The Holy Spirit in the Bible



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内住の聖霊


 キリストを信じた者は、すべて、瞬間的に同じ一つのキリストのみ体に、またキリストご自身にバプタイズされ、同じキリストの御霊を飲み、同じ御霊の内住をいただく者となりました。この内住の御霊は、非常に多くの、さまざまな働きをしてくださいますので、すでに触れてきたように、聖書にはそれらに関しての断片的表現や言及がたくさんあります。しかし、ある程度まとまった取り扱いをされているのはあまり多くはありません。ここでは、それらのまとまった取り扱いを受けている点に注意を向けたいと思います。

1.御霊の原理  (ロマ8:1−30)


 パウロは、「キリスト・イエスにあるものが罪にさだめられることは決してありません。なぜならキリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたがたを解放したからです」と言って、御霊の原理について解き明かしています(ロマ8:1)。ここでパウロが言う御霊の原理とは、キリストによって成し遂げられた贖いの効力を、私たちに適応してくださる御霊の働きです。罪と死の原理とは、私たちを霊的死に陥れ、律法を守ることができなくすることによって、永遠の死を待つばかりの状態にした罪の力のことです。御霊の原理が、罪と死の原理から私たちを解放したのです。「主の御霊のあるところには自由があります」(Uコリ3:17)。したがって御霊の原理とはまた、私たちを生かすことであり、それは栄光のある務めです(Uコリ3:6、8)。

 罪の力に支配されたままの者は、常に罪の望むことを考えますが、キリストが成し遂げてくださった贖いのみ業の効力を、御霊が私たちに適応して下さったことによって、解放された私たちは、いつも御霊に属することを考えます(ロマ8:5−6)。私たちを解放してくださった御霊は、まず、私たちの内に宿ってくださいました。それはまた、私たちが御霊の内にいるということであり、御霊の支配の下にいるということです(ロマ8:9−11)。御霊は私たちを従わせ、律法の要求を満たすことができるようにし、たとえ体は罪のゆえに死を免れないとしても(ロマ8:11)、霊には義を与えて生きるものとし(ロマ8:10)、ついには、キリストを甦らせて下さった方の御霊として、私たちの死ぬべき体まで生かしてくださいます(ロマ8:11)。私たちの思いは、御霊によっていのちと平安に溢れるのです。そして私たちが、御霊の力によって罪の力に打ち勝って生きるなら、すなわち、御霊に導かれているとするならば、それは私たちが神の子であるということです(ロマ8:14)。ですから私たちは、罪の奴隷にする奴隷の霊ではなく、神の子供としての身分を授けてくださる御霊を受けたのです。そういうわけで、私たちはその御霊によって、「アバ、父」と呼ぶことができるのです(ロマ8:15)。私たちが神の子であるという確信は、単に私たちの確信だけではなく、聖霊ご自身が証してくださることです(ロマ8:16)。

 ここで強調されていることは、罪の力から解放され、律法の要求を満たすことができるようにされている私たちの現状です。クリスチャンはすべからく、自分がいま御霊によって自由にされ、御霊の与える命と力によって、神のみ心に従って生きることができるものとされているという事実をしっかりと認め、その事実に立って歩み、行動すべきなのです。

2.御霊による啓示

  (Iコリ2:10−2:17、ヨハ14:26、15:26、16:8、13−14)

 パウロにとって御霊は、啓示の御霊でした。パウロは、自分が人類に対する神の新たな啓示を受けた者であることを強く意識し(ガラ1:12)、また、他の使徒たちも啓示を受けていることを認めていました(エペ3:3、5)。当時のパウロにとっては、旧約の聖徒たちに啓示された神はまた、彼らにも啓示をしてくださる神でした。そしてその啓示を実際に行ってくださるのが、御霊であると認識していたのです。

 「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ぶ」と語って、パウロはまず御霊の全知性を明らかにし、御霊のみが神の御心を良くご存知であることを告げ、その上で、その御霊を私たちが受けたことを確認しています。そして、その御霊が与えられた目的は、私たちが神から賜った恵みを、御霊によって知るためであると語っています。そして続けてパウロは、自分がこの神からの賜物について話すのも自分の知恵によるのではなく、御霊に教えられた、すなわち啓示された言葉によると言い、さらに追い討ちをかけるように、御霊について語るのもまた御霊に啓示されて語るのだと言い足しています。そして、生まれながらの人間、すなわち、ロマ8章のパウロの言葉をここで用いると、罪と死の原理に支配されている人間は、御霊に関することを理解することができないために、これを愚かと思い、拒絶してしまいます。しかし、御霊を受けている私たちは、御霊によってすべてのことを知るのです。

 ところが、御霊によってすべてのことをわきまえているべきはずのコリントのクリスチャンたちが、まったく期待はずれで、まるでまだ肉に属している人、罪と死の原理に支配されている人のように、あるいは良く見積もってもせいぜい、キリストに属する幼子程度の状態に留まっている現実に、パウロは唖然としています(Iコリ3:1)。その幼子程度の状態、あるいは肉に属しているような状態とは、キリストのみ体である教会を、党派心、仲たがい、分裂分派で傷つけているということでした(Iコリ3:2−15)。パウロは、この教会こそが御霊の宿る神殿であると語って、教会の大切さを強調しています(Iコリ3:17−17)。

 さて、パウロがここで語った御霊の啓示に関しては、キリストもまたお語りになっています。キリストのお言葉を整理すると、まず、聖霊はこの世、すなわち救われていない者に対しては、「罪と義とさばきについて、誤りを認めさせる」という、強烈な働きかけをしてくださいます(ヨハ16:8)。この働きかけがあってこそ、悔い改めが可能になり、伝道が可能になるのです。次にキリストが「あなたがた」と呼びかける人々に対しては、「すべてのことを教え」、「キリストが話したことすべてを思い起こさせ」(ヨハ14:26)、「キリストについて証し」、「すべての真理に導き入れ」、「やがて起ころうとしていることを示し」てくださいます(ヨハ16:13、14)。しかし聖霊は、「キリストの名によって、父から遣わされる方であり」(ヨハ14:26)、「キリストが父のもとからお遣わしになるのであり」(ヨハ15:26)、あくまでも、「ご自分から語るのではなく、聞くままをお話になり」、「父が持っておられるキリストのものを受けて、知らせて下さる」のです(ヨハ16:13、24)。

 このキリストの教えで問題とされるのは、このような聖霊の啓示のお働きが、一体いつまで続くのかということです。このような聖霊の啓示は現在もあり得るのかという問題です。キリストが「あなたがた」と語りかけられた人々は、その場に居合わせた人々だけなのか、それとも、さらに広いクリスチャン一般に適用できる「あなたがた」なのかということです。これがそこに居合わせた人々だけではなく、たとえば、パウロやルカ、あるいは主の兄弟ヤコブなどが含まれていることに関しては、誰も異議を唱えません。また、初代の教会の間では、教会の集会の中で、そのような啓示の働きが行われていたことは明らかです(Iコリ14:6、26、30)。では、現在の私たちもまた、彼らと同じように聖霊の啓示を受けることが可能なのでしょうか。多くのペンテコステ系の人々はこれに「イエス」と答え、伝統的改革神学を持っている人々は「ノー」と答えますが、本当のところどうなのでしょう。

 聖書を公平に読む限り、つまり、自分たちの神学的伝統に捕らわれて無理な聖書解釈をしない限り、聖霊の啓示の働きが歴史のいつかの時点で止まったとか、なくなったという理解は生まれてきません。ただし言えることは、聖書の正典が成立した後、聖書に付け加えられなければならないような、啓示の必要性はなくなったことです。私たちは、私たちの信仰と行いのために必要なすべての基本的啓示が、現在の聖書の中に含まれていると考えています。だから、聖書には何も付け加えてはならないし、また、省いてもならないのです(黙22:18−19)。しかし、個々人の特殊な事情や特殊な状況の中においては、御霊の特別な啓示が必要とされる場合もあると考えます。聖書の基本的な教えや導きの範囲の中で、どのような選択をし、どのような決定をすべきかということです。もし、神様にお仕えする人生を送ると決心していながら、結婚について迷っている若者がいるならば、当然真剣に考え、さまざま友人たちの意見も聞くでしょう。しかし、それよりもまず、神様の導きを求め、助けを願うことでしょう。この場合、基本的に神様に捧げた人生を送るという決定は、聖書に従って可能です。しかし、複数のすばらしい候補者を前にしては、聖書の教えだけでは不充分です。このような状況にいる若者に対して、自分で決定しなさいと教えるのも間違いではないと思いますが、やはり祈ることを勧めるのが普通です。そして祈るとき、少なくても私たちの場合は、ただ気休めで祈るのではなく、本当に神様の何らかのお答えを期待して祈るのです。私たちは今でも、啓示を与えてくださる聖霊を認めているのです。

 しかし私たちは、現在、聖霊による霊感はあり得ないと考えています。霊感は単なる啓示とは違って、直接の啓示に限らず、歴史的出来事や、事実、あるいは観察したものや学んだ事柄までも含めて、それらを人間が書き記すとき、神様が間違いなく書き記させ、その内容や選ぶ語句に至るまで目を通してくださり、神様がご自分の書物であると太鼓判を押してくださる、承認をお与えになるということです。一方、現在の啓示に関して言えば、たとえ啓示が与えられたとしても、それをどのように感じ、理解し、解釈し、どのような言葉を用いていかに表現するかは人間の行為です。そこには間違いが入り込む要素がたくさんあります。聖書が権威ある啓示の書だというのは、それが啓示を集めた書物だからではなく、霊感を受けた書物だからです。したがって、現在どのような啓示があったとしても、それが聖書の基本的教えに反するものであったり、聖書に記されていない新しい教えであったりした場合は、その啓示の正真性を疑わなければなりません。また、たとえその内容が正しいものであったとしても、それは聖書と同じ権威を持つものではありません。なぜなら、啓示を聞き、見、理解し、解釈し、表現する過程の中に、間違いが入る可能性がたくさんあるからです。

 そういうわけで、すでに正典として完結した聖書を持っている現在の私たちに必要なのは、「主はこのように言われる」という類の啓示ではなく、主の語られたみ言葉、あるいは聖書に記された教えを読む特に、私たちがより良く理解できるように与えられる、聖霊の照明としての啓示ではないでしょうか。ですから大切なことは、現在聖書を読む私たちが、厳密な釈義的な読み方だけを重視する間違いに陥らないことです。むしろ、その聖書の御言葉を通して語りかけられる、聖霊の語りかけを聞く心と耳を持つべきなのです。キリストのお語りになったことを思い起こさせ、すべての真理に導いて下さる聖霊のお働きは、現在も続けられているはずだからです。未来に対する新しい啓示などというものに現を抜かすべきではありませんが、啓示された御言葉に、新たに光を当ててくださる聖霊のお働きには、大いに期待をすべきなのです。

 たとえば、宣教地における福音の理解と適応、つまり、一般にコンテクスチュアライゼーションという言葉で表されることを期待するとき、私たちは、西欧諸国の物事の考え方の中で構築された神学や、西欧の文化的背景をもって理解され、適応された聖書の教えを、そのまま受け入れるのではなく、また、宣教師や宣教学者たちによるコンテクスリュアライゼーションを期待するのでもなく、現地の人々が聖書を読むとき、特に、2、3人主の名によって集い聖書を学ぶとき、その中に特別な意味で臨在してくださる聖霊が、彼らの心を導き、自分たちの文化の中でその聖書を理解し適応させて行くのを、手助けしてくださることを期待すべきです。コンテクスチャリゼーションに関する専門の学者たちの意見を聞くと、そこには、現在もお働きになり、聖書の意味を明らかにしてくださる聖霊に信頼し、期待することがまったく欠けていることに驚きます。みな、自分たちの学識の仕事と心得ているようです。少なくても私たちペンテコステの人々は、現在における聖霊のお働きを固く信じているのですから、現地の一般の信徒や伝道者たち、つまり専門の聖書学者や神学者ではなく、ごく普通の人々が、この、今も生きて活動しておられる御霊に信頼して、導きと解き明かしをお願いしながら、自然に構築して行くコンテクスチュアライゼーションに、もっと意義と意味を認めるべきです。

3. 御霊による成長・教会の一致

  (Iコリ12:4−14−14:40、エペ2:11−22、4:1−16)

 パウロは、私たちがキリストを信じた瞬間に起こる、私たちの霊的現実の変化を大変重要視しています。その変化とは、キリストが十字架で成し遂げられた贖いのみ業を、聖霊が私たちに適応してくださることによって起こるものです。すでに述べたように、彼はそれを御霊の原理という表現で語りましたが、そのほかにもいろいろな言葉で教えています。いま取り扱おうとしている「御霊による成長・教会の一致」という主題に関するものとしては、「私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つの体にバプタイズされ」たということ(Iコリ12:13)、あるいは、「以前は遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスの中にあることによって、キリスト・イエスの血によって近い者とされ」たということ(エペ2:13)、さらには、「召された私たちはその召しにふさわしく、平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保つべき」であることなどが語られています(エペ4:1−3)。

 Iコリ12:13でパウロが強調していることは、私たちはみな異なった背景を持っているが、聖霊によって一つとされたのだという事実です。ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人という言葉を用いて、パウロは国籍や人種、文化あるいは言語などを超え、職業の種類や身分の尊卑をこえた、あらゆる種類の人々を含めて語り、それらの人々がみな、同じ御霊によって「同じ一つの体」すなわちキリストの体である教会に、バプタイズされたという事実を前面に押し出しています。教会の中にはありとあらゆる異なった人々がおり、それぞれ異なった特徴や能力、性質を持った者がいるけれど、「同じ御霊によって一つにされた」のだという霊的事実を強調し、繰り返し語っているのです。パウロにとっては、キリストによって新しく生まれるということは、キリストの名による一つの共同体に属すること以外の、なにものでもありませんでした。そのキリストの名による共同体の中にいてこそ、キリストのいのちをいただき、共に生きることができるのです。そのキリストの名による共同体を、パウロは聖霊の啓示と導きによって、「キリストのみ体」と表現したのです。体は有機体です。一つのいのちによって生かされる有機体です。

 Iコリ12−14章を語るとき、ペンテコステ系の人々はしばしば9つの賜物や、異言の問題に気を取られ、パウロが提示しているもっと大きな主題を見落としています。パウロがここで力を込めて語ろうとしているのは、賜物の種類についてでも、その分類についてでも、あるいは異言の賜物の功罪でもありません。それらは、もっと大きな主題の説明に用いられている、具体的な問題に過ぎないのです。パウロが本当に言いたかったのは、教会には、さまざまな賜物をいただき、さまざまな能力や資質を持っている人々がいるけれども、それらはみな、御霊によってあたえられたものであり、そもそもすべての者が、同じ御霊によって同じ教会にバプタイズされ、同じいのちに生かされているのだから、その違いを、いがみ合いや敵対心や分裂のもととはしないで、かえって、それを生かして互いの足りないところを補い合い、弱いところをかばい合うことによって、一致を保ちながら、一緒に成長して行こうではないかということなのです。そして、その教会の有機的性質を表すのにもっともふさわしい表現が、キリストのみ体というものだったのです。

 異言の問題にしても、パウロが言いたかったのは、異言はすばらしいもので、自分は誰よりも多くそれを語ることができるし(Iコリ14:18)、すべての者がそれを語るようにと願っているが(Iコリ14:5)、この賜物はより公共性の少ないもので、プライベートで語る本人の助けや成長にはなるが(Iコロ14:4)、教会の集会の中で、解き明かしもなくただ語られるままでは、教会全体にとっては何の役にも立たないのだから(Iコリ14:5−13)、控えめに秩序を保って語ろうということなのです(Iコリ14:26−33)。ただこれだけのことですが、異言を語ることそのものに反対し、反感を持っている人たちが、この箇所を用いて異言の価値を落とすような試みをしてきたために、ペンテコステ系の人々の間では、もっぱら護教論的に、これを取り上げられてきたきらいがあるのです。パウロが願っていたことは、すべての賜物が同じ一つの御霊によるものなのだから、一致と調和をもって成長しようではないかということなのです。

 エペソ書2章においてパウロが語るところも、基本的には同じです。私たちはみな、かつては異邦人として神の契約の外にあり、望みのない者であったけれど、いまや、キリストの贖いのみ業と、それを私たちに適応する聖霊の働きによって聖なる者とされ(ロマ15:16)、イスラエル人と一つにされたのです。そして、一つとされた異邦人とイスラエル人とは、一つの御霊によって父のみもとに近づくのです。具体的には、異邦人とイスラエル人とが一緒に生きるということは容易ではありませんでした。多くの妥協と擦り合わせと、軋轢と紛争があったことでしょう。しかし聖霊が、キリストの和解という霊的事実を私たちに適応して、現実化してくださるのです。実際の生活の中で敵意と憎しみ、誤解と独りよがりを捨て、互いに融和していくことで出来るようにしてくださるのです。私たち異邦人はもはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国民であり、神の家族であるという事実が(エペ2:19)、言葉ではなく体験となり生活となるのです。

 また、パウロは、「私たちは使徒と預言者という土台の上に建てられ、キリストを礎石とした建物ですと言って」私たちを建物になぞらえていますが、これは、Iコリ3:9−16に通じるものであり、キリストのみ体という言い方に比べると、無機質であるという点で見劣りのするたとえではありますが、すぐあとに来る「聖なる宮」あるいは「神の御住まい」という、教会のもう一つの意味を明らかにすることにおいて、生きて来るものです(エペ2:20−21)。ペンテコステの日に聖霊が降り住んでくださったことにより、それまでは、たとえ一箇所にまとめて置かれていても、ばらばらの材料、個別の建築物資に過ぎなかった弟子たちの一団は、ここで建物として組み合わされて、初めて聖霊が住んでくださる宮となったのです。私たちが聖霊の宮となり、私たちの中に聖霊が住んでくださるのですから、もう、旧約時代の神殿はまったく不要になったのです。今の私たちには、犠牲も祭司も神殿も不要です。完全な犠牲となってくださったキリストがいてくださり、完全な大祭司であるキリストがいてくださり、私たち自身が宮となったのです。

 ところでパウロは、ここにおいてあたかも、私たちはまだ主の宮、神の住まいとはなっていないような表現をしていますが、私たちはすでに初めから主の宮であり、神の住まいでした。しかし、この神の宮という霊的事実もまた、日々本当に神の宮としての性格を現して行くべきものであり、行かねばならないのです。その意味において、成長し主にある聖なる宮となっていくのです。そしてそれは、生きて働いてくださる聖霊のお働きによって可能なのです(エペ2:21)。

 エペ4:1−16において、パウロはまず、神を信じて救われた私たちは、すなわち神に召されて神のものとなった私たちは、神のものとしてふさわしい生き方をするようにと勧めています。その、召しにふさわしい生き方とは、「御霊の一致を熱心に保つ」ことです(エペ4:3)。その御霊の一致とは、具体的に、互いに謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって忍び合い、平和のきずなで結ばれる(エペ4:2−3)ということによって実現されるのです。そして実現させて下さるのが聖霊の働きなのです。ただしその実現は、御霊の一方的な働きで達成されるものではなく、あくまでも、一人一人の信徒の自覚と努力が必要なのです。そこでパウロはその自覚と努力を促すために、次の4−6節の短い文章の中で、からだは一つ、御霊は一つ、召しのもたらした望みは一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父なる神は一つと、7回も「一つ」と繰り返して、私たちが一つであるという事実を思い起こさせようとしているのです。[10]

 しかし私たちが一つであるということは、私たちがみな同じになるということではありません。1コリ12−14章においても、エペ2:11−22においても、パウロは同じことを強調しているのですが、一人一人の信徒はみなそれぞれ異なっていて、異なった賜物を持ち、異なった能力を持ち、異なった国籍を持ち、異なった文化を持ち、異なった言葉を持ち、異なった社会的身分を持ち、その他あらゆる相違を抱えながら、なお一つであると言っているのです。短い言葉で言うと、多様性の一致です。私たちはその多様性の一致を損なってはならないのです。

 日本人である私たちは、日本的な共同体に慣れ親しんできたために、日本的な共同体の感覚を主の共同体である教会の中にまで、持ち込んでしまいます。それは、ひとりひとりの特異性を犠牲にした、なんでも一色にしてしまう共同体です。日本の小学校や幼稚園のように、同じ靴、同じ靴下、同じズボンやスカート、同じ服、同じ帽子、「右へならえ」の一致、常に周囲を気にして周囲と同じになろうとする一致ではなく、自分の違い、自分の特徴、自分の能力、自分の欠点までも認め、受け入れ、その自分を主張しながら、同じように、他者の違いと、彼らの生きる権利を認めて尊重していく一致なのです。教会の中には、まさにありとあらゆる種類の人々がいて良いし、いて当然であり、いなければならないのです。このようなことは、まさに、御霊によって歩むということによってのみ可能なのです。

 そのような中にあって、神はひとりひとりの信徒たちを指導して奉仕の業を行わせ、キリストの体を建てあげさせて行く役割を担う人々を、お与えになりました(エペ4:11−12)。彼らの役割は、彼らがキリストの体を建てあげるのではなく、建てあげる信徒ひとりひとりを整えることです。整えると訳されている言葉は、「準備する」とか「繕う」とか訳される言葉で、ひとりひとりが仕事をすることができるように、傷ついているところや弱いところを繕い、準備することです。そうすることによって、キリストの体、すなわち教会全体が、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達することを目指しているのです(エペ4:13)。その信仰の一致と神の御子に関する知識の一致を達成することこそ、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達すること、頭なるキリストに達することなのです(エペ4:13、15)。そしてそれが達成されて行くにつれて、もう、さまざまな間違った教えに翻弄されることもなくなるのです。

 そしてこの「頭なるキリスト」という表現は、教会に命令を与える司令塔としてのキリストという意味よりも、むしろ「第一」の「先頭の」という意味が強く、「長子としてのキリスト」という、パウロの理解と共通するものです(ロマ8:29)。すると頭なるキリストに達するということは、神が予め、私たちに定めてくださった「御子に似た者になる」ということであると判ります。教会は聖霊によるこの御子の内住によって、成長し、建てられて行くのです。そして具体的には、まず、一つ一つの部分が、すなわち、ひとりひとりの信徒が、それぞれに与えられた力量にふさわしく働く力によって、それが成し遂げられて行きます(エペ4:16)。それぞれに与えられた異なった賜物、異なった資質、異なった役割を、押しなべて平均化することによって達成するのではなく、違いを違いのまま残して、その異なった力量をそれぞれが発揮することによって達成するのです。また、「備えられたあらゆる結び目」という意味は、キリスト御自身が与えられた教会の指導者たちなのか(エペ4:11)、聖霊ご自身の直接のお働きなのか明らかではありませんが、ともかく、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、すなわち、分裂や分派、仲たがいや憎み合うことが無いように一致を保つようにされて、成長し、愛のうちに建てられるのです。

 ここで改めて注意したいことは、パウロが語る成長という意味です。もちろんパウロはここで、教会の人数的な成長や、経済的成長について語っているのではありません。そのようなことはパウロの関心外でした。またパウロは、ひとりひとりの信徒の成長に大きな関心を払っているのでもありません。それは無視されているのではありませんが、彼の関心は、教会の成長であり、キリストの体という有機的共同体の成長です。ひとりひとりの信徒たちが信仰の成長を遂げることは素晴らしいことであり、望ましいことです。しかしパウロの関心はむしろ、共同体全体の成長であり、その成長のためならば、個々のクリスチャンが自分の成長を犠牲にしても、尽くして行くことが勧められているのです(Iコリ14:1−19)。

 パウロはこの一連の教えを締めくくるにあたって、非常に高度な教会論を短い文章でまとめています(エペ4:16)。「キリストによって、体ぜんたいは、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

4.御霊の実

  (ガラ5:16−26)

 私たちペンテコステ系の人々の間では、御霊の実と言われる9つの徳をとても大切にして、いろいろな方たちがさまざまな解説を加えていますが、パウロが強調しているのはこれらの徳ではなく、むしろそれらの徳を私たちの内に結ばせる、「御霊によって歩む」こと、あるいは「御霊によって導かれること」、「御霊によって生きる」ことです(ガラ5:16、18、25)。この中で最も基本となるのは、御霊によって生きるということです。パウロは「もし私たちが御霊によって生きるなら」と言っていますが、この「もし」は、御霊によって生きているのかどうか疑って確かめている「もし」ではなくて、御霊によって生きていることを強調する「もし」です。だれかが凛々しい男性に向かって「もし男なら」と言った場合、その「もし」は、あなたは男ですか女ですかと尋ねているもしではなく、男であることを強調して、「男なのだから」と言っているのです。したがってパウロはここで、「あなたたちは御霊によって生きているのですから」と、私たちがキリストによって得た霊的な事実を確認させているのです。

 「御霊によって歩みなさい」というのも、「御霊によって導かれて進もう」というのも、その御霊によって生きているという霊的事実を、日常の生活の中で具体的に表して行きなさいということです。そしてパウロはここで、私たちの内に住んでくださっている聖霊の性質と、その力強い働きを説明しています(ガラ:16−17)。まず、私たちの内に住んでくださる御霊の性質は、肉に逆らうものです。御霊は絶対に聖い神であり、宮として宿ってくださった人間は、神の御前における立場の上では、あるいは法律的な意味では、キリストの贖いのみ業のゆえに罪を赦された者であり、清められた者であり、子とされた者でありますが、実際の性質はまだまだ臭気紛々とした、肉につく罪人です。そこには聖なる神と、汚れた宮との葛藤、軋轢、戦いがあるのです。しかし、その戦いはすでに十字架の上で決着がついており、私たちはすでに神に買い取られて神に属する者となりました。そしていまや、悪魔の支配から神の支配に移されているのです。ですから当然、内にお住みになる聖い神は、その宮を清めて下さるのです。肉につく罪人はまだまだ肉のことを思い、肉の欲望を満足させようとしますが、内にお住みになる聖霊の聖い力は、私たちの肉の汚れた力より強いのです。ですから、私たちが御霊によって生かされているという霊的事実を確かめ、確認して、その事実にのっとって毎日の生活を生きるならば、つまり、何事においても聖霊を信じ、聖霊に頼りながら歩むならば、「決して肉の欲を満足させるようなことはない」ばかりか、私たちの内に結ばれる御霊の実を見ることができるのです。自分の肉を、さまざまな情欲や欲望と共に、十字架につけてしまったという霊的真理は、ここにおいて、目に見える形で現されるのです(ガラ5:26)。御霊の実が9つなのか、それとも一つの実のさまざまな面なのかというような論議がありますが(実は原語では単数形)、あまり、たいした問題ではありません。9つだけと限定する必要もありません。パウロはこれらの徳を思いつくままに列挙したのであり、一つ一つの意味を理解することは大切ですが、他にもさまざまな実があることを知らなければなりません。

 ところで、このガラテヤ書の取り扱いでは、聖霊はあたかも、もっぱら個々の信徒の生活に関わって働いておられるように読み取れますが、ひとたび目を前後の文章の流れに向けますと、まったく異なった状況がわかります。直前の5:13−15を読みますと、そこで言われていることは、教会全体が愛し合って生きるという主題です。その愛し合って生きるという最も大切な主題のために、私たちは御霊によって生きているという事実を、具体的に現して行こうと勧められているのです。また、直後の6:1から続く勧めの言葉も、教会の中で愛し合いながら生きることであり、具体的には、まず、御霊によって生き、御霊によって歩む私たちが、その具体的な行為として、あやまちに陥った人を柔和な心で正し、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけながら、互いの重荷を負い合うことです(ガラ6:1−2)。ここでも、パウロの関心は個人のクリスチャンの成長よりも、キリストのみ体全体の成長なのです。

5.御霊の証印と御霊の保証

  (Uコリ1:22、エペ1:13、4:30、Uコリ5:5、エペ1:14、ロマ8:23、15:13)

 パウロは、私たちが「救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました」と語っています(エペ1:13)。私たちがキリストを信じたその瞬間に、私たちは約束の聖霊によってキリストのみ体にバプタイズされ、その結果、私たちには約束の聖霊の内住が与えられました。パウロはその聖霊の内住を証印と呼んでいるのです。パウロが用いた証印という言葉は、もともと商取引の言葉で、買い取った品物を直ちに引き取ることができない場合や、他の者の手によって移送されなければならないときのために、その品物に封をして買主の名前を刻印したもののことで、品物の所有者を明らかにしたものです。聖霊が与えられたということは、神が私たちの所有者である。私たちは神によって買い取られ、神に属するものであるということの証明なのです。パウロは、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が証してくださる」と語っていますロマ8:16)。

 ただし、すでに述べたように、聖霊の内住をいただいているということは霊的な事実であって、しばしば気付かれないままに長い時間を経過してしまいます。折角の証印が、見えないままになっていて、その役割を果たせないでいるのです。聖霊の内住は、なんとしても気付かれなければならないものです。具体的に内住の聖霊の働きが、目に見えるような形で現れてくるべきです。そうしならなければ、私たちの霊は、御霊とともに証することができないのです(ロマ8:16)。そういうわけでパウロは、私たちのうちには聖霊が住んでいてくださるのだという事実を、一生懸命に教え、その聖霊に頼って生きることによって、聖霊を体験し、自分が神のみ手の中にあるという確証を得るように、口をきわめて励ましているのです。

 またパウロは「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます」と語っています(エペ1:14)。証印は同時に保証となっているのです(Iコリ1:22)。ここで用いられている保証という言葉も商取引の用語で、「手付金」という意味です。手付金とは、買い取ると約束した物を間違いなく買い取る保証として、価格の何割かを予め払っておくものです。もし約束を破って買い取らない場合には、払った手付金は戻ってきません。そういうわけで手付金は、約束を単なる空約束に終わらせない、確実な手段でした。パウロは今の自分の肉体が朽ち、人によらない天からの体を与えられる日を待ち望みながら言いました。「私たちをこのことにかなう者にしてくださった方は神です。神は、その保証として御霊をくださいました」(Uコリ5:5)。

 聖霊が与えられているということは、手付金が払われているということです。手付金は全額ではありません。しかし、価格の何割かに当たるものです。現在わたしたちは、やがて来る完全な神の国のすべてを見ることはできません。しかし間違いなく、その神の国の一部を、御霊によって、前味として、また手付金として味わっているのです。パウロはこの保証という理解を「御霊の初穂」(ロマ8:23)という表現でも語っています。初穂には更なる完全な収穫が続くということで、保証と同じ意味を持たせることができたのです。私たちはすでに初穂としての贖いはいただいています。しかし完全な収穫としての贖いは、まだ、うめきながら待ち望む中にあるのです。さらにまた、「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」と祈ったとき(ロマ15:13)、パウロは間違いなく、聖霊の保証ということを考えていたことでしょう。私たちには聖霊の保証があるからこそ、望みにあふれることが可能なのです。

[10]  原語では一つという言葉はいろいろな前置詞になっていますが、それは一つと翻訳するのがもっともふさわしいということらしく、手もとにあるすべての英語と日本語の聖書はすべてそのように翻訳しています。

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