A Theological Experiment

ビックリ原罪論

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超越的堕落


4. 超越的堕落の神話

 前回は、ティリッヒの原罪論における本質から実存への移行の可能性について紹介した。今回は、まず本質から実存への移行の契機について述べてみたい。人間の本質は、人間の潜在的可能性であって、現実の段階ではない。本質とは、実存として現実化する以前の潜在性である。しかし同時に、潜在性は、それが現実化した実存の状態にも歪曲された状態で現存している。神話の中では、人間の本質は、歴史以前の歴史として過去に投影されている。それは、楽園として、あるいは黄金時代として投影されている。

夢見る無垢

 ティリッヒは、本質を心理学的に、「夢見る無垢」という用語で表現している。夢見る無垢の状態は、潜在性の状態であり、現実性の状態ではない。夢見る無垢の状態は、時間の中にも空間の中にも存在しない。それはたんなる潜在性である。夢見る状態は、現実ではないが、しかし潜在性としては現実的な状態である。夢見る状態は、覚醒という現実状態ではないが、しかし全くの無の状態でもない。夢は現実ではないが、現実的要素に欠けている状態でもない。たしかに目覚めた瞬間、夢は消え去り、現実に戻る。しかし、夢は現実を予期している。

 「無垢」という用語も、現実化していない潜在性という含蓄がある。無垢の状態には、@実際の経験が欠けている。A個人的責任が欠けている。B罪責が欠けている。無垢の状態を、幼少時代との類比で理解することもできる。私たちは、幼年時代を無垢の時代として回想する。「箱入り娘」が無垢なのは、現実の「汚れた」社会の経験から隔離された無菌室で守られていたからである。同様に、幼年期も大人社会の「汚れる経験」から守られていたから無垢なのだ。そして、幼年期は行為の責任を、道徳的にも法的にも要求されない。さらに心理的にも罪責感を持たない。

 しかし、人間がいつまでも無垢な幼少期に永遠に留まることができないように、私たちは、いつまでも夢見る無垢な状態に留まることはできない。「いつまでも子どものままでいたい」とは、誰しも1回は感じることだが、そうはいかない。潜在性は、現実化に向かおうとする。潜在性から現実性に飛躍する経験は、誘惑として経験される。ティリッヒは、堕落前のアダムに完全性を帰すことを拒否する。堕落前のアダムとは、夢見る無垢の状態であり、たんなる潜在性の状態だからだ。潜在性は、完全性ではない。完全に実現した潜在性だけが完全である。この意味で、神は完全である。なぜなら、神は潜在性と現実性を超えているからだ。神の潜在性は、神の現実性であり、神の現実性は、神の潜在性である。

目覚めた自由

 では、何がアダムを潜在性の状態から、現実性の状態へと駆り立てたのだろうか? ここでティリッヒは、キルケゴールの「不安の概念」を参照する。人間は、他のすべての生物同様、有限的存在である。しかし、人間は、自己の有限性を意識している。この有限性に対する自意識が不安である。もちろんすべての生物は有限なので、不安に駆り立てられる。なぜなら、有限性と不安は同じことだからだ。しかし、人間の場合、自由は不安と一体化している。人間は、自由による自己の可能性を意識している。しかし、同時に自己の有限性も意識している。そこで彼は、自由を意識した瞬間、不安も意識する。人間の自由は、不安の中の自由である。この不安の中の自由が、人間をして本質から実存への移行に駆り立てると、ティリッヒは考える。

 創世記2章で、アダムとエバは、「善悪の木の実からとって食べてはならない」という禁止を受ける。すべての禁止は、その禁止の命令が未だ現実には遵守されていないことを前提としている。あるいは、全ての禁止は、その禁止の必要性が暗黙に前提されている。つまり、禁止が犯される可能性の全くない場合は、禁止自体が存在しない。「5本足で歩行してはいけない」という禁止は、人間には命じられない。なぜなら、5本足で歩行することは、そもそも不可能だからだ。創世記で、神が禁止の命令を発したことは重要である。なぜなら、禁止が命じられるということは、禁止がすでには犯されてはいないが、犯される可能性が現実的であるという状況を前提としているからだ。したがって、創造されたアダムと神の間には、禁止の侵犯はないが、その現実的可能性が存在していたことになる。アダムとエバは、禁止の命令が発せられた時、まだ罪は犯していないが、しかしもはや無垢でもない状態にあったのだ。

 ティリッヒによれば、神が与えた禁止とは、アダムとエバが、すでに夢見る無垢の状態から覚醒したが、かといって罪を犯してもいない状態を象徴しているのである。ティリッヒは、この中間状態を「目覚めた自由」の状態と定義する。目覚めた自由の状態は、罪を犯していないが、罪への欲求の状態である。夢見る無垢の状態においては、自由と運命は調和の中にある。しかし、自由は潜在性の状態であり、現実性の状態ではない。自由は本質的潜在性の状態に留まっている。しかし、人間が自己の自由を意識した時に、二重の緊張が発生する。一方で人間は、自己の可能性を意識して、自由の現実化へと駆り立てられる。しかし他方で、夢見る無垢の状態を保存する反動に捕らえられる。この状態が、「目覚めた自由」、つまり「不安の中の自由」である。

 人間は、自己の潜在性を実現せずに夢見る無垢の状態に留まることによって自己を失う不安と、自己の潜在性を実現して自己を失う不安の緊張に捉えられる。無垢な状態か、それとも「目が開け、知識を獲得する」状態か、人間は不安の中で決断を迫られる。これが創世記の蛇の誘惑が象徴する状況である。人間は、自由の実現化に向けて決断する。そして無垢を失うのである。つまり、人間は本質的潜在性から実存的現実性に移行するのである。

5. 原事実としての堕落

 ティリッヒによれば、本質から実存への移行は「原事実」である。原事実は、歴史上の最初の事実ではない。あるいは、ある事実と並ぶ他の事実でもない。原事実とは、全ての事実に妥当する普遍的事実のことである。例えば、世界は存在する。これは原事実である。世界が存在する事実は、私たちにとって原事実である。世界の存在は、まさにそこにあるものとして、そこにあるのである。世界の存在は、私たちに「与えられている」。同様に、本質から実存への移行は、原事実である。本質から実存への移行は、ある時は発生し、ある時は発生しないという性質のものではない。それは、私たちに「与えられている」事実なのである。本質から実存への移行は、昔々ある時、ある場所で起こった歴史的出来事ではない。原事実として、あらゆる時代・場所に普遍的に妥当する。

 創世記3章が、堕落を時間と空間の中の出来事として描写しているのは、当然である。なぜなら、創世記3章が提供する深遠な真理は、神話的描写によらなければ伝達不可能だからだ。全ての偉大な宗教的真理は、完全には「非神話化」することが不可能である。およそ、神と人間に関するすべての真理は、神話的にしか表現できない。なぜなら、神について語ることは、日常の言語のレベルを必然的に超越するからである。

6.創造と堕落

 さてティリッヒは、本質から実存への移行は、原事実であるとしている。すると創造論の観点から、創造と堕落は同じ出来事ではないかという問いが出てくる。なぜなら、堕落が原事実として時代を超えて普遍的に妥当する状態であるとすれば、創造された世界と堕落した世界は同じであるという論理的帰結に到達するからである。この問いに対するティリッヒの答えは、Yes! 創造された世界と堕落した世界は、同じ世界である。このティリッヒの答えが、ニーバーなどの批判を招くのだが、もし創世記3章を、堕落が「昔々あるところで・・・」起こった出来事だと解釈しないなら、論理的にはティリッヒの主張が正しい。ティリッヒの主張を否定する権利を持つのは、創世記3章の字義的解釈、つまり楽園追放は、人類の起源にメソポタミア地方のある場所で1回限り起こった歴史的出来事であるとする根本主義的解釈のみである。

 しかし注意したいのは、ティリッヒが、神は堕落した人間を創造したとは主張していない点である。神は本質においては、罪なき人間を創造された。つまり、その潜在性においては、「良き人間(無垢)」を創造された。しかし、無垢な人間が、自由を行使した瞬間、つまり潜在性を実現した瞬間、人間はその本質から疎外する。本質的潜在性からの疎外は、構造的必然性ではないと、ティリッヒは主張している。本質から実存への移行は、飛躍であり、原事実である。この飛躍が運命的に起きる可能性は、人間が有限的存在であり、かつ自己の有限的自由を不安の中で実現するからである。堕落は、人間の自由において起きる。潜在性は、時間と空間の中には存在しない。私たちの現実の世界は、実存の世界、つまり潜在性が歪曲して現実化した世界である。この普遍的歪曲化を、罪と呼ぶのである。

 以上が、かなり大雑把だが、ティリッヒの原罪論である。みなさんが同意するかしないかは別として、本質から実存への移行としての原罪論は、人間存在が含む普遍的否定性の説明としては、世俗的思想の諸理論より格段に深いように思われる。実際、ティリッヒの理論を応用して、多くの世俗的人間論を批判することが可能なのだ。原罪論は、私の最も好きな主題でもあるので、これからも少しずつ書き足していきたい。

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