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聖霊と交わりの回復



 私たちの神は交わりの神です。ヨハネはそれを「神は愛である」という言葉で表しましたが(Iヨハ4:8)、三位一体の神は、神以外に存在するものがなかった大初の時代においてさえ、愛としての交わりを保ちながら存在しておられました。神は永遠に不変のお方ですから(ヤコ1:17)、愛の対象としての創造物をお創りになってから、愛の神になられたのではありません。三位の神の三つの位は、それぞれ神格(人格に対して)をもって互いに愛し合い(マタ3:17、マル1:11、ルカ3:22、ヤコ4:5)それぞれが、互いに愛し合う二者を喜んでおられたのです。人間はこの交わりの神の姿に似せて造られました。したがって、人間は孤立して生きる単独生活動物としてではなく、集団を作り社会生活を営み、交わりを楽しむ動物として造られたのです。よく言われることですが、漢字で表す「人」という字は、二本の棒が互いに寄りかかっている形です。これが人の姿です。そして人間というのは、この互いに寄りかかり合っている人と人の間を持つ、「じんかん」なのです。この人間をお造りになった神は、人間が互いに愛し合う姿を愛し、喜んでご覧になるのです。

 そのように交わりの性質を持たされ、社会的動物として造られた人間は、たとえ欲しい物はすべて手に入れることができ、食べたいものはいつでも食べられる生活をしていても、周囲に一人の人間もいない孤独な生活では、あるいはどんなにたくさんの人々に囲まれていても、心が通わない都会の孤独のような状態のなかでは、喜びに満ちた幸せな生活はできません。交わりという本質的な欲求が満たされないからです(創2:18−25)。さらに、たとえたくさんの人々と共に、愛し愛されて生きていたとしても、それだけでは、人間は、心のどこかに大きな空白を感じるのです。お釈迦様の出家の物語が、まさにそれを教えていると言えます。神に似せて造られた人間は、神と交わり、神を愛すべきものとして造られているために、神を礼拝し、神と交わり神を愛することなくしては、決して本当の意味で心の欲求を満たし得ないのです。神を礼拝することは、人間の本質的欲求なのです。

 しかし、当初、美しく守られていた神との交わり、神への礼拝は(儀式としての礼拝ではなく、生きることを神への感謝としている礼拝)罪の侵入によって壊されてしまいました。罪に汚れた人間は、絶対に聖い神に近づくことができなくなり、絶対に聖い神も、汚れた人間に近づくことをよしとされなくなったのです。汚れた人間が絶対に聖い神に近づくと、その聖さに打たれて消滅してしまいます。汚れは聖さの前に立ち得ないのです。絶対に聖い神が汚れた人間に近づこうとされても、同じことが起こります。神は、人間を滅ぼさずには人間に近づくことができなくなってしまったのです。ここに、神と人間との断絶が決定的となり、人間は神のみ前から追放されて、神不在の社会を形成し、神不在の生活を余儀なくされたのです(創3:23−24)。

 神から追放された人間は、神との交わりを失い、神のいのちからも乖離してしまいました。神のいのちを離れた人間は、本来の人間としてのいのち、霊的ないのちを失い、単なる動物として生物学的ないのちによって生きる、存在になってしまいました。これが、人間の霊的な死です。人間は死んだ存在、死んだ生き物となったのです。しかし神を失った人間は、神を礼拝する本能まで失ってしまったのではありません。その残された本能のために、人間は神を礼拝できない心の空白を埋めようと、あらゆる努力をしました。その現われが、たくさんの宗教です。人間は多くの神々を作り出したのです。罪によって知性まで暗くなった人間は、ありとあらゆる物を神とし、偶像を作り上げてしまいました。ですから、神を離れた人間社会は、基本的にみな偶像社会であり、アニミズム文化なのです(ロマ1:19−32)。

1.旧約時代の神との交わり

 一方神は、罪を犯して神を離れざるを得なくなった人間を愛し続け、この人間を救う手立てを計画しておられました。それは神の予知に基づき、永遠の昔から計画されたことですが(エペ1:4−11)、人間が罪を犯した直後に、すでに人間に啓示されていたのです(創3:15)。神は人間の罪のために人間に近づくことができないにもかかわらず、とても稀ではあり、非常に制限された形でもありましたが、人間にご自分を啓示され、このご計画に従い、着実に、人間の救いの手立てを遂行してくださいました(エペ1:9−11)。(創世記を読むと、神はしばしば人間に働きかけておられるように感じますが、その背後にある長い時間的経過を考えると、非常に稀なことです。)その救いのご計画の遂行を記録したのが聖書です。神の人類救済のご計画は、キリストの十字架上の死による贖いと復活、聖霊の降臨、さらには再臨と裁き、そしてついには新天新地の創造に及ぶ壮大なものですが、まず、神の祝福の器としてのイスラエル民族の選びから始まりました(創12:1−3)。

 神はその救いの手立ての実行として、まず、偶像文化の中に生きていながら真摯な神礼拝の態度を持っていたと思われる、アブラハムという人物を選び(創11:31)、この人物にご自分を啓示し、その信仰態度を模範として生きるべき集団をお作りになりました(創12:2)。これが神の救済の歴史の第一段階です。アブラハムを中心とした親族集団は、やがてイスラエル民族となり、さらには国家として発展して行きましたが、彼らは神の祝福をすべての民族に及ぼすための、器の役割を担わされていたのです(創12:2−3)。神は器として選び出したアブラハムとその子孫に対して、特別な形でご自分を啓示され、まだまだ非常に限られた形ではありますが、それまでと比べると格段に高い、人間との交わりを持つことができるようにされたのです。特に独立民族として成長したイスラエルに対し、神はご自分から婚姻関係にたとえられるような契約関係を結び、人との交わりを特定の方法で可能にしてくださいました。

 その特定の方法とは、永遠の現在であられる神のご計画の中ですでに決定していた、キリストの贖いの死を前提とした、犠牲と祭司と神殿というものを通しての礼拝でした。神は天幕で造られた聖所をご自分の住まいとし(出25:8)その建築を細かく教え(出25:9−41)、そこを神が人々とお会いになる場としてお定めになりました(出25:43)。ただし、この神殿に神がお住まいになるということ自体が事実ではなく(U歴6:18)、あくまでも象徴的な意味で臨在があったのでした(ヘブ9:24)。神はあまりにも聖く、汚れた人間が本当の意味で近づくことは絶対に不可能だったのです(出19:21、33:20−23その他)。さらに実際は、象徴的にさえ、すべての人がここで神に会うことができたのではなく、指導者モーセと大祭司として選ばれたアロンだけが、人々を代表して会い、神が語られる命令を聞くことができると定められていました(出25:22、28:29、35、)。一般の人々の罪の悔い改めと願いの祈りは、彼らが携えてくる犠牲を通し、この会見の天幕、すなわち幕屋において仲介者として仕える祭司たちによって、日々受け入れられるのですが、彼らの悔い改めと祈りは、アロンの年に一度の贖罪の儀式によって、はじめて正式に神の元に届けられることになっていました(出30:10)。[3]

 少し後になって、神がこの幕屋の取り決めをさらに細かくお伝えになったときには、この幕屋を通しての会見の役割はもっぱらアロンのものとされました(28:29、35)。ただし、アロンとその子たちが共にその役割を担ったのではなく、ここでいう子らは、アロンの後継者と理解されます。幕屋の外側の入り口のあたりでは、祭司の役割を与えられたアロンの子達が一般の人々の必要に応えて仲介者としての働きをしていましたが、この聖所の中での務めを許されたのはアロン一人で、アロン亡き後はその後継者が許されたのです(出27:20−21)。中でも、神がお住まいになると特定された幕屋の奥の間である至聖所には、アロンとその役割を引き継いだ大祭司に限って、年に一度だけ入ることを許されて(ヘブ9:7、レビ16:31−34)、神と人との間の仲介の役割を果たしていました。これに関するおきては非常に厳しく、違反するとたちまち死の危険性がありました(出28:35、43、レビ16:2)。このようにして、神は人間との会見の場を定め、大祭司と祭司の一団の仲介を通し、また罪のための贖いの血を流す動物の犠牲を通して、ご自分の聖い怒りを静めて人々の礼拝を許し、神ご自身も人々を受け入れることができるようにされたのです。旧約聖書の記述の中にしばしば現れる預言者にしても、あたかも祭司制度や神殿とは関わりなく、独自の働きをしているかのように見えていながら、あくまでも、犠牲と祭司と神殿という制限の中での活動だったのです。

 神は、この会見の天幕と祭司と犠牲に関するさまざまな規定をお与えになったとき、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」とおっしゃり、「彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出したのである」と説明されました(出29:45−46)。ところがその直後、こともあろうにアロンまでも巻き込んだ金の子牛像礼拝に、偶像礼拝の悪習慣から抜け切ることができなかったイスラエル民族の姿をご覧になった神は、彼らと共には旅をしないとお告げになりました。「一時でもあなたがたのうちにあって、上っていこうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう」と、ご自分の聖い性質の罪に対する厳しい反応を、お気遣いになったのです(出33:3−5)。これは民を直ちに滅ぼすことを良しとせず、救いの道を備えたいとお望みになる神の配慮で、アダムとエバをご自分のもとから追放なさったときと同じだと考えられます(創3:24)。しかし、イスラエルの指導者モーセがイスラエルのためにとりなし、神に共に上ってくださるように懇願したために、神はイスラエル民族のうちに住み続けてくださいました。(出33:12−17)。イスラエル民族の間に神がお住みになるということは、神の臨在の象徴である火の柱と雲の柱によって、常に人々に示されていました。

 そういうわけで、旧約時代の人間に対する神の働きかけは、来るべきキリストの十字架の死を前提とした、神殿礼拝を通して可能とされたものであり、神が一般の人間に対し、その人間との交わりを目的として、直接ご自分を現してくださることは、絶えてありませんでした。旧約時代の神の働きかけは直接間接を問わず、たとえ個人に対する働きかけのように見える場合でも、民族あるいは国家というものを前提とし、またその民族あるいは国家に対する働きかけであったのです。神は、あらゆる民族を祝福するための器として、イスラエル民族をお選びになったのであり、個々の一般の人々を祝福するということが、最重要課題ではなかったのです。したがって、新約時代のように、聖霊が市井の個人の中に住み、さまざまなお働きを進めてくださるということは、あり得なかったのです。ハンナの祈りと祝福の物語にしても、ルツとナオミの物語にしても、極めて個人的に見えながら、実はイスラエル国家という大きな主題が背後にありました。

2.キリストを通しての交わり

 より高い交わりを可能にした神の次の手段は、初めから神と共におられた「ことば」である神を、「神の位を捨てた神」として、この世にお送りになることでした(ヨハ1:1、ピリ2:6−8)。ことばなる神は、神の栄光と全知全能の力、さらには罪人を裁き滅ぼす権威をお捨てになって、人の姿をとり、弱々しい赤子としてこの世においでになることを選ばれたのです。そうすることで、神は罪ある人間を滅ぼすことなく、人間に近づき、人間と交わりを持つことができるようにしてくださったのです。キリストは貧富の差、身分の差、男女の差、血筋の差を越えすべての人々と交わり、最低の人間と見られていた収税人や罪人、さらに売春婦と考えられる女たちにも差別をつけず、交わりの手を差し伸べられたのです。そのために、ナザレのイエスとして現れてくださった「ことば」は、ナザレのイエスとしてこの世に留まっておられた期間は、神の力を持たない神であったのです。イエスとして現れてくださったキリストは、その知識においても能力においても権力においても、限界を持っていました。キリストにはわからないことがあり、できないこともあったのです。同時に複数の場所にいることもできなかったために、ラザロは死にました。「悲しみの人で病を知っていた」といわれている通り、通常の人として、人間の限界の故のあらゆる悲しみを知り、飢えや病気にさえ苦しんでおられたのです。キリストが行われた奇跡はすべて、洗礼を受けたときに下られた聖霊の力によるものであって、キリストご自身の力によるものではありません(マタ12:28)。

 しかしこのナザレのイエスであるキリストは、父と一つである方として来られ(ヨハ10:30)、彼を見た者は父を見たのであるとおっしゃる方として来られました(ヨハ14:9)。キリストは父におり、父もまたキリストにおられたのです(ヨハ14:11−12)。彼の中には父の愛と恵みがあふれていました。彼は父と共に、私たちの中に住んでくださるのです(ヨハ14:23)。イエスはまさに私たちと共にいてくださる神、インマヌエルだったのです(マタ1:23)。神はこのイエスを通してご自分を啓示なさり(ヘブ1:2)、御心を教え、救いの準備を整えてくださいました。その準備とは、このことばなるイエスに世の罪を負わせ、罪人の身代わりに十字架で殺して贖いを完成させ、さらに彼を甦らせることによって彼の義を罪人に「転嫁」させることができるようにしてくださったのです。キリストは罪人の罪を引き取り、罪人はキリストの義を引き取るのです。神殿と祭司と犠牲という形で旧約聖書に予表されていた贖いは、キリストが自ら流された血潮を携えた完全な大祭司となり、天にあるまことの聖所に入ってくださったことにより、完成されたのです(ヘブ9:11−15、23−28)。キリストの血潮に罪を洗われた私たちは、キリストの義を着せられて義となり、いまや永遠の大祭司キリストの仲介だけにより、恐れなく、大胆に神に近づくことができるようになったのです(ヘブ10:19−23)。キリストが十字架で死んでくださったとき、神殿の幕が、人手によらないで真っ二つに裂けました(マタ27:51)。その幕は聖所と至聖所の間にあった幕で、人と神を隔てる象徴でした。しかし、キリストの贖いは、その幕を切り落としたのです。キリストの贖いの死は神殿の礼拝を無効にし(参照・ヨハ4:21−24)、祭司と犠牲を無効にしてしまいました(ヘブ10:18)。

3.キリストによって予告された交わり

 このようにして、神はそのご計画のさらに高い段階へと進まれたのです。それは神がキリストによって、聖霊をお遣わしになることです(ヨハ14:26、15:26、使2:33))。キリストご自身が明らかに予告してお話になったように、それはキリストが一緒におられるより良いことだったのです(ヨハ16:7)。目に見えるキリストが去り、目に見えない聖霊がおいでになる方が、私たちにとって益になるのはどうしてでしょう。それは、キリストはあくまでも「有限の中に入ってくださった神」だったからです。有限の神キリストは、あらゆる意味で限られた働きしか出来ない方だったのです。交わりという局面においても、キリストによる交わりは限られた交わりだったからです。それに比べ、聖霊は神のそのままのお姿で、人間と交わりを持ってくださる神だからです。キリストが持つことができた交わりは、一般の人間同士が持つことができた交わりと基本的に同じです。もちろん、キリストの教えは高度であり、その訓練もすばらしく、コミュニケーションは最高のものであったでしょう。しかし基本的に、彼の交わりは肉体を持った人間としての交わりであり、それを超えるものではありませんでした。ところが聖霊の交わりは、キリストが持っていたあらゆる限界を超えた交わりです。聖霊はキリストにはできない方法で、私たちと交わってくださるのです。ヨハネはキリストのふところ頭を置いて甘えたことでしょう。しかし、キリストは彼の内にまで入ってはくださいませんでした。ところが聖霊は私たちのうちに入り、住み込み、私たちの内でいのちとなり、喜びとなり、力となってくださるのです。

 そのような聖霊の働きを予告して、キリストはおっしゃったのです。「私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハ4:14)。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハ7:37−38)。聖霊による交わりは、肉体を持ったキリストの交わりよりも、さらにさらに高度で親密なものであり、人間の奥深くまで及ぶ交わりなのです。それは、本来神に似たものとして造られ、神以外の方では満たすことのできない、人間の本源的欲求が満たされることであり、本源的渇きが癒されることなのです。そして、このような聖霊の交わりを可能としたのが、キリストの贖いです。

 ご自分の絶対の聖さのために、罪ある人間を退け、人間との交わりを拒絶せざるを得なかった交わりの神は、キリストの贖いを通し、その血潮によって人間を清め、よみがえりのキリストの義を着せて義とすることによって、人間との交わりを可能にしてくださったのです。罪のための完全な犠牲であるキリスト、人と神の間に立つ完全な大祭司キリストのゆえに、新たな犠牲も祭司のとりなしも不要となったのです。罪のためにいのちの源である神から離れ、死と滅びに定められていた人間は、信仰を通してキリストの血によって洗われ、清められ、覆われ、義とされることによって、いまや絶対に聖い神と交わることができる者とされるのです。どのように偉大なイスラエルの指導者たちも、旧約時代には体験することができなかった神との交わりを、新約時代に生きる者は、たとえいかに小さな者であっても、聖霊によって体験できるようにされているのです。そしてこの聖霊は、ペンテコステの日にキリストを信じる人々の一団に訪れてくださいました。

[3]最初に建てられた会見の天幕は、どうやら主がお教えになったものとは異なり、モーセが作った小さな臨時の天幕だったと考えられます(出33:7−11)。

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