Ecclesiology

Welcome to our homepage

教会論不在がもたらした問題

                  
 

 教会論の現状は、すでに触れたように非常に惨めなありさまです。カトリックにはかなり堅固な教会論がありますが、私たちが参考にできるような教会論ではありません。立っている土俵が違うからです。プロテスタントの中では、改革派がそれなりの教会論を持っているようです。ただしこれは、宗教改革とその後の時代の歴史背景、カトリックとの抗争の中で、カトリックの殻を尻に着けて生まれてきたもので、どのように優れていようとも、現代の私たちの助けになるようなものとは思えません。バプテストには彼ら独特の会衆政治と洗礼を中心にした教会論がありますが、聖書の教える教会の姿とは異なります。ウエスレアンの神学にも、教会論としては見るべきものはありません。強調点の置き所が違ったためでしょう。その他、いろいろな教派や団体の神学を見ても、しっかりとした教会論は皆無と言って過言ではありません。

 とは言え、最近、主に宣教師や宣教の分野に関わった人々の間から、伝統や教派を超えた教会論の必要性が言われ出し、断片的ではありますが、聖書的なまた実践的な考察が加えられ始めています。しかしまだまだ初歩的な試みで、とても充分な取り扱いがされているようには思えません。

 このような教会論の不在は多くの問題を生み出してきました。まずその事に目を止め、教会論の重要性に気付かなければなりません。


   ちなみに、手持ちの組織神学の本を開いて見るのが良いでしょう。ホッジス父子、ベルコフ、ストロング、シーセン、ブスウエルなどから最近のまで、どれを取っても教会論は刺身のつまほどにしか取り扱われていません。

   最近幾つかの日本の団体の元宣教師たちと話合う機会がありましたが、一様に、きちっとした教会論が存在しない事が、宣教の大きな妨げになっていると語っていました。


A.教会とは何かという問題

 聖書で教えている教会とは、何かということがはっきりしないまま、至る所に教会と言う名の建物が建てられ、集会が持たれ、人間の集まりができています。派手なパフォーマンスや音楽その他の出し物で人を集め、たくさんの献金を得ている「教会」があります。クリスチャンたちを集めた劇場とどこが違うのでしょう。教会員と言うものを持たず、いろいろな団体のクリスチャンがより多く集まることができ、良い説教が聞けるように配慮しているという超教派「教会」があります。クリスチャン親交会とどこが違うのでしょう。テレビを通して音楽と説教をいくつもの国に放映し、献金を送るように訴え、聖餐式まで行なって、世界教会と自称している「教会」があります。信徒の交わりはどこに行ったのでしょう。大きな駐車場で車に乗ったまま、巨大スクリーンに映し出される名説教者の説教を聞いてすませる礼拝会もあります。献金も、ドライブスルーのハンバーガーショップの料金支払いと同じ方法で、誰とも顔を合わせることなく、つまり、「いやな奴の顔を見る必要もない」、便利な「教会」もあります。ある特定の政治団体に直結している「教会」もあれば、政治結社の「教会」もあります。特定の民族や階級だけに会員や倍餐員を限定している「教会」もあります。牧師が絶対権威をもって恐慌政治を敷いている、カルトと見まがうような「教会」もあります。その他にも随分いろいろな「教会」があります。教会という名は付いていますが、非常に大きな疑問符も付けなければなりません。

B.宣教・伝道活動の分野における問題

 まず取り上げなければならないのは、教会の目的あるいは使命についての混乱です。教会は何を目的として存在し、何を使命として活動するのかということがはっきりしていません。

 社会派と言われた人々の多くは、教会の目的を人類の平和や人間性の回復に置きます。それで平和運動や反政府活動に躍起になるだけに留まらず、武装闘争を支援したり自らそれに身を投じたりする人たちさえ出てきました。他の人々は人道的活動こそ教会の目的であると主張して、貧しい国に病院を建てたり学校を建てたり、地域社会改善運動に走りまわったりして、ついには伝道を目的とした宣教師の派遣を中止すべきだと言い出しました。当然の結果として伝道がおろそかになり、「教会」はどんどん小さくなり弱くなってしまいました。

 福音派と呼ばれた教会は社会派に反発し、伝道こそ教会の使命であると主張して、長いあいだ社会的な働きには背を向けてきました。ところが福音派のある有名な神学者がそれは間違いであると主張して、社会活動も伝道と同じく教会の使命であると言い出すと、多くの教会がこぞって社会活動に乗り出しました。社会の必要に目をつぶって来たという、後ろめたさがそうさせたのだろうと考えますが、有名な学者の言うことだからと、どっと流れてしまう教会には情けなくなってしまいます。福音派でありながら福音宣教に行き詰まりを感じてきた教会にとっては、社会活動に活路を見出すのが良い逃げ口実ともなっているようです。


   1974年スイスのローザンヌで開かれた国際会議が出した宣言には、社会活動が教会の使命と位置付けられています。これは会議を取りまとめたイギリスの著名な神学者、ジョン・ストットの社会派寄りの考え方が大幅に取り入れられたもので、多くの福音派の指導者がこの宣言に署名するのを拒絶しましたが、会議自体がその後も場所を変えて幾度も継続されているほど成功したこともあって、この社会派寄りの宣言は、いまや多くの福音派の教会に大きな影響を与えています。日本の福音派内でもこの影響は顕著です。ストット自身は、1960年代の中南米に起こった、カトリックの社会改革運動神学である解放の神学に影響され、教会の使命には、伝道と社会活動があたかもひとつの車軸の両輪のように、不可欠なものとして含まれると主張し、その社会活動には正義の戦いをも含んでいます。ただし、武装闘争に賛成するほど解放の福音に染まってはいません。


 さらに、宣教や伝道活動の中に大きな混乱や軋轢があります。多くの宣教活動は宣教師の個人的栄誉と功績(謙遜の皮を被った)、教派・団体の競争として行なわれてきました。ですから、宣教師間の真の協力というのは珍しい現象であり、代わりにいたるところに葛藤と抗争がありました。伝道をはじめて教会を建てると言っても、教会とは何かと言う事がはっきりしないため、単なるキリスト信徒交友会や天国行き列車の待合室のような「教会」で終わってしまいます。本物の教会ができないで終わってしまうのです。「やあ。あなたもクリスチャンですか。じゃあ、同じ天国行きの旅ですね。旅は道ずれ世は情けと申しますから、まあ、仲良く御一緒願いましょうか。よろしくお願い申しあげます」といった程度です。

 実際、私たちの周囲にはさまざまな教会がありますが、多くの場合、一般社会のいろいろなサークルや、愛好会・同好会と大差がないのです。ただ、多くのメンバーがキリストを救い主と信じているというだけのことです。あるいは、キリストの教えを一生懸命に守り、正しい生活をし、互いに愛し合い、助け合っていこうとしている教会はたくさんあるでしょう。しかし、自分たちの使命は福音を語り、人々を救いに導くことだと理解して、そのためにあらゆる側面を整え、信徒を訓練し、活動している教会は少ないのです。あるいは、自分たちの周囲に対する伝道には、熱心に取り組んでいる教会はいくつもあるでしょう。ところが、宣教の使命を明確にして、そのために教会全体のプログラムを整えて、実践している教会を見ることは非常にまれなことなのです。

C.牧会・教会組織・教会管理の分野における問題

 教会とは何かと言うことがはっきりしていないと、牧会も、正しい意味では不可能になります。まず、牧師の働きとはどのようなものであるかと言うことがわかりません。自分の働き、自分の責任、自分の役割が良く理解できていなくて、どうして納得の行く働きができるでしょうか。ある牧師は独裁者になり、他の牧師は小使いになります。説教の機械になっている牧師もあれば、便利屋になっている牧師もいます。伝道伝道と駈けずり回っている牧師もあれば、書斎から一歩も出ない牧師もいます。

 ある教会は、自分たちの属している団体の伝統にしたがって、会衆制こそ絶対であると信じて、あらゆる社会的状況を無視して会衆政治を取り入れ、わざわざ教会を混乱に陥れています。他の教会はやはり所属する団体の伝統を引き継いで、監督政治から抜け出せないまま教会の成長と発展を妨げています。自分たちの長老政治形態こそ聖書的であるという、所属団体の伝統的信念に固執するあまり、他の政治形態を取る教会を非難して、交わりが持てない教会もあります。みな、それぞれの伝統を聖書以上に置くために、本当の教会が見えなくなっているのです。その結果、教会が真の教会としての命と活力を発揮できなくなっているのです。

 教会の政治形態や牧師の考え方によって、教会の管理が随分変わってきます。それはそれでかまわないのですが、教会とは何かということが明確にされていないと、教会の管理運営が、一般企業の管理運営と変わりなくなってしまいます。事実、多くの教会が一般企業の管理運営の原則や機能を取り入れて「成功」しています。それは、企業という側面、キリスト教界という業界での成功ではあっても、真実の教会としての健全なあり方とは、程遠いものであることが多いのです。たとえどのように巧く管理運営されていたとしても、聖書が教えている教会と異なった組織ができていたのでは、まさに、元も子もないのです。

D.信徒と賜物の分野における問題

 教会とは何かということが良くわかっていなければ、信徒とは何かということ、信徒の重要性、信徒の立場、信徒の働きということが解らないままになってしまいます。現在の私たちの教会には多くの欠点がありますが、一番大きな、決定的とさえ思われるのが、この信徒に対する理解の欠如です。万人祭司説という多くのプロテスタント教会の金科玉条も、どちらかというとカトリック教会との争いの中で、救済論的に扱われているところが多く、教会論の構築にはあまり役立っていないように思えます。それが教会に与えられている賜物に対する無理解と軽視につながり、結果として本来の教会の力を失ってしまっているのです。多くの教会にとって信徒とは牧師の聴衆、日曜日ごとにベンチを暖める役割を与えられている人々です。毎週礼拝会を欠かさず、月々しっかりと献金をし、良い生活で証を立て、牧師の補佐として働ける者はりっぱな信徒です。多くの場合はつまらない問題でくよくよ悩み、小さな悲しみにめそめそし、たいしたことでもないことに捕らわれてうじうじと思い迷い、昨日犯したのと同じ罪に今日もまた陥り、身も蓋も無いほどの自己嫌悪にさいなまれ、朝から晩まで牧師の頭痛の種になるのが普通の信徒です。牧師は、こういう信徒の面倒を見て上げるのが自分の務めであるとあきらめて、自分を慰めます。信徒たちはそのような牧師をこよなく愛し、信頼し、裏切りながらもどこまでもついて行こうなどと、健気にも考えたりします。このようにしてできあがる、牧師と信徒との信頼関係が「教会」なのでしょうか。

 本来の教会は信徒の教会でした。教会のすべての働き、すべての役割が信徒によって進められ、果たされていたのです。聖書を単純に読むと、教会の主役は信徒であり、信徒が教会だったはずですが、その教会はどこに行ってしまったのでしょうか。

E.クリスチャン生活の分野における問題

 キリスト教は倫理的な宗教です。教会ではクリスチャン生活を厳しく規制し、してはいけないことは何か、しなければならないことは何かを教えます。その教えが聖書に沿ったものであり、神から出たものである限りそこに問題はありません。ひとりひとりのクリスチャンが、神の御前に清く正しく生きるべきであることに対して、なんら問題があるわけではありません。ただし、私たちの教会に決定的に不足しているのは、教会という「共同体としての成長」という観点です。個々のクリスチャンの成長に力を入れるために、共同体としての教会の成長を阻害してしまっていることが良く見うけられます。個々のクリスチャンの成長が重要視され、共同体としての交わりと、その交わりを前提とした全体的な成長がないがしろにされ、結果として、教会があるべき姿に成長できないままでいるのです。そしてそれがまた、個々のクリスチャンの成長を妨げているのです。

 個人主義的な生活様式、個人主義的なものの考え方から出発している、西欧のプロテスタントキリスト教では、神の御前における一個の人間としての責任が重要視され、当然、個人のクリスチャン生活、個人的きよめ、個人的成長が大切にされてきました。そのような伝統は、敬虔主義、ピユーリタン、メソジスト、ホーリネス運動のような、それ自体大変素晴らしい運動の中にも明らかに見られます。そのような個人的成長の強調の反面、互いに重荷を負い合い、足りなさと弱さを担い合い、協力、協調し合いながら助け合いながら、全員そろってキリストの満ち満ちた背丈にまで成長して行く、共同体としての成長が忘れられてきたのです。ちなみに、筆者の40年に余るクリスチャン生活の中で、「キリストの満ち満ちた身丈まで共に成長する教会」というような主題で、説教がされたのを聞いた事がありません。

F.教会そのものの軽視の問題

 現在クリスチャンを自称していながら、教会には出席していない人たちがたくさんいます。教会には出席しても、教会員として登録もしていなければ責任も果たしていないという者も、数多く存在します。教会に加わることは、いろいろな生き方の中にある単なる自由選択、裁量、オプションにされているのです。

 ある人たちは、自分がどこの教会にも所属してないことに何の不思議も感じていません。どの教会を見ても欠点だらけで幻滅するだけだから、どこの教会にも所属しないという理屈もあります。たとえ完全無欠な教会を発見しても、自分がその教会に加入すると、その瞬間に不完全な教会になってしまうという事実を、理解できない人が多いのです。蝶が美しい花から花へとたゆとうように、毎週、いろいろな教会の間を行き来する信徒がいます。美味しいところだけをちょうだいしている信徒です。蝶ならば花粉も運び、役にもたちますが、教会の間をさまよう信徒は、悪い噂話ばかり持ち運びます。自分は普遍的教会の一員であり、どこの地方教会にも参加する必要を感じないという者もいます。普遍的教会の意味の取り違えです。

 確かに、アメリカの多くの教会は、すでに教会員という考え方を捨ててしまったと聞きます。また、神の国に生まれると言うことと、教会に加わると言うことをまったく別の事柄として取り扱い、洗礼は授けても教会員としては認めない教会も多数あると聞きます。別に教会員としての志願申し込みをさせ、教会役員による審査を通して、その教会の基準に合格すれば会員とさせてもらえると言うことです。これは個人主義の原則に立つクラブの会員の遣り方ですが、神の民である教会という共同体の中に生まれる新生の原則を無視したものです。

 このように、教会自体が軽視されています。クリスチャンの多くが、教会に参加する必要を感じたら参加する、必要を感じなければ無視するという態度を取っているのです。私たちがしばしば耳にする「神と自分の間に何者も立たせるな」という勧告は、神と自分との個人的交わり、関係の強調として言われるのでしょうが、大変大きな間違いです。キリストが命をかけて愛された花嫁は教会であり、ひとりひとりのクリスチャンは、キリストのみ体の一部として、キリストに繋がっているのです。私たちが救われたとき、私たちは聖霊によってキリストのみ体にバプタイズされたのです。教会のない個人は存在しないのです。

 こうして見た通り、教会論の不在は多くの弊害をもたらしました。しかし、私たちはいつまでも現状に留まり続けるのではありません。しっかりした教会論が生まれてくる兆しがあるからです。それは実に、じれったいほどゆっくりしていて、それを待てない私が、敢えてこのような拙文でも書かなければならないと思うほどですが、兆しはあるのです。それはまず、ここしばらくの聖書神学の強調に期待できます。自分が知りたい事を聖書から知るという方向の組織神学ではなく、聖書が語ろうとしている事を知る方向の聖書神学が、聖書が教える教会の姿をより明らかにしてくれると期待するのは当然です。また、これまでの組織神学の手法が、自分の主張を聖書の言葉で裏付けるために、聖書の個々の書の背景や文脈を無視して、強引に聖句を引用すると言うことを許していたことから、本来の聖書の語ることから離れてしまう傾向を持っていたのに対し、聖書神学の手法は聖書に聞くという態度をより強くしているところに、正しい教会論の構築の可能性を見るものです。それは当然、教派、教団、伝統に色づけされた教会論、すなわち、改革派の、長老派の、バプテスト派の、ホーリネスのというような教会論ではなく、聖書に基づいたより公平な教会論となるはずです。

 次に、伝統的な西欧のキリスト教から産み出される教会論ではなく、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、あるいは東欧などから産み出される教会論に期待したいと思います。すべてとは言わないまでも、多くの西欧諸国では個人主義と民主主義の原則が、聖書の原則の先に発つようなところがあります。そこで産み出される教会論は、どうしても個人主義的・民主主義的傾向を帯び、共同体としての教会が軽視されてしまいがちです。共同体としての教会をより良く理解するためには、共同体というものが、社会の中でしっかりと生きている文化の中で育った人々が必要なのです。一般社会の共同体は、聖書の教える教会の共同体とは異なっていますが、少なくても共同体社会で培われた感覚を媒体として、聖書の共同体を理解する事ができる利点を持っているのです。21世紀に入って、キリスト教はもう西欧の宗教ではなく、世界の宗教になっているのですから、神学においても、西欧の哲学にとらわれない普遍的教会の面目を示してほしいものです。

 ただ現実は、それほど簡単ではなく、このように私が考え始めてからすでに4半世紀が過ぎようとしているにも拘わらず、アジアやアフリカ、あるいはラテンアメリカなどからの教会論は、まだ日の目を見ていません。むしろ、西欧からそれらの地方に出かけて行った宣教師たち、あるいはそのような宣教師たちに触発された西欧の神学者たちの中に、わずかとは言え、新たな教会論の構築に取り組もうとしている人たちが現れているようです。これはかすかな期待です。ただし心配の種の方が大きいと言わざるを得ません。それは、自分たちが信奉する個人主義と民主主義を、あたかも普遍的真理であるかのように、武力と経済力で世界中の国々に押しつけている、現代のアメリカで育っていく神学者たちが、そのような個人主義と民主主義を背景にした教会論を産み出し、世界中の教会に押し付ける可能性です。

目次へ    次ページ

Copyright © 2007 Masaaki Sasaki All right reserved.