A Theological Experiment

役立つ書評

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治療文化論

 著者の中井久夫氏は、旧制三高から京都大学医学部に進み、臨床で活躍するばかりでなく、数多くの優れた著作を世に出した精神科医。紹介するのは、『治療文化論 (岩波現代文庫)』。何といっても内容が専門的なので、精神医学の素人である私が内容を解説するには到底及ばないので、印象的だった箇所をだけをお伝えしましょう。

 何といっても興味深いのは、中井氏が精神の正常・異常を分類している箇所です。中井氏の面白いのは、異常者の分類ではなく、正常者を分類している点です。中井氏はそもそも、健常者が存在するのか疑っていますが、異常者とは精神病の印が可視的な人のことであり、健常者とは精神病の印が表面に現れていない人だという仮定で分類を始めます。

 さて健常者の分類ですが、まず@(仮に存在するとして)健常者。狭義の健常者とは、病気から程遠い人、余裕のある人です。次にA代償的擬似健常者。これは他者に依存したり、他者や社会を攻撃することによって精神衛生を維持している人。つまり、本来なら精神病理的要因を抱えているのに、それを他の方向に転化することによって発症を抑えている人です。中井氏が挙げているように、狂気が、依存や攻撃などの形で、しかも多少社会的許容の範囲で転化されている場合は、精神病院には送られませんが、他者の犠牲の上に正常が成り立っているわけで、周囲の人にとってはハナハダ迷惑な話です。個人的にこのタイプに加えたいのが、狂気を趣味や仕事や恋愛に転化して精神衛生を保つタイプの人たちです。私の想像では、このタイプの人たちは、バリバリやり手の仕事師ですが、周囲は強引な手口にヘキヘキしているとか、傷つけられたりとか、ストーカーになったりとか、極端なオタクになったりとか、あるいは天才になったりとか。切れ者のビジネスの成功者が、仕事を離れた私生活では「変人」だったりする場合、仕事中は狂気が「昇華」されていますが、仕事から離れると噴出したから変人に見えるだけで、その人は仕事中も私生活も本質的には等しく「異常」であるわけです。

 Bは、Aのタイプを更に極端にして、他者を狂気に追い込むことで自分を正常に保つタイプだそうです。猟奇殺人を行う犯人は、意外にも母親が自分を正常に保つために息子を狂気に追い込んだからというケースも考えられるわけです。世間は、犯人の狂気を非難しますが、実は母親の狂気を代わりに背負っただけだったとか。あるいは、社会全体が、自己を正気に保つために、誰かを狂気に追い込んでいるということも考えられます。

 Cは心身症者。精神の正常を保つために、狂気を身体に転換している場合です。このへんはフロイトのヒステリーの研究などでおなじみです。そうするとある人たちにとっては、精神が異常にならないために身体を病んでいるわけですから、親切で身体の異常を治療してしまうと狂気の行き場所がなくなり、もっと悲惨になってしまうことも考えられます。

 Dは、精神の病気になれないために健常者のように見えるタイプ。このタイプは、健康への能力によって健常者なのではなく、病気への無能力によって正常に見えているわけです。中井氏がシャーマニズムを論じるときに、「幻覚や妄想はもっと悪性の何ごとかを防いでいるかもしれない」と書いていますが、精神の病気になることで致命的破滅を逃れることもありえるので、病気への無能力は最終的に自己破壊に帰結するかもしれません。

 中井氏の分類を眺めてみると、AとBは、病気になりさえすれば他人を犠牲にしなくても済み、Dも致命的破滅を避けられるわけですから、多少精神病の印が可視的になることで善い面もあるわけです。私の教会に「神から啓示を受けた」という妄想(?)を口にし始めた女性がいるのですが、「幻覚や妄想はもっと悪性の何ごとかを防いでいるかもしれない」という中井氏の言葉は考えさせられます。こういう人を理性的に説得すれば、もっと悪性の何ごとかが噴出してくるかもしれないわけですから。周囲の人に迷惑をかけているわけでもないし、まぁ、いいかと思わせられました。
 中井氏の指摘でもう1つ面白いのは、「非医療的救済文化」を論じている箇所です。人が狂気の発症を抑える医療的な方法はあるのか。中井氏が挙げるのは、まず

@地理的救済

 引越しとか、移住とか、放浪とか、旅行とか。外国を放浪して神経症が治ったりするそうです。

A歴史的救済

 スポーツを始めるとか、趣味を始めるとか、仕事に打ち込むとか、勉強に打ち込むとか、今の自分をより高める努力をする方法です。「小人閑居して不善を為す」で、暇だと精神衛生は不健康なわけで、何かに打ち込むことで精神のバランスを取り戻すことができるわけです。とくに失恋の後とか効果的かも。

Bは宗教的救済

 これは改めて説明するまでもないでしょう。Cは非宗教的な愛他的方法。ボランティアなど人を助けることによって自分を癒す方法です。ボランティアによって、助けられる人よりも助ける人の方により癒しの効果が現れるのは、わたし自身も関西大震災で経験済みです。また心理カウンセラーや牧師などの精神的治療者は、もしかしたら内心の深い動機は自分が癒されるために、他者を癒しているのかもしれません。他者を癒すことによって、自分の狂気を抑える・・・。

Dは非宗教的な非愛他的方法

 インチキ宗教者やインチキ自己啓発セミナーなど。他者を破壊する自己救済です。Eは芸術による救済。ゴッホなどの天才は、絵を描くことによって正気を保った一例でしょう。Fは、犯罪・ルール違反による救済。思春期に万引きとか、飲酒とか、暴走族とかに浮かれることがありますが、これも精神衛生維持の手段にもなるわけです。

 しかし、こうして中井氏の分類を反省すると、そもそも私たちは本当に健常者なのかと疑ってしまいます。中井氏の定義によると、「健常者とは狂気の徴が表面に現れていない人」ですが、私たちはもしかして自分の狂気を、旅行とか、仕事とか、ボランティアとか、宗教とか、芸術とか、ルール違反などの方法で、表面に出るのを抑えているだけではないのか。もしかして自分の狂気を、他者に、自分の身体に、押し付けることによって健常を保っているのではないのか。あるいは病気になる能力がないから? ニーチェは、犯罪者とは、社会の病気が噴出する腫瘍みたいなものだといいましたが、犯罪者とは、社会の正気を維持するための狂気だったら。

 中井氏は今までの精神医学は、「おれは違うぞ・精神医学」だったと言います。中井氏が暗にそれに対置しているのが、「おれもひょっとしたら・精神医学」なんでしょう。狂気と正常の両義性・曖昧さを教えてくれる一冊です。

 すべての人間は人間であるかぎり潜在的狂人であって、狂気の発症を抑えているか、他人に転嫁しているか、癒している途中か、狂気のおかげで成功しているか、狂気が身体的病気に変換しているか、狂気が発症できないまま破滅に向かっているか、どちらかであるわけです。自分の潜在的狂気を完全に否定できる人は、それがまさに狂気の兆候であるといえます。神学的にいうならば、エデンの園からの追放、原罪、堕落という象徴は、人に宿る潜在的狂気であると解釈できます。善悪の木の実を食べた時に、アダムは潜在的狂気を宿したわけで、したがって「人間」になることができたわけです。なぜなら人間だけが、「正気」の存在であり、「正気」になれる人だけが狂うこともできるからです。狂気が不可能な人は、すでに「正常」でさえないのです。いや、人間でさえないのです。狂気の可能性とは、「人間の条件」でありながら、同時に私たちの原罪なのです。

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