A Theological Experiment

終末論の謎は深い

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天国は幸せな動物園?


 今回はヴォルフ自身の終末論。ユンゲル、パネンベルグ、モルトマンに対する批判は、永遠の生命が時間性を廃棄するという彼らの立場に向けられていた。時間と空間を確保しつつ、罪の可能性を排除できる終末論を構想できないものか。文化的存在としての人間と、身体的存在としての人間、この両面が終末論において完成するような終末論を考えることはできないか。これがヴォルフの問題意識であった。

 ヴォルフは、そういう終末論を考えることは可能だという。彼の終末論においては、復活した人類は無罪性の状態に変容される。善しか意志しない無罪性の状態に完成する。しかし善の自己意識があるということは、悪についての知識があるということなので、罪への可能性が残る。そこで、新しい無罪性の状態を考えなければならない。それは善悪の彼岸にある無罪性の状態である。外的に見れば、つまり観察者から見れば、悪を行う可能性があるが、内面的意識においては悪の可能性は感じることができないので、悪を実行することができない。悪は理論的には可能だが、実践的には不可能な状態だ。神の愛が、人類の心に充満しているので、悪を行う可能性が克服されている状態へと人類は変容される。新しい身体と新しい心が与えられ、人類は自由でありながら善しか行わない。

 時間性と罪の問題に関しては、時間の和解性が問題だとヴォルフはいう。過去と現在と未来というふうに時間を分離して経験することが、人間の悲惨さの原因ではない。人間が未来に不安を感じ、過去に後悔することによって、現在が常に過去と未来に対立状態になっていることが、人間の悲惨の原因である。喜びは、人間の過去、現在、未来が和解することによって生まれる。ユンゲル、パネンベルグ、モルトマンは、生きられた人生が永遠に保存される、あるいは全体性へ統合される、あるいは同時的に存在するようになると考えて、時間性と人間の問題を解決しようとしたが、ヴォルフは、それではむしろ喜びを不可能にしてしまうと考える。なぜなら時間のないところに生きた喜びはないからだ。人類が神と和解し、隣人と和解し、自分自身と和解し、自然環境と和解するなら、過去・現在・未来の対立は消え去る。終末において人類は時間と和解するでのある。

 永遠の平和と喜びの経験は、人類の身体性と文化性が変容されるかどうかにかかっている。そして喜びは「変化」を前提しなければ不可能である。このような変化をどのように考えればよいか。まず道徳的生活から見ていこう。ヴォルフによれば、変容された人類は、飽くことのない満足の中で、万華鏡のように自由に変化しながら、永遠に継続的に善を為す。人間の運動は永遠の神の愛に参与しているため、お互いに愛の贈与を交換する。人類は凡てにおいて満たされているので、羨む者も誇る者もいない。互いの無限の贈与を喜ぶのである。しかもこの世界は終わることがない。知的生活においては、変化は無限に進歩する神知識として現れる。

 時間性の経験もこれらにともなって変容される。外側から観察するならば、永遠の神の国は、無限の時間として記述される。通常は、無限の時間は、時間の終わりの反対として、あるいは過ぎ行く時間の反対として考えられる。しかし、神の国において人類は、内面的には時間の終わりも、時間の無限も意識することはない。現在、未来、過去という区別の彼岸にある時間意識において生活するだろう。

 要約すると、@ 究極的成就は、死後にも生が継続することなしには考えられない。死後にも生が継続するということは、被造物に身体と時間と空間が与えられるということである。もはや死ぬことのない身体は、文化的生の分野において罪を防ぎ、悪の源を断つであろう。A 究極的成就は喜びなしには考えられない。したがって、神との完全な和解、隣人たちとの完全な和解、環境との完全な和解を前提とする。そのため、悪人でさえも、その罪が裁かれると同時に聖められ神の永遠に参与するようになる。そして人類が新しい無罪性の状態に変容される。B 時間の暫定性は克服される。もはや悔やむ過去はなく、達成すべきあるいは避けるべき未来もない。凡ての瞬間は、喜びに満たされる。「終わり」の予想がないので、「失う」心配もない。C 終末論的移行は、黙示文学的(古い世界が廃棄され、新しい世界が無から生まれる)でもなく、全体性への統合でもなく、すべてのものの最終的和解である。罪と死から解放され、三位一体の神の平和と喜びに到達する。

 さて以上が、ヴォルフの終末論である。私たちに終末への希望を与えてくれる美しい終末論である。ヴォルフの終末論を絵画で表現できたら、どれだけ輝かしい絵画になることだろうか。しかし、ヴォルフの終末論を取り上げたのは、「終末論の謎と課題」と考えるためであった。ここで幾つか、私なりのヴォルフに対する批判を述べておきたい。

 まず第1に、不死の体と無罪性の状態が達成されるなら、なぜ神は初めに世界を創造した時、このように世界を創造しなかったのだろうか。これは一番単純な疑問である。こういう美しい終末論を描くならば、この疑問にも少しでいいから触れて欲しかった。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった(創世記1:31)」とあるが、ヴォルフによれば初めの創造は、寄席で云えば前座のような創造だったのだろうか。

 私の批判の核心は、ヴォルフの描く終末論的移行は、こういってよければ「幸せな動物園」ではないかという点である。死もなく、罪もなく、苦しみもない。これは大変結構なのだが、死もなく、罪もなく、苦しみもない世界に、本当の喜びは可能だろうか。苦しみのない世界に喜びはありえるのだろうか。

 野性は弱肉強食の世界である。飢えとの戦い、捕食される不安、壮絶な争いがくりひろげられる。それに対して、動物園は気楽である。獲物を追いかける必要もない。天敵もいない。獣医もいる。もし神さまが人類のために幸せな動物園(人間園)を用意してくれたら、私たちはそこに進んで入るだろうか? そこには飢えもない、争いもない、殺し合いもない、競争もない、憎しみもない、勝ち組と負け組みもない、心配もない、後悔もない、死ぬこともない、失敗もない、病気もない、みんなに優しくされ、みんなに愛され、何に対しても戦うことがない。おそらく人類の大多数は、喜んでそこに入るだろう。とくに貧しい人、病気の人、虐げられた人、差別された人、苦しむ人は、競って入居するに違いない。

 確かにそこには安全がある。その安全に応じた喜びや楽しみがあるだろう。しかし、その安全に応じただけの喜びや楽しみしかないのである。ヴォルフが決定的に見落としている点は、喜びとは、それに反比例する苦しみや抵抗に比例してだけ存在するという真理である。日常生活における私たちの喜びは、私たちが克服した試練・苦しみの大きさに絶対的に比例する。それが困難であればあるほど、勝利した時の喜びは、それに応じて大きいのである。逆に困難を初めから回避した人は、それに比例して喜びを得ることが少ない。ヴォルフは、無限の神の知識の増大を語っているが、私たちが神を「知る」喜びは、私たちが自分の罪と悲惨さを知る程度に比例する。キリストは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない(ルカ7:47)」と語ったが、まさに赦されることが少ない者は、神を知る喜びも少ないのである。

 読者の中には、「それは先進国で安穏と暮らしている人のいうことだ。発展途上国の人たちの悲惨さを考えてみろ」とおっしゃるかもしれない。その発展途上国で9年暮らしている私は喜んで同意する。しかし、そういう「虐げられた人々」でさえ、百年も「幸せな動物園」で暮らせば、いい加減飽きるのではないだろうか? 「戦いのない世界」は確かに理想の世界かもしれない。しかし、私たちはまさに戦うことから生きがいを得ているのではないだろうか。社会正義のための戦い、核廃絶の戦い、政治改革の戦い、新製品開発の戦い、福音のための戦い、オリンピックの戦い、そして自分との戦い・・・。戦いとは現状を克服する戦いである。確かにそれは苦しいけど、これなしに人生にいったい何が残るのだろう。愛についても同様である。ヴォルフが考えるような愛の世界は可能だろうか。もし愛が、赦しにおいてその最大の可能性を発揮するとしたら、「幸せな動物園」で偉大な愛を経験できるだろうか。私のヴォルフの終末論に対する根本的疑問の1つは、喜びはその裏面なしに可能かどうかという問いである。

 2つ目の疑問は、ヴォルフの無罪性についてである。悪に対する意識のない無罪性。こういう無罪性は、現在では「ロボトミー」においてだけ考えることができる。『カッコーの巣の上で』という古い映画がある。ジャック・ニコルソン主演だったと思う。ロボトミーとは、脳手術をして、精神患者から人間性を奪うことであるが、ロボトミー手術を受けた患者は、罪を犯さない。無罪性の状態である。動物も罪を犯さない。私たちは、無罪性の状態になるために、ロボトミーの手術を受けたり、動物になりたいと夢想するだろうか? もしかしたら、罪の可能性と人間の喜びは不可分離なのではないだろうか(少し横道に逸れるが、「キリストの無罪性」を考える場合、私たちは「キリストは罪を犯すことができなかった」と考えるべきであろうか、それとも「キリストは罪を犯す可能性があり、常にその可能性と戦った」と考えるべきだろうか。誘惑物語は、後者の可能性を暗示しているように思う)。

 そういうわけで、もしかしたらヴォルフの終末論は「不可能な可能性」ではないだろうか。ここで私たちは、終末論の謎と課題に突き当たる。最も偉大な行為と最も大きな喜びは、悲惨さと苦悩と罪がリアルな世界でのみ可能だとすれば、まさに現世こそ、そういう世界である。他方で、私たちは、この世界が克服される「終末」を考えずにはいられない。そうだとすれば、終末論とはどうあるべきなのだろうか。

 ハイデッガーがこんなことを書いている。「神とはただ問いにすぎないというのか? 確かにその通りである。ただ問いなのであり、すなわち問われる者、呼ばれる者なのである。神を求める者の問いにおける場合と、神が確実にあり、確実なる神としていつでも必要に応じていわば脇にどけられたり取り寄せられたりする場合とでは、どちらにおいて神はいっそう神的であるのか?、これはどこまでも慎思すべきことである」。神を終末論に置き換えるとどうなるだろうか。「終末を求める者の問いにおける場合と、終末論として確実にある場合とでは、どちらにおいて終末はいっそう終末論的であるのか」。まさにこれはどこまでも慎思すべきことである。

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