A Theological Experiment

ビックリ原罪論

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他者認識


 アメリカの精神分析家コフートは、自己の定義について、精神分析家から見える相手の心の世界全体を相手の自己と考えるとしたが、私たちは相手の心を共感によって観察して相手を知るのではない。私たちは、相手に対する自己の反応を解釈して相手を知るのである。つまり私たちは他者を直接観察して相手を知るのでなく、相手に対する自己の反応を解釈して相手を知るのである。したがって他者認識とは、自己認識の投影である。他者との関係においてなんの自己反応も見出さない者に、他者認識は不可能であろう。他者との関係において何の自己反応も見出さない者にとって、他者は物理的には実在しても心理的には不在であろう。いや、主観的には物理的な意味においてすら不在であろう。

 岸田秀氏は個人の自我は、他者によって「これがあなたである」と規定されたものが自我の最初の核になるといっているが、わたしたちは他者からの自己規定を直接的に受容したりはしない。私たちは、他者が押しつける規定に対する自己の反応を解釈することを通して他者の規定を規定するのである。たとえば、母親が「あなたは悪い子だ」と息子を叱ったとして、息子は直接それを自己の規定として内在化するのではなく、その言葉に対する自己の反応を解釈して、それを自己として受け取るのである。したがって、息子が自己の反応を解釈して「母親はほめているのだ」と解釈すれば、母親は自分をほめていると理解するだろう。もし息子が、自己の反応を母親の規定に対する否認として解釈するなら、「母親はまちがっており、したがって誤解しているか、悪意を持っている」と認識するのである。

 したがって、母親としては何の規定の押しつけをしていないときでさえ、息子は彼女のある行動に反応した自己の状態を解釈して、母親に一定の評価を下すことはありえる。わたしは反応と言ったが、これは刺激に対する反応という意味での受動的なものではなく、何ら刺激がない場合でさえ、起こりえる意味を創造し、それを同化しようとする生命の営みである。これは生命の定義そのものでもある。生命とは、刺激というインプットがなければ死んだような状態にある機械ではなく、刺激(意味)を自ら創造して反応する能動的存在である。たとえば(自己しかいない実験容器を想像してみよう)、外的刺激がなければ、それを「自己が抵抗する障害がない勝ち誇った状態(刺激)」と解釈して、自己拡大という反応に、つまり「他者(客観的には存在しないが)は自分を恐れている」と「認識」することも十分ありえることなのである。

 これは唯我論ではない。他者は存在するが、他者は「自己を解釈する」ことを通してのみ間接的に到達できるである。他者を通して自己を解釈するのではない。自己を通して他者を解釈し、そのように解釈された他者と自己との関係を通して自己を再解釈するのである。このような論理が成立するためには、他者と、自己と、自己を解釈する自己の3者が区別されなければならない。発達論的にいえば、胎児は自己と他者が未分化の状態である。この段階においては、自己もなく他者もない。分娩と共に自己と他者の区別が徐々に意識される。しかし初期の段階においては、他者は非自己として、つまり無として知覚される。しかし、この無が恐怖をひきおこす。正確に言えば、無が恐怖を引き起こすのではく、無は恐怖そのものである。無とは、自己の欲求が、自己の欲求に反して満たされない状態である。自己の欲求が自己の欲求に反して満たされない状態が始原的他者である。したがって、始原における他者とは、満たされない自己である(自己とは欠乏を感じない状態そのものである。ここにおいて自己とは自己肯定といえる)。

 乳児は、満たされない自己を満たしてくれる存在、つまり乳を与える母親を多少の違和感を持って自己と同一視する。なぜなら欠乏を感じない状態にするものとして自己の一部であるが、満たされない状態を通してだけ外的に与えられるからである。この段階においては、自己を解釈する自己は、まだ出現していない。もし精神分裂病を、自己を解釈する自己がない状態とするならば、乳児はみんな精神分裂病である。精神分裂病的状態においては抑圧が存在しない。つまり乳児には抑圧はない。抑圧される自己と、抑圧する自己の分裂がないからであり、そうすると精神分裂病者とは、その名に反して分裂していない者である。いわゆる社会においては、分裂している者が正常者であり、分裂していない者が異常者とされるのである。すべての抑圧は、解釈される自己と、解釈する自己に両極化(差異化)されることに起因する。解釈される自己と、解釈する自己が未分化の状態を精神分裂病とするならば、抑圧こそが社会の条件であり、岸田の言うように、抑圧と共に時間が始まったといえるのである(社会とは歴史の共有なくしてなんであろう。つまり抑圧の共有)。上述したように、他者は自己を解釈することを通してのみ間接的にのみ到達できるのだから、「解釈される自己」と「解釈する自己」が未分化な者には、他者は存在しない。すると人間のコミュニケーションには、自己の分化が不可欠なのである(自己を分裂させることによってのみ、他者と交われる皮肉)。

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