A Theological Experiment

役立つ書評

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狂気と犯罪


 今回の一冊は、『狂気と犯罪(芹沢一也 講談社新書)』。じつは副題が着いていて『なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』というものです。精神障害者を犯罪予備軍として差別し、再犯防止と称して社会から排除するようになった過程を、刑法の変遷にあわせて明らかにする野心作です。著者の狙いは、精神障害者に人間としての十全の権利と尊厳を取り戻すと共に、日本の法制度の差別の構造を示すというものです。

 そんな遠くない昔、文明開化の明治の直前まで、日本では公開処刑が当然のように行われていました。中国では今でも行われているそうですが。極悪人を死刑にするのも躊躇する『人道主義的』現代人からすれば驚きですが、私にとっての驚きは公開処刑をしていた日本人と『人道的日本人』のあいだに150年ほどしか間隔がないことです。この150年の間に何が起こったのかをまず、本書は解明しようとします。江戸時代には公開処刑など序の口。下手人という死刑は斬首、死罪は斬首の後、胴体を試し切りに給する刑、火あぶりは文字通り火あぶりの死刑。これにさらに引廻しと獄門という刑が加わります。引廻しは犯罪者を馬に乗せて晒し者にすること、獄門は斬首した首を台に載せて3日間晒すというんですから、人権団体アムネスティが見たら、泡を吹いて気絶することでしょう。江戸時代の日本人が野蛮だったというわけではないのです。俳句や短歌のレベルは、当時の方がずっと上だったわけで、文化的鋭敏・華麗さからいえば、現代の日本人の方が非文明人に近いでしょう。とはいえ、江戸時代の日本人は、首が晒されている台の横を散歩して寄席に行った、公開処刑を見た後、歌舞伎見物を楽しんだわけですから、現代の日本人とは何かが根本的にちがっていたわけです。それは何か?

 江戸時代と現代の刑罰における根本的な違いは何か。芹沢氏によれば、江戸時代には『犯罪者』がいなかったということです。江戸時代の裁判で問われたことは、「おまえはどのような罪を犯したのか」でした。関心が寄せられたのは、事実としての犯罪であり、刑罰は犯罪行為に対して科せられたというのです。では近代日本の裁判で問われることは何か。それは「このような犯罪を犯したおまえは、何者か」なのです。犯罪自身ではなく、犯罪を犯した人間に対する関心、これを「人格主義」というそうです(とんでもない人格主義ですね)。明治41年、現行刑法が施行されますが、時の司法大臣は「改正刑法の主眼とするところは、犯人の性格に鑑みて刑を量定するにあり」と言ったとされています。江戸時代は、犯人が「普段はおとなしい目立たない人だった」だろうが、反省して後悔していようが、犯された罪に対して刑罰が量定されていました。どんな人間なのかはどうでもいいのです。しかし現行刑法では、犯人の人格によって刑が量定されるわけですから、「犯罪者を理解せよ」が至上命令になります。犯罪者の家庭環境、精神状態、動機を確定しないと刑も決まらないわけです。最近アメリカ・カルフォルニア州で更生した元ギャングの死刑に対する反対運動が話題を集めましたが、大岡越前が見たら首を傾げたことでしょう。人格主義とは、犯罪者の個性に応じて刑罰を科す思想なのです。

 では人格主義は、どうして生まれたのか。芹沢氏によれば、刑法が犯罪者を矯正する意志を持ったとき、誕生したということです。日本の人格主義を確立した監獄学の権威・小河滋次郎は「犯罪者がいなければ、犯罪も生じない」と語ったといわれます。なるほど、そうか! 犯罪を犯す人間を矯正すれば犯罪が減る。つまり人格主義とは医学的発想であり、ここから刑事裁判に精神医学が侵入する余地が生まれたのだそうです。そしてここから、日本は世界最多の精神病入院患者を持つ国となり、精神保健福祉法、平成15年には心神喪失者等医療観察法などの精神障害者を監視する法律制定への道を突き進むわけです(芹沢氏によれば)。その辺の詳細に興味のある方は、本書をご一読下さい。

 最近、宮崎勤から始まって、宅間守、最近ではペルー人のカルロスなど、異常とされる殺人事件に国民の異常な関心が高まっています。1つ不思議に思うのは、強盗殺人や保険金殺人などは毎日のように起きているのにマスコミはたいして騒がず、たまにしか起きない所謂「異常犯罪」にこんなにも人々が関心を寄せるのはなぜかというものです。国民が関心を寄せる殺人事件の特徴は、動機が理解できないという点にあります。なぜ幼児を殺すのか、しかも身代金も要求しないし、ただ殺すだけ。なぜ恨みもない人間を無差別に殺すのか。「理解できない〜!」というわけです。さて、ここがポイントです。なぜ、国民は動機が理解できないのか。毎日のように発生する強盗殺人には驚かないけど、無差別殺人や幼児殺害を異常と感じる国民の判断基準、前提している人間観とは何か。

 答えはこうです。自分の利益と幸福が最大限確保できるよう計算高く行動する合理的人間観です。つまり損しない経済人です。こういう人間観を持つ国民が、強盗殺人に驚かないのは当然でしょう。犯人は経済的利益を求めて行動したのですから。お金が欲しくて人を殺す人間、利益欲しさに殺人する人間は、悪人ですが異常者ではないのです(方法の選択が反社会なだけで)。こういう人間観を持つ人々からすれば、犯罪者は方法が間違っているだけで、動機は普通なのです。だから動機自体には何の違和感も感じません。「お金が欲しかったんだね〜」。しかしこういう人間観を持つ人々からすれば、異様に思える犯罪者たちがいます。それは、何の利益も追求しない犯罪者です。殺したいから殺す犯罪者たちです。ただ損するだけの犯罪者。「なんで、何の利益もないのに人を殺すの? 損するだけじゃん」。

 でも、お金欲しさに人を殺せる犯罪者の方も、同じように(あるいはそれ以上に)理解できないと思いませんか。どうして金目当てに人が殺せるんでしょうか。「殺したいから殺した」とか、「気づいたら殺していた」の方が、よっぽど理解しやすいのですが(私だけかな?)。ところが、どういうわけか猟奇殺人や無差別殺人は精神鑑定にかけられますが、強盗殺人は精神鑑定にかけられません。不思議なのは、精神の正常と異常を区別する基準になる近代的人間観の「異常さ」に、多くの人が無自覚なことです。金銭的利益を追求しない犯罪は異常で、利益のある犯罪は「正常な犯罪」とされる社会、こういう社会の方が狂っているような・・・。まさにこれが、明治時代を境に登場した社会、江戸時代の日本人が知らなかった社会なのです。

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