A Theological Experiment

苦しみの意味

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苦しみの神化


 さて今回はいよいよ、ヨブが示した答えの方向について論じてみたいと思います。まず、ユングの名著『ヨブへの答え』に少し帰ってみるのが有益でしょう。ユングはこの著書で、聖書学者も神学者も誰も示したことがないある大胆な解釈をやってのけます。ユング自身は牧師の子でしたが、いわゆる教会人でなかったからこそ、こういう解釈が可能だったわけですが、どの注解書に引用されることもなく、聖書神学においては全く無視されています。しかし、その「ある解釈」は、私見では間違いなく第一級の知見だと思っています。

 では、ユングの大胆な解釈とは? それはこうです。「ヨブにおいて、神よりも人間の方が成熟してしまった」。誤解を招きそうなこの言葉、説明が必要です。ユングがこんな主張をしたから、神学界では全く無視されてしまったのですが、注意しなければいけないことは、『神』という用語を『実在としての神』という意味で理解しないことです。ユングがいう神とは、人間が持つ『神についての観念』のことです。これから私が書くことも、実在としての神についてではなく、『神観念』という意味でご理解下さい。

 では、「ヨブにおいて、神よりも人間の方が成熟してしまった」とは、どういう意味か。端的にいうなら、苦しむ人間は、苦しみを知らない神より、一歩高いところにいるということです。例を挙げてわかりやすく説明しましょう。幼児にとって親とは、自分の知らないことを知っている全知全能の存在です。しかし成長するにつれ、親が全能でないこと、そんなに自分と違わないことに気づきます。子どもが、親は全能ではないと見破る瞬間とは、親が型どおりの表面的な応答によって、子どもの内面に届かない時です。あるいは、親が子どものことを分かっていると思い込んでいることに子どもが気づいた時です。

 私の父が子どもの頃、大好きな先生が解雇されるという噂を耳にしました。父は、早朝、石灰で「首切り反対!」という文字を小学校のグラウンド一杯に書こうとしたのですが、「首切り」と書いた時点で石灰がなくなってしまいました。登校が始まると大問題になり、父は呼び出されて大好きな先生から大目玉を食らいました。説明しようとしたのですが、先生は「弁解無用」といって耳を貸そうとしなかったそうです。父は諦めて2度と先生に事情を説明しようとしませんでした。こういう経験は、子どもなら親(大人)との間で1度は経験するものですが、まさにそういう瞬間、子どもは親と並んでしまうのです。親は、子どもを理解していると思い込み自分の優位を疑わない。しかし、子どもは親が知らないことを1つ余分に知っている自分を意識して、親の全知を疑うに至るのです。親が知らずに、子どもだけが知っていることとは何か。それは「親は子どもを理解していない」ということを、子どもは知っているということ。

 子どもは成長のある段階で、親(大人)に説明を諦める瞬間があります。私の父のように。「説明してもどうせダメだ・・・」。ここに内面性が誕生します。親でさえ、浸透できない内面性が子どもに生まれた時、経済的・法的・身体的には大人より劣りますが、精神的には親に並んでしまうのです。

 ヨブに話を戻しましょう。嵐の中から神が現れました。創造主としての神は、圧倒的優位な立場から全能の力を誇示します。ヨブは負けを認めました。しかし、ヨブが負けを認めたその瞬間、奇妙な逆転が起こったのです。押し黙った少年時代の父が、先生に対して、「ぼくが悪かったです・・・」と誤りを認めた時のように・・・。神はヨブが負けを認めたことに心をよくして、2倍の祝福を与えました。先生が、素直に謝った父に対して、教師の権威によって赦しを与えたように。ここでヨブは、神より1つ多くのことを知っている自分を意識しました。ヨブ劇の観客も同様に気づいたことでしょう。ヨブは、神が自分の苦しみを理解していないことを知っている。しかし神は、自分がヨブの苦しみを理解していないことを知らない・・・。

 苦しむ人間は、常に他の人たちより一歩分、高い位置に立ちます。なぜなら、自分の苦しみを誰も理解していないことを意識しているからです。ある人が、「幸せはどれも同じようなものだが、苦しみは個性的だ」と言いましたが、人間が「個人」になる瞬間とは、苦しむときです。苦しみだけが、人を本当の個人にします。その人の苦しみは、その人以外の誰も理解できないからです(少なくとも本人程度には)。親も、妻も、夫も、友人も。

 ヨブの意識は神より高い位置に立ってしまったと書きました。これは何度もいうように、実在としての神ではありません。古代社会の神観念より、ヨブは高い位置に立ったという意味です。苦しみの問題をとことん問い詰めたヨブ記の著者は、伝統的な神観念を超える自意識にまで達してしまったのです。どんなに全能であっても、どんなに宇宙の法則を支配していても、どんなに聖なる法を発布しても、全能の神は全能であるがゆえに苦しむことがなく、苦しみを知らないゆえに、苦しむ単独者(人間)の高さに達することができないという意識です。他の点では、神の前に虫けらに等しい人間が、苦しみという一点においてだけは、神より成熟してしまったのです。苦しむ人間は、苦しまない神より高い意識を持つに至る。これがヨブの成熟です。

 ここに到達したということが、ヨブ記の前代未聞の偉大さです。イスラム教であれユダヤ教であれ、すべての宗教の神観は、ヨブ記のラディカルな批判に堪えることができないかぎり、その究極性を剥奪されてしまいます(この神は、私の苦しみをどれだけ理解しているか?)。ヨブ劇の幕が閉じた後、ヨブの自意識を超える神、神観が啓示されないかぎり、人間がその苦しみにおいて、大地の主になってしまうのです。神々が自由自在に苦しみを人類に配分しようとも、人間は苦しむという一点において、神をも凌いでしまうのです(逆にいえば、苦しむことができるという点において、人類は地上最高の被造物ともいえます)。新しい啓示が危急になりました。

 ヨブが示した苦しみの答えの方向とは何か。それは「苦しむ神」です。苦しむヨブの高き自意識を超える神とは、ご自身義人ヨブの苦しみを超える苦悩に参与し、苦しみを神化する神です。ご自身の苦しみにおいて苦しみを神化する神・・・。

 ヘレニズム時代、この方向性を予型的に先取りした諸宗教が起こり、ローマ帝国において普及しました。密儀宗教です。古代の密儀宗教は、密儀によって神の苦しみに参与し、神と共に死に、神と共に復活することを目指しました。しかし、儀式者が同一化する苦しむ神は、あくまで神話的神であり、時間と空間の中で現実に肉体において苦悩した神ではなかったのです。いわば密儀によって象徴された神でした。

 しかし、ヨブがその方向性を示した啓示が、紀元一世紀のパレスチナにおいて現実となりました。神ご自身によって「神の子」と証言された人物が、十字架の上で苦しみ、非業と絶望の死を遂げたのです。ナザレのイエスと呼ばれたこの人物の弟子たちは、この出来事を「苦しみの答え」として受け取ったのです。ヨブは「義人である私のこの苦しみはなぜ?」と問いました。苦しみの答えは、「説明」としては啓示されませんでした。苦しみの答えは、歴史的出来事として啓示されたのです。神のロゴスが、「肉となって、私たちの間に宿られた(ヨハネ1:14)。つまり神のロゴスが、イエスという歴史的人格において苦しみをご自身に背負い、絶望と苦痛の窮みの中で死なれたというのです。

 もし苦しむヨブが十字架のかたわらにいたならば、「義人である私の苦しみの意味は何?」と問うことを忘れたでしょう。十字架のキリストを見上げながら、むしろ「神の子よ、あなたの苦しみの意味は何?」と問うたはずです。苦しみの意味の啓示は、問いと答えを逆転させました。「私の苦しみの意味は何?」から、「神の子よ、あなたの苦しみの意味は何?」へと。答えを受け取るはずの苦悩者が、今度は問う人に変わるのです。苦しむヨブは「わたしは神を見るだろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る(19:27)」と叫びましたが、まさに苦しむ者は、神を何とイエスという歴史的人格において十字架の上に見てしまうのです。

 もはや「なぜ苦しみが存在するのか?」という問いは無意味になりました。「万物は御子によって造られた」、「すべてのものは御子によって支えられています」、つまり生の根拠であるロゴスが、歴史的人格になる時、その生涯が十字架の苦しみだったのですから。しかし生の根拠は、苦しみそのものではありません(仏教はそう考えますが)。キリストにおいて啓示された真理は、「生の根拠は苦しみを聖化する(神化する)」です。どうやっても有意義な理屈を見出せない「無意味な苦しみ」は、これからも存在するでしょう。しかし、生の根拠キリストが十字架の上で苦しまれ、復活されたからには、神化されない苦しみは存在しません。キリストにおいて、すべての無意味な苦しみは聖められ、神の永遠のうちに留められます。時が来ると、それらは栄化されるでしょう。復活の観点から言えば、苦しみは廃棄されるのではなく、神化されるのです。パウロがいう「キリストの苦しみにあずかる(ピリピ3:10)」とは、自分をキリストに参与させることによって、キリストの苦しみの神化の力にあずかるとも解釈できるでしょう。「すべての苦しみは、キリストにおいて聖められ神化された」。「すべての苦しみはキリストにあずかるならば、聖められ神化されるだろう」。無意味な苦しみが、無意味なままで克服されるとすれば、神化をおいて他にないでしょう。とはいえ、こういう言い方は、十字架の啓示を、たんなる十字架の神学にしてしまうので、やめておきましょうか。。

 むしろ、私たちはヨブと共に、「生の根拠であるキリストよ、あなたの苦しみの意味は何ですか?」と問うことに留まったほうが良いでしょう。苦しむ人は単独者ですから、キリストから単独者として答えを得るべきではないでしょうか。

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