストであり、み体にバプタイズしてくださったのは聖霊なのです。そのような人を拒絶する事は、どのような指導者にも許されていない事です。

F.ひとつになるために召されたもの

 パウロは私たちが召されてひとつとなったと語っています。(コロ3:15)、ひとつになるために召されたとは言っておりませんが、ひとつとされた(エペ2:14−16)、ひとつの体にバプタイズされた(Iコリ12:13、原語の意)といっています。これらの文節の強調を読むと、私たちはまさにひとつとなるために召されていると言えるほど、強烈な観念が背景にあることに気付きます。それはただ共同体の一部となるために召されたというだけに留まらず、「すべての者がひとつの御霊を飲む者とされた」と表現され(Iコリ12:13)「両者ともにひとつの御霊において」と述べられる(エペ2:18)体験を共有しているということです。キリストは、教会を世に遣わすということについて父なる神にお語りになったあと、くり返し、教会がひとつであるようにと訴えておられます(ヨハネ17:21−23)

 共同体にも様々な種類の共同体があります。自然発生的な居住地域共同体から、家族、親族の血縁共同体、あるいは農業や漁業などの産業共同体、さらには親交会やクラブのような任意の共同体があり、その絆の種類も強さもまちまちです。しかし召された私たちが形成する共同体は、すべての共同体の中でもっとも強い絆で結ばれ、最も深いところで繋がっている共同体です。それは、人為によらず、まったく神の働きによる共同体です。神と和解させられた者たちが、敵意という隔ての壁を取り除かれて「ひとつとされた」共同体です(エペソ2:13−22)。

 それはまず、ひとりひとりがキリストにバプタイズされ、キリストとひとつになり、キリストとつながると言う経験から始まり、キリストとひとつになっているという事実から、キリストとひとつになったもの同士が一つになると言うことであり、人為的な好き好みや、趣味や興味の一致、目的の一致といった要素による共同体ではないのです。同じキリストの贖いに与り、同じキリストの血によって清められ、同じキリストの命に生かされ、同じ聖霊の力を体験し、同じ希望に生き、同じ嗣業を受け継ぎ、同じ栄光に与り、永遠に共に生きる者としての、神に起源を持つ共同体なのです(エペソ4:1−6)。そしてこの共同体は、互いに愛し合い助け合い、互いの益となり合う生き方によって、またそれぞれの力に応じて互いの益のために働くことによって、いよいよ絆を強め、共に成長して行く共同体なのです(ロマ12:3−8、Iコリ12:1−27、エペソ4:11−16)。この世で最も強い共同体と思われる家族は、血縁共同体です。しかし神の家族と言われる教会は、キリストの血による血縁共同体です。あるいはさらに強い最小単位の共同体である夫婦は、一体となるという神秘的な共同体ですが、これさえも、キリストと教会の一体性の雛型に過ぎないのです(エペソ5:22−33)。

 聖書はこの教会という共同体について、さまざまな表現と譬えで説明しています。キリストの体という表現についてはすでに少しばかり触れましたが、他にも、キリストの花嫁、聖霊の宮、神の家族、建物などと呼ばれています。それぞれ、神の国に召された者たちが作り出す、共同体としての教会の大切な性質について語っていて、教会の定義にも関わるものですが、別の項目で取り扱いたいと思います。

 神の国に召し入れられた人々は、必然的にキリストと繋がり、キリストのみ体である教会に召し入れられているのです。教会は神の国ではありませんが、この世における神の国の共同体であり、神の国の永遠の性質は、この共同体の中で遺憾なく発揮されて行くべきものであり、またこの共同体は、自らの資質となった神の国の性質を、外に向かって力強く発揮して行くべきものなのです。

G.使命のために召されたもの

 私たちは神の国に召されました。しかしそれだけではなく、私たちは神が私たちにお与えになる使命のためにも召されたのです。

 確かに、私たちは神の招きを受け、神の国に入れられ、神の国の国民とされました(ピリ3:20)。またこの招きは、キリストに繋がるバプテスマを受けてキリストとひとつとなり、ひとつの共同体を形成するためでもありました。神はこの共同体を、この世においてご自分のみ国、すなわち神の支配を具体的に現す場とされました。神の完全な愛を、召しという出来事を通して体験した私たちひとりひとりが、その愛に触発され、動かされ、さらに御霊の励ましを受けて、この共同体を愛の共同体として作り上げていくことによって、その人間関係の中に神の支配が具現化するのです。生まれながらにみ怒りの子であった私たちは(エペソ2:3)、尊い召しを受けて神の子とされ、あらゆる祝福をいただいているだけではなく、完全なみ国を受け継ぐ権利を与えられています。そして、完全なみ国を受け継ぐためには受け継ぐ者もまた完全でなければならないために、私たちもまた完全にされる希望を与えられているのです(Iコリ15:52)。

 しかし私たちは、ただ神の祝福をいただいて幸せに生きるだけのために、悪魔の支配から召し出されたのではありません。私たちには果たすべき使命が与えられているからです。その使命とは、ご自分の驚くべき光の中に、私たちを闇の中から招いてくださった方のすばらしいみ業を、私たちが宣べ伝えることです(Iペテロ2:9)。私たちはこのためにも召されているのです。すなわち私たちが召されたのは、ただ単に私たちの祝福のためだけではなく、私たちを通して、祝福がさらに他の人々にも及ぶためなのです。それは、アブラハムとその子孫が選ばれたのがただ単に彼らの祝福のためだけではなく、彼らを通して祝福がすべての民族に及ぶためだったのと同じです。

 パウロはこの使命を、「和解の務めを与えられた」また「和解の言葉を委ねられた」と表現しています。(IIコリ5:18−19)私たちは神と和解させられ、さらにその和解を媒体としてすべての人々と和解させられ、和解の共同体を形成しましたが、それだけに留まらず、共同体とされた私たちが共同体として、和解をさらに多くの人々にもたらすための神の器とされているのです。

H.遣わされるために召されたもの

 私たちは神の国に召された者であり、神の国のあらゆるすばらしさを味わうことができるように、世の始めから定められている者です。それにも拘わらず、私たちは未だにこの世でさまざまな困難に遭遇し、痛み、傷つき、悩み、悲しみながら生き続けています。み国の民が、なぜ自分たちの国ではない国で、いつまでも旅人として、寄留者として生活しなければならないのでしょう。

 それは私たちがこの世に遣わされているからです。私たちは悪魔の支配するこの世から召し出され、神の国に入れられたにも拘らず、改めて、使命を与えられてこの世に送り返された者なのです。パウロは、私たちが和解の務めあるいは和解の言葉を任せられていると語ったとき、私たちはキリストの使者であるとも言っています。この使者という言葉は大使とも訳されたりしていますが、もう少し強い意味の「全権大使」、あるいは「代理」と訳すべきだという人がいるほどの言葉です。またパウロは同じ文脈で「キリストに代わって、あなた方に願います」と言って、自らがキリストの代理であることを示しています。ここには、遣わされているということについての言及はありませんが、思想の背景として読み取ることができます。

 教会が遣わされているという事実をもっとも明快に示しているのは、キリストご自身のお言葉です。キリストは大祭司の祈りと言われる有名な祈りの中で、「あなたが私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:18)と、父なる神に語りかけておられます。また甦りの後、弟子たちに現れて「父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と、まったく同じ意味のことを、直接お語りになっています。このときの弟子たちはまだ教会とはなっていない弟子たちの集団で、いわば、胎内の教会、生まれる直前の教会ではありましたが、キリストが未来の教会について、また未来の教会に向けて語っておられたのは明らかです。キリストは、召した者たちを、改めて、召し出してくださった元の場所であるこの世に、送り返してくださったのです。単に元いたところに戻したのではなく、使命を負わせて送り返してくださったのであり、派遣してくださったのです。そういうわけで、私たちはいま、本来私たちが生きるべきところではない、「この世」に生きるようにされているのです。

 さらにキリストは、天にお帰りになる直前に、弟子たちに命じておっしゃいました。「全世界に出て行き、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)教会は、生まれる前から全世界に派遣されているのです。マタイも昇天前のキリストのご命令を記録しています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」これらのみ言葉は、ともに、教会が使命を与えられて派遣されている事実を示しています。そしてその使命は、神の国の到来を告げ、自分たちが受けた召しの祝福を他の人々にも伝えていくことです。
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