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                       異常の構造




 今回ご紹介するのは『異常の構造 (講談社現代新書)』。著者は、精神科医の木村敏氏。書名は『異常の構造』ですが、木村氏は「異常の構造」を分析することで同時に「正常の構造」も明らかにしようとしています。まず木村氏が注目するのは、私たちの社会の異常な事態に対する「異常な」関心です。それが特に顕著に現れるのが、精神異常に対する関心でしょう。とくに常識を超えた犯罪に対する不安は、恐怖と同時に関心も掻き立てます。

 そもそも私たちは、何を持って正常と異常を区別するのか。木村氏によれば、一般的には「多数者正常の原則」によってである。指が片手に6本ある人は極めて少数派なので、「多数者正常の原則」によって異常と判断されます。身体的機能の領域ではこの原則が妥当しますが、精神的領域、とくに精神分裂病に関しては自明ではなく、さらに別の基準が必要とされます。精神分裂病を異常と感じさせるのは何か。木村氏はそれを「常識の自明性の欠落」であるとします。

 では、常識とは何か。木村氏は、「常識とは相互了解的に規範化された実践的感覚である」と定義します。24文字中15文字が漢字で構成されるこの定義を分かりやすく言えば、「人間が社会的生活を行おうとする時、お互いにいちいち考えなくても分かり合っているはずの暗黙の前提」という意味です。「おはよう!」と挨拶されたら、「こんばんは」と答えずに「おはよう」と答えるとか、銭湯に行ったら脱衣してお湯に入るとかのことです。木村氏が引用している実例によれば、ある分裂病患者は、危篤状態の自分の娘に棺おけをクリスマスプレゼントとして贈ったそうですが、「いちいち考えなくても分かり合っている暗黙の前提」が欠落しているのが見て取れるでしょう。

 木村氏の定義の中に、「相互了解的」と「実践的感覚」という語が含まれていますが、常識とは認識の領域における規範ではなく、対人関係における行動感覚の規範であることを示唆しています。自分の部屋でどんなに孤独に妄想に浸っても常識が欠落していることにはなりません。常識とは対人関係において幅広く共有された行動感覚のことであり、常識のない人間とは、行動感覚がズレている人だといえます。

 さて精神異常の中でも、最も強力な破壊力を常識に及ぼすのは、精神分裂病だといわれています。木村氏は、精神分裂病の病状を一言で言い表すとすれば、「常識の解体」以外にないだろうと書いています。木村氏は、精神分裂病者がいかに自分自身が常識を欠落していることに苦しんでいるかを具体的症例をいくつも挙げて教えてくれますが、それは割愛しましょう。ともかく精神分裂病者は、自分以外のみんなが当たり前に前提していることを「当たり前に感じることができない」ことに苦しんでいるのです。

 では、私たちが当たり前に感じる常識を支えている原理とは何か。木村氏によれば、@ 個物の個別性の原理。A 個物の同一性の原理。B 世界の単一性の原理がそれです。個物の個別性の原理とは、私は世界でただ一人であるはずであるという原理です。個物の同一性の原理とは、私は昨日も今日も明日も「同じ私」であるはずであるという原理です。世界の単一性の原理とは、私が存在する世界は単一なはずであるという原理です。私たちは普段自覚していませんが、日常的常識の世界はこの3つの原理に基づいて成り立っているのです。木村氏はこれらの3つの原理を1つの数式で表すならば、「1=1」になるといいます。言い換えれば、「私はこの世界で常に私である」ということです。この数式は、証明を必要としないという意味で、数学における公理に相当します。

 では、日常的常識のこの公理は、どこに合理的根拠を持つのか。もし「私はこの世界で常に私である」が合理的であるとすれば、「私はこの世界で常に私でない」は不合理だということになりますが、木村氏は「私はこの世界で常に私でない」が不合理であるのは、それが「私はこの世界で常に私である」の否定として考えられた場合のみであるといいます。しかしこの見方自体が合理的な見方であると木村氏は指摘します。

「もしもここで、合理と非合理とはなんら反対概念ではない、したがってその一方が他方の否定ではない、というようなそれ自体非合理な考えを持ち出したりするならば、「合理」の概念そのものが根本的に成立しなくなり、したがってまた、それの反対語としての「非合理」の概念も根底から崩れることになる」。

 少し分かりにくいので、ここでニーチェを参照してみましょう。ニーチェは論理学の「矛盾の原理」について、「反対の述語を帰すことはできないということが主張されているのか、反対の述語を帰すべきではないと主張されているのか」と問いましたが、ニーチェ流に私たちも、「非合理であることはできない」のか、「非合理であるべきではない」のかと問えば、物事の本質が明らかになります。「私はこの世界で常に私でない」ことは不可能なのか(だから「私はこの世界で常に私である」は真理なのか)、それとも「私はこの世界で常に私でない」ことは禁止されているのか。

 「私はこの世界で常に私である」という日常的常識の公理は、「私はこの世界で常に私である」という真理ではなく、「私はこの世界で常に私である」と考えるべきだという命令なのです。なぜなら、「私はこの世界で常に私でない」ことが可能なのですから。精神分裂病者の存在がそれを証明しています。精神分裂病者は、個物の個別性の原理、個物の同一性の原理、世界の単一性の原理が欠落していながら、でも存在しているのですから。

 では、なぜ「私はこの世界で常に私である」を無謬の合理性として信じるように命令されているのか。木村氏によれば、そうじゃないと生活が上手くいかないからです。ニーチェがいみじくも言った「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の誤謬である。生にとっての価値が結局は決定的である(権力への意志)」が木霊します。つまり「常識」を合理的として社会の基準とし、反対に分裂病者を「非合理」として排除しないと、私たちの社会生活が効率的に成立しないからだということです。しかし木村氏が主張するように、「この論理は私たちの生存への意志の論理であっても、生命そのものの論理ではないことに注意しなければならない」ことは重要です。つまり、常識的感覚は「合理的」だから合理的なのではなく、そうじゃないと社会生活は上手くいかないから「合理的」だということにしているだけなのです。そして精神分裂病者の存在は、日常的常識の無根拠性を想起させるからこそ、私たちは不安を感じ、彼らを排除するのだと木村氏は述べます。木村氏も指摘するように、中世までの社会はそれでも精神異常者に社会的位置を与えてきました(シャーマン、魔女、etc)。しかし近代社会は監禁し排除するする方向に進んできたことは、木村氏のみならずフーコーなどによっても指摘されてきた周知の事実です。

 木村氏は精神分裂病者が育った家庭環境が多くの場合、相互信頼と相互理解に欠けていることを指摘しています。そして「分裂病者は、家族の中でただ一人あたたかい人間的な共感能力を持ち合わせていたからこそ、分裂病に陥らなければならなかったのではないだろうか」とまでいいます。木村氏は、分裂病を病気とみなし治療しようとする発想は、私たちが常識的日常性を正当化する立場に立つときのみ可能となる発想だとします。しかし他方で、私たちが快適な生存を維持したいという意志を持っているため、この立場を捨てることができないということも認めます。分裂病者を治療しようとする努力は、生への執着という自分勝手な論理に基づいていることを意識しつつ行うほかはないと書いて、木村氏は筆を置きますが、この本を17年間親しくつきあってくれた分裂病患者たちへの罪滅ぼしと友情のしるしとして書いたということが(あとがき)、ここで読者にも伝わるかもしれません。

 さて日常的常識の合理性が、社会的生存の有用性に基づいていること、そこから不可避に非合理性の排除が生まれ、精神分裂病者を治療の対象とすることが帰結することを『異常の構造』を通してみてきました。ペンテコステ神学の視点から見れば、木村氏の洞察はいわゆる「悪霊論」に新しい光を与えてくれるでしょう。福音書によれば、イエス・キリストは悪霊憑依者を治癒する心霊治療者でもあったわけですが、それらの記録を実体的な悪い霊を退治したというふうにアニミズム的に理解するだけでは十分ではありません。『治療文化論』の書評で、狂気は万人に潜在すると書きましたが、狂気の可能性とは、文化の発生に根を持ちます。文化の体系とは、日常的合理性の体系です。そしてアメリカ人から見れば日本文化は不合理で、日本人から見ればアメリカ文化は不合理に思えるように、文化の合理性とは相対的なものであり、どちらか一方が絶対的に正しいといえる根拠がありません。この文化の相対性・無根拠性が、狂気の可能性でもあるわけです。しかし一方で文化なしに人類は存在できず、皮肉なことに文化を構築した瞬間、人類は潜在的狂人になったわけです。

 すると文化は人類の生存を可能にする条件であると共に、文化の体系から疎外される狂人の条件でもあることになります。文化の体系、つまり「常識の自明性」が共同生活を生むとすれば、常識の自明性の解体に苦しむ分裂病者は、実際には他者との交わりから排除されることに苦しむことになります。人間は、他の人格との共生によらない限り「人格」になることはできません(つまり文化の体系は、私たちが人格になる絶対的条件です)。他者との交わりから排除されている限り、生物としては人間であっても、人格としては人間になることができないのです。福音書が描く悪霊憑依者とは、交わりから排除され人格になることができないことに苦しむ人たちです。たんに幻想や妄想に苦しんでいるのではなく、他者から理解されず、交わりの自明性の解体に苦悩する人たちなのです。憑依者の心霊現象は、交わりの解体の「しるし」に過ぎません。交わりの解体の「しるし」は、人格の解体の「しるし」です。そしてこの解体には、心因的な原因だけではなく、文化の体系と生存への意志という人間社会の根幹に関わる要素が複雑に関係していているので、キリストの憑依者の治癒とは、文化・人間社会・人格における「原理的治癒」を象徴しているのです。キリストが悪霊に対する勝利を、神の国の到来との関係の中で宣言されたのは、こういう理由によるのです。福音書によれば、キリストによって癒された悪霊憑依者たちは解体の呪縛から自由になり、共同体に帰っていきました。他者と交わりが持てる主体として、つまり人格として。

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