A Theological Experiment

苦しみの意味

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戯曲ヨブ記


 シャーマニズムとは、苦しみの必然性と意味を説明することから始まったと前回書きました。それが大成功だったなら、現代でもシャーマニズム大繁盛となるはずですが、大体どこの国でも、キリスト教や他の世界宗教に押され気味というのが現実です。

 さて目を聖書に転じてみれば、ヨブ記が苦しみの問題を、深く、あまりにも深〜く、提起しています。主人公のヨブのキャラクター設定が完全ともいえる義人になっているので、もうこれ以上は無理だろうというぐらい先鋭な形で問題が浮かび上がっています。私はヨブ記のファンですが、聖書学者でもないし、研究したこともないので、興味本位でだけお読み下さい(私も興味本位でだけ書いていますので)。

 精神分析の元祖フロイトの一番弟子だったユングが『ヨブへの答え』という著作で、面白い点を指摘しています。ヨブ記38章から始まる神のヨブに対する答えが、まるで答えになっていないというのです。『ヨブへの答え』を初めて読んだとき、「・・え?」と思って、改めてヨブ記の後半を読み返したら、なるほど確かに答えになっていないではないですか(少なくとも常識的な意味では)。ヨブは神の前で正しく歩んできた自分の人生に、なぜ言語を絶する苦しみが降りかかったのか、神を法廷に呼び出すかのように問いかけているのに、やっと出てきた神さまはなんと自慢話を始めるのです。自分が創造したご自慢の作品を滔々と並べ上げ、「どうだおまえに造れるか!」と啖呵を切って終わるのです。

 ある聖書学者の説によれば、ヨブ記は戯曲の形で書かれた知恵文学だということです。もしそうだとすると、舞台の上にまず左側に幸せそうに暮らすヨブがいて、舞台の右側に神さまとサタンが登場します(読者のみなさま、劇団の演劇を想像してみてください)。サタンはヨブを指差して、「災いを下せばヨブはあなたを呪いますよ」とけしかけます。無視すればいいものを、神さまは誘いに乗って「それではおまえの好きにしていい」とサタンに許可を与えてしまいます。舞台の右側でこんな恐ろしいやり取りがなされているのに、かわいそうなヨブは何も知らずに舞台の左側で宴会の準備をしているのです。観客は第二幕でヨブに降りかかる悲劇を予想してゴクリとつばを飲むのです。

 第二幕。舞台の左側では子どもたちを失ったヨブがそれでも健気に神をほめたたえています。舞台の右側では、「ほら見ろ! わしの言った通りじゃろ」と自慢げな神さまに、サタンが負けじと言います。「ヨブ本人が災いに会えば、あなたを呪うでしょう」。無視すればいいものを、神さまは話に乗って「それではおまえの好きにしていい」とサタンに許可を与えます。舞台の右側では、競馬の予想みたいな無責任な賭け事がなされているのに、舞台の左に目を向けると、「私は神を呪わない」とヨブが健気につぶやいているのです。

 第三幕。自分を呪っているヨブに3人の友人がやっています。「そりゃ、ヨブくん、あんたが何か悪いことしたから、苦しみがやってきたんだろ」と苦しみの必然性と理由を説明する友人たち。ありゃ、ありゃ、シャーマンと同じですね。シャーマンの論理は、「〜が〜をしたから〜なった」です。ヨブの友人は、ヨブに道徳的過失があったから神は苦しみを下した、だからしようがない、と道徳的レベルで説明します。ところが、ヨブは友人たちの苦しみの因果的説明を断固として拒否します。さてここで、人類史上画期的なことが起こりました。なんと、なんと、ヨブは「苦しみの説明」を拒否したのです。人類の歴史の中で、こんな人間は登場したことがありませんでした。あのイスラエルの歴史の中でも。

 アイの攻略に失敗したとき、ヨシュアが「アカンが罪を犯したからだよ」と説明すればイスラエル人は納得したものでした。ぺリシテ人が侵略してきたと言えば、士師たちが「偶像礼拝をしたからだよ」といって説明してくれました。バビロニアに捕囚になったら、エゼキエルが「契約を破ったからだよ」といい、みんな納得しました。ところが義人ヨブだけは、苦しみの意味を説明しようとする努力をすべて断固として受け入れなかったのです。それどころかヨブはなんと、神自身が釈明に現れるべきだと要求したのです! 士師の説明も、預言者の説明も、知者の説明もいらない! 神御自身が、苦しみの意味と必然性を弁明せよ! 何という大胆なご主張・・・。

 第四幕。ヨブの悲痛なまでの叫びに応えて、なんと神さま御自身が嵐の中から登場します(ナレーターの声で)。観客は固唾を呑んで声を待ちます。いよいよヨブの苦しみの秘儀が明らかになるはず! 高まるクライマックス。神さまがサタンの作戦に乗ったのは深い理由があるに違いない。乗せられた振りをしただけのはずだ。ヨブの苦しみのすべてが一瞬で帳消しになるような、深い真理が語られるはずだ。観客の手に汗がにじみます。「知識もないのに言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは!」。ほら来た! 神の経綸! 「私はおまえに尋ねる。私に答えてみよ!」。苦しみの秘儀を待って2時間、観客の興奮は今が絶頂。

 神の口が今開かれる! 「おまえは、朝に命令したことがあるか、光が住んでいるのはどの方向か、だれが雄鶏に分別を授けたか、、ヤギが子を産むときを知っているか?」。観客は「すいぶん前置きが長いな・・・。そろそろ本題に入ってくれよ」と少し首を傾げます。神は言います。「自分を無罪とするために、私を有罪とさえするのか」。観客は身を乗り出します。「いよいよだ!」。

 神さまは続けます。「見よ、ベルモットを!」。それから2章にわたって、いかに自分が造ったベルモットとレビヤタンいう生物がすばらしいかを自賛します。それで神さまの弁明は終わり・・・。ヨブは口を開きます。「私は悔い改めます」。幕が下りる。

 第五幕。再び幕が上がると、舞台には幸せそうなヨブと一族の姿。ナレーターがマイクを通して言います。「ヨブは長寿を保ち、老いて死んだとさ。めでたし、めでたし」。幕が下りる。取り残された観客は、「・・・・・・??????」。「それはないだろう!? 神さま、自慢話して終わりかよ! 苦しみの秘儀はどうなったんだよ?」。 

 さて、ヨブ記とは何なんでしょうか? ある人たちは、ヨブ記は、「苦しんだヨブが最後は神さまの主権を認めたので、幸せを取り戻した。だから私たちも苦しみの中にあってもヨブのように忍耐しましょう」とか、「ヨブの苦しみに比べたら、神さまはもっと偉大だから、とにかく神さまの偉大さを信頼しましょう」という教訓を与えていると考えています。しかし、ヨブ記を文字通り演劇にしたら、私が描いたようになるでしょう(私の演出が下手なだけかもしれませんが)。なぜ観客たちに納得できない余地があるのか。。それはヨブ記のテーマが、神が苦しみの意味に答えることだと期待したからです。しかし長澤流暴説によれば、ヨブ記は、キリストなしの神は、苦しみの意味に完全には応えることができないという啓示を示した書物なのです。ヨブ記の著者は時代的にもちろんイエス・キリストを知りません。ヨブ記とは偉大な思考実験の書です。旧約聖書で描かれている神を含めて、従来の伝統的神観に苦しみの問題をギリギリまで対峙させたらどうなるかという思考実験です。

 シャーマニズムも含めて、伝統的な宗教の最大の役目は、苦しみの意味をどう説明するかということでした。それらの努力は、私たちのような平均人を相手にしているかぎりは、十分その役目を果たせたのです。しかし、ヨブ記はその限界を明らかにしました。どうやって? ヨブという人物を登場させることによってです。ヨブ記の著者が生み出したヨブという人物を前にしては、シャーマニズムは答えに窮してしまうのです。シャーマニズムだけではありません。あの偉大なイスラエルの神でさえ、ヨブという人物を前にしては、答えが空回りしてしまうのです。ヨブは、世界中の宗教が怖気づいてしまうほどの人物です。こういってよければ、ヨブとは、諸宗教には苦しみに対する答えがないことを暴露してしまう人類最大の危険人物なのです。ヨブは高慢な人物ではありません。ヨブは自分の無罪性を主張しません。自分に罪があることを認めています(14章17節)。嵐の中の神が自慢する創造の力を知らないわけではありません。神が自慢する前から、すでに神の創造の知恵と力をすでに認めています(26章〜28章)。それらをすべて認めたうえで、苦しみの答えを尋ねているのです(13章1節)。自己の有罪性を認めた上で、神の創造性の無限の優位を認めたうえで、つまり予想されるすべての反論を認めたうえで、生そのものがいかなる弁明によって肯定されるかを問うているのです。言い換えれば、多少の罪を犯すのも、多少の無知も、生そのものから生まれていながら、なぜ生はそれを苦しみによって断罪するのかという、生そのものに対する抗議です。生そのものに対する抗議だからこそ、神さまは道徳的レベルでだけ神を弁護するヨブの3人の友人に対して「おまえたちは、わたしについてヨブのように正しく語らなかった(42章7節)」と怒ったわけです。

 ヨブは苦しみによって、生そのものに絶望した人間です(6章14節、26節)。無垢で義人でありながら苦しむヨブは、災いの苦痛自体に絶望しているのではありません。義人の苦しみに何の意味も見出せないことに絶望しているのです。前回、ニーチェの言葉を引用しましたが、本当の絶望とは、痛みに対する絶望ではなく、無意味に対する絶望です。従来の宗教は、「〜が〜をしたから〜なった」というものでした。苦しみの無意味さにとことん絶望したヨブは、苦しみを「説明のレベル」で納得することを拒否します。ヨブは友人たちの説得に対して、「あなたたちの議論は何のための議論なのか(6章25節)」と問うています。議論というのは、論じることに意味があると信じている人たちだけが行うものです。「意味」を信じている人だけが、「説明」で納得できるのです。しかしヨブには、議論も説明も通用しません。なぜならヨブは「意味のレベル」に、もはや立っていないからです。ヨブが立っているところは、生そのものの無意味性という生の最底辺です。つまり絶望です(6章26節)。そういうわけで、苦しむヨブが生そのものを肯定できるためには、生の説明ではなく、生の根拠そのもの、つまり神を、自分自身の目で確かめることが必要だったわけです(42章5節)。

 ヨブ記の啓示性は、ヨブ記の中では苦しみに対する究極的な答えが見つからないことを認めるところにだけ見出されるのです(ヨブ記にはぜんぜん答えがないという意味ではありません。半分だけあるのです。これについては次回)。ヨブ記は苦しみの問いを、ヨブという特異な登場人物によってギリギリまで推し進め、答えは見つからないが、答えの方向性だけは探り当てたことによって啓示なのです。「ヨブは神の答えに納得したではないか?」とおっしゃるかもしれません。実際ヨブは、「わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け悔い改めます」と言っています。しかし、まさにそこがヨブ記の著者の皮肉な演出なのです。ヨブ記の著者は、とうてい観客が納得できない神の自画自賛に、ヨブが納得する筋書きを書くことによって、実はそれが半分しか答えになっていないことを暴露する天才的な演出家なのです。

 では、ヨブが示す答えの方向性とは何か。なぜシャーマニズムはヨブが納得する答えを出せないのか。。それはまた次回。

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