Pneumatology


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                       教会の誕生と洗礼でないバプテスマ



 ペンテコステはまず何にもまして、神と人との新たな交わりの幕開けだったのです。人の姿をとっておいでになった神キリストが、天にお帰りになり、改めてお送りになった聖霊は、キリストのように神の姿を捨てた神ではなく、神そのものの神です。さきにも述べたように、旧約の時代にも、聖霊は人々の内に宿ってくださいました。しかし「宿る」という類似した、あるいは共通した言葉が用いられていても、その実質は大いに異なるものであり、ペンテコステの日に、キリストによって派遣された聖霊によって、はじめて、新約聖書の言う「宿る」という出来事が可能になったのです。


 では、ペンテコステの日には、実際何が起こったのでしょう。使徒の働きの記述を読むと、現象的には、「突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響きわたり、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまり」ました(使2:3−4)。すると集まって祈っていた、多分120名ほどの人々は他国の言葉で話し出しました。また使徒の働きの著者ルカの記述によると、物音に驚いて非常に多くの人々が集まり(使2:41)聖霊に満たされた人々の様子を見て、酒に酔っているのだと言ったということですから、大声をあげたり、ふらついたり、転んだりしていた者がいて、あたかも乱痴気騒ぎのようであったのかも知れません(使2:13)。


 著者のルカ本人はこのことを説明して、「みなが聖霊に満たされて、御霊が語らせるとおりに」語り出したと言っています(使2:4)また、ペテロはこのことをヨエルの預言の成就であると説明し(使2:16)、イエスが父なる神から約束されていた聖霊をお注ぎになったのだと語り(使2:33)、さらには、この聖霊は、悔い改めてイエスの名によってバプテスマを受ける者に、賜物として与えられるものであり、その場に居合わせた人々をはじめ、彼らの子孫、そしてすべての遠くにいる人々、すなわち、神がお召しになる人々に約束されていると、宣言しています(使2:38−39)。


 このペンテコステの日の聖霊の注ぎが、イスラエル人という民族の枠を超え、また個々人の尊卑の差を越えて与えられ、しかも神殿や祭司や犠牲という制限に妨げられない、深く豊かな交わりの始まりであるということについて、私たちはすでに学んできました。そしてこのことは、これまでもいろいろな人によって、ある程度語られてきたことです。では、それ以上に何かあるのでしょうか。今の私たちがぜひとも注目しなければならないのは、実はこの後に取り扱う事柄なのです。


1.教会の誕生


 ペンテコステで起こったもう一つの大切なことは、このときキリストを信じる人々の群れが、聖霊のお住みになる有機的共同体となったということです。キリストの弟子たちは、ペンテコステ以前にもある種の共同体を構成していました。ちょうど、エリヤやエリシャが活躍した時代にあった、「預言者のともがら」と同様です(I列20:35他)。神が住まいと定められたイスラエル人の一部として、キリストを信じる「新たに生まれた」者として、彼らの中には、すでに何らかの形で聖霊が働いておられたはずです。しかし彼らは、肉によって生まれた者が作り出すイスラエルという共同体の一部であり、キリストを信じるという同じ信仰による任意の共同体ではありましたが、その中に、キリストの贖いを通して成し遂げられた、妨げられていない、制限されていない聖霊の、内住をいただいた共同体ではなかったのです。ところが、ペンテコステの日に聖霊を注がれた彼らは、そのときからキリストの命を共有する有機的共同体となり、キリストの体と呼ばれるようになったのです。一つの体のすべての部分には同じ血潮が流れ、同じいのちが通っているように、キリストの体を構成する者となったすべての弟子たちには、同じ聖霊がいのちとなって流れるようになったのです。すなわち、ペンテコステの日に教会は誕生したのです。


 キリストはただ贖いを完成させるためだけではなく、その贖いのみ業を、キリストが去って行かれた後も全世界に宣べ伝えて行く、キリストの代理としての教会をお建てになるためにも、お働きになったのです(マタ16:18)。キリストはそのために弟子を集め、苦心と忍耐をもって教え、訓練し、鍛えあげられたのです。キリストはやがて建てられるこの教会を「私の教会」とお呼びになり、それまでの「神の民」であるイスラエルとは、はっきりと区別を付けられました。[4] そして、人の手によらない心の割礼を授け(コロ2:11)、[5] そのうちに住み力を与えて、黄泉の力もこれに打ち勝つことができなくしてくださったのです(マタ16:18)。


 教会はまた、ただ単にキリストの贖いの福音を宣教するための集団ではありません。それは、神の永遠のシャローム、神が共にお住まいになることによってはじめて可能な神の国の平安を、この世において先取りしながら実現して行く、神の国の共同体です。旧約の預言者たちがあこがれ見た、神がお住まいになる完全に回復したイスラエル(イザヤ32:15、44:3、59:21、ゼカ2:11)ヨハネがパタトモス島で見た神が共に住み、人の目から涙をまったく拭い取ってくださる新天新地を(黙21:11−6)、この世で予表として具現していく神の国の共同体です。この世にありながら、神が共におられるという事実のあらゆるすばらしさを、自らの中に体験しまたそれを光として、世界に示していく共同体です。


 キリストによって作り上げられていた弟子たちの共同体は、キリストの弟子ではありましたがペンテコステ前にはまだ聖霊の住まい、神の宮とはなっておらず、いわば誕生前の胎児のような存在だったのです。もうじき、弟子たちをおいて去って行かなければならないキリストが、別れを惜しんで悲しまれた様子はまったくありません。かえって、甦られたキリストは、彼らが間もなく聖霊を受けること、もうすぐご自分の民、ご自分の会衆、すなわち教会が建てられるという期待に、胸を膨らませておられたようです(ヨハ20:22)。キリストは彼らを離れて行かなければならないことをご存知でしたが、また、ご自分の霊を通して彼らの内にお住みになって、彼らとの交わりをさらに深め、彼らを成長させていくことに期待を込めておられたのです。もちろん、当時の弟子たちは、そのようなことについては知るよしもありませんでした。なぜなら、教会についての啓示は奥義であり、つまりまだ明らかにされていなかった神のご計画であり、それが明らかにしされるためには、パウロという人物の出現を待たなければならなかったからです。


 キリストが作り上げた弟子の一団は、みな、パレスチナのユダヤ人であり、国粋的な感覚を持っていたため、普遍的な教会という新しいキリストの民の性格を、正しく認識し、正しく表現することが困難だったのでしょう。それで、外国育ちで異邦人や異邦の文化を良く心得て、不要な外国人差別の意識をもっていなかった、パウロの出現が必要だったのです。そういうわけで、教会の神学はその大部分をパウロに負うことになります。聖霊と教会との関わりもまた、当然、パウロに聞くことになります。大使徒たちの中心であったペテロも、こと人種問題では当時の一般の人々と同じように保守的であり、聖霊の強烈な後押しと導きがなければ、異邦人であるコルネリオの家に入ることさえできませんでした。彼は聖霊の導きによって自ら引用したヨエルの預言、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」ということの意味を、まだ本当には理解していなかったのです。 


 パウロは、ペンテコステの日に起こった事柄については黙したままです。伝道者であり宣教師であり、また牧師としての心を持っていたパウロは、当時の教会の事情と必要に対処する手紙をたくさん書きましたが、ペンテコステの日の出来事それ自体には、関心を持っていなかったようです。パウロにとって必要だったのは、ペンテコステの日に何が起こったかということを論じることではなく、「現在何が起こり続けているか」ということを理解し、教え、励まし、警告し、指導することだったのです。さきに述べたように、パウロは、宣教論的な角度からではなく、教会論的な角度から、聖霊について論じています。聖霊が共同体としての教会にどのように関わり、ひとりひとりの信徒にどのように関係しているかということを、パウロは教えているのです。とはいえ、パウロの聖霊についての理解は、あくまでもペンテコステの日の出来事を基点とし、前提としたものであることに気付かなければなりません。


 一般的に、パウロが聖霊について語るときには、救済論的な見地から語っていると言われていますが、むしろ、教会論的角度から語っているという事実に注目しなければなりません。パウロは、たしかにひとりひとりのクリスチャンの成長に関わる、聖霊のお働きについて語っています。しかし、そのような個々の信徒の霊的体験もさることながら、パウロのもっとも大きな関心事は、共同体としての教会の成長だったのです。パウロが力を込めて教えたのは、むしろ、教会とのかかわりにおける聖霊のお働きでした。パウロは現代西欧個人主義の文化の中に育った人物ではありませんから、個別の事例においては、たとえ個人の大切さを高揚したとしても、その考え方の基本は共同体文化に育まれたものでした。ですから、パウロは個々の信徒たちの霊的体験、霊的成長をとても気遣っているようでありながら、その行き着くところは、共同体としての教会、キリストのみ体の全体的成長、健全な成長だったのです(エペ2:11−22、4:1−16、Iコリ12:12−14:40)。御霊の賜物について教えたときも、個人の徳を求めるのではなく、共同体としての徳を求めること、全体の益になることを第一にしています。このことを理解しないまま、たとえば、Iコリ12章から14章までを理解することは不可能です。しばしば個人の信仰の問題として取り上げられるIコリ3:10−17も、本来共同体としての教会のことを語っているのであって、関心は個人にではなく共同体にあるのです。実際コリント人への手紙全体でも、他の書簡でも、パウロの主な関心はキリストのみ体にあります。


 たとえば、パウロはエペ5:22−33において夫婦の関係について教えていますが、夫と妻の親密な関係、「一心同体」の関係を強調し、それがキリストと教会の関係をさしていると教えています。個人主義の文化では個人を大切にします。個人のことを英語で individual と言いますが、これはもうこれ以上分けることができないものという意味です。ですから、個人主義の世界ではたとえ夫婦であっても、二つの別個の individual がくっ付いているのであって、まだ分離することができるのです。しかしパウロによると、夫婦は一体であり、それ以上分離することができないものなのです。そしてキリストと教会の結びつきは、まさに一体となる結びつきなのです。キリストが愛されたのはこの教会であり、この教会のためにご自身をささげられたのです。私たちはしばしば、「キリストはあなたのためにいのちを捨ててくださったのですよ」と言いますが、聖書はむしろ、「キリストは教会のためにいのちを捨ててくださった」ことを教えているのです。


 パウロが教えた聖霊と教会の関わりの中で、もっとも大切と思われる思想は、「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(Iコリ12:13)という言葉に、表現されていると思います。この節は、残念ながら日本語の聖書ではみな大変あいまいに翻訳されていますので、まず、その意味を明らかにしなければなりません。日本語の聖書ではどれも、「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」と翻訳されているのですが、もともとは、つまり原語のギリシャ語聖書では、「一つの御霊によって、一つの体にバプタイズされ」となっています。手元にあるいくつかの英語の聖書を開いてみると、みな、そのように訳されています。ここでパウロは、すべてのクリスチャンが、国籍や民族あるいは立場の尊卑に関わりなく、「同じ一つの御霊によって、同じ一つの体にバプタイズ」されているという事実を強調しているのです。「同じ一つの体となるように」ではなく、「おなじ一つの体に」バプタイズされているのです。つまり、一つの体である教会に連なるように、バプテスマという儀式、もしくは、バプテスマと呼ばれる霊的な何かを受けるのではなく、同じ一つの体に、その体の中に、直接バプタイズされるのです。あるいは、同じ一つの体がそこで作り上げられるのではなく、すでに存在している一つの体にバプタイズされるのです。


 これとまったく同じ用法は、ガラテヤ3:27に再び用いられています。ここでも日本語はあいまいですが、原語では明らかです。そしてここでは、私たちは「キリストの体に」ではなく、「キリストに」バプタイズされたと言われています。パウロは教会をキリストの体と呼ぶだけではなく、「キリスト」と呼んだことさえ数回ありますが(Iコリ12:12、コロ1:24、I6:15)、[6] それは、パウロの神学の中での教会の重要さをうかがわせるものです。ですからここでパウロは、私たちがキリストの体にバプタイズされることとは別の、キリストにバプタイズされるという出来事を語っているのではなく、同じキリストの体にバプタイズされるという出来事を、教会をキリストと言い切って表現することによって、教会の重要性を強調して語っているのです。パウロにとって、キリストのみ体である教会にバプタイズされることは、キリストにバプタイズされることであり、それ以下のことではなかったのです。


 また、ここではバプタイズという行為をしてくださるのは聖霊であって、キリストではないことに注目したいと思います。それは、ここで言われるバプテスマは、キリストがお授けになる「聖霊のバプテスマ」とは異なった事柄であるということを示しています。聖霊が私たちに与えられるという事に関しては、聖霊のバプテスマの場合でも、「キリストが」、「私たちに」「聖霊を」「授けてくださる」(マタ3:11他)、あるいは「注いでくださる」(使2:33)と教えられているとおり、常に、キリストが行為者であるか(ヨハ15:26)、神が行為者であるか(14:16)、あるいは神が主たる行為者でありキリストが実行者とされています(テト3:6)。ところがここでは、「聖霊が」「私たちを」「キリストの体に」「バプタイズ」してくださるのであって、聖霊が行為者です。そして動かされるのは聖霊ではなく「私たち」であり、行為を受けるのは私たちではなく「キリストの体」です。したがってこれは、聖霊のバプテスマではありません。また、聖霊が私たちに与えられるという出来事とはまったく異なる事柄です。実際、多くの学者たちが、不注意のせいか、或いは故意によるのか、この箇所を「聖霊のバプテスマ」と解釈して、「聖霊のバプテスマは回心の時にすべての信徒に与えられるものである」と主張するなど、多くの混乱を招いています。


 次に「バプタイズ」という言葉ですが、これは普通「洗礼」と訳される「バプテスマ」の動詞形で、「洗礼を行う」とでも訳されるべき言葉です。しかし洗礼を行う、すなわち「授ける」あるいは「施す」という行為は、儀式であって、教会に与えられた任務です(マタ28:19)。聖霊のお働きに儀式はありません。常に、隠されている霊的事実を現実のものとしていくのが聖霊であり、霊的事実の影に過ぎない儀式を聖霊が行われることはないのです。そして洗礼は私たちを水の中に浸す儀式ですが、ここで語られているバプテスマは、キリストへのバプテスマですから、「洗礼を施す」ことではあり得ません。バプタイズという言葉のもともとの意味は、「どっぷりと浸す」ということで、水などの液体を想定しています。一般的に、洗濯や染物などのために、着物や布地を水の中に浸すときに用いられた言葉です。そこには「洗う」という意味はあまりなく「漬ける、浸す」という、「洗う」に先行する行為が示されています。ですからこの儀式を強調するバプテスト教会では、敢えてこの洗礼というなじみのある言葉を避けて、バプテスマという原語を使い続けています。日本語の聖書もバプテスト教会の意向を尊重して、洗礼と翻訳せずに、バプテスマという原語をそのまま残している場合が多いのです。


 そこでもう一度Iコリ12:13を見ますと、パウロは、聖霊が私たちを、すなわちすべてのクリスチャンを、人種や尊卑にかかわらず、すべてのクリスチャンを、キリストのみ体にバプタイズしてくださった、どっぷりと浸してくださったと言っているのです。キリストのみ体とは教会のことです。コリントの教会には、現代の日本人クリスチャンの感覚からすると、まさに「クリスチャンとも思えぬ」、「風上にもおけぬ」「キリストの名に恥じる」ようなクリスチャンどもがいました。しかしそれらのすべてのクリスチャンを含めて、パウロは、彼らが聖霊によってキリストのみ体という、キリストの名が嫁せられた神秘的共同体にバプタイズされた、どっぷりと浸されたと、漬けられたというのです。パウロは、すべてのクリスチャンがキリストのみ体である教会に加えられているという霊的事実を、わざわざ「バプタイズされる」ということばで表現したのには、それだけの意味があったと考えるのが相当です。パウロにとって、キリストのみ体に属するという霊的事実には、単に「加えられる」、「繋げられる」、「入れられる」、「結ばれる」というような表現では足りない、もっと強力な、もっと親密な、もっと奥深い、もっと本源的な何かがあったはずです。


 パウロにとっての教会は、神の御霊が宿っておられる神殿であり(Iコリ3:16、6:19)、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方が満ちておられ(エペ1:23)、[7] 見えない神のかたちであり、万物を創造し成り立たせておられる方、満ち満ちた神の本質を内に宿らせておられる方、その死によって万物を和解させた方、死者の中から最初に生まれた方、すべてのことにおいて第一となられるべきお方である、キリストをかしらとしていただいていました(コロ1:15−20)。そのような、神の本質に満ち満ちたかたが、満ち満ちておられる中に、聖霊は私たちを入れてくださるのですから、まさにバプタイズという言葉がふさわしかったのです。聖霊はキリストを信じると告白した者すべてを、この満ち満ちておられる方が満ち満ちている中に、ザンブと投げ入れてくださった、あるいは乾いたまま残っているところがないように押入れ、浸してくださったのです。旧約の時代には、すべての民の代表者である大祭司だけが、犠牲と祭司と神殿という大変複雑な手続きを通して、死の恐怖と戦いながら年に一度だけやっと近づけたのが、神の臨在でした。しかもそれは神の本当の臨在ではなく、神の臨在を象徴する至聖所に過ぎなかったのです。それがいまや、キリストの完全な贖いのゆえに、すべての信徒が、いつでも、まったく恐れなく「神そのものであられる神」に近づくだけではなく、その神の満ち満ちている中に、どっぷりと漬けられてしまうのです。


 またパウロは、この言葉の後に続けてすぐに、「そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」という、とても面白い表現をしています。「御霊を飲む」という表現は、御霊を水のような液体にたとえての言い回しです。これは、バプタイズされるという言葉からの連想ではないかと思われます。パウロは「川の難」、「海の難」をいく度も味わいました。「難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあった」とも語っています(Uコリ11:24−25)パウロのこの語りぶりは、まるでそのときのことを思い浮かべているような表現です。水の中にどっぷり浸されて、上も下も右も左も水。そしてちょっとでも口を開けようものなら、たちまちどっと水が流れ込み、胃袋までも入り込むあの体験を描写しているように聞こえるのです。御霊を飲んでしまう。はらわたまで御霊に浸されるのです。ただし、パウロの自由奔放な頭脳の回転は、私たちがバプタイズされたのはキリストの中であったはずなのに、それを御霊と言わせてはばかりません。パウロにとって、キリストのみ体はキリストと言い替えてもよいものであり、その中にはキリストが宿っていてくださり、聖霊が内住していてくださるのです。キリストのみ体にバプタイズされた者は、単にそこに内住しておられる御霊に全身を浸されるだけではなく、その御霊がバプタイズされた者の中にまで入り込み、いのちとなるのです。


 ひとりひとりの信徒と教会の繋がりは、ただ加えられたとかつなぎ合わされたとか、張り合わされたとか縫い合わされたというような表現では足りない、全身が覆われ、さらに浸透されていくような繋がりなのです。事実、すべての肢体に行き渡って流れている、同じいのちの御霊によって生かされ繋がっているのです。そして、教会のこのような性質、キリストが満ちあふれている本姓は、ペンテコステのときの聖霊の傾注によって始まったのです。ペンテコステ以前のキリストの弟子たちの一団は、たんに信仰を同じくし、志を同じくする一団でした。しかし、ペンテコステ後のこの一団は、満ち満ちた同じいのちの中に投げ込まれ、覆われ、浸され、浸透され、染まり、生かされていく者となったのです(ヨハ1:4)。


 これまでの私たちの理解では、キリストを信じた個人は先ず聖霊に住んでいただき、キリストに属する者となり、永遠の命をいただき、天国を約束され、それから、天国に行くまでの期間、一人でいては淋しいために、信仰を同じくする者たちと励ましあい助け合って生きて行けるように、教会に出席するというものでした。あるいはもう少しましな理解として、救われたひとりひとりは、互いに愛し合うことを実践する者として、恵みと愛の共同体である教会に参加すると考えたり、正式に教会に加入して、教会員のひとりとして責任のある生き方をするのだと、思っていたりしたものでした。


 いままでの考え方では、キリストを信じた私たちは、聖霊に住んでいただくことによって聖霊の宮、あるいは神殿となり、そのような体験をした者たちが集まって作り上げる信徒の任意の共同体が、教会であると思っていたのです。しかし、教会はあちらこちらに作り上げられるものではなく、何度も誕生するものでもありません。教会は一度だけキリストによって建てられ、一度だけ聖霊によって誕生したのです。私たちは教会を建てるのでも作るのでもなく、聖霊によって、教会にバプタイズされるのです。そしてその教会が神の宮であり、聖霊の住む神殿であり、キリストの満ち満ちているものであるために、バプタイズされた私たちもまた、神の宮となり、聖霊の神殿となり、そのキリストに満ち満ちた者となり、キリストのいのちに生かされる者となるのです。私たち一人一人が、がキリストを信じることによってキリストのいのちをいただいて生きる者となり、その生きる者が寄り集まって一つの集団、一つの共同体を作るのではないのです。

 そのような共同体を、私たちはコロニーと呼びます。しかし教会はコロニーではなく、一つのいのちを共有し、一つのいのちに生かされる、一つの体なのです。ですから教会を構成している一人一人の信徒たちは、ただ、同じ信仰を持っている仲間なのではありません。同じ教会という組織に加入している仲間なのでもありません。同じ主義主張を持ち、同じ人生観を持ち、同じ価値観をもち、同じ未来の希望を持っている仲間なのでもありません。同じキリストのいのちに生かされている、同じ体に属する肢体なのです。


 私たちの聖餐式に用いられるパンは、本来、私たちがこの同じ体に属する肢体であるという霊的事実をも象徴し、聖餐式を行うごとにその象徴している事実を繰り返して明らかにし、強調すべきものです。そのために一つのパンが用いられ、会衆の前で裂かれて分けられることになっているはずなのですが、個人主義的信仰理解から、教会の意義が見失われ、ただ贖罪論的な意義、すなわち、十字架の上で私たちのために傷つけられたキリストのみ体を象徴するだけになってしまい、予め小さく切られたパンや、始めから小さく焼かれたウエハースが、習慣的に用いられているのは残念なことです。私たちは一つの体に連なっていてこそ、その体から流れてくるいのちに与ってこそ、生きていくことが可能になり、実を結ぶことが出来るのです(ヨハネ15:1−8)。


 繰り返しますが、今までの私たちの理解では、私たちがキリストを信じた瞬間に聖霊が私たちの内に住んでくださり、そのときから、私たちの内にあらゆる良い業を行い続けてくださるのです(エペ2:10)。そこに、教会に連なることの大切さはほとんど出てきません。キリストに繋がり、キリストを宿し、キリストに生きていただいているクリスチャンにとって、教会は付けたし、付属品に過ぎないのです。クリスチャンは教会がなくても生きていけるのです。争い合い、憎しみ合い、妬み合い、いがみ合っている教会など、・・・・その上、献金まで取られる教会など・・・・キリストの崇高な理念に程遠く、キリストに生きようとしている私たちには、失望以外のなにものでもなく、そこに所属するなど、考えても見たくないことなのです。誰でも一度は、無教会主義になりかけるのです。


 しかしパウロの理解では、むしろ私たちは、キリストを信じた瞬間に聖霊によってキリストが満ち満ちている教会にバプタイズされ、教会に連なることによって、キリストの満ち満ちたいのちに与り、「私たちはキリストにおり、キリストは私たちのうちに生きておられる」という経験をするのです。私たちが御霊を持つという体験は、一人のクリスチャンとしての個人的な体験ではなく、キリストの命を共有するクリスチャンたちの共有の体験であり、常に、「私たち」が持つのです。[8] なぜなら、パウロの言葉を借りるなら、「私たちはみな・・・・・、すべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(Iコリ12:13)。それぞれが別々に、異なった御霊を飲むのではなく、すべての者が、同じ一つの御霊を飲むのです。教会が真に有機的であるということです。そして私たちが教会にバプタイズされた瞬間に、私たちの内に聖霊が住んでくださるという事実が起こるのです。そこで、キリストのみ体の各部分である私たち一人一人には、みな同じ一つの聖霊が流れ、この同じ聖霊がすべての肢体に行き渡り、この同じ聖霊があらゆる部分の共通のいのちになり、まさに、有機的共同体となるのです。キリストにある者はすべて、もはや他人同士ではなく、一つのいのちに生かされている「われわれ」なのです。


 したがってパウロが展開する聖霊論は、あたかも個人の信仰と成長に関わる事柄のように書かれていたとしても、みな、教会論的な前提を背景に理解されるべきものです。すると、たとえば、Iコリ3:1−17に記述されている、さまざまな材料で建物を建てる話、11:17−34で論じられている、み体をわきまえないで飲み食いする問題、12:1−14:40に展開されている多様性の一致と賜物に関する教え、エペ2:11−32に取り上げられている和解と成長の真実、4:1−16で強調されている御霊の一致の勧めなどには、さらに深みのある意味が込められていることに気付くはずです。


 そういうわけで、ペンテコステの出来事で起こったことは、キリストの弟子の一団に聖霊が注がれて聖霊のお住みになる共同体、聖霊の宮、神の神殿となり、教会となったということです。それから後にキリストを信じた一人一人の信徒は、この意味において個人的なペンテコステを体験して、すなわち聖霊の注ぎを受けてキリストの内住を得るのではなく、この、ペンテコステの出来事を通して聖霊がお住みになっている共同体に、バプタイズされることによって聖霊の内住を得るのです。聖霊の内住に関わるペンテコステは、歴史上一度きりの出来事です。また聖霊は、キリストを信じた者の中にはじめて働きを始められるのではなく、キリストを信じることができないでいる心に働きかけ、罪について、義について、さばきについて、誤りをみとめさせ(ヨハ16:8)、イエスを主と告白させ(Iコリ12:3)、新しく生まれ変わらせて下さるのです(ヨハ3:1−10)。そして、またその者をキリストの体にバプタイズしてくださるのです。


 聖霊によって新しく生まれるという出来事と、教会にバプタイズされるという出来事と、聖霊に住んでいただくという出来事、あるいは、義としていただき、子としていただき、永遠の命をいただき、罪を許していただき、自由にしていただき、清めていただき、神の国に入れていただき、召していただくなどという出来事を、時間的に切り離して考えることはできません。理論的に前後関係を考えることはある程度可能ですが、すべて同時に、一瞬のうちに起こる事柄です。そしてそれは、風がどこから吹いてどこに行くのか判らないように、新しく生まれ、神の国に入れられた者には、ほとんどあるいはまったく、自覚を伴わないものです(ヨハ3:8)。ですから神を敵として歩んで来た者が、神の子とされ、神の祝福のうちに入れられたというすばらしい出来事、聖霊の支配とキリストの自由の中に入れられ、新しく作られた者になったという霊的出来事は(Uコリ5:18)、その後のクリスチャン生活の内に、徐々に現実の事柄として自覚され、明らかにされていくべき事柄です。御霊によって生きているという霊的事実は、日常生活の中で御霊によって歩むという、現実となって現れて来るべきなのです(ガラ5:16−26)。自由にされているという霊的事実は、奴隷のくびきを負わないで歩むという、すなわち割礼を受けないで生きるという生活で、具体的に示されていくべきなのです(ガラ5:1)。私たちの内に住んでくださる聖霊は、聖い霊なのですから、私たちの内側から働きかけ、私たちが聖く生きることができるようにしてくださるのです。


 しかし、ここで理解しておかなければならないことがあります。それは信じる者がキリストのみ体にバプタイズされるという出来事は、目に見える、何丁目何番地にある教会にバプタイズされたのではなく、そのままでは目に見えない、普遍的な唯一の教会にバプタイズされたのだということです。大切なのは、その目に見えない普遍不変の教会にバプタイズされたという霊的事実を、日常の生活の中で具体的に表現していかなければならないのです。それは他のすべての霊的事実と同じです。キリストにあって罪に死に新しい命に甦って生きているという事実が、毎日の生活の中で表現されていくべきであるのと同様に、キリストのみ体にバプタイズされているという事実も、日常の中で具体化されなければならないものです。それは、ほとんどの場合、地域教会の一員となって活発に活動することなしには、不可能なことです。


 もしも、キリストを信じ新生していながら、教会を軽んじ、出席も加入もしていない人がいるならば、教会に出席し、会員として加入し、さまざまな教会活動を行うように教え、指導し、励ましてあげなければなりません。周囲に教会がないならば、その地域にも普遍的キリストの教会の地域的な表現としての、地域教会が建てられるように、最大の努力をすべきですし、それが困難ならば、少々遠くても、何らかの形で交わりを持ち、教会としてのいのちの分け合いを実践すべきです。キリストがおっしゃった「二、三人私の名によって集うところには、私もともにいるのです」というお言葉は、ここで、特別な意味があることがわかります。クリスチャンがひとりでいるところには、キリストは共にいて下さらないという意味ではありません。たとえ少人数であったとしても、複数のクリスチャンが共にいるところに、初めて、キリストのいのちを分け合う有機的教会の姿が現されるということです。交わりの神は、ご自分に似せて交わりの本能を持つ人間をお創りになりました。その人間が罪から贖われ、本来の人間性を取り戻させて下さったのならば、当然、そこには失われた交わりの回復もあるはずです。完全な交わりの回復は永遠の御国において実現することですが、この世にあっても、天の御国の先取りである教会の中において、交わりは実現されて行くべきなのです。


2.洗礼ではないバプテスマ


さて次に、このIコリ12:13で語られている「聖霊によるバプテスマ」には、教会が行い続けてきた儀式としてのバプテスマ、すなわち、洗礼につながるものではないかということについて、話を進めたいと思います。伝統的なペンテコステ教会では、洗礼に関しては一般的にバプテスト教会の神学を継承して、浸礼を行うところが多いようで、私たちもそれに倣ってきました。バプテスマという言葉の定義、新約聖書に記されている洗礼の実例、キリストの死と甦りにあずかるという言葉の解釈(ロマ6:3−5)、信仰告白を伴う洗礼という主張からの幼児洗礼の否定、さらには教父時代の初期の浸礼の習慣などから、私たちは浸礼が本来の洗礼のあり方だと判断してきました。


 私たちが教えられてきたことによれば、洗礼とは、わたしたちが「キリストの死にあずかって、古い自分に死んだ」という霊的事実を表現するものであり、私たちが水の中にまったく浸されたことによって、「葬られたと」と考え、「完全な死を」表現しているものであると教えられてきました。ですから、滴礼や潅礼ではその意味を表現できないと考えて、浸礼を主張するのです。また、私たちが信仰によって「キリストの甦りにあずかり、今や新しいいのちに生きている」ものであることが、水から引き上げられることによって表現されているとも、教えられてきました。このように私たちは、洗礼とは、キリストを信じる信仰によって起こる霊的な出来事を、具体的にまた象徴的に、儀式で表現するものであると考えています。ですから私たちは、洗礼が救いの条件とは考えません。洗礼は救いの事実を表現する儀式に過ぎず、儀式は人を救わないからです(参照・Iコリ1:14−17)。ですから洗礼を教会の側から見ると、洗礼を受ける人の中に救いが達成されたという事実を、教会が公に認めて、その人を正式に教会員として受け入れる儀式であると考えるのです。[9] 


 しかしいま、Iコリ12:13との関係で、私たちの洗礼の理解に、一つだけ疑問符を付けなければならない点が出てきました。それは、洗礼によってキリストの死と甦りにあずかるという考え方です。ロマ書6章のパウロの記述を読むと、まず、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」といわれていますが、「キリスト・イエスにつくバプテスマ」とは何のことでしょう。日本語では、ここは「キリスト・イエスにつく」と訳されていますが、原語では「キリスト・イエスにバプタイズされ」となっています。すでに触れたように、パウロはこれとまったく同じ言い方を、ガラ2:27で用いています。日本語では「バプテスマを受けてキリストにつくものとされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」と訳されていますが、原語では「キリスト・イエスにバプタイズされ」となっています。洗礼が私たちをキリスト・イエスにつくものとするのではありません。私たちは、洗礼はあくまでも実際的力を持つものではなく、霊的事実を象徴する儀式として、儀式の効力を持つものであると考えますから、洗礼が私たちをキリスト・イエスにつくものにするとは考えません。原語では、私たちは、「キリスト・イエスにバプタイズされ」ていると言われているのであって、私たちをキリストにつける「バプテスマという儀式」が、ほかにあると語られているのではないのです。つまり、キリスト・イエスにつくという霊的事実をもたらすバプテスマが、どこか他にあるというのではないのです。では、キリスト・イエスにバプタイズされるという霊的出来事は、いつどこの時点で起こったのでしょう。


 そこでパウロがこれと同じ表現を用いて、一つの霊的出来事を記している、Iコリ12:13に注意を向けなければならないのです。日本語聖書では「一つの体となるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」と訳されていますが、原語では「一つの御霊によって、一つの体にバプタイズされ」となっていることは、すでに触れたとおりです。また、「キリストの体」という表現が、1節前の12節では「キリスト」と言われている通り、パウロはキリストの体とキリストを同じ意味で用いることがあるということも、すでに学びました。ですからここで判るのは、パウロがロマ書6:3で語っている「キリスト・イエスにつくバプテスマ」とは、キリストの体である教会にバプタイズされるという意味であるということです。原語に忠実に日本語にするならば、「キリスト・イエスにバプタイズされた私たちはみな、キリストの死にバプタイズされているのです」ということになります。事実、英語ではほとんどがそのように訳されています。


 そういうわけですから、パウロがロマ書6:3と4で言われているバプテスマとは洗礼のことではありません。むしろ私たちは、キリストのみ体、キリストの霊である御霊が内住しておられる共同体、キリストの御霊が満ち満ちているために、パウロがキリストと呼んではばからなかった、教会にバプタイズされているという、霊的出来事のことなのです。そしてその結果として、私たちは御霊を飲む者となり(Iコリ12:13)、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになって、キリストの復活と同じようになることを待ち望むのです(ロマ6:5)。しばしば日本語の聖書の翻訳に異議を唱えて申し訳ないのですが、ここで「つぎ合わされて」と翻訳されている言葉も、本来はもっと強い繋がりを意味し、「合体され」、「一体化され」というほどの意味です。ですから、バプテスマの結果は、非常に強いキリストとの結びつき、まさに有機的一体化とでもいうことであることが語られているのです。パウロはその事実を実感して、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と告白しています(ガラ2:20)。


 そういうわけで、私たちが理解してきた洗礼も、キリストの死と甦りを象徴するものではなく、むしろ、キリストのみ体にバプタイズされたという、霊的事実を象徴するものであると考える方が良いと感じるのです。キリストの体にバプタイすされる、或いはキリストにバプタイズされるということは、すなわち、キリストの死にバプタイズされることであり、また甦りにバプタイズされることなのです。死んで甦られたキリストにバプタイズされることだからです。そのように理解した方が、コロ2:11−12のパウロの言葉ともよく調和します。ここで言われている「手によらない割礼であるバプテスマは」、「手によらないバプテスマ」です。洗礼は人の手によるバプテスマであるために、これを洗礼と理解すると、パウロの言う意味が弱くなります。そこでこの場合も、「聖霊が私たちをキリストにバプタイズしてくださる」バプテスマと理解した方が、パウロの主張によく合います。教会が施す洗礼は、聖霊が信じる者を教会にバプタイズしてくださったことを教会が確認し、それを公に認め、その信じる者を教会に正式に制度として受け入れる儀式なのです。


 この、キリストの体にバプタイズされること、あるいはキリストにバプタイズされるということに関係して、もう一つ、非常に面白いパウロの表現があります。それは、コリントの信徒たちが信仰の試練に負けて倒れないようにと、厳しい警告をしている彼の言い回しの一節です。彼は言います。「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海で、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、かれらについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです」(Iコリ10:1−4)。パウロのこの言葉は霊感を受けているのですが、彼の解釈法は、現代の私たちの解釈法とはまったく違います。この辺も、私たちの解釈学の問題を感じまた困難を感じますが、とにかく、パウロはここで比喩的に旧約聖書に記されている出来事を解釈し、新約のコリントの教会の人々になぞらえています。


 コリントの人々は、パウロによると、キリストにバプタイズされ、キリストの御霊を飲む者とされています。それによって新たないのちに生きるようになっているのです。おなじように、というよりも、その新約の事実を象徴するべくして、旧約の人々はモーセにバプタイズされ、そこでキリストを象徴する天からのマナを食べ、キリストを象徴する岩から水を飲みました。それはとりもなおさず、御霊を食べ、御霊を飲むことであったと言われています。ですから、モーセの中へのバプテスマもまた、キリストの中へのバプテスマの象徴だったと理解されます。ともかく、イスラエルの人々はキリストを象徴するモーセにバプタイズされ、聖霊を象徴するマナを食べ、聖霊を象徴する水を飲んだのです。彼らはみな同じマナを食べ同じ水を飲んだのです。これらはみな、新約のクリスチャンの、キリストにバプタイズされ、その結果、聖霊を飲む者にされ、聖霊を食べる者にされ、すなわち聖霊によって共に生きる者とされているという事実を示しています。しかもこの聖霊は、イスラエルの民に「ついて来た」といわれている通り、常に臨在した聖霊です。


 こうしてみると、パウロは儀式としての洗礼についてはほとんど何も語っていないことに気付きます。パウロは彼の伝道の実としての回心者たちに洗礼を授けていますが(使16:33、19:5)自分で洗礼について語ることは、たまたまそれについて触れたということ以外ありません(Iコリ1:13−17、15:29)ただ、あえて言うならば、パウロはキリストにつくバプテスマというとき、そのバプテスマを象徴しての洗礼ということを、頭に置いて語っていた可能性はあります。つまり、パウロにとっての洗礼は、これまで考えられてきたような、キリストの死と甦りにあずかることを直接象徴するものではなく、キリストの体にバプタイズされるという、霊的出来事を象徴するものであったのではないかということです。そして、そのキリストにバプタイズされるということは、キリストの死と甦りにバプタイズされることだったのです。すると洗礼というものは非常に教会的な儀式、非常に重い教会論的使命を持った儀式、強烈な教会論的象徴を担った儀式であるということです。


 もちろん、洗礼に関するこのような理解は、あくまでもパウロの記述から見る理解です。キリストが実行され、また施すようにとお命じになった洗礼は、これとは異なっていて、ヨハネの悔い改めの洗礼の意味も引き継ぎ、キリストに従うという決意の表明であり、新しい生き方へのイニシエーションであったと考えられます。キリストの時代には、まだ教会というもの自体が奥義であり、教会にバプタイズされるという理解も、パウロの出現を待たなければならなかったからです。


 そういうわけで、ペンテコステの日に起こったことは聖霊の内住が始まったということです。ペンテコステの日には、すでに存在していたキリストの弟子たちの一団という共同体に聖霊が来て宿ってくださり、その一団はキリストの御霊によって一つとされ、キリストのいのちを共有する有機的共同体となったということです。これは歴史的に唯一の出来事です。そしてその後の回心者たちは、キリストを信じる瞬間に、このキリストの御霊の内住しておられるキリストのみ体にバプタイズされ、キリストの御霊を飲む者とされ、個人的にもキリストの御霊の内住を体験するということです。

[4]  もしもキリストがこの教会という言葉をヘブル語でおっしゃったならば、イスラエルの会衆を意味する言葉お用いになったはずですし、ギリシャ語でお話になっていたならば、70人訳の聖書がりイスラエルの会衆を意味することばとして選んだギリシャ語をお用いになったはずです。それは、イエス様はここで、「神の民」であったイスラエルとは異なる民、別の会衆という意味を強く込められたということになります。とはいえ、ある意味で教会はイスラエルの後継者であり代理であり(マル12:1−12)、イスラエルの任務と祝福を引き継ぐものです(ロマ9:6、ガラ6:16)。
[5]  人の手によらない割礼ですから、洗礼ではありません。
[6]  Iコリ6:15では、「キリストのからだ」という言葉が2回用いられていますが、原語では共に「からだ」という言葉はなく、ただ「キリスト」となっているだけです。
[7]  新改訳聖書では「ところ」、新共同訳聖書では「場」と訳され教会があたかも特定の場所であるかのような印象を与える不注意な役になっていますが、原語にはそのような言葉はなく、口語訳聖書の「満ちみちているものに、ほかならない」がよりよいと思いますが、単純に、「満ちみちています」。あるいは「満ちておられます」が良いでしょう。
[8]  現在世界でもっとも広く用いられ、キリスト教会の中でももっとも力を持っている言葉は英語ですが、その英語には一人称単数と一人称複数の区別がなく、どちらも「YOU」です。そこで英語で聖書を読むほとんどの人は、本来複数の「YOU」、すなわち「あなたがた」あるいは「あなたたち」という、教会をさして用いられている言葉を、みな、「あなた」と単数に読んでしまい、自分に語られているものと勘違いして個人的に理解してしまうのです。
 
[9]  ただし、アメリカなどの私たちの姉妹団体の大多数の教会は、洗礼は救いに関すること、教会員となることは教会の決め事を受け入れ、共同体に加入すること考えて、洗礼と教会員とはまったく別の事柄として取り扱うという、おかしなことをしています。


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