A Theological Experiment

苦しみの意味

Welcome to my column


答えはない

 

 シャーマニズム再考第3回目は、いよいよヨブ記が示す苦しみの答えの方向性について。前回、ヨブ記は半分しか答えを出していないと書きました。その半分の答えとは何かから始めましょう。38章から41章までが、半分の答えです(ヨブ記はこれで終わりますが)。

 何度も書きましたが、38章から41章まで、神さまはヨブの苦しみにどういう理由があったのかについて、一言も触れません。ヨブ劇の観客は、神さまが一言も理由を述べないことに落胆するはずだと、私は言いました。しかし、理由を説明しないことこそ、神さまのヨブへの正しい応答だと思います。ヨブ記が啓示していることは、究極の苦しみに対しては、説明のレベルでは答えが決して与えられないということなのです。私が、シャーマニズム再考でヨブ記を取り上げた理由がここにあります。ヨブ記とは、シャーマニズムに対する究極の批判なのです。

 シャーマニズム再考第1回において、人間が本当に恐れるのは苦しみの苦痛ではなくて、苦しみの無意味性だと言いました。シャーマニズムは、苦しみに理由・原因を与えることによって、人間を無意味性から救う説明機能を果たしてきました。しかしシャーマニズムは、平均的人間の平均的苦しみにだけ通用するのです。まだまだ、意味のレベルに立てる程度の苦悩者にだけ答えを与えることができるのみです。しかしヨブ記が描くヨブとは、ギリギリの崖っぷちに立つ苦悩者です。苦しみに与えられる説明の意味さえ成り立たない絶望という究極の地点に立つ苦悩者です。ヨブの先にあるのは、ただ発狂だけです。正気と発狂のギリギリの境界上で持ち堪えている苦悩者なのです。

 ヨブのような苦悩者が救われるためには、生の弁護者・解説者(ヨブの友人のような)ではなく、生の根拠そのものがヨブに自分を顕して示すことが必要なのです。だからヨブは、神を見ることを絶望的なまでに切望しているのです。そういうヨブの願いに応えるかのように、嵐の中から神さまが現れます。神さまは、先ほども言ったように、苦しみの理由を説明しません。ヨブのような人物にとっては、説明は何も説明しないからです。神さまは、ただ執拗に生の無限の豊かさ、尽きない創造性、その威厳と栄光を力強く謳うのです。苦しみに絶望する義人ヨブに対して、神さまは自己を正当化をしません。ただ自分の栄光を示すだけです。神は弁解しないのです!これがヨブ記の真理であり、半分啓示した答えです。ヨブは納得します。「自分を退け、悔い改めます(42章6節)」。何に納得したのか? 神は弁解しないことに納得したのです。神に正当化は必要ないことに納得したのです。

 苦しむヨブは生の不当性を訴えました。生の無慈悲性を非難しました。生はヨブに対して自己を弁護しなければならない、生はヨブの苦しみについて釈明しなければならない、無意味な苦しみを与える生には不義がある! ここで生という言葉は、神と訳しても同じことです。ところがなんと、生(または神)はヨブの苦しみについて釈明しません。生はまさに生であることによって、何の釈明も不要なのです。生は正当化も必要ではありません。生は生であることによって、すべてであり、究極なのです。何かあるものが、生を善と判断したり、悪と判断したりはしません。逆に生が何かを善としたり、悪と判断したりするのです。善悪が生の上にあるのではなく、生が善悪の上にあるのです。

 宗教的にいえば、神はまさに神であることによって、何の釈明も不要です。神は神であることによって、すべてであり、究極なのです。ですから、神を善だとか悪だとか人間はいうことはできません。善悪が神の上にあるのではなく、神が善悪の上にあるからです。ヨブ記の真理とは、神とは究極の実在であって、誰にも何にも義務を負わないし、弁解一切不要ということです。「説明責任」という言葉が流行りましたが、ヨブ記的にいえば、神には説明責任がないのです。神学的に言って、これは絶対の真理です。

 42章7節で、「神は善であり、ヨブに罪がある」と神を弁護した3人の友人に対して、今度は逆に神が彼らを罪ありと裁き、彼らを赦します。人が神を弁護するのではなく、神が人を弁護するのです。神を弁護すること自体が、まさに僭越な罪なのです。このへんは軟派な宗教観になじんだ現代人には理解できないところでしょう。「神がいるならどうして戦争なんて起こるの?」という未信者の質問に、私たちクリスチャンはあわてて答えを探しますが、そもそもクリスチャンは人間を神に対して弁護する必要はありますが、人間に対して神さまを弁護してとりなす必要はまったくないのです。少なくとも聖書的には。

 なるべく宗教用語を使わずに、さらに続けてみましょう。40章8節に「自分を無罪とするために、私を有罪とさえするのか」という言葉があります。ここで注意することは、ここで語られているのは、道徳的な有罪・無罪の問題ではないということです。ヨブ記においては、道徳的な罪は全く問題にされていません。ヨブが何度も「私は潔白だ」と主張していますが、「道徳的過ちを1回も犯したことがない」と主張しているのではありません(そんな人間は存在しません)。神さまはヨブのことを「無垢で正しい人」としていますが、道徳的に100%無罪だと誉めているわけではないのです(そんな人間も存在しません)。ここを理解しなかったからこそ、3人の友人たちは、「何か悪いことをしたから災いが降りかかったのだ」と言って、ヨブにも神にも退けられたのです。神が「自分を無罪とするために、私を有罪とさえするのか」と言ったのは、ヨブの究極的なものとの関係における有罪と無罪、つまり生の根拠との関係における有罪と無罪のことを語っているのです。翻訳して言えば、「人間は自分を無罪とするために、生そのものを有罪とすることができるのか」ということです。

 人間は、生が無意味な苦しみを与えることを理由に、生を有罪とできるのか。ヨブは悟ります。「生を有罪とすることは不可能だ・・・」。なぜでしょう? なぜなら、生を非難すること自体、生の力によって可能だからです。無垢な義人として生きたことも、災いによって奪われる財産も、皮膚病になれる身体も、不平を口にできることも、すべて生から受け取ったものです。生に抗議すること自体が、生によってだけ可能なのです。人間はある日、自分が生まれたことを知ります(自分で選んだわけでもないのに)。気づいてから生まれるのではなく、生まれてから気づくのです。私たちは何かを得ると自分で得たと思い、何かを失うと他人に奪われたと思いがちですが、得たと思った自分も失ったと思った自分も、得たと思ったものも、失ったと思ったものも、すべては生の一部であり、生を根拠にして、生から生まれ、生へと帰っていくだけです。善と判断する自分も、悪と判断する自分も、生命の一現象であり、生を根拠にして、生から生まれ、生によって維持され、生に帰っていきます。善悪から生が生まれるのではなく、生から善悪が生まれるのであり、生自体は善悪の彼岸にあるのです。

 ヨブが、嵐の中に見たものは、轟音のように語りかける生の根拠そのものであり、自分の絶対的依存性、無力でした。ヨブは言葉少なに敗北を認めます。もうヨブにとって、苦しみの意味も無意味も、どうでもよいのです。生があってこそ、意味も無意味も成り立つわけで、生自体は、意味と無意味を無限に超えているからです。生の根拠は、意味や無意味、善や悪について、自己弁護する必要はありません。生自体こそ、すべての根拠であり、源だからです。ここにヨブ記の強烈な神観が垣間見えます。マルチン・ルターが語った「裸の絶対」とでも言いましょうか、無限の生の根拠であり、絶対的力、存在の無限の源泉、善と悪の彼方にある神。42章の後半から、顔の見えるヨブはいなくなります。ヨブの歴史が手短に描かれて幕を閉じます。ヨブの不気味な沈黙・・・。

 旧約聖書の中では、ヨブ記は珍しく、溢れるような賛美や親しい神との語らいがほとんど見られません。それもそのはず、意味と無意味、善と悪を無限に超えた絶対的な生の根拠である神を目にしたヨブには、もはや語る言葉もないでしょう。思い出してほしいのですが、ヨブは神と和解したのではなく、神に屈服したのです。神に降伏したのです。ヨブ記から「従順の神学」は作れますが、「和解の神学」は作れません。少なくとも愛による和解は。私の想像ですが、ヨブの晩年は魂の抜け殻のようだったと思います。

 全力を尽くして苦しみの答えを求めたのに、ヨブが得たのは、「答えがない」という答えでした。神御自身が現れてくださったにもかかわらず、神は苦しみの答えを与えないどころか、全く苦しみの答えに無関心だったのです! ここに到達したことこそ、ヨブ記の偉大さであり、ヨブ記の著者の比類ない勇気です。人類史上、これほどの勇気を持って苦しみの問題に直面できた人間は、ヨブ記の著者が最初でしょう。そして旧約聖書の偉大さは、ヨブ記という危険な書物を、人生の一面の真理として正典に受け入れたことです。ヨブ記の神観は、まちがいなく神の現実性にもっとも近くまで迫ったものであり、旧約聖書の中でもそのリアルさにおいて最高の1つに数えられてもいいものです。ただ問題は、私たち平均人にとって、向き合うにはあまりにも辛すぎる神なのです。ヨブ記の神観が間違っているから向き合えないのではなく、あまりにも真実だからそうなのです。本物の神とは、本当に危険な神であり、本当に恐ろしい神であり、人間によって決して家畜化されない神なのです(ちなみに人間がどういう権力者を一番恐れるかというと、どういう判断基準で権力を行使するか予想できない権力者をもっとも恐れます。この点に関しては、日常的応用例があるので、興味のある方はココをクリック)。

 私たちが聖書を読むとき、注意しないといけないことは、自分の心理的都合に合わせて、ハッピーエンドに読んでしまうことです。ヨブ記とは、苦しみの解決の書ではないのです。聖書学者たちは、何とかしてヨブ記から慰めの教訓を引き出そうと四苦八苦して涙ぐましいかぎりですが、ヨブ記が教えることは「慰みのハッピーエンド」が陳腐に思えるほど、徹底的にリアルな、勇気なしには直視できない真理なのです(少なくとも長澤流暴論では)。

 さて、ヨブは、人間は生の根拠である神に対して、苦しみの答えを求めることができないことを知りました。ヨブ記の隠れたテーマは、人間は無慈悲な生をいかにして肯定することができるかという問いです。宗教的にいえば、苦しみを与える神を、人間はいかに肯定することができるかということです。ヨブ記が明らかにしたのは、人間が生を肯定するのではなく、生が人間を肯定するのであり、生は究極的・根源的事実であり、生を弁護するいかなる存在も必要としないということでした。生があって初めて善悪も成り立つのであり、生を裁くものは何もないということです。宗教的にいえば、人間が神を肯定するのではなく、神が人間を肯定するのであり、神は究極的・根源的事実であり、神はご自身を肯定するために神義論などという神学者が考えるようなどんな理屈も必要とせず、神はいかなる弁護も必要とせず、神があって初めて善悪も成り立つのであり、神を裁くものは何もないということです。神とは、生とは、肯定そのものであり、すべての人間の肯定は、神から、生そのものから与えられるということです。ヨブが悟ったことは、苦しみを理由に生を裁くことは、あるいは神を裁くことは「できない」ということであり、否定形の真理です。私が前回、「半分の答え」と言ったのは、「〜はできない」という否定形の真理だからです。ここから生まれる究極の倫理は、「生を裁かず」です。祝福を与える生、災いも与える生、それをそのまま肯定することです。生を全体として肯定することは、生の中に生きる自分を肯定することでもあります。

 実は19世紀に同じような倫理に達した哲学者がいました。ニーチェです。かれは、生を裁かずそのありのままで肯定しようとしました。これを運命愛と呼んでいます。すべては必然的に起こったと思うこと。ちがう運命もありえたかもしれないと決して欲しないこと。沈黙する晩年のヨブの心情もこうだったのかなぁと邪推しますが、ここで疑問が1つ。こういう運命の肯定、あるいは神への無条件の降伏と言ってもいいと思いますが、それはそれで私たち凡人には到達できない境地、無限の勇気ですが、なんというか、和解のない降伏、和解のない勇気ではないでしょうか。実際ニーチェは、ギリギリまで張り詰めた勇気の緊張の中で、一瞬バランスを崩して発狂してしまうのです。

 苦しみの意味を問うことは、ヨブのような究極の苦悩のレベルでは、無意味になりました。なぜなら問いに答えるはずの神(生そのもの)は、善悪の彼岸、意味と無意味の彼方にあるからです。ヨブ記はここで、一歩踏み出します。ヨブ記の時点では、答えに届いていませんが。しかしヨブ記は、答えの方向を指差したのです。ヨブの指先の延長線上に何かが見つかるはずです。しかし、もう一度思い出してほしいのは、苦しみの意味の答えはないのです。そうすると、ヨブの指先が示すのは、苦しみの答えではなく、苦しみを克服する何かです。苦しみの理由が説明されず、理屈の上では全く無意味な苦しみでありながら、しかし苦しみを克服する何かをヨブ記が指差しているとすればどうでしょうか? それはまた次回ということで。




権力の源泉
 人が一番恐れるのは、一番不条理に振舞う存在です。ある集団で一番不条理に振舞う人間は、一番権力を持つことができます。理由不明な不登校を続けているにもかかわらず偉そうにしている息子とか、浪費癖があって家庭を顧みない嫁とか、意味のない難癖をつけまくりいつも不機嫌な舅とか、酔っ払っては当り散らす父とか。こういう振る舞いが不条理だとわかっていながら、周囲はこの人たちに一番気を使い、ご機嫌をとってしまうんですよね。

Copyright © 2007 All right reserved.