Ecclesiology

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教会と礼典(2)
  

B.聖餐式

 聖餐式についても、歴史的にいろいろな考え方が発展させられて来たことは、周知の事実です。今ここでそれらの様々な考え方に論及する必要はありません。ただ私たちは、カトリックの化体説を、聖書に立脚せず魔術的要素を混入させた考え方として拒絶し、ルターの立場を、カトリックの迷信から脱出し切れていない、非聖書的見解として退け、カルビンの主張も、まだしっかりと聖書に立つことが出来ないでいる折衷的理解と判断し、基本的にツイングリが主張した象徴説を受け入れているものです。とは言え、聖餐にあずかるということは、単なる象徴的儀式に加わるというだけで終わるのではなく、真実な意味で裂かれた主のみ体と流された血潮を思い、感謝してそれを受けるならば、そこに特別な意味で主がご臨在を現してくださることを信じるものであることを、加えておきたいと思います。 

1.過ぎ越しの祭りとの関係

 主が聖餐を制定してくださった時、それは、過ぎ越しの食事の場のことでした。それは偶然そのようになったのではなく、キリストがその日が来ることを渇望してお定めになったのです(ルカ22:15)。イスラエル人はすべて、昔、主がイスラエル人をエジプトの奴隷状態から解放してくださった事実を忘れないために、特別に過ぎ越しのパンを作り、それを食べました。それはまさに記念としての意味を持ったものでした。

 イスラエルがエジプトでの奴隷の身分から解放されたという出来事は、予表論(タイポロジー)などをあまり受け入れない神学的立場の人々によっても、キリストの贖罪の死とそれによる罪人の救いの予表であると考えられています。過ぎ越しの出来事全体が、キリストによる救い全体を予表するものなのです。屠れた小羊は勿論キリストを指し示すものであり、鴨居に塗られた血はキリストの血潮を意味し、モーセの言葉を信じてその血を鴨居に塗るという行為は、私たちがキリストを信じ、その流された血潮が私たちの救いのためであったと信じる、信仰を現すと理解されています。

 イスラエル人たちは、自分たちが奴隷の身分から解放された者だと言う、歴史的事実をしっかりと記憶し続けるために、わざわざ種を入れないパンを作りそれを食べるという祭りを、国民挙げて毎年繰り返したのです。主がこの過ぎ越しの食事の場を選んで、聖餐の制定を行われた背後には、聖餐には過ぎ越しと同じ意義があることをお伝えになったのだと考えるべきです。小羊の血がイスラエルを救ったように、神の小羊イエスの血は、信じるすべての罪人を救うことになったのです。また、種を入れないパンを食べるという行為が、過ぎ越しの事実を思い出し感謝を捧げ続けるために、重大な意義と機能を持っていたように、聖餐という行為は、小羊イエスの血潮によって私たち罪人は救われたのだという、厳粛な事実を常に思い起こさせ続ける機能を持つものです。そして新約時代の記念である聖餐が、旧約時代の記念としての過ぎ越しの祝いと決定的に異なっているのは、屠られたキリストの霊、御霊がそこに臨在を現してくださり、単なる記念以上の「実在」を示してくださるということです。

2.贖罪論的意味

 そう言うわけで、聖餐の最も重要な意義は、贖罪論的なものです。ぶどう酒は、キリストが罪人のためにお流しになった血潮を象徴し、パンは裂かれたキリストの肉体を意味するのです。これを飲み、食べるという行為は、キリストが流してくださった血潮を自分の命として取り込み、キリストの裂かれたみ体を、自分の癒しのためであったという事実を受け入れることなのです。私たちはその打たれた傷によって癒されたのです。

 聖餐における、「飲む」、「食べる」という行為は、信仰の象徴であり、信じるという内面の動きを、外面的行為をもって告白しているのです。キリストは、そのような言い方をすると必ず誤解を生み、反対する者たちをますます勢い付かせ、従う者たちを躓かせてしまうことを明らかにご存知の上で、あえて、ご自分を信じるということを、ご自分の肉を食べ血を飲むという表現で強調なさいました。信仰を持つという内面的な心の行為を、外面的な「飲む」、「食べる」という行為で表現したのです。(ヨハネ6:48−66)。自分を決定的に不利な状況に押しやってしまうことを、百もご承知の上で、キリストが敢えてそのような表現をなさったのは、これが、やがての聖餐制定に繋がる、重要な教えであったからに他なりません。聖餐は突然の思い付きによる制定ではなく、予め予定され、準備された上での制定なのです。

 キリストを信じない者が聖餐のパンを食べ、ぶどう酒を飲んだところで、それが信仰の行為になるのではありません。口で告白して救われるからと言って、ただ、おうむがえ鸚鵡返しのように告白をさせたところで、それが救いに至るものにはならないのと同じです。また逆に、信仰を持っていない者が聖餐のパンを食べ、ぶどう酒を飲んだところで、それが呪いになったり罰当たりになったりすることもありません。先に述べたように、そのような考え方は、聖餐を魔術的にしてしまったところから来るものです。そう言うわけで、聖餐を聖餐として成り立たせる、絶対になくてはならない要素は、信仰です。厳かな祈りの雰囲気も、荘厳な音楽も、黙想のひと時も大いに結構です。しかしそれらは無くてはならないものではありません。牧師の祝福の祈りさえ絶対必要条件ではありません。司祭の祝福によって、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変わるという、カトリックの教えを信じているならば話は別ですが、聖書の教えからはそのような結論は出て来ません。

3.教会論的意味

 聖餐式には様々な局面があり、それぞれ非常に意義深いものですが、歴史的には、やはり贖罪論的な面、また救済論な面が、「不当に」強調されて来たきらいがあります。たとえば、すでに「VII.教会の働き」の、「B.教会自身に対する働き」で簡単に触れたことではありますが、聖餐を論じる時に必ず取り上げられるIコリ11:17−34でパウロが語っていることは、しばしば救済論の「不当な」強調によって歪められて理解されています。

 それは、特に27節から30節への言及で、パウロが語る「主の体と血に対して罪を犯すことになる」という罪は、具体的に何を意味しているか、私たちは自分のどのような点について、吟味しなければならないのかということに関わります。多くの人々は伝統的に、これを、主を信じていない者、未信者が主のみ体の象徴であるパンを食べ、血潮の象徴であるぶどう酒を飲むことであると理解し、会衆の中に厳しい自覚を喚起して、自分が本当に主を信じている者であるかどうか、深く吟味するように促し、未信者が聖餐にあずかる事がないように細心の注意を払います。その結果、主を信じていると自覚出来ている者と、自覚出来ていない者との間に厳しい線を引き、会衆の中に差別を持ち込んでいます。

 主を信じていない者が、主のみ体と血潮の象徴であるパンとぶどう酒を口にするのは、主に対する冒涜であると感じるのは、すでに触れているように、まさにカトリックの化体説を、まだ尻にくっ付けたままであることを意味しています。パンとぶどう酒に何か魔力的な力を信じているからです。たとえカトリック教会が主張するように、パンとぶどう酒が文字通りキリストの体と血潮に変化するのだとしても、そして、たとえ未信者がそれを口にしたとしても、呪いや罰を受けることなどあり得ないのです。キリストの裂かれたみ体と流された血潮は、人々の救いと祝福のためであり、決して呪いと裁きにはならないからです。

 また、このような救済論の強調から教会論が歪められ、いわゆる聖餐式の「オープン」と「クローズド」の問題も起こしています。オープンというのはたとえ自分の教会の会員ではなくても、キリストを救い主と信じているならば、あるいは洗礼を受けているならば、聖餐にあずかることを許すもので、クローズドは、自分の教会員以外には聖餐にあずからせないことを言います。これは単に教会の管理上の問題ではなく、基本的教会論の欠陥から来るものです。

 パウロがIコリ11:17−34で主張していることは、普通の常識ある聖書の読み方をすると、すなわち神学的先入観に捕らわれずに、素直に読むと極めて明快です。パウロが口を極めて非難しているのは、愛餐会において弱い者や貧しい者を無視して、自分たちだけで満腹している豊かな者たちの愛のなさ、思いやりのなさに対してであり、そのような形で主のみ体に分裂を持ち込む危険性を孕んでいる者に対してです。そのような「貧しい者をはずかしめ」る態度が、「神の教会を軽んじ」る事であり、その教会のために、また、その教会が一つであるために流された血と、裂かれた体に対して罪を犯すことになると言っているのです。29節で言われている「み体」とは、十字架にかかった主のみ体ではなく、22節にある「神の教会」のことなのです。すなわち、パウロはここで教会の愛餐会という具体的な場で行われている、愛と思いやりのない行為を鋭く非難しているのであって、会衆の中にいる信者と未信者を厳しく区別することではないのです。実際のところ、パウロは愛餐会の食べ物が、すなわち、主の裂かれたみ体と流された血潮を象徴するパンとぶどう酒が、未信者にも行き渡ることに何の不安も感じていないのです。このような場に、未信者がいる可能性は、パウロは充分認識していたはずだからです。(14:23)

 パウロが聖餐について語った時、彼の主な関心は救済論や贖罪論にではなく、教会論にあったことに注目すべきです。(参照・Iコリ10:14−22)それは、贖罪論や救済論を軽んじることではなく、教会論の大切さに日を当てることです。パウロは、同じ杯から飲むという行為は、同じキリストの血にあずかっているという霊的事実を象徴するものであり、同じ一つのパンから食べるという行為は、キリストを信じる者はすべて、同じキリストの体にあずかっているという、深遠な霊的事実を表現するものであり、さらにはキリストのみ体である、一つの教会に所属する者であるという、奥義を示すものだと教えています。すなわち、キリストを信じている者はみな、同じキリストの愛によって愛され、同じキリストの贖いの血潮によって贖われ、同じキリストのみ体である教会にバプタイズされ、同じ命によって生かされる有機体となっているという事実、私たちは運命共同体であるという事実を、声高に主張しているのです。そして、この霊的事実を象徴する聖餐の場において、事もあろうに、教会を分裂させる差別、冷淡、無関心が罷り通っていることに、激しく憤っているのです。神の教会が「軽んじ」られていることに、激しく痛んでいるのです(v22)。

4.宣教論的意味

 聖餐はまた、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」ものです(Iコリ11:26)。これは、聖餐にあずかるたびに主を思い起こさせるという、教育的な機能を持った宣教論的意味と、さらに積極的に、聖餐の場に居合わせた未信者の人々にその意味を説明することによって起こる、伝道的な機能を持った宣教論的意味があります。

 イスラエルの子供たちは、年に一度の大切な祭りの時、美味しくない固いパンを食べさせられて、「お母さん。今日はお祭りなのに、どうしてこんな美味しくないパンなの?」と聞いたことでしょう。すると母親や父親は、そのいわれを語り、イスラエルの歴史を伝え、神がどんなに素晴らしい奇跡を持ってイスラエル民族を救ってくださったかを教え、神に対する信仰の重要性を、心の中にしっかりと植え付ける事が出来ました。同じように、聖餐の場に居たクリスチャン子弟は、父や母にその意味を尋ねることでしょう。両親はこの時、しっかりとキリストに対する信仰を継承させていく努力をしなければなりません。また、その場に居合わせた未信者も、「いったいこれは何ですか? どのような意味があるのですか?」と尋ねることでしょう。その時、信仰を持っている者たちは、それがどのような意味を持っているのか。特に、尋ねたその人にとってどのような意味があるのか、丁寧にしかも積極的に説明し、キリストの死とその意味を伝えて行かねばなりません。 聖餐は、福音なのです。言葉によらない、象徴的行為による福音なのです。私たちの教会の信徒たちがこのことを、すなわち、聖餐の宣教論的意味を知っていたならば、私たちの聖餐式に少なからぬ変化が起こるのではないでしょうか。

5.終末論的意味

 聖餐は「主が来られるまで」主の死を告げ知らせるものです。ここに、聖餐の終末論的な意味があります。私たちは聖餐にあずかる毎に、「これは主が来られるまで」のことなのだと、主がおいでになるその時への期待を大きくするのです。このような期待を持つのは私たちだけではありません。主ご自身が、大きな期待を持っていてくださるのです。

 聖餐をお定めになった時、主は不思議なことをおっしゃいました。マタイはそのお言葉を、「私の父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と記録しました。マルコも殆ど同じように記し、ルカは「過ぎ越しが神の国において成就するまでは、二度と過ぎ越しの食事をする事はありません」と書き、さらに「神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と、伝えています。

 過ぎ越しに関して、神様のご計画があり、完全な過ぎ越しの成就は未来に属することであることが明らかですが、いま重要なのは、キリストはみ国において過ぎ越しの食事をする時まで、ぶどうの実から造った物を飲まないとおっしゃったことです。この過ぎ越しの食事が、「小羊の婚宴」と同じものである可能性もありますが、ともあれ、「神の国が来る時までは」、キリストはぶどうの実から造った物を飲まないとおっしゃったのです。甦られて栄光のみ体をお持ちになったキリストにとって、ぶどうの実から造った物を飲まないことが、実際どれほどのことなのかは私たちには分かりません。しかし、イスラエル人にとって、ぶどうの実から造った物を飲まないという宣言は、日本人の酒絶ちとは比べ物にならないほど、大変なことであると思わせたに違いありません。まさに魚絶ち、味噌汁絶ち、不謹慎ながらパチンコ絶ち以上の厳しい修行だったに違いありません。

 しかしキリストは、そこまでして、神の国の到来を期待し、待ちかねていらっしゃるのだということを、弟子たちにお伝えになったのです。初代のクリスチャンたちは「マラナタ」、すなわち、「主よ、早くおいでください」という祈りの言葉を、挨拶の言葉と変え、神の国の到来を期待しました。しかし、キリストはそれ以上に期待しておられるのです。

6.パンとぶどう酒

 聖餐に用いられるのは、パンとぶどう酒です。しかし、パンとぶどう酒でなければならないのでしょうか。たとえば、パンの無い文化もあります。サツマイモではいけないのでしょうか。私が宣教師として働いていたフイリピンの山岳奥地では、パンはありませんでした。協力伝道者が無理をして、里からパンを持参したことはありますが、個人的には「サツマイモでも良いではないか」と思ったものです。

 さらにぶどう酒となるともっと大変です。世界中の多くの国々ではぶどう酒がありませんでした。交通や流通が進んだ現在でも、ぶどう酒の無い国や地方がたくさんあります。果物ジュースでは駄目なのでしょうか。あるいは果物さえない砂漠の地方、たとえばモンゴルでは、最も一般的な飲み物である馬乳酒では駄目なのでしょうか。聖書を見ると、パンとぶどう酒に特別な意義があるかのように、思えなくも無いのですが、多分それは、イスラエルの文化においては、その気候と作物と食文化において、パンとぶどう酒が欠かせなく、一般的だったからでしょう。

 実際のところ、私たちの教会の殆どは、聖書のようなパンとぶどう酒を用いていません。私たちの教会はピューリタンとメソジスト、ホーリネスの影響を強く受けた、アメリカの福音主義の流れを汲みます。一時的とは言え、禁酒法が成立したような国家で発生し、成長した教団に所属しています。ですから、アルコール分を毛嫌いします。従って、ぶどう酒は用いない伝統になっているのです。変わりに「ぶどうジュース」を用います。ぶどうジュースと言うのは面倒な代物で、すぐ醗酵して酒になってしまいますので、特別に処理をしたものでなければいけません。フイリピンの私たちの教会が、めったに、少なくても田舎の教会は、めったに聖餐式をしないのは、一つには、何とか手に入れることが出来るぶどう酒が禁じられている上、ぶどうジュースは絶対と言えるほど、手に入らなかったからではないかと考えたことがあります。信徒には飲ませないで自分だけで杯を飲み干し、酔っ払ってしまっているカトリックの司祭を、不道徳とみなし、ぶどう酒はご法度なのです。

 ですから私たちの教会では、ぶどう酒ではなく馬乳酒ではどうかと言う問いに、首を立てに振る人は非常に少ないことでしょう。ぶどうではないこと、そして酒であることが問題にされるでしょう。パンにしても、多くの教会は普通の食パンを購入して、始めからサイコロのように切って配ります。あるいはカトリック教会のように、小さなウエハースを購入して配っている教会もあります。これで良いのでしょうか。これで、本当に聖餐の意義が表現されるのでしょうか。少なくても、種入れぬパンと言う意味が無くなり、一つのパンから分け合うと言う意味もなくなってしまいます。しかし、「伝統的に」、ただ、伝統的に、私たちの教会はそのようにやっています。問題は、このような問題を考える時、私たちの多くは、聖書のみ言葉に考察の基を置かないで、自分たちの教会の伝統を盾に議論をするということです。

 私個人は、本格的な聖書の解釈などには縁遠い、開拓伝道者に過ぎませんから、あまりたいした事は言えないのですが、出来る限り単純に聖書の記述に近いやり方をしようと考えています。ですから、ぶどうジュースは使わずに、ぶどう酒を使います。禁酒の主張をここまで持ち込むのは、やり過ぎであり、聖書の軽視だと思うからです。イエス様は明らかにぶどう酒を飲みましたし、ぶどう酒をお造りなりました。パウロもぶどう酒を飲んだことでしょう。テモテには飲むことを進めています。コリントの教会の愛餐会には、酔っ払っている者さえいましたが、ぶどう酒を飲むこと自体を禁じてはいません。

 私たちの母団体にあたる、アメリカのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が中心になってまとめあげた、「New Life Study Bible」という聖書の説明には、イエス様が飲み、また造ったぶどう酒は、アルコール分の無いぶどう酒であったなどと言う、陳腐な説が数ページにも渡って書かれていますが、自分たちの主義主張のために、事実を曲げてしまうという醜いことが行われたのは、非常に嘆かわしいことです。聖書がぶどう酒と言っているのですから、ぶどう酒で良いではないですか。それが私たちの立場のはずです。

 一方、ぶどうと言うことに固執する人は、ぶどうが元々小さな粒で成り立ち、それがつぶされて一つの液体になり、改めて分配されることに、ばらばらの人間が救われて一つとされ、一つの命にあずかるという意義を見ようとしますが、それはいささか「読み込み」過ぎであると言わねばなりません。聖書はそのようなことに触れていませんし、それでは蜜柑でも良い事になります。

 またパンについてはどうでしょう。私の場合は、いつも家内が種を入れない、煎餅のようなパンを焼いて、それを用います。聖餐式の時にそれを取り上げ、信徒の目の前で裂き、信徒がまたそれぞれ千切りとって食べるのです。一つのパンから食べ同じ命にあずかり、一つの体に属すると言う意味を明らかにするためです。ウエハースや食パンは用いません。出来るだけ、聖書の記述に近くしたいためです。だからと言って、ウエハースでの聖餐式を無効だと言うのでも、食パンの聖餐式には参加しないと言うのでもありません。ぶどうジュースの聖餐にも喜んで参加いたします。

 目に見えない霊的真理や事実を象徴する事物は、出来る限りその象徴する霊的真理や事実を彷彿とさせるものであるべきです。ぶどう酒には血の色を連想させる効果があったのだと思います。ですから、白ぶどう酒ではなく、赤ぶどう酒を用います。一つのものを分け合うという霊的真実は、一つのパンを裂くという行為によって示されます。しかし、ぶどう酒がぶどうジュースになったからと言って、聖餐が無効になるのではありません。赤ぶどう酒が白ぶどう酒になったからと言って、聖餐の力が無くなるのでもありません。だとするならば、モンゴルのような砂漠の国の田舎で、ぶどう酒はおろか、果物ジュースも手に入らないよう中では、水でも良いではないでしょうか。馬乳酒でも良いではないでしょうか。勿論、モンゴルにおける馬乳酒の、道徳的、宗教的イメージについては何も知りませんので、あくまでもたとえばの話です。もしも、かつて巡回したフイリピンの山奥で聖餐式をする機会が与えられるなら、彼らの主食であるサツマイモと水で行いたいと思います。すると、遠くから里の人間がパンとぶどう酒を持って行かなくても、彼らだけで、聖餐式が出来るからです。
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