A Theological Experiment

カントは神学者

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カントの神論


 さてカントはキリスト教の歴史的形式と道徳的実質、有限な要素と永遠の要素を区別するところに、自らの神学を構築しようとしました。2000年の歴史が背後に控える教会の伝統のうち、何が偶然的なもので、何が本質的なものか、何が人間的なもので、何が神的なものか、何が制度的なもので、何が霊的なものか、何がイエス・キリスト自身からのもので、何が弟子たちからのものか、何が文字に従うもので、何が霊に従うものなのか。カントが、これらを区別するための方法的原理として選択したのが、道徳性であることは前回お話しました。今回は、道徳性という原理によって、カントが『理性の限界内における宗教』で具体的に描き出した神学を要約してみたいと思います。

 まず神論から。まず注目すべきは、カントの神論は、客観的な神の性質を論じるのではなく、「道徳的存在者としての私たちにとって神はどういうお方か」という視点でのみ論じられているという点です。これは宗教改革者マルチン・ルターとも共通する実存的立場であり、ルターは「時間を創造される前に神は何をしていたのか」というスコラ神学的な問いに対して「こういう無意味なことを考える人間を罰する地獄を造っておられた」と答えたそうですが、彼は「罪人としての私にとって神はどのようなお方か」という視点からのみ神について考えました。同様にカントも、「道徳的完成を目指す私たちにとって神はどういうお方か」という視点からのみ神について考えたわけです。

 私はルターやカントの立場を支持したいと思います。神は、私たちが目の前のコップの形状や性質や価値を分析するような、分析の一対象物ではありません。神をまるで一対象物のように見るならば、「神が全能ならば、自分が背負うことができない重い石を創造することができるか」などという論議も可能ですが、カントはこのような神論を斥けました。神についての問いが意味を持つのは、常に「私(私たち)にとって神はどういうお方か」と問う場合だけです。もちろん抽象性や合理的思考も神学であるかぎり重要ですが、「私にとっての神」という実存的態度が根本に不可欠です。神学というのは、本質的には信仰告白であって、「私にとっての神」という視点から語られた神論であるべきだと思います。

 さて「道徳的存在者としての私たちにとっての神」は、カントによれば、@聖なる立法者として全能の創造主:A慈悲深い支配者であり道徳の庇護者として人類を保護する主:B正しい裁判官として神的法の執行者です。道徳的完成を目指す人には、うってつけの神観といえます。一見すると、事務系の神さまというか、公務員系の神さまというか、厳格で公正だけど神秘性に欠ける印象を受けますが、大の神秘主義嫌いのカントもそれなりに神秘を認めています。その神秘とは、

@神的召命の神秘。神はなぜ人間という被造物を、自由意志による道徳性に召しておられるのかが神秘だとしています。被造物であるということは事物であるということであり、したがって因果関係・自然法則の網の目にとらわれた事物なのですが、その事物(人間)を、神は自由な道徳的存在に召しておられる。理性では把握できないという意味で神秘としているのですが、底知れない神秘と呼ぶほどですから、カントにとってはよっぱど不可解なのでしょう(理性の観点からは確かに不思議です)。

A贖罪の神秘。人間は堕落しているので、聖なる法を遵守することができない。しかし神が人間を召しておられるということは、人間の不足を補う神的恩恵が存在するということである。しかしキリストの代理的賠償は、論理的には道徳性に矛盾する。なぜなら人を道徳的に義としたり罪としたりするのは、その当事者の行為のみだからである。誰も当事者の道徳的責任を代理することはできない。したがって、贖罪も理性によっては理解不可能な神秘であるとカントは言います。

B選びの神秘。代償的賠償の神秘を受け入れるとしても、それを受け入れること自体、その人間の中に神を喜ばせる思いがあることを前提とする。しかし人間は堕落しており、自分自身で神への思いを産み出すことはできない。すると神的恩恵が人間を助けなければいけないのだが、それは人間の働きによるのではなく、神の選びによるものである。するとある人々は、救いの定められ、ある人々は滅びに定められていることになる。計り知れない神の知恵として、これも神秘であるとカントは考えます。このへんは、カント神学が正統主義に近づくポイントでしょう。

 キリスト教の歴史的形式と道徳的実質を峻別するカント神学は、啓示と奉仕の概念においてその特色を発揮します。それはまた次回ということで。

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