A Theological Experiment

ビックリ原罪論

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Justitia Originalis


1. 生い立ち

 ラインホールド・ニーバーは、パウル・ティリッヒと共に20世紀アメリカを代表する神学者の1人である。ニーバーは1892年、ミズーリ州でドイツ移民の家庭に生まれた。父はドイツ福音会議の牧師。母は宣教師の娘。宗教的家庭に育ったニーバーは、自身も牧師になることを決意して、ドイツ福音会議の牧師養成機関・イーデン神学校を卒業。卒業してすぐ、牧師として任命される。それからニーバーは、イェール神学校でB.D、イェール大学でM.Aの学位を取得する。

 1915年から1928年まで、自動車の街デトロイトの教会で牧師として奉仕。そこで彼は、資本主義の搾取と自動車工場での非人間的労働を目の当たりにして、キリスト教社会主義者になる。彼は牧師として労働者たちの側に立ち、講壇から火を噴くような説教、熱心な活動家として労働条件の改善と資本主義への鋭い批判を行う。1928年ユニオン神学校に招かれ、1960年までキリスト教倫理学の教授として教壇に立った。彼の名声は瞬く間に広がり、アメリカを代表する神学者としての不動の地位を確立した。イェール大学、ハーバード大学、オクスフォード大学という超名門大学から名誉博士号を贈られる。

 1939年、神学者として最高の名誉の1つであるギフォード講演の講演者に選ばれる。その講演が、後に出版された。それが彼の代表作の1つである『人間の本質と運命(全2巻)』である。この著作の第1巻において、ニーバーは原罪の教義を取り扱っている。ニーバーの原罪解釈は、キルケゴールの原罪解釈に強く影響されてる。そしてニーバーの解釈が、後にティリッヒの原罪解釈に深い影響を与えることになる。

2. 原罪

 さてニーバーは、創世記3章の字義的解釈を拒否する。「昔、昔、エデンの園という場所にアダムとエバが住んでいました。アダムとエバは禁じられた木の実を食べました。それ以来、人類はみんな罪を犯すようになりました」という字義的原罪解釈は、罪の逆説を説明できないである。アダムが罪を犯したから、人類は罪を犯すのではなく、アダムが罪を犯したように、人類は罪を犯すのである。したがって、ニーバーによれば、創世記3章のアダムは原罪の発祥者ではなく、原罪の代表者なのである。創世記3章は昔話ではなく、現在の人間の普遍的状況を解明する物語なのだ。アダムの原罪は、今ここで私たちに普遍的に繰り返される人間状況なのである。ニーバーは創世記3章を否定しているのではない。伝統的解釈とは異なった解釈をしているのである。

 ニーバーはキルケゴールの定式を採用する。つまり、罪は不安に誘われて発生する。しかし、不安だけでは罪には至らない。罪は、罪に不安が加わると発生する。公式にするとこうだ。罪=不安+罪。これがキルケゴールの云う「罪は罪を前提とする」である。不安は罪への誘惑である。しかし、不安は必然的に罪に至るわけではない。原罪は、不安に罪が加わって発生する質的飛躍である。この定式は、論理的には理解不能である。しかし罪を前提としない限り、どう考えても罪には至らないのだ。これが原罪の謎であり、ニーバーによれば「原罪とは弁証法的真理」なのだそうだ。

 罪への誘惑は避けられない運命である。なぜなら、罪への誘惑は人間状況そのものの中にあるからだ。人間存在は、不安なしにはありえない。不安は罪へと誘う。これが罪の誘惑の不可避性である。なぜ人間は、不安なしには生きられないのか。それは、人間が自然的欲求の必要性と共に生きながら、同時に精神であるからだ。この場合の精神とは、カントの云う理性に等しい。人間は食欲を持つ。しかし同時に、予測能力と自然的欲求を超える自由を持つ。この両義性が、人間に不安を生む。ここに1個のパンがある。これを食べれば、当座の空腹感は消える。しかし、人間の予測能力は、明日を憂慮して10個のパンが欲しくなる。人間には自由があるので、目の前のパンを隠して、パンが無い振りをして、他人からパンをもう1個請うこともできる。自由と理性によって、さまざまな可能性が人間には浮かぶ。この可能性が不安を生む。キルケゴールが言うように、不安とは自由の眩暈なのだ。

 人間は不安を量的増加によって乗り越えようとする。自己の有限性を無限性に変えようとする。弱さを量的強さに変えようとする。依存を量的独立に変えようとする。これが罪である。しかし人間には、質的発展によって不安を克服することもできる。質的可能性とは、信仰であり、神への信頼であり、神への従順である。したがって、不安そのものは、罪ではない。不安から量的逃避によって罪に至ることもあれば、質的発展によって神への信頼に至ることもできるのだから。

 人間は不安を感じると、自己の有限性を量的発展によって克服しようとする。ここに罪の根源である信仰と信頼の欠如が見られる。自由の不安は、不信によって罪になるのである。不信によって罪に転落した自己は、真の自己にはなれない。なぜなら、不信は必然的に過剰な自己愛、過剰なプライドに行き着くからである。過剰な自己愛と過剰なプライドによる自己は、偶然的自己、部分的自己である。

 彼は自己の有限性を意識して不安になる。しかし、神に対する不信から不安は罪に変わる。彼は自己の有限性から目を逸らす(不正直)。彼は自己の有限性を隠す(高慢)。彼は、自己の罪を責任転嫁する。エバは蛇(不安)に誘惑されて、禁断の木の実によって有限性を克服できると思う(決して死ぬことは無い・不正直)。神のようになれると感じる(高慢)。アダムとエバは互いに罪を押し付ける(責任転嫁)。これがニーバーの云う原罪である。

 他方、全く異なる可能性もあった。人間は自己の有限性を意識して不安になる。しかし、彼は神に信頼する。彼は、自己の正しい限界を承認する。彼は、自己の有限性を、神の無限性への信仰に変える。自己の個的意志を、神の普遍的意志に従える。ここで完全な自己実現に至る。したがって、ニーバーによれば、罪=不安+不信となる。罪は不信という罪を前提とするのである。したがって原罪とは、不信仰者の普遍的状況であり、信仰によって救済されていない人は、不可避的に罪を犯すのである。人類は罪人として創造されたのではない。しかし、人類は信仰を持たずに生まれてくるので、有限性の不安が罪に誘い、不信仰によって不可避的に罪を犯すのである。不信とは、生得的な自然状態ではなく、自由による罪なので、人類は罪責を負うことになる。

3. Justitia Originalis

 それでは、伝統的神学がアダムに帰していた堕落前の完全性、原義はどう説明すればよいのか。ある種の神学は、人類はすでに全的に堕落したと考えている。ニーバーはこの考えを否定する。もし人類が完全に堕落したならば、誰も罪の惨めさを嘆かないだろう。これは人間経験に反する。人間が、現状の姿とあるべき姿の対立を意識している限り、全的には堕落していない。盲目であっても目は目である。健康な部分があるときだけ、病気もまた可能なのだ。病人において健康の場所が、生きていること、痛みを感じることができることに場所を持つように。したがって、人間の完全性を(原義・Justitia Originalis)、ある特定の歴史的地点に求めてきた伝統的神学は誤っていたことになる。すると原義は人類の始祖において失われたのではなく、現代の私たちにも普遍的に存在することになる(しかし普遍的に失うが)。それでは、原義はどこにあるのだろうか。

 ニーバーによれば、原義とは超越的自己のことである。柄谷行人的に云えば、「自己の外部に立ち疑う私」であり、心理的自己をカッコに入れて反省する視点のことである。人間だけが、超越的視点を持つ。「超越的自己を持つ」とは、ほとんど人間の定義と言っても良い。人間は常に2つの視点を持つ。目の前のケーキを見ている自分。そして、目の前のケーキとそれを見ている自分を同時に眺める自分である。つまり世界を見る自分と、世界と自分を両方見ている自分である。ケーキに目が釘付けになり「食べたい」と思っている自分。そういう自分を見ながら、「ダイエットはどうなるんだろう」と冷静に観察する自分。後者が超越的自己である。つまり直前の自己を対象化している自分(超越的自己)から原義が生まれると、ニーバーは考える。

 フロイト派の思想家・岸田秀氏が、『自己嫌悪の効用』という小論を書いている。岸田氏はしばしば激しい自己嫌悪を悩むそうだが、何のための自己嫌悪かという問題を考えることで、かろうじて自己嫌悪に耐えてきたそうだ。岸田氏によると、自己嫌悪という以上、「自分を嫌悪する自分」と、「自分に嫌悪される自分」が存在することになる。嫌悪されるのは、現実に自分が行った行為である。それらの行為を考察してみると、常に自分の何らかの欲求を満足させたか、満足させる可能性のあった行為であることがわかると、岸田氏は云う。すなわち、それらの欲求は、現実の行為を引き起こす力のある現実的欲求である。つまり、「嫌悪される自分」とは、まがうことなき現実の自分である。

 それに対して、「嫌悪する自分」には、どこを探しても現実的基盤が見つからないと、岸田氏は見る。「嫌悪する自分」とは、「架空の自分」であり、したがって現実の自分に対して影響力を持ちえないのである。そういうわけで、岸田氏は、自己嫌悪とは、「架空の自分」が「現実の自分」を嫌悪している状態であると定義している。岸田氏の定義を借りてニーバーの原義を表現すると、原義とは、「架空の自分」が、「行為を始める前の自分」を想起した場合の「自己の無罪性」であるといえる。つまり、原義とは、行為の前の完全性のことである。

 私たちが現実的な欲求に駆られて、ある行為を行う。ニーバーが云うように、行為の最中はいかなる反省も不可能である。自己は行為と一体化しているためだ。行為が終わると共に、超越的自己が立ち上がる。超越的自己は、反省的に「行為をした自分」と「世界の両方」を見る。超越的自己には、行為の最中には気づかなかったさまざまな状況が客観的に視野に入る。「うまい汁にありつきたい」という現実的欲求から、友人に頼み事をしたが、頼んだ直後、超越的自己が立ち上がり、ミエミエに虫のいい恥ずかしい頼みごとだったことが意識に昇る。ここに3つの自己が存在する。「嫌悪される自己(行為の主体)」、「嫌悪する自己(行為の反省者)」、そして「無垢な自己(行為の前の自分)」。

 ニーバーによれば、原義、つまり堕落前の人間の無垢とは、「嫌悪する自己」の記憶に残っている「行為の前の自己」の無罪性のことなのだ。行為の前には、いかなる罪もないのだから、当たり前の話だ。「どんな完全に見える行為にも罪がある」とは、よく言われるが、これも当たり前の話である。なぜなら、超越的自己は無限に反省可能なので、どんな行為のアラを見つけることも可能だからだ。そしてニーバーによれば、この反省能力が次の正しい行為を保証すると勘違いする点に、人間の罪、とくに道徳主義者の罪があるのである。道徳主義者は、超越的自己を持つことを誇っている。自分の罪を知ることができることを誇っている。罪を知って改善できることを誇っている。

 「宗教は倫理的である限りにおいて肯定できる」と喝破した柄谷行人氏は、人間は超越論的態度を持つ限りにおいて構造からズレることが可能であり、状況を乗り越えることができると云っている。しかし、ニーバーに云わせれば、その超越論的態度への過信が罪の連鎖の要なのである。

4. 要約

 ニーバーの創世記3章の解釈を整理してみよう。アダムとは、私たちのことである。堕落とは、行為の後の状態である。原義とは行為の前の状態である。アダムの誕生から堕落までに、何の行為も記録されていないのは、堕落以前のアダムとは行為の前の人間だからだ。アダムは、行為の前に自由を意識する。自由はアダムに不安を意識させる。不安なアダムは、神に信頼せず自分を偽り、自己を世界の中心に据える。そこから生まれる行為は、他人に対する不正義、自己に対する不正直、そして神に対する罪となる。罪責のアダムは、超越的自己により、無垢であった「行為前の自分」を意識する。彼は、原義(無垢な自分)から堕落したことを意識する(楽園追放)。

 かなり簡略化したが、これがニーバーの原罪論の要約である。詳細を知りたい方は、『人間の本質と運命(The Nature and Destiny of Man)』を読んでいただきたい。ニーバーの原罪論は、みなさんにとって、どれだけ説得力があっただろうか? 私自身の批判はここでは控えるが、創世記3章を歴史的太古の出来事として捉えるよりも、人類の普遍的状況として解釈するニーバーの立場を、私は支持している。今後も神学者たちが、この視点から創世記3章を解釈すれば、教会だけではなく、世俗の人文科学にも貢献できると信じている。さて、次回は、パウル・ティリッヒの原罪論を考察してみよう。

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