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聖霊の普遍性


 ペンテコステの出来事を説明したペテロは、他にも非常に重要なことを語りました。その一つが、「これは、預言者ヨエルによって語られたことです」と言って、この出来事が旧約時代から預言されていたことであると宣言したことです(使2:16、ヨエ2:28−32)。こうしてペテロは、このペンテコステの出来事が、旧約時代の聖霊のお働きと新約時代の聖霊のお働きに、大きな違いをつけるものであることを説明しました。

 ここで問題なのは、ペテロがこの時点で、違いをどれほど深くあるいは明確に意識していたかではなく、ヨエルがどのようなことを預言していたかです。ペテロに引用されたヨエルの預言は、多くの預言がそうであるように、あたかも遠くから眺めた山々が実際にはかなり離れた別々の山であるにもかかわらず、同じところに重なり合って立つ山であるかのように見えるのと同様に、時代的に異なったいくつかの出来事が、まるでほとんど同時に起こるかのように重なって見えた預言でした。つまり、使徒の働きに記されたペテロの引用では、17−18節と19−21節の出来事の間に大きな時間的隔たりがあるということです。多分、これを引用した当時のペテロは、この間に大きな時間的隔たりがあるとは理解していなかったことでしょう。むしろ、ほとんど継続して起こる、切迫した出来事と思えたはずですが、現実には、少なくても2000年近い隔たりがすでに流れているのです。19−21節に記述されている事柄は、まだ起こっていない、未来に属することだからです。

 したがって今問題とされるのは、17−18節に記されている事柄です。「終わりの日」すなわち旧約から見た終末の始まり、つまり、ペンテコステに始まる新しい時代には、まず、神はご自分の霊を「すべての人に注ぐ」と預言されています。裏返して言えば、旧約時代には、神の霊は注がれてはいたが、すべての人には注がれていなかったということです。旧約聖書の記録によると、神の霊の働きかけは、特殊な場合を除いてはイスラエル民族の中に限られていました。特に「注ぐ」という表現で示されているような聖霊の働きかけは(使2:17)、イスラエルの中に限られていました。しかしペンテコステの出来事は、その時点ではまだ実現してはいなかったとは言え、本質的にその人種の垣根、民族の違いを超えた、普遍的な広がりを持つものでした。これがまず、もっとも大切な違いです。

 次に、そのすべての人を説明して加えられる、「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する」という説明に、注目しなければなりません。預言をするようになるとか、幻を見、夢を見るというような働き自体は、旧約聖書にもあった働きであり、ここでことさら取り上げるべき問題ではありません。大切なの、「息子や娘、青年や老人、しもべやはしため」という人々です。旧約聖書を見ると、神の霊は特別に選ばれた重要な人々だけに下っていて、名もない人々がそのような活動に用いられた例は、非常に限られた特殊な場合だけです(民11:24−30、Iサム19:20−24)。預言はイスラエルの民の指導者たちや、特別に預言者として神に立てられた者、あるいは預言者として修養を積んだ者たちだけに与えられた働きだったのです。ところが、ペンテコステを端緒とする新しい時代では、そのような人物の大小、職業の尊卑、男女の区別、年齢の差などを越えて、すべての人々に聖霊が注がれ、彼らは預言という重要な働きをするというのです。

 五旬祭以前には、イスラエル民族の中の限られた人々だけに与えられた、聖霊の注ぎとそれに伴う働きが、ペンテコステ以降では、すべての民族、すべての部族に与えられ、しかも老若男女や職業の違いなどに表されている、すべての人間的格差、差別、隔たりを超えて与えられるというのが、ヨエルの預言のもっとも大切な点です。そしてこれは、モーセが心から望んだことでした(民11:30)。五旬祭以前は、民族としてのイスラエルが神の祝福の器でした。その中で、聖霊を注がれるというような体験をすることが出来たのは、ほんの一握りにも満たない「大きな」人々でした。しかし、この五旬祭を機に、神の祝福の器は教会という信徒の共同体に代えられ、その共同体を構成するすべての老若男女に聖霊が注がれ、みんなが福音宣教という形で、神の祝福の器としての役割を果たすことが出来るようにされたのです。ここで言われている「預言をする」という働きは、もちろん啓示としての預言も含まれることでしょうが、神の言葉を預かって語るというより広い意味での預言、すなわち、聖霊の力に励まされ、押し出され、力づけられて語る、福音宣教の言葉も含まれるものです。

 しかしこれだけでは、ペンテコステの出来事を端緒とする新しい時代の聖霊のお働きを、十分に説明するものではありません。キリストがおっしゃった「生ける水の川が流れ出る」という出来事、乾く者が来て飲むようにと進められたその水が説明されていません(ヨハ7:37−39)。「もうひとりの助け主」といわれた聖霊の、幅広く奥行きのある働きも説明されていません(ヨハ14:16)。さらに、ペンテコステ直前に語られたキリストのお言葉に含まれている、宣教に関わる「力」についても説明されていません(ルカ24:46−49、使1:8)。これらの働きをすべて含めた上で、キリストは来るべき聖霊の傾注に大きな期待を寄せ、それを求めて待つように命じられたのです。

 では一体、それらは何なのでしょう。まず、「生ける水の川が流れ出る」というキリストの表現から、考察してみましょう。キリストが先ず問題として取り上げたのは、人間の本質的な渇きです。何をもっても満たされない渇きです。これを、聖霊があたかも川のように満たし、潤し、流れ出るとおっしゃるのです。しかも、「心の奥底から」と加え、この出来事が人間の奥深いところ、人間としての根源、本質的なところから起こるということを示しておられます。つまり、聖霊の注ぎを受けていない人間は、その心の奥と表現された本源的なところで、乾いている、満たされていない、欠けている存在なのです。それが、聖霊によって満たされ、潤い、あふれ流れるということです。これこそ、五旬祭を端緒として可能になる聖霊の内住によって、すべての人間に起こり得る体験です。それは旧約の時代にはどうしても起こり得なかった出来事であり、キリストが天にお帰りになって、栄光を受けられるまで待たなければならなかった出来事なのです(ヨハ7:39、使2:33)。

 すでに見たように、旧約の時代にも、聖霊は人々の内に宿ってくださいました。しかしその宿り方は、このように人間の奥深くまで及び、根源的なところにある渇きを潤すようなものではありませんでした。新約の時代の内住が、旧約時代に言われていた内住とは異なるものであるということは、キリスト御自身があえて、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるようになるからです」と、お語りになったことでも明らかです(ヨハ14:17)。[2]

 そして、祭りの最後の大切な日にキリストが語られた生ける水は、当然、あのスカルの井戸ばたで罪多い女にお語りになったときの、「決して渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水がわきでる水」と同じであることは容易に理解できます(ヨハ4:14)。この罪深い女のように、人々から蔑まれ、疎まれ、のけ者にされていた、小さな、小さな、無に等しい者にまで、旧約時代にはどのように偉大な人間さえ経験できなかった、聖霊の満たしが及ぶのです。まさに、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより優れた人は出ませんでした。しかし、天の御国の一番小さな者でも、彼より偉大です」とイエス様がおっしゃった通りです(マタ11:11)。

 そしてその満たし、あるいは内住してくださる聖霊が、キリストがおっしゃった助け主となり(ロマ8:26−27、ヘブ4:16、13、6)、慰め主となり(ピリ2:1、Uコリ1:5−7)、仲保者となり(ロマ8:26)、弁護者となり(Iヨハ2:1)、私たちにすべてのことを教え、キリストが教えてくださったすべてのことを思い起こさせ(ヨハ14:26)、キリストについて証し(ヨハ15:26)、すべての真理に導きいれ、聞くままを話し、やがて起ころうとしていることを示し、キリストのものを受けて知らせてくださるのです(ヨハ16:23−15)。

 それはまた、パウロなどの書簡の著者たちが語る、新生した人の中で行われるあらゆる聖霊のお働きに関連してきます。この聖霊の内住は、自覚無自覚のかかわりなく、すべてのクリスチャンが体験するものです。聖霊に住んでいただいていないクリスチャンは、存在しないのです(ロマ8:9、Iコリ6:19)。クリスチャンはこの内住の聖霊によって、神の愛を注がれ(ロマ5:3)、死ぬべきからだもをも生かされ(ロマ8:11)、体の行いを殺すことができるようになり(ロマ8:13)、「アバ、父」と呼ぶことができるようになり(ロマ8:15)、神の子供であることを証していただき(ロマ8:16)、子としていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望むことができるようにしていただき(ロマ8:23)、喜び(ロマ14:17)、望みにあふれ(ロマ15:13)、神から賜ったものを知り(Iコリ2:12)、御霊を知るための言葉をいただいて教えられ(Iコリ2:12−15)、イエスを主と告白し(Iコリ12:3)、いろいろな賜物を与えられ(Iコリ12:4−11、ヘブ:2:4)、キリストの手紙とされ(Uコリ3:3)、生かされ(U懲り:6)、自由を与えられ(Uコリ3:17)、主と同じ姿に変えられて行き(Uコリ3:18)、天から与えられる住まいを着る望みを保証され(Uコリ5:5)、義をいただく望みを熱心にいだくことができるようにされ(ガラ5:5)、肉に逆らって生き(ガラ5:16−18)、自分たちのうちに御霊の実を実らせていただき(ガラ5:22−24)、永遠の命を刈り取らせていただき(ガラ6:8)、御国を受け継ぐことの保証となっていただき(エペ1:14)、両者ともに、つまり異邦人とユダヤ人とが共に父のみもとに近づくことができるようにしていただき(エペ2:18)、私たちの内なる人を強くしていただき(エペ3:16)、贖いの日のために証印を押していただき(エペ4:30)、悪魔の策略に対抗できるために神の言葉を与えていただき(エペ6:16)、祈ることができるようにされ(エペ6:18)、礼拝ができるようにされ(ピリ3:3)、私たちに与えられた良いものを守ることができるようにされ(Iテモ1:14)、福音を語らせていただき(Iペテ1:12)、知識を与えていただき(Iヨハ2:20−27)、罪のうちを歩まないようにしていただき(Iヨハ3:9)、神が私たちのうちにおられ、私たちも神のうちにいるということを教えていただき(Iヨハ3:24、4:13)、この世にいるあの者に勝たせていただき(Iヨハ4:4)、その他あらゆる良い霊的体験をしていくのです。

 新約聖書に記されている内住の聖霊のこれらのお働きは、旧約聖書に記述されている人々にお宿りになる聖霊のお働きに比べると、非常に多岐にわたり、また内住された人との交わりの度合いが濃厚で、とても深くにまで及んでいることに気付きます。まさにキリストがおっしゃったように、心の奥底からという表現が最適です。いったいどうして、このようなことが起こり得たのでしょう。

[2] 日本語の聖書では、ほとんどが「あなたがたのうちにおられるから」と、現在形に訳していますが、原語では未来形になっています。つまり、キリストがこのお言葉をお語りになったときには、まだ、聖霊は人々の内に住んでおられず、未来の出来事だったのです。

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