A Theological Experiment

カントは神学者

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キリスト教の本質


 道徳性をキリスト教の本質と見ることには、いくつか他にはない長所がありました。まず第1に、聖書のサポートが多いこと。キリストは律法を完成するために来た(マタイ5:17)。礼拝よりも隣人との和解が優先する(マタイ5:24)。永遠の命は掟を守ることによって(マタイ19:18)。隣人愛は最も重要な掟(マタイ22:39)。宗教的義務より倫理的義務が優先する(マタイ23:23)。小さな兄妹に対する倫理的行いによって裁かれる(マタイ25:35)。宗教法より道徳法の優先(マルコ3:4)。宗教的不浄より倫理的不浄が人を汚す(マルコ7:21)。善を行ったものは復活する(ヨハネ5:29)。愛は新しい掟(ヨハネ13:34)。神は善行において分け隔てしない(ローマ2:10)。善行は霊的礼拝(ローマ12:2)。不道徳な者は神の国に入れない(第1コリント6:10)。割礼より神の掟の遵守(第1コリント7:19)。行った善悪により報いを受ける(第2コリント5:10)。律法の遵守よりも愛の実践を伴う信仰(ガラテヤ5:6)。善い業のために創造された(エペソ2:10)。神の御心は聖なる者になること(第1テサロニケ4:3)。善行は神への生贄(ヘブル13:16)。善行を伴わない信仰は死んでいる(ヤコブ2:26)。愛する人が神のうちにいる(第一ヨハネ4:16)。善を行う者は神に属する人(第3ヨハネ11)。etc......

 第2に普遍的な合意を得られやすいことです。カントは宗教には2種類あるといいます。1つは、ご利益宗教、もう1つは道徳宗教です。カントによれば、キリスト教だけが道徳宗教であり、したがって唯一の世界宗教であるといいます。なぜ世界宗教か。それはキリスト教の本質である道徳性は、普遍的に同意できるからです。宗教による対立が激化する気配を見せる現状を見ると、カントの神学がもう1度重要性を帯びてきています。宗教的立場が違っても、道徳性において普遍的に一致できる可能性があるからです。人を殺さない、嘘をつかない、寛容である、親切にするという道徳的事柄なら、宗教は違ってもみんな普遍的に同意できます。

 第3に、道徳をキリスト教の本質にすれば、世俗的社会との対立も避けることが可能です。カントが生きた啓蒙主義の時代は、超自然的奇跡や歴史的信条、教会的権威、宗教的儀式に対して懐疑的な時代でした。したがって、奇跡や信仰告白、聖職者の独断、儀式は二次的なものであり、信仰の本質は道徳だとする神学が、世俗社会においても支持を得られると考えたカントの期待も理解できます。カントは、道徳によって人類が普遍的に共生する理想状態を神の国と呼びましたが、諸宗教の対立も世俗社会と宗教の対立も、道徳を中心にすえることによって克服できると考えたのでしょう。ここにカントの信仰の普遍性への強い意欲が見られます。『理性の限界内における宗教』と題名の意味が含むメッセージを私たちは理解できます。つまり人並みの理性さえあれば、誰でもが納得できる普遍的宗教、あるいは宗教的対立、政治的対立を生まない宗教があるとすれば、それは道徳的に解釈されたキリスト教だけであるというメッセージです。なぜなら、理性は万人に付与されており、理性の範囲内で一致できる人が宗教があるとすれば、それは道徳宗教をおいて他になく、道徳宗教としてのキリスト教は万人が受容可能な普遍性をもつはずだからです。

 第4に、神の名のものに行われる不正を判断する基準を提供する。たとえばイスラム過激派が、「神のために自爆テロを行う」と言った時、私たちは何と言って彼らに反対するでしょうか。おそらく神が喜ばれる行為の基準を示すことによって反対すると思います。テレビを見ていますと、宗教的指導者がテロに反対するとき、よく口にするのは「人殺しを神はお喜びにならない」ですが、これがカントの主張する「道徳的基準」です。日本では宗教団体の指導者の不正がしばしばマスコミで報道されますが、指導者の不条理な命令に従うべきか従わないべきかを判断する一般的基準は、やはりそれが「倫理的に見て正しいか、正しくないか」ではないかと思います。ここでもカント的神学を見ることができます。

 カントが道徳を宗教の中心に据えたのは、キリスト教を弁証するためだと考えるのは、おそらく早計かもしれません。私個人としては、カントの意図は別のところにあったと思っていますが。『ロラン・バルトと聖書解釈』で散々「作品の意図を特定するのは、有意義ではない」と書いた私が、カントの意図を云々するのは矛盾しますが(笑)。矛盾を覚悟であえていえば、カントの意図は政治的なものだったと私は推測しています。当時勃興してきた中産階級にとって目の上のタンコブだったのが、既成のエスタブリッシュメントたち、つまり聖職者たちでした。当時国家の権威と教会の権威は密接に結びついていたため、啓蒙主義的中産階級にとって教会は抑圧的に感じられたのでしょう。教会は自らの権力のよりどころを啓示の権威の上に置きました。聖職者たちは「それは神の啓示に反するからダメ」と言って、啓示に関係ない事柄でも正当化していた傾向がありました。支配階級が、歴史的啓示を保証人として国家的・教会的慣習を死守しようとしたのに対抗して、カントは万人に内在する理性を宗教の本質にするように主張のではないでしょうか。そうすると歴史的啓示の継承者である教会の判断が基準になるのではなく、すべての市民が理性を基準に自律的に判断できるわけです。ここに政教分離の理念の萌芽が感じられます。当時の当局がこの著作に出版差し止めを命じたのも当然でしょう。カントの神学を認めたら、国家−教会連合は「啓示の解釈者」という専有的立場を失いますから。閑話休題。

 さてキリスト教を道徳に還元してしまったとして、カントの神学を「還元主義」という言葉で批判するのは、必ずしも的を得ているとはいえません。なぜならすべての神学は神学であるかぎり、多かれ少なかれ還元主義的だからです。問題は、キリスト教の本質は何かと言うことです。カントのいうように道徳性なのか。そうでないとすれば、では何なのか? よく耳にする「キリスト教は愛の宗教」というフレーズは、基本的にカントの立場にとどまっています。キリスト教は、道徳性に還元されるのか。もし道徳性では汲み尽くせないとすれば、道徳性を超える何かがキリスト教の本質にあるのか。あるとすれば、それは何か? これがカントが現代に突きつけている神学的課題だと思います。

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