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五旬祭(ペンテコステ)の聖霊


 今、ペンテコステ信仰と言われる信仰形態を持つ者の数が、世界中で爆発的に増え続けています。このように急激な増加現象は、教会の歴史の中で始めてのことと言われています。最新情報は手に入れていませんが、つい数年前は、ペンテコステ信仰を持つクリスチャンの数は世界で5億を超えるということでした。その中で、私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりに属する者は、5千万以上と伝えられています。主催者側の発表が警察側発表の人数を常に大幅に上回るように、キリスト教の統計も鵜呑みにできないところはありますが、ペンテコステ信仰の急激な成長は疑いの余地のない事実です。

 とはいえ、ただ喜んでばかりはおられません。イスラム教信徒の急激な増加は、キリスト教徒の増加をはるかに上回っているそうです。単純に、イスラム教徒やヒンズー教徒などの出生率が、クリスチャンのそれに比べてはるかに高く、信仰の継承率も、イスラム教徒のほうがキリスト教徒よりもずっと高いと言われています。その上、ペンテコステ信仰と言われる中にも、「ペンテコステの体験をしてからは、マリヤ様に対する愛と尊敬と信仰がとても強くなった」と告白する人もおれば、異言を語らなければ救われないと教える者もいます。聖霊の賜物ばかりを追い求める人々もあれば、土着の信仰と混合しているものもあります。悪霊追い出しに熱を上げるグループもあれば、「預言、預言」と言って現を抜かしていると思われる人々もいます。ペンテコステ信仰が、新たな回心者を得るのではなく、クリスチャン信仰の中の宗旨替えに終わってしまっている場合も少なくありません。

 そのような現状の中で、私たちに必要とされている大切なものの一つが、ペンテコステ信仰を聖書から語る神学です。それがあってこそ、ペンテコステ信仰と呼ばれる「より良い信仰のあり方」が、正しく発展し、継承されて行くからです。幸い、ペンテコステの神学は、ここ数十年かなりの進展を見せてきました。自分たちの信仰を明確な形で表現し、ペンテコステ運動を正しく保ちたいという内なる願いと、信仰を異にする人々からの鋭い批判や攻撃に対して明確に答え、キリストのみ体の一部としてはっきりと認めてもらいたいという、護教論的な目的がその動機となったと考えられます。現在でも、福音派の人々の多くは、ペンテコステ信仰に対して非常に懐疑的であり、鋭い批判を続けています。

 その一方で、それらの福音派や伝統的教会にいながら「ペンテコステ体験」をした人々が、自分たちの伝統的神学に留まったまま、その枠内でペンテコステ体験を解釈しようとして、聖書の明確な教えを無視しながらさまざまな発言をしています。だからこそ、いま私たちは真摯に聖書に向かい、より聖書的なペンテコステ信仰の神学を打ち立てて行かなければなりません。私たちは、伝統的な福音派の神学が、聖霊の理解を欠いたままの神学である事を知っています。聖霊に対してまったく関心のない時代に、構築された神学だからです。いま、そのような神学を頑なに抱き続けながら、その神学の枠の中で聖霊の理解をしようするのは、無理な試みであるのも知っています。自分たちの殻を出なければならないのです。しかしそれは同時に、私たちもまた、素人に近い私たちの先輩たちが作り上げた、伝統的なペンテコステ神学の殻の中に、いつまでも閉じこもっていてはならないということを示しています。さいわいに、わたしたちの伝統には、聖書に聞く、何はさておいても聖書に聞くという、非常に貴重な態度がありますので、その伝統をここでも大いに生かしながら、自分たちの信仰の立場を明確にしていくべきだと考えます。

 とはいえ、ここで小生が試みるのは、大海に小石を投げ込むような努力に過ぎません。それでも、わずかなりとも同労の諸氏のお働きの参考になればと願って、ペンテコステ信仰の中で必ずしも明確にされていない部分に光を当ててみたいと思います。それは聖霊と教会との関係を救済史の流れの中で考え、その中で聖霊と個々の信徒との関係、そして教会と個々の信徒との関係を明らかにすることです。そうすることによって、今まで私たちの学びと理解の中で必ずしも明確ではなかった事柄、あいまいなまま残されていた部分が明らかになり、自分たちの信仰のあり方をより確実にし、健全なペンテコステ信仰の発展に貢献できるものと考えます。

 ここで小生が試みる論の流れは以下の通りです。

1.旧新約聖書に記された聖霊の働きを、できるだけ広範囲に拾い出し、それらを比較し、聖霊のお働きには、旧約時代と新約時代に基本的な相違がないことを示します。

2.それにもかかわらず、新約聖書に記された聖霊のお働きが、旧約時代の聖霊の働きとは異なっている点があることをはっきりさせ、何が異なっているのかを示します。

3.その結果、新約時代の聖霊は、キリストの贖いのみ業の完成を通して、信徒の共同体の中にお住みになり、その共同体を単なる人々の共同体ではなく、キリストのいのちによって生かされる有機的共同体、すなわち教会としてくださるということを示します。その中で、欧米的個人主義による教会観の誤りを正し、「聖霊によってキリストにバプタイズされる」ことの重要性を示します。

4.さらにこの教会は、イスラエルという民族的枠を超え、人間の間のあらゆる格差を超越した宣教の共同体となり、聖霊のバプテスマという特異な体験を通して力を与えられ、この働きを遂行するものであることを示します。その中で、聖霊のバプテスマとは単に力を与えられる体験ではなく、神との濃厚な交わりであり、異言がただ聖霊のバプテスマの証拠として与えられたものではなく、むしろ聖霊のバプテスマのなくてはならない要因であることを示します。

 ただし小生は神学者ではなく、地方都市の小さな開拓教会で苦労している一介の牧師に過ぎません。神学論文を書くことはとてもできません。せいぜい神学的雑文が良いところです。したがって、ここには他の論文や著書からの引用は一切ありません。参考文献もありません。本当のところ、一冊の本も参考にしていないからです。ですからこの拙文が、たまたま誤ってでも神学的素養のある方の目にでもとまり、更なる学術的追求へのきっかけ、あるいはたたき台にでもなれば、無上の喜びとするものです。

I. 五旬祭(ペンテコステ)の聖霊

 まず、旧新約聖書全体に記されている、聖霊の活動や性質についての言及すべてに目を通し、それらについての分析を試みましょう。ただそれには、いくつかの難点があります。まず、「聖霊」、「神の霊」、「キリストの霊」などと呼ばれている部分はまず間違いなく聖霊だと判るのですが、原語においては定冠詞がないために、「御霊」と「霊」との区別がつかない場合がいくつもあることです。手元にある数種類の日本語聖書を見ても、あるものは「御霊」と訳し、他のものは単に「霊」と訳している場合があります。そういうわけで、この論を進めるに当たって、聖霊の名称および活動の記述については、特別に説明が必要と思われる場合を除いて、新改訳聖書の翻訳に従うことにいたします。また、「神の指」とか「神の種」あるいは「油」、その他の婉曲的な表現も用いられているために、判断の分かれる場合もある上に、旧新約聖書にある聖霊についてのすべての言及について論じることは、あまりにも膨大で無駄も多くなるために、この論に関する限りあまり重要ではないと判断されるものは、考察に含めるだけに止めなければならないことです。

A.五旬祭(ペンテコステ)以前の聖霊の働き

 一般に、五旬祭の出来事とそれに続く聖霊の働きには大きな関心が払われますが、五旬祭以前の聖霊の働きには注意が向けられません。しかし聖霊は、五旬祭以前から活発に働いておられました。天地創造の働きにおいてさえ、聖霊が深く関わっておられたことは明らかです(創1:2、詩104:30)。また、主が土で形作られた人間に命の息を吹き込まれたとき、聖霊が関わっておられたことは容易に推測できます(創2:7、詩104:30、ヨブ27:3、33:4、イザ42:5)。 

 旧約時代においても、神に特別に用いられた人々には聖霊が臨まれました。エジプトの王パロは、ヨセフが神の霊を宿していると認めていました(創41:38)。イスラエルの40年にわたる荒野の旅の期間では、まず、アロンとその子たちが祭司の務めを果たすために、特別な装束を必要としましたが、神はある者たちに知恵の霊を満たし(創31:3)、さらに、幕屋を建てるために選ばれたウリの子ベツァルエルには、その役割を遂行できるように神の霊を満たされました(出35:31)。モーセと70人の長老たちが、イスラエルを治める任務を全うできるために、神の霊は彼らの上にとどまりました(民11:16−29)。バラムは主の霊が彼の上に臨んだときに預言しました(民24:2)。ヨシュアはモーセの後任者として任命される前から神の霊を宿していましたが(民27:18)、モーセが彼に手を置いて後は、知恵の霊に満たされていました(申34:9)。

 カナンの地に定着後は、主の霊はすべての士師たちに臨んだと推測できますが(士2:18−19)、まず、オテニエルの上にあったことが記されています(3:9−11)。さらに主の霊はギデオンをおおい(6:34)、エフタの上にくだり(11:29)、サムソンを動かし、彼の上にくだり、また彼の体から去られました(士13:25、14:6、19、15:14)。サムエルによって油を注がれたサウロには、主の霊が激しくくだったために、彼は新しい人に変えられ(Iサムエル10:6)、預言をしたり、激しく怒ったりました(Iサム10:10、11:6、19:20)。 それだけではなく、サウロの使者たちの上にも神の霊が臨み、彼らも預言をしました(Iサム19:20)。サムエルに油を注がれた日から、ダビデには主の霊が激しくくだりました(Iサムエル16:13)。ダビデの場合は彼自らが「主の霊は私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある」と言っていますが(Uサム23:2)、バテシバのことで罪を犯した直後には、「あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」と祈っています(詩1:11)。またその一方では、たとえどのようにしても神の御霊から逃れることはできないとも語り(詩139:7)、その御霊に導かれることを願い求めています(詩143:10)。

 預言者たちの場合を見ると、オバデヤはエリヤが主の霊によって連れ去られることを恐れ(T王18:12)、人々は主の霊がエリヤを山か谷に運んで行ったのではないかと恐れました(U王2:16)。オデデの子アザルヤやレビ人ヤハジェルは、主の霊が彼らの上に臨んだとき預言をしました(U暦15:1、20:14)。祭司エホヤダの子ゼカリヤは、神の霊に捕らえられて預言しました(U歴24:20)。イザヤによると、主は、イスラエルの民が主の霊によらずにはかりごとをめぐらし、エジプトと同盟を結ぼうとしていることを叱責する一方で(イザ30:1)、主の御霊がエドムを荒地にして野の獣たちをつがいで集めるとおっしゃっています(イザ34:16)。また、「主の息(霊)が吹きまくる」という表現で、ヤコブの家には激しい裁きをもって臨まれることが語られています(イザ59:19)。

 エゼキエルは「霊」が四つの生き物と四つの輪に行動させるのを見(エゼ1:12、20)、彼自身の中に入り(2:1、3:24)、引き上げ(3:12、11:1、24)、持ち上げ(3:14、8:3)、捕らえる(3:14)という経験をしましたが、この霊は聖霊だと判断されます。彼はまた「主の霊」が彼に下り(11:5)、その霊に連れ出されて谷間の真ん中に置かれるという体験をし(37:1)、さらに「神の霊」によって、幻のうちにカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行かれるという体験をしていますが(14:24)、これらもみな聖霊によるものです。さらにエゼキエル書には「わたしの霊」という表現が3回使われ(36:27、37:14、39:29)、その霊はイスラエルの最終的回復の時に与えられる「新しい霊」と同じであると語られていますので(36:26−27)、この新しい霊は単なる新しい心という意味ではなく、聖霊であると理解できます(11:19、18:31)。さらに、あの有名な枯れた骨の谷の幻の記事においては、「息」という言葉が7回用いられていますが、これは日本語への翻訳の都合上そのようにされているだけで、原語においては「ルーアハ」であり、「霊」とまったく同じです。イスラエルの回復にあたって主の霊がいかなる役割を果たすかが、興味深く語られています(37:5−10)。

 ネブカデネザルによると、ダニエルの上には聖なる神の霊がありました(ダニ4:8、18)。ペルシャザルの母は、ダニエルには聖なる神の霊が宿っていると認めていました(ダニ5:11、14)。ダリヨスもまた、ダニエルのうちにはすぐれた霊が宿っていると認めていました(ダニ6:3)、預言者ハガイは、バビロン捕囚から帰ったイスラエルの民が、神殿建築に遅れを取っていることにからんで、主の霊が彼らの間で働いておられるから恐れるべきではないと励まし(ハガ2:5)、ゼカリヤは同じ実情のなかで、神殿建築指導者ゼルバベルに対する主の言葉を伝えています。それは、その神殿建築が権力や能力によるのではなく、主の霊によって成し遂げられるということです(ゼカ4:6)。ゼカリヤはまた、主が御霊によって先の預言者たちを通してお語りになった教えとみ言葉を、ユダの民が守らなかったために、主の大きな怒りが下ったと預言しています(ゼカ6:12)。ネヘミヤ記には、当時の民の代表者たちが荒野のイスラエルについて語ったとき、神がイスラエルの人々を悟らせようとして、ご自分のいつくしみ深い霊をお送りになったと言い(ネヘ9:20)、また、預言者を通しご自分の霊によって戒められたと言っていることが記されています(ネヘ9:30)。

 新約聖書もまた、旧約時代に聖霊がお働きになったことについて言及しています。キリストはダビデが聖霊によって語ったと述べています(マタ22:43、マル12:36)。パウロは、約束の子イサクは「御霊によって生まれた」者であると語り、族長時代の聖霊の働きを示唆しています(ガラ4:29)。また彼は、イザヤが聖霊によって預言したというだけではなく(使徒28:25、Iコリ2:10)、旧約聖書のすべては神の霊感によるものであると主張しています(Uテモ3:16)。また、イスラエルの民はみな同じ御霊の食べ物を食べ、同じ御霊の飲み物を飲んだと言い、水を出した岩を御霊の岩と呼んで、新約時代と同じ御霊が、旧約時代にも働いておられた事を示唆しています。ペテロは、聖霊がダビデの口を通して預言されたと言い(使徒1:16)、旧約の預言者たちの内にも「キリストの御霊」がおられて、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証されたと語り(Tペテ1:11)、預言者たちは聖霊に動かされて神からの言葉を語ったと教えています(Uペテ1:21)。ヘブル書の著者は詩編95:7−11やエレミヤ31:33を引用して、これは聖霊によって言われたものだと語っています(ヘブ3:7、10:15)。ステパノは、イスラエルの民がいつも聖霊にさからっていたと語っています(使徒7:51)。ペンテコステ直後の弟子たちは心を一つにして、「神が聖霊によってダビデの口を通してお語りになった」と、神に向かって語りました(使徒4:25)。

 また注目すべきことは、聖霊がイスラエルという民族共同体の内におられたことです。イザヤは、聖霊がイスラエルの中に置かれ彼らをいこわせたにもかかわらず、イスラエルはその聖霊をいたませたと言い(イザ63:9−14)、ハガイは、神の霊がイスラエル(ユダ)の中で働いていると語り(ハガ2:5)、それは、神がエジプトを出たときのイスラエルに与えられた約束によるものであるという神のお言葉を残し(出29:45−46)、ゼカリヤは、聖霊が神殿再建を遂行されるという主のお言葉を記録しています(ゼカ4:6)。そればかりではなく、聖霊がイスラエルに授けられ(エゼ36:26−27)、入れられ(エゼ37:14)、注がれることが(エゼ39:29)、イスラエルの復興と結び付けられ、その聖霊が永続的に留まり離れないことが約束されています(イザ59:21)。

 パウロは、聖霊がイスラエルの行くところについて行ったと語っています(Iコリ10:4)ヤコブは旧約聖書を引用して、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」と語っています(ヤコ4:5)。もちろんこの「私たちのうち」とは、もともとは「イスラエルのうち」という意味であったと理解できます。ただ、おもしろいことに、このような言葉を旧約聖書に見出すことはできません。推測できるのは、ヤコブがゼカリヤ書1:14や8:2−3を思い浮かべ、それを自由な引用の仕方で用いたということです。だとするとヤコブは、万軍の主がシオン、すなわちエルサレムにお住みになるとおっしゃったことを、神学的に解釈してイスラエル全体と看做し、さらに万軍の主を御霊と解釈した上で、イスラエルを新しい神の民である教会、さらには、教会に連なるすべての信徒に置きなおして語ったということになります。彼によると、御霊はイスラエルの内にお住まいだったのです。

 さらに、旧約と新約の中間期における聖霊のお働きを見ると、まず、キリストは聖霊によって身ごもり(マタ1:20)、聖霊を受けて(マタ3:16、ルカ3:22、ヨハ1:32−33)、神に聖霊を無限に与えられて(ヨハ3:34)、聖霊に満ち(ルカ4:1)、悪魔の試みを受けるために聖霊に導かれ(マタ4:1、ルカ4:1)、聖霊の力を帯びて公的働きを開始し(4:14、18)、聖霊によって神の言葉を語り(ヨハ3:34)、聖霊によって力ある業を行われ(マタ12:28)、聖霊によって喜びにあふれ(ルカ10:21)、聖霊によって弟子たちに命令されました(使徒1:22)。キリストはまた、このように神のみ業を明らかに現す聖霊に逆らうことを、赦されない罪であると警告されました。イザヤは、キリストの上に主の霊がとどまると預言し、その霊は知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊であると語っています(イザ11:2)。また、神が彼の上にご自分の霊をさずけ(イザ42:1、マタイ12:17)、その御霊とともに遣わされたと語り(イザ48:16)、キリストご自身が引用された「神である主の霊が、私の上にある」という預言を語っています(イザ61:1、ルカ4:18)。ペテロは、キリストが神によって聖霊と力を注がれたと証言しています(使徒10:38)。

 キリスト以外の例では、御使いが、バプテスマのヨハネは母の胎内にいるときから聖霊に満たされ(ルカ1:15)、マリヤの上には聖霊が臨むと語っています(ルカ1:35)。エリサベツとザカリヤは聖霊に満たされて預言しました(ルカ1:41、67)。シメオンの上には聖霊がとどまっておられました。彼は聖霊にお告げを受け、また聖霊に感じて行動をしています(ルカ2:25−27)。

 五旬祭以前のキリストの弟子たちに関わる、聖霊の働きの記述は非常に少なく、キリストが彼らに対して語ったお言葉が、わずかに残されているだけです。その一つは、彼らが迫害に遭って議会に引き渡され、会堂で鞭打たれる時、また異邦人に証をするために王や長官たちの前に引き出されるときには、聖霊が語って下さるというお約束です(マタ10:16−23、マル13:9−11)。議会に引き渡されたり会堂で鞭打たれたりする迫害、あるいは異邦人伝道のために、王や長官たちの前に引き出されるという体験が、五旬祭以降のことを指していると思われることから、聖霊が語ってくださるというお約束は、五旬祭以後に有効にされる約束と考えるのが妥当と思われますが、確実なことは言えません。

 次に、甦られた主が彼らに息を吹きかけられて、「聖霊を受けよ」とおっしゃった出来事です(ヨハ20:21−22)。この場合、「聖霊を受けよ」とおっしゃって息を吹きかけられたときの「息」が、果たして聖霊であったのか、たんに息であったのか議論の残るところですが、主に三つの解釈があります。一つは、息と訳されている言葉は「霊」とも訳すことが可能であり、キリストはこのとき弟子たちに聖霊を吹き込まれたのだと理解し、この瞬間から弟子たちの中に聖霊の内住が始まったと考えます。すると、先ず聖霊の内住があり、その後、ペンテコステの日に聖霊のバプテスマがあったと推測を進めることができ、「回心に伴う聖霊の内住とは別の、回心後に体験する聖霊のバプテスマ」というペンテコステ派の主張を裏付けると考えられています。ある人たちは、このときに教会が誕生したとさえ考えます。

 第二はこの「息」という言葉を聖霊と理解しますが、聖霊の内住がこのときに始まったとは考えず、内住とは別の、ある程度の度合いの聖霊の働きが、この時から始まったと理解します。第三は、これは物理的な「息」であって聖霊ではなく、来るべきペンテコステの体験とそれに続く聖霊の時代を見越して、キリストが弟子たちを励まされたのだと理解することです。これらを考察してみると、第一の解釈には少々無理があるように思えます。やはり、新約時代の特徴である聖霊の内住のお働きは、キリストが栄光を受けられた後に聖霊を注いで下さったところから始まったと、理解すべきであると判断するからです。第二は、聖霊が旧約の時代からお働きになっていたのは明白ですから、弟子たちにはまったくお働きにならなかったと考える必要はなく、可能な解釈だとは思います。しかし、ペンテコステの日を直前にして、このような必要性があったかどうかが疑問です。そこでこれは、間もなく訪れる聖霊のお働きに期待を大きく膨らませて折られた、キリストのボディ・ラングェージと見ることができる第三の解釈が、もっとも妥当であると思われます(参照・ヨハ16:7、13)。

 またキリストがニコデモと交わされた会話には、特別な注意が必要です(ヨハ3:1−15)。なぜならこの会話では、人は、聖霊によって生まれなければ、神の国を見ることも、入ることもできないという厳粛な事実が、見事に表されているのですが、この聖霊のお働きがいつから始まるのかという点については明白にされていないからです。ヨハネの記述全体と、ニコデモとの会見の状況から判断すると、聖霊はこの会話の時点で、すなわち五旬祭以前に、すでにキリストのおっしゃる新生のお働きを、始めておられたと理解するのがもっとも自然です。また、キリストがご自分の血を飲み肉を食べるという、あえて極めて危うい語り方をもって信仰の本質を説明なさったとき、当然やがて制定なさる聖餐の儀式を前提にお語りになっていたはずなのですが(ヨハ6:32−59)、その教えの流れの中で語られた「いのちを与えるのは御霊です」というお言葉は、将来、五旬祭の後の聖霊の働きとして述べられたと理解すべきか、すでにそのときに行われていた聖霊の働きと判断すべきかが問題です。これも、ヨハネの記述全体とこのお言葉が語られた事情を考慮すると、すでにこの聖霊のお働きは始められていたと考えるのが自然です。聖霊は、五旬祭以前にも人の新生に関り、命を与える働きをしておられたのです。

 このように、五旬祭以前にも聖霊がお働きになっていたことは明らかです。また、聖霊が人間とかかわりを持ってお働きになった場合は、わずかの例外を除いて、イスラエル民族に限ってお働きになったということがわかります。[1] また聖霊は、たとえばバラムやサムソンあるいはサウロのように、短期の特殊な働きに応じて特定の人物に臨んで、その人物を用いてお働きになった一方で、ダビデやダニエルのように、ある特定の個人の中に長期にわたって、あるいは永続的に留まってお働きになった場合もあります。ただダビデのように、聖霊は常に彼の内におられたと想定されるような事例でも、ダビデ自身は自分の内から聖霊が取り去られないようにと祈っているのは興味深いことです。(詩51:11)

 次に、聖霊が人間に関わって何かされる場合の記述として、さまざまな言葉が用いられている点について、注意が必要です。聖霊の行為としては、とどまる、臨む、おおう、下る、動かす、捕らえるなどという言葉が用いられ、人間側からの言い方としては、宿す、満たされる、動かされる、入られる、下られるなどと語られています。それらの言葉、それぞれの個々の状況をある程度表現するものではありますが、その相違をあまり細かく詮索するとかえって混乱することになるでしょう。それぞれ異なった著者が、異なった時代に異なった状況の中で書き記したことであり、当然それぞれの著者の理解の中で用いられた言葉であって、彼らの間で協議をし、言葉の共通の定義をしてから用いたのではないからです。

 また、その前に置かれるいわゆる前置詞、つまり、中に(内に)、共に、上に、などの違いに意味を見つけようとするのにも、行き過ぎにならないように注意が必要です。多くの場合、互換性のある言葉として用いられていますので、その違いを詮索しすぎると返って間違いに陥ります。たとえば、「上にくだる」と「上に臨む」ではほとんど同じですし、「上にとどまる」と言っても本質的な差は無いでしょう。それをまた、「内に」と言ったり、「共に」と言ったりしたとしても、そこに本質的な差を見出すことはできません。つまりそれらの言葉は、聖霊を擬人化して、聖霊の行為をあたかも人間の行為のように表現しているだけだからです。

 仮に、「聖霊が臨んだ」と表現しても、それまでは聖霊がそこにおられなかったということではありませんし、「聖霊が下った」と言ったからといって、それまで聖霊は空間的な場所として、どこか上の方にいたということではなく、ましてや、下った以上もう上にはおられないという意味ではないからです。聖霊は時空を超えた偏在の神だからです。ただ、「宿る」という言い方などには、「臨む」や「下る」よりは長期にわたって、より親しい関係にあったというニュアンスがあります。

 さらに、これは新約聖書の場合も言えることですが、聖霊とか神の霊などという明らかな表現は用いられていなくても、これは間違いなく聖霊のお働きだと、推論できる場合もたくさんあります。しかしここでは、そのような例には触れないで論を進めて行きます。

B. 五旬祭(ペンテコステ)以後の聖霊の働き

 五旬祭以後の聖霊のお働きは、具体的な事例としては使徒の働きに記されていますが、キリストの教えの中にも、やがておいでになる聖霊の大切なお働きについて記されています。また、書簡の中にも聖霊のお働きについて、数多く述べられています。

 使徒の働きでは、まず、五旬祭の日に弟子たち一同が聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話し出したことが記されています(使2:4)。この出来事はキリストご自身が予めお話になったことの成就であり(使1:8、ヨハ7:37−39)、 ヨハネを通し、またキリストを通して与えられた父なる神の約束の成就であり(使1:4−5、マタ3:11、マルコT:8、ルカ3:16、ヨハ1:33)、預言者ヨエルによって語られたことの成就でもあり(使1:16、ヨエル2:28−32)、またある意味ではモーセの切実な願いがかなえられたことでもありました(民11:29)。この出来事はまた、神の右に上げられた栄光のイエスが、父なる神から聖霊を受けて、人々にお注ぎになったものであり(使2:33)、悔い改めて、洗礼を受けた者すべてに約束されているものでした(使2:38−39)。

 ペテロとパウロは、それぞれ異なった状況下ではありましたが、敵対する者に対して聖霊に満たされて語りました(使4:8、13:9)。五旬祭直後の迫害の中、「大胆に語らせてください」と祈った弟子たち一同は、「聖霊に満たされてみ言葉を大胆に語りだした」と記されています(使4:31)。ステパノおよび彼と共に選ばれた6人の者たちは「信仰と聖霊に満ち」ていました(使6:5)。特にステパノは、「知恵と御霊によって語り」(使6:10)、「聖霊に満たされて」いました(使7:55)。バルナバもまた、「聖霊と信仰に満ちている人」と紹介され、パウロと共に、「喜びと聖霊に満たされて」伝道の旅を続けました(使13:52)。アガポは聖霊によって預言をして教会の働きを強めました(使11:28、21:11)。

 さらに聖霊は、いろいろな状況で、さまざまな形で人々に働きかけておられます。まず、ピリポやペテロ、さらにはアンテオケ教会の預言者や教師たちに直接語り、彼らが何をすべきかをお教えになりました(使8:29、10:19、11:12、13:2)。そして、教会を励まして前進させ(使9:31)、バルナバとサウロを異邦人伝道に派遣し(使13:4)、彼らの行くべき道を禁じ(使16:6)、また示し(使16:7、19:21、21:4)、弟子たちに「聖霊と私たちは・・・決めました」と語らせるほどに、強い臨在でエルサレム会議をお導きになり(使15:28)、さらには神の教会を牧させるために、群れの監督をお立てになりました(使20:28)。また聖霊が単なる神の力ではなく神格をお持ちであること、すなわち神ご自身であられることが、あざむかれ(使5:3)、試みられ(使5:9)、逆らわれ(使7:51)などという表現で示されている一方、神に従う者に神がお与えになった方であり、悔い改めと罪の許しを与えるために十字架の死と甦りを経て、君としてまた救い主として神の右に上げられた、イエスの証人であることが語られています(使5:32)。

 これらのお働きとは少しばかり性質の異なる聖霊の活動に、聖霊のバプテスマ、あるいは聖霊のバプテスマと推測されるものがあります。普通、聖霊のバプテスマであると考えられている出来事は、使徒の働きの中に4回記されていますが、面白いことに著者ルカは、それらの出来事を指して、「これが聖霊のバプテスマです」と言ったことは一度もありません。ただ、キリストが弟子たちに向かって、「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」とおっしゃってから(使1:5)、本当にわずかの期間を置いて、2章に記されている出来事が起こったということと、10章に記されているローマ軍の百卒長コルネリオと、その家の者たちに聖霊がお下りになった場合のことを、ペテロが他の弟子たちに説明して語った記録があるだけです。ペテロはコルネリオの家で、2章に記されているあの出来事と同じように、聖霊がおくだりになったということを見て、「主が、聖霊によってバプテスマをお授けになる」とおっしゃったお言葉を、思い出したと言ったのです(使10:44−11:18)。

 ですから、ペテロはこのコルネリオの家での出来事を聖霊のバプテスマが与えられたことと理解し、それは2章に記されている出来事と同じであったと言っているところから(使5:8)、2章に記されている五旬祭の日の出来事も、聖霊のバプテスマが与えられたものであると理解されるのです。ペテロが、コルネリオの家族への聖霊のバプテスマは、五旬祭の日の出来事と同じであると理解したのは、彼らが異言で語り出したことでした(使10:46)。そしてそれがまた、神様は異邦人にも何の差別もつけずに救いを与えて下さるということの、しるしとなりました(使15:8−9)。サマリヤでキリストのみ名を信じた人々や(使8:5−24)、エペソでアポロからイエスのことを聞いてヨハネの洗礼を受けていた人々に、聖霊が下ったり臨んだりされた場合も(使19:1−7)、その記述の内容から、聖霊のバプテスマと考えられています。これらの出来事での聖霊の活動は、人の上に「下る」、「臨む」といわれ、人間側立場からは、「受ける」、「与えられる」、「満たされる」というような表現で記されています。

 書簡に記されている聖霊のお働きは、使徒の働きに記されているようなものとはかなり内容が異なります。使徒の働きでは、著者のルカの主な関心が福音宣教の発展と教会の拡大成長にあったと思われ、聖霊の働きもその主題に沿って、宣教論的側面が主に取り扱われています。それに対して書簡では、パウロを始めとする著者たちの関心は、教会の霊的成長という、信徒たちの内面的な品性や生活に関わる事柄でしたので、その方面にお働きになる聖霊が強調されています。

 とはいえ、ルカの記録の中でも、信徒たちの内面に働きかけられる聖霊の働きははっきりと記されていますし(使6:5、10、55、11:24、13:53)、聖霊の宣教的な働きは、書簡の中でも決して無視されているわけではなく、かえって、明確に述べられています(ロマ15:19、Tコリ2:4、Tテサ1:5、Tペテ1:12)。

 書簡の中には、「聖霊」と聖霊を意味する言葉がおよそ135回用いられていて、それらを大まかに分類すると以下のようになります。ただし、一つの言及がいくつもの分類に含まれる場合があることを、理解しておかなければなりません。

 まず、聖霊が私たちに何かをしてくださるという言い方、あるいは聖霊がしてくださるのだとすぐに推論できる言い方が40回以上あり、もっとも多用されているものです。聖霊が行為者であって、人々がその行為を受けるものです。その中で、私たちがキリストを信じた瞬間に、霊的事実として目に見えない形で、私たちが気付かないうちにさえ、私たちに対して行われる聖霊の働きとしては、9回記されています。それらは御霊が心の割礼を施してくださること(ロマ2:29)、原理をもって開放してくださること(ロマ8:2)、私たちの内に住んで下さること(ロマ8:9−11)、子としてくださること(ロマ8:15)、異邦人を聖なる者とされること(ロマ15:16)、洗い、聖なる者とし、義と認めてくださること(Iコリ6:11)、一つの体にバプタイズしてくださること(Iコリ12:13)、新生と更新の洗いを与えて下さること(テト3:5)、そして、聖めてくださることです(Iペテ1:2)。

 またその瞬間から、すなわち私たちがキリストを信じた瞬間から、私たちの自覚がないままでさえ私たちのうちに始まった、その目に見えない霊的事実を継続し、具体的に目に見えるような形で現して行く聖霊の働きとしては、20回ほど用いられています。それらの主なものは、私たちを肉の思いに打ち勝たせ、生きる者とさせ、神を「アバ、父」と呼ばせ、とりなしをして下さること(ロマ8:1−27、14:17)、あるいは私たちが神から賜ったものについて教え(Iコリ2:10−3:1)、生かし、自由を与え、キリストと同じ姿へと変えてくださり(Uコリ3:3、6、8、17、18)、導いて、御霊の実を結ばせ(ガラテヤ5:16−25)、私たちの間に一致を与えてくださることです(エペ4:3)。

 聖霊は、私たちがキリストを信じた瞬間に、神が与えてくださるのだということについても、幾度か記されています。その聖霊は、子としてくださる方であること(ロマ8:15)、私たちが御国を受け継ぐことの保証であること(Uコリ1:22、5:5、エペ1:13、14、4:30、ロマ8:23)清潔を得させてくださる方であること(Tテサ4:8)などが説明されています。同じことを人間側から見た言い方としては、「聖霊をうけた」(ロマ8:15、ガラ3:14)、「油を注がれた」(Uコリ1:21)、もしくは「注ぎの油」(Tヨハ2:20、27)、さらには「御霊によって生まれた」(ガラ4:29)などと表現されています。また、神が聖霊によって、私たちに何かをしてくださるという言い方もされています。神は聖霊によって私たちに愛を注いでくださったこと(ロマ5:5)、聖霊によって私たちの死ぬべき体をも生かしてくださること(ロマ8:11)、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださること(ロマ15:13)、内なる人を強くしてくださること(エペソ3:16)などです。

 福音書のなかに見られる聖霊のお働きへの言及をも見てみましょう。五旬祭以前の聖霊のお働きについてはすでに言及しましたので、五旬祭以後の聖霊のお働きに関するものだけを取り上げることにします。先ず、すでに触たように、聖霊は私たちが迫害に遭ったときに、語るべきことを示してくださいます(マタ10:10)。また、やがて与えられるものであると約束されていた聖霊は(マタ3:11、)、イエスが栄光を受けてから注がれるべき定めになっていましたが(ヨハ7:39、使2:33)、積極的に求めるべきものでもありました(ルカ11:9−13)。また聖霊のお働きの内で人間の新生に関わるものは、先に述べたように五旬祭以前に始まっていたと理解されますが、実際上は、主に、ペンテコステ以降の働きでした。

 福音書に記された聖霊への言及の中でもっとも傑出しているのは、ヨハネが記録した一連のキリストのお言葉です(ヨハ14:16−16:15)。ここでは、聖霊が「もうひとりの助け主」とも「真理の御霊」とも呼ばれています。「もうひとりの」という言葉は、「別の」とも「他の」とも訳される言葉ですが、もともとは、「同じ種類でありながらほかのもの」という意味で、「種類の異なるほかのもの」とは区別されて用いられます。したがって、キリストがこの言葉をお選びになったのは、その助け主が、キリストと同じ性質を持っていること、あるいはキリストと本質的に同じであるということを、強調したかったためであると考えられます。もちろん、キリストはギリシャ語を用いておられなかったことを考慮しても、ヨハネを霊感して聖書を書かせてくださった聖霊が、そのように翻訳するのがもっともふさわしいと認めてくださったわけです。ですから、キリストは「あなたがたを捨てて孤児とはしません」とおっしゃり、「世の終わりまであなた方と共にいる」と約束することができ(マタ28:20)、マルコはキリストの復活昇天の後にも、「主は彼らとともに働き」と書くことができたのです(マル16:20)。

 また、「助け主」という言葉は、「慰め主とも」「仲保者」とも「弁護者」とも翻訳できる言葉です。これは、聖霊の性質とお働きを実に良く示しています。言い換えるとキリスト御自身が助け主であり、慰め主であり、仲保者であり、弁護者であられるということです(ヘブ2:17−18、4:14−15、Iヨハ2:1)。また、「真理の御霊」と呼ばれているのは、聖霊が真実な方であるという意味だけでなく、聖霊が真理の啓示者であるという、キリストがこの一連の教えの中で強調しておられる意味が、含められているように思えます。それはまた、真理であるキリストの御霊であるということでもあり得ます。この場合は人間の外にある法則としての、あるいは知的対象としての真理ではなく、人間がその中を歩むべき真理、あるいは体験すべき真理ということですから、人間がその中に生き歩むべき聖霊の性質を良く現しています。

C. 基本的に変わらない聖霊の働き

 さて、このように見てくると、五旬祭以前の聖霊のお働きと以後の聖霊のお働きの間には、たくさんの共通点があります。五旬祭以前の聖霊は、人の上に臨み、くだり、激しく下り、とどまり、内に宿り、満ち、動かし、知恵を満たし、人を新しくし、人を通して語りすなわち預言させ、悟らせ、捕らえ、いましめ、引き上げ、持ち上げ、連れ去り、幻を見せてくださいました。五旬祭以後も、表現の違いこそわずかに認められるものの、聖霊は同じことをしておられるのが明白です。聖霊の特異なお働きである聖書の霊感という問題を取り上げても、聖霊は旧新両時代を通して、同じように働いておられるのです。

 旧約時代の聖霊は、ある特別な働きのために人々に臨み、その人をお用いになりました。新約の時代にも記述の仕方は異なっていても、同じように聖霊に用いられた例があります。伝道者ピリポは聖霊に命じられてエチオピヤ人の宦官に近づき、福音を語りました。そしてその仕事がすむと、聖霊に連れ去られました(使8:29、39)。ステパノは信仰と聖霊に満ちた人であったと紹介されていますが、彼が殉教した時には、特別に聖霊に満たされ用いられていたことは間違いないでしょう(使6:5、7:55)。サウロのために祈ったアナニヤもその日特別な仕事を成し遂げました(使9:10−19)。これらの人々が、時の必要に応じて聖霊に用いられたことは間違いありません。使徒の働きという、高々30年を少し超えるだけの短い歴史書の中にさえ、これほどの記述があるのです。

 ところで旧約時代には、サウロのように、一時的には聖霊によって随分用いられたのに、その後、聖霊に用いられなくなってしまっただけではなく、聖霊に逆らう人になってしまった事例が記されています。(Tサム9:16、10:6、T歴10:13−14)。実際のところ、旧約を通してのイスラエルの歴史は、民族全体として聖霊に逆らい続けた歴史です。あるときは聖霊に従いながら、やがて聖霊から離れて行った繰り返しです。新約の幕がまだ開けきらなかったときの、キリストの弟子の一人、ユダの例はどうでしょう。彼も、一度は、キリストの弟子だったのです。彼が新生していたならば(ヨハ3:1−10)、彼の内にも聖霊の働きがあったと理解すべきですが、キリストはいつの時点で、ユダの裏切りをお知りになったのでしょう。「神のみ姿を捨てた神」として生きておられたキリストは、弟子の裏切りを、始めからユダと特定して察知しておられたとは考えられません。キリストの内におられた聖霊のお働きによって、いつかの時点で教えられたのでしょう。もちろん、ユダが始めから裏切り者であったなどというのは、まったく考えられません。それでは裏切り者ではなくなってしまいます。彼の心がキリストから離れたとき、サウロの場合の言い方を借りると、「主の霊がユダを離れ」たとき(Iサム16:14)、「神からの悪い霊」が彼の中に入ったのです(Iサム16:23)。ユダの場合はこの悪い霊は悪魔でした(ルカ22:3、ヨハ13:27)。

 新約聖書にも、そのようなことが起こったと推測される記述があります(コロ4:14、Iテモ1:19−20、4:8、15、Uテモ4:10)。また、そのようなことにならないようにという、強い警告がたくさん記されています(Iコリ10:1−13、ヘブ6:4−6、Iテモ1:18、4:1その他)。たとえば、Iヨハネ2:18−29の記述は、当時教会をかき乱していたグノーシス派の人々とその教えへの警告であると言われていますが、その人々は、以前は教会の中で活動していました。しかし彼らが仲間から出て行き、異なった教えを広め始めることによって、仲間ではないことが明らかになりました。そこで初めて、ヨハネは、彼らはもともと仲間ではなかったと言うことができたのです。これは旧約時代のサウロやユダの例と同じです。もともと仲間ではなかった人々が仲間として活動していたときは、仲間たちも彼ら自身も、同じ仲間という理解と自覚を持ってお付き合いをしていました。聖霊が彼らの中におられると信じて、また感じて生きていたのです。そのときには、ヨハネでさえも、彼らを仲間たちの中から識別することは、できなかったのです。ユダも弟子たちの仲間と信じ、また信じられていました(使1:17)。しかし、後になって判ったことは、彼は定められていたところに行ったということなのです(使1:25)。新約聖書で、私たちの救われているという事実は、あるいは聖霊が内に住んでくださるという事実は、決して失われることはないと教えられている背後には、必ず一つの条件が隠されているのです。それは「もし」という言葉で表されます。「もし、私たちがキリストに信頼し続けるならば」ということです。それは基本的に旧約聖書と同じ条件です。「もし、主に忠実であり続けるならば」です。

 さらに旧約時代の聖霊が、イスラエルという共同体の中にお住みになったように、新約時代の聖霊も、新しい神の民である教会という共同体にお住みになっています。その意味において、そこにも本質的な差はありません。
[1] ヨブやバラムの場合など。また、神がバビロンやペルシャなどの異邦人の王たちをお用いになったときも、直接聖霊に対する言及はなくても、神学的に、聖霊がお働きになったということは容易に推測できます。
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