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役立つ書評

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聖パウロ


 今回の書評は、フランス人哲学者アラン・バディウの著作、『聖パウロ 普遍主義の基礎(河出書房新社)』である。ラカン派の思想家スラヴォイ・シジュクの『脆弱なる絶対(青土社)』のまえがきに、「アラン・バディウの画期的な聖パウロ論に依拠するわれわれの仮定は・・・」という一文があって、興味をそそらされて、つい買ってしまった。一読して、この本の内容よりも、訳者の翻訳の方が書評で触れるに値すると確信したので、紹介したいと思う。 

 翻訳者は、長原豊氏と松本潤一郎氏。お二人について何も知らないが、どうやら現代思想の翻訳を主に手がけているようだ。両氏の翻訳の特筆に価する点は、その想像を絶する読み難さと、感動的に読めない語彙の豊富さである。ほんの幾つか、本翻訳の中から、読み難い語彙を紹介してみよう。

貫闡する。 賓術するもの。 無辜の生。 目癈ており。 賓術-属性的。 蠢きはじめる。 猖獗。 誣告。 懈怠。 解離-選言。 使嗾の帰結。    頡頏の歴史。 希望に凭れる。 阿ることなく。 瀰漫する。 逼塞。 只管。 公的印璽の外に。 闢まる。 知的韜晦。 剪除される。 転位の魁。 論攷。 突沸。 僥倖。 卻ける。 頽れる。 輯められた。 封躐。 輯摂。 劃定しよう。 慥かに。 

 みなさんは、幾つぐらい意味が分かっただろうか? 上記のような単語が満天の星空のようにページに散りばめられているのだ。私は決して教養のある方ではないが、いちおう新聞を辞書なしで読めるぐらいの漢字力はある。この翻訳者が対象にしている読者は、こういう単語がスラスラ読めるのだろうか? もしかしたら、執筆年が明治時代かもしれないと思い確認したら、2004年に初版が発行だった。

 単語の意味がわからなくても、文脈から全体の意味を推測しようと思ったが、文章も難解である。例えば、こんな文はどうだろう。

宛先の普遍性をその裡に襞として折り畳む愛だけが・・・」。

 おそらく原書が非常に難解な文章で構成されているのかもしれない。おそらく翻訳しようもないほど。そこで、訳者の解説を読むことにした。訳者自身の解説なら、意味の通じる日本語で書かれているはずだと期待した。しかし、期待に反して、「訳者のあとがき」は、翻訳以上に超絶的に難解だった。こんな文である。

「あまりの反時代に懼れをなし、撤退するも義! あまりの反時代に嗤い狂って、進むも義! あまりの反時代に脇に逸れ、嘯くも、あるいは斜に構えるも義! いずれにせよ、だが、弱きことを専らとするわれわれを、われわれが選び採れないこの世界(有ること)へ、愚行において強き者たれと命じて抛りだし、われわれに弱き者である己をふたたび冷酷にも知らしめながらも、しかし、それがゆえにわれわれを生ある限り断念と再起へ煽る出来事あるいは佳き知らせ(革命の通達!)にあっては、これら三つの、さらにはそれ以上の<義>は、すべて義! 心して読まれよ! 義あるいは全肯定を以て義とせよ!」
 こういう文章のオンパレードである。しかも漢字が難しい。

 内田樹氏によれば、難解に書く人には2種類あるそうだ。1つは難しいことを云うことが知的威信の一部と思っている人々である。この人たちの書くものは、己の博学を開陳するばかりで、「私は賢い」という以外に読者に向かって伝えたいメッセージはないそうだ。2種類目の書き手は、「あなたはそんな難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という問いに読者を誘導することを狙って難しく書いているそうだ。「書き手の欲望」を追う読書にシフトさせるためである。後者の書き手として、レビナスやラカンが挙げられると、内田氏は書いている。

 長原氏と松本氏は前者だろうか、後者だろうか? あるいは、内田氏の分類さえ超越しているのだろうか? しかし、『聖パウロ』は翻訳本なので、せめて翻訳だけはわかり易く書いて欲しかったが。おそらく1%も理解できなかった。しかし、なぜあえて読者が読めない漢字で翻訳したのだろうか。普通の当用漢字では、表現できないのだろうか? 実に不思議な一冊だった(お金を損した気もするけど・・)。

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