A Theological Experiment

終末論の謎は深い

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天国不在の終末論


 『The End of the World and the Ends of God』という終末論に関する本があります。科学と神学が、終末論にどういう理解を与えるかについての論集なのですが、その中にヴォルフの"Enter into Joy!"という論文が含まれています。ヴォルフは、イェール大学の神学教授なんですが、ウィリアム・メンジーズ(ペンテコステ派神学者)の記念論集にも寄稿している「隠れペンテコステ神学者」で、アメリカ福音派の牙城・フラー神学校で准教授を2年務めて、イェール大学神学教授のポストに引き抜かれたという変り種の神学者です。ヴォルフはゲッティンゲン大学のモルトマンの指導の下で博士号を取得しています。

 とても興味深い論文なので、今回は"Enter into Joy"にガイドしてもらいながら、終末論の難しさと課題を考えてみたいと思います。 ヴォルフは3人のドイツ人神学者を取り上げて、彼らの終末論を批判的に評価した上で、自分の終末論を提出しています。まずはユンゲル。日本語にも翻訳されていますが、ユンゲルには『死:その謎と神秘』という著作があります。ユンゲルの終末論は、バルトの影響を強く受けているようですが、ユンゲルにとって復活とは、身体の復活ではなくて、人生の復活です。「人生の復活」と聞くと、「????」と首をかしげる方がおられるかも知れないので、ちょっと説明。

 ユンゲルにとって死とは必ずしも克服されなければならない対象ではありません。死それ自体は有限性の証しであって、良いも悪いもありません。「人間はなぜ死ぬのか?」、有限な被造物だから死ぬのです。ユンゲルにとって問題は、「死の棘」です。神に反逆して生きられた人生の死こそ、克服されるべき何かです。したがって、ユンゲルの終末論では、復活されるのは身体的人格ではなく、罪の中で生きられた人生が復活されるのです。生きられた人生が復活するとは、どういう意味か。それは、生きられた人生が、神の永遠の中に保存されるという意味です。しかし罪の中で生きられた人生は、神の永遠の中に現存することはできないはずです。そこで保存されるのは、神の永遠の眼差しにおいて見られた人生です。したがって、私たちの罪ある人生も、神のまなざしの中では義認された人生なので、神の義認によって清められた人生として、神の永遠の中で保存されます。そういうわけで、復活は最終的義認ということになります。復活は新しい人生の始まりではなく、過去の人生の癒しと救済ということになります。ヴォルフは、ユンゲルの終末論が、生きられた過去をも視野に入れている点を評価しています。

 しかし、ヴォルフは、2つの点でユンゲルを批判します。人間は社会的存在なので、自分の過去に生きられた人生が義認されただけで十分なのか。私たちの人生が、神の永遠の中で保存されたとしても、その保存の中で、人間の社会的次元はどうなるのか。社会的次元のない、個人的人生の保存だけで十分だといえるのか。これが第1の批判です。

 第2の批判は、ユンゲルの終末論では、救われるのは「人生」であって、人格ではないという点です。人生を歩んだ人間が復活において抜け落ちています。人間の文化的生は救済されるが、身体はどうなっているのか。身体を持つ人間として復活されないのはなぜか。

 ユンゲルの終末論も理解できる点があります。もし復活が、万歩計のカウンターをゼロに戻したような新しい人生の始まりだとすれば、生きられた人生は何だったのかという疑問も確かに頭をよぎります。試合でいえば、本番前の練習みたいなものなのか・・・。ユンゲルは、人生の唯一性、かけがえのなさを大事にしたかったのだと思います。ただ一度の人生だからこそ、私たちは真剣に生きるべきだ、不幸にも罪があれば、神は神の視点から人生を見てくださって、清められた記憶としてご自身の中に永遠に現存させてくださるはずだと信じたのでしょう。

 他方、ヴォルフの批判も尤もです。そもそも、聖書の終末論が魂の不死ではなく、身体の復活と呼ばれているのはなぜか。身体性は、創造の恵みとして聖書では肯定されています。創造と救済の関係を考えると、やはり身体も救済されるのではないか。ヴォルフは次にパネンベルグの終末論を検討しますが、それはまた次回。

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