A Theological Experiment

ビックリ原罪論

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カントによる楽園追放


 カントは1786年、『人類の歴史の憶測的起源』という論文を書いた。創世記の最初の部分を解釈している。カント自身が書いているように、この論文は「いわば心に健康と気晴らしとをもたらすために」、「ただの漫遊を企てる」ために書かれたそうだ。漫遊のための企てとはいえ、カントほどの偉人の遊びは、深い洞察に満ちている。

 創世記の楽園追放の物語は、キリスト教神学の土台である。なぜなら、楽園追放、あるいは原罪が、キリスト教人間学の根幹を成すからである。原罪をどのように理解するかによって、救済の理解がある程度決まってしまう。原罪の解釈は、神学の入り口である。どういう入り口から入るかによって、出口が決まってしまうのだ。

 もし原罪が生殖により子孫に遺伝したとするアウグスチヌスの解釈が正しいなら、原罪は宗教的問題ではなく、遺伝子工学的問題になる。原罪は、罪の遺伝子として必然的に遺伝する。ヒトゲノムの解析が進む将来には、罪の遺伝子が特定されて、その治療法も開発されるだろうか。もはや原罪の除去にキリストは必要ない。なぜなら、この解釈によれば、罪とは遺伝病なのだから。

 原罪の遺伝を社会学的遺伝と解釈しても、同じように不条理が生まれる。アダムの罪によって、社会的状況が堕落した。子孫は、その社会的影響を受け、罪人になる。しかし、現在の人類が絶滅して、神が新たに人間を創造したら、どうなるだろうか。社会的状況が更新され、一からやり直せたら社会学的悪影響もない。そうすれば人類は、堕落しないのだろうか。この解釈の難点は、社会的影響がないはずのアダムがなぜ罪を犯したかを説明できない点にある。

 あるいは、原罪の法的解釈はどうだろうか。人類という一家の長であるアダムが罪を犯したので、子孫全体が神の栄光から疎外した。その罪は、キリストによってだけ贖われる。アダムの子孫は、自動的に罪人として登録される。しかし普通に考えれば、罪を犯したのはアダムであって、その子どもには罪が及ばないはずである。アダムは人類の代表者として罪を犯したので、その子孫にも罪が及ぶのだろうか。それなら、徳川家康が罪を犯せば、自動的に家康の子孫も罪過を背負うことになるのだろうか。この解釈を、原罪の漢民族的解釈と呼んでみよう。漢民族の伝統では、個人の罪は、先祖と子孫にまで及ぶそうだ。

 このような正統主義の不条理を克服するために、近代になってからカント、シェリング、キルケゴール、ニーバー、ティリッヒが原罪の再解釈を試みてきた。先に云ったように、原罪をどうのように解釈するかで、救済論が決まる。今名前を挙げた5人のうち、カントを除く4人は、楽園追放を超歴史的に解釈している。つまり、楽園追放とは、「昔々ある所で」起こった歴史的出来事ではなく、人類すべてに普遍的に起こる必然的事実であると解釈している。アダムの原罪と楽園追放は、繰り返し、私が、あなたが、彼が、彼女が起こす出来事だというのだ。アダムが罪を犯したと全く同じように私たちは罪を犯し、アダムが楽園を追放されたと全く同じように、私たちは楽園を追放されるという解釈である。しかし、カントにとっては原罪と楽園追放は、人類史の始原における事件であり、憶測によって想像できる過去の出来事なのだ。とはいえ、カントは原罪の遺伝を否定している。したがってカントの解釈は、正統主義と近代的解釈の橋渡しといえるだろう。

 それでは、カントは創世記の原罪と楽園追放をどのように解釈したのだろうか。しばらくカントの「漫遊」に付き合ってみよう。カントによれば、人類史の起源には、成人した夫婦が一組いたはずである。なぜ夫婦か。人類は種族を繁殖させねばならないからだ。なぜ一組の夫婦なのか。2組以上いると争いが起こるし、血統がいくつもあるとややこしいからである。彼らは、直立歩行もできたし、言語を話すこともできたと、カントは推定している。人類の遺伝子を遡ると、アフリカで生存した一組のカップルにたどり着くそうだが、カントも同じことを考えていたようだ。聖書やカントのように、人類の起源に直立歩行して言語を話す一組のカップルを想定するのは必然的である。なぜなら、直立歩行して言語を話す動物を人間と呼ぶのだから。したがって、人間をどのように定義するかによって、人類誕生の瞬間も決まるのである。

 さてカントによれば、誕生したばかりの人類の始祖は、もっぱら本能に導かれて生活していた。この本能の声が、創世記2章の「神の声」だとカントは解釈する。本能は、ある食物を食べることを許し、ある食物を食べることを禁止した(創世記2:16〜17)。今日でも、嗅覚と視覚と触覚が、本能的に食用可能な食べ物を見分けるごとくである。

 人類の始祖が、たんに本能に従って行動している間は問題が生じなかった。しかし彼らの理性が独立して働き始めた時、ある種の飛躍が生じた。理性は、すでに食べた経験のある食物を、まだ食べたことがない食物と比較し、「知識」に基づいて判断するようになった時、本能の制限を越えて彼らは行動するようになった。理性には、食物が現存していない時でさえ、想像力の助けを借りてさまざまな欲望を作り出す能力がある。動物は満腹すると、他人が何を食べていようが関心を示さないが、人間は満腹していても、隣で他人が物珍しいものを食べているのを見ると、欲望がわいてくるのである。理性によって本能の制限を越える能力こそ、まさに人間特有の能力である。理性は、食欲を満たすのに1個で十分な食物でも、「蓄えて後で食べよう」とか、「余分な分を誰かに売って儲けよう」とか、余計なことを次々考える。人類の始祖は、自分には他の動物にない特殊な能力があることを自覚した。彼らは、自分たちが本能の制限を越えていることを自覚した。カントは、この自覚こそ、人類の生活様式にとって決定的意味を持ったと書いている。つまり本能を超えた「自由意志」の自覚である。

 本能は、園の中央の木の実を食べてはいけないと警告した。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう(創世記2:17)」。しかし、理性は好奇心を利用して、彼らを誘惑した。「決して死ぬことはない。目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ(創世記3:4)」。「食べたらどういう味がするのだろう・・・」、彼らは知識欲に誘惑された。あらゆる新しい試みや挑戦は、可能性についての「知識欲」である。この欲望によってこそ、人間は人間なのだ。「女が見ると、目をひきつけ、賢くなるように唆していた(創世記3:6)」。

 本能が反対するにもかかわらず、人類の始祖は自由選択の方に魅力を感じ、自由を行使した。まさに、この試みによって、人間の目は開けたのである(創世記3:7)。人類の始祖は、他の動物を超えた「自由の能力」が自分にあることに気づいて快意を覚えたが、すぐに不安と危惧の念を抱かないわけにはいかなかった。カントによれば、「こうして彼は、深遠の淵に立たされたわけである」。しかし、自由の味を知ってしまった今、もはや本能の隷属状態に戻ることは、不可能である。

 この変化は、子ども状態にあった人類の始祖を、「大人」にした。彼らは「本能の圏内」から「文化の圏内」に移行したのである。動物は生殖のサイクルが一定している。しかし、人類は生殖の本能を断念することもできるし(禁欲)、禁止することもできるし(タブー)、売買することもできる(買春)。性の文化の始まりである。「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知った(創世記3:7)」。彼らは隠すことによって、官能的刺激から観念的刺激へ、動物的欲望から愛へ昇華することを覚えた。「二人はイチジクの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとした(創世記3:7)」。

 文化の開始は、人間を神々のようにした(創世記3:22)。彼らは想像力によって、環境の束縛から解放された。将来を予見して、期待の念を持つことができるようになった。彼らは文化のルールの創造者となった。彼らは善悪を知るようになった。本能的欲望の制限を突破した。しかし同時に、理性がもたらす可能性の増大の悲惨な裏面をも彼らは意識したのである。将来を予期できる能力は、将来を思い煩う不安と心配の尽きることがない泉となった。このような悩みは、動物には見られないものである。アダムは、将来への憂いから生じる悩みによって、安息のない労働に汗を流す(創世記3:19)。多くの人類学者が云うように、文化とは女性の交換システムである。エバは、文化システム維持の道具となり、婚姻と出産に苦しむ(創世記3:16)。そして特に、動物であれば悩まない終末、つまり死を予見して恐れ憂えることになった(創世記3:19)。

 このようなカントの解釈に、私はおおむね賛成することができる。まず重要なのは、カントが、アダムとエバが善悪の木の実を食べて堕落した瞬間を、理性が目覚めた瞬間としている点である。もちろん、理性なしに人間ではない。すると、人類堕落の瞬間と、人類が人間になった瞬間は同一であることになる。カント的に云えば、人類が動物圏から人格圏に昇格した瞬間と、楽園追放は同じ出来事であるということになる。

 カントのこの解釈はユニークである。伝統的神学は、堕落前のアダムに無罪性と完全性を帰していた。創造されたばかりのアダムとエバは、完全な存在だったが(神学的に云えば、神との完全な交わりの中にいた)、罪を犯して堕落した。キリストは第二のアダムとして、人類を無罪のアダムの状態に戻す。対照的にカントの解釈によれば、堕落前の無垢なアダムとは、半分動物圏に留まっている「子供のアダム」なのである。彼はまだ、本能に指導されている。理性を行使することができない。彼はまだ、十分に人間とはいえない。つまり、楽園のアダムとは、親に庇護されて、ベビーカーの中にいる状態なのだ。しかし、彼が自由意志を行使できるほど理性が発達した瞬間、彼は動物の世界から文化の世界に移行する。アダムは「人間」になる。しかし同時に、アダムは神々のようになる栄光と共に、理性と自由がもたらす呪いをも受けるのである。アダムとエバは、楽園から追放されて、労働と出産(経済と文化)に汗を流し、死を予感しながら生きていく。まさに子どもから大人に移行する人類一般の人生そのものではないか。

 幼児は禁止を意識しない。したがって、違反も生じない。この点で、幼児は神に背かない。しかし幼児が神に背かないのは、たんに禁止を意識できないからであって、禁止を遵守しているからではないのだ。堕落前のアダムとは、律法を知らない状態におけるアダムである。この意味における無罪性とは、真の無罪性ではない。堕落前のアダムに完全性を帰した伝統的神学より、この点でカントの解釈は数段優れているといえる(パウロを参照)。

 第二に重要なのは、もしカントが云うように、堕落の瞬間が、アダムが真の意味で人間になった瞬間ならば、「人間になる」とはどういう意味だろうかという問いである。人間性と動物性を分ける境界線は何であろうか。人間は何よって人間と呼ばれるのだろうか。カントは理性が人間と動物を分ける境界線であると云う。カントは、「善悪の木の実を食べる」ことを理性の行使と同一視した。みなさんは、どういう答えをお持ちだろうか。動物と人間を分ける境界線は何ですか? 「善悪の木の実を食べる」とは、どういう意味だろうか。みなさんは、どう解釈しますか?

 第三に重要なのは、カントが楽園追放の両義性を強調した点である。伝統的神学は、楽園追放を一義的に悪い出来事だと解釈した。楽園追放とは、起こってはいけなかった出来事、あってはならない後悔すべき出来事、つまり『堕落』であると理解した。生存に対する悲観的な理解が、西洋キリスト教社会の特徴である。欧米では近代世俗社会になっても、生存に対するキリスト教的悲観論は形を変えて強く残っている。図式化するとこうなる。自然はパラダイスである(エデンの園)。自然の秩序は、見事に調和した共存のエコシステムである。しかし、人間だけが自然の調和から疎外している。人間とは、いわば自然の中の反自然的存在である。「自然に帰れ」と説いたルソー、ボルクの幼態成熟説、ポルトマンの早産説、シェーラーやゲーレンの人間学、フロイトやラカンの精神分析学は、人間とは本能を逸脱した奇形動物であるという前提に立っている。もちろん、動物圏から精神圏の移行を肯定的に考えるテイヤール・ド・シャルダンのようなカトリック科学者も例外的いるが。

 確かに、動物的生存が人間的生存に比べて、無垢で調和しているように見える。人間社会の辛苦を味わっている時、ふと無邪気に大空を飛ぶ鳥たちを見ると、「鳥になりたいなぁ」と夢想することもあるだろう。動物たちは、のんきに草を食んで明日を心配しない。まさに「空の鳥をよく見なさい(マタイ6:26)」である。しかし、私たちはどんなに自然の暢気さに憧れても、人間を辞めてまで動物になりたいとは決して思わない。「太った豚より、やせたソクラテス」と云うではないか。神さまが突然、「そんなにストレスが辛いか。それでは、悩みのない乳牛に変えてやろう」と云ったら、私たちは必死で拒否するはずだ。人間を「壊れた自然」と呼んだ欧米の思想家たちでさえ、人間を辞めて、悩みのないゴキブリになりたいと思った者はいない。ここで私たちは、人間的生存の両義性に気づく。人間であるとは、動物たちが経験しない罪責や悲惨を味わうということである。この点で、伝統的神学は正しい。人間社会は悲惨に満ちている。自然界に存在する有機的調和に欠けている。人間とは、楽園を追放された存在である。しかし他方で、どんなに悲惨でも、人間を辞めてまで動物に戻りたいと思えない、人間存在特有の魅力があるのも事実なのだ。数え上げたら切りがない。友愛、恋、仕事、名誉、自意識、趣味、レジャー、医療・・・。

 最高の幸福の可能性と最低の悲惨の可能性が、人間存在には含まれている。動物はたとえ幸せであっても、自分の幸せを意識することができない。その代わり、自分の不幸も意識しない。動物は死を憂う苦しみを感じない。しかし、生きることのかけがえのない価値を喜ぶことができない。人間はありとあらゆる悲惨と悲しみを意識する。しかし、ありとあらゆる喜びと幸せをも意識することができるのである。人間を動物と分ける境界線がここにある。人間的生とは、両義的である。人間の罪が同時に恵みとなり、悪があるから善もあり、不義と同時に義でもある。最高の可能性が最悪の可能性でもあるのが、人間的生である。そして、この点こそ、創世記の楽園追放物語が類稀なる深遠さで教えることであり、カントの解釈が優れた点でもあるのだ。

 人間が人間になることと楽園追放が同じ出来事であるというカントの創世記解釈。この驚愕する逆説に戸惑う方々も多いかもしれない。カントの解釈に対する私の批判は、ここでは控えるが、まさに逆説によらなければ、深遠なる創世記の楽園追放物語の核心には、迫れないのでないだろうか。創世記を読むたびに、そう感じるのである。

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