A Theological Experiment

カントは神学者

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思想の発展



 カントの晩年の神学『理性の限界内における宗教』は、細部にわたっても大変興味深い記述が多いのですが、全部取り上げると一冊の本になってしまうので、紙面の都合上、幾つかに限定したいと思います。具体的な課題に入る前に、題名が与えがちな2つの誤解について一言。第1に、カール・バルトが『19世紀のプロテスタント神学』で述べているように、『理性の限界内における宗教』とは、「理性の範囲内でしか存在できない宗教」とか、「理性の範囲内でしか妥当しない宗教」という意味ではありません。そうではなく、「宗教は理性の範囲内でのみ解釈される」という意味です。第2に、「理性の範囲内」とは、「合理的知性が納得できる範囲内」という意味ではありません。カントがいう「理性」とは、無条件の義務に従って行為する道徳性という意味です。これを実践理性(道徳的理性)といいます。

@理性の限界

 カントは啓蒙主義の代表的哲学者と呼ばれていますが、これは半分の顔です。もう半分のカントは啓蒙主義の克服者としてのカントです。啓蒙主義の時代は、自然神学の時代でもありました。啓蒙主義時代の神学を一言で表せば、合理的正統主義神学といえます。人間は理性によって、@神の存在A自由意志、B魂の不滅を証明できるとする神学です。現代のある神学者たちは、「啓蒙主義は反キリスト教的だ」と信じているようですが、これは少し誤解であって、啓蒙主義時代とは、神学者たちが「理性によって神の存在も啓示の妥当性も確立できる」と自信満々だった時代なのです、実は。

 合理的正統主義神学に、ノックダウンパンチを喰らわせたのはイギリスのヒュームでした(1711−1776)。ヒュームは「理性によっては普遍的真理に到達できない」と主張しました。ヒュームによれば、「私たちが知ることができるのは、経験によって観察された事だけである」(これを経験主義といいます)。神は観察できない、自由も観察できない、魂の不滅も観察できない、よってこれは知識ではないということになります。

 カントはヒュームを受け入れながら、ヒュームを超えようとしました。カントはまず理性が妥当する範囲を確定しました。理性で何か知りえる範囲は、時間・空間・因果関係という枠組みで感覚的に直覚される範囲だけである。つまり感性を超える存在を人間は判断できない。時間を越えた存在、空間を越えた存在、因果関係を超えた存在は、人間の経験の外にあるので、私たちの理論的知識の対象ではない。カントはこれを認めます(純粋理性批判)。ヒュームが倒した合理的正統主義神学を、止めの一刺しで絶命させたのはカントでした。啓蒙主義時代は、理性は無限であると信じられていました。カント以後、「理性は有限である」が無謬の教理になりました。ここまでが『純粋理性批判』までのカントの議論です。

A道徳性による神証明

 さて理論的理性によっては神に到達できないことをカントは明らかにしましたが、かれはここから更に先に進みヒュームを超えようとします。「そうすると神の存在は証明できないのか?」、カントは答えます、「可能です。道徳的経験によって」。理論的知性は神について確かなことを語ることはできません。理性は感性を超える存在を判断材料にできないからです。しかし人間の中には、感性を超える無条件的なものがある。それは道徳的法則だとカントはいいます。

B自由意志

 自由は感性的・経験的には、その存在を確認できません。つまり時間・空間・因果関係という範疇で人間を観察すれば、人間は自由ではなく自然法則に従っている。しかし他方で、道徳的法則が私たちの内に事実として見出される。道徳性は、意思の自由を前提にしないと成り立たない。また逆に意思の自由を前提すると、道徳性が必然的に導き出される。すると人間は、自然界の一現象としては自然法則に従って必然的に行為しながら、他方理性的存在者としては自由の法則に従って行為しているということになります。現象としての人間は原因・結果という自然法則に従っているが、「責任」という倫理的観点から見れば、人間は自由な存在とみなされければならない。理論的理性は自由の存在を確認できないが、実践的理性(倫理的観点)の観点からは、自由が前提されなければならない(そうでなければ責任も道徳も存在しない)。

C魂の不滅

 自由な意思と道徳的法則の完全な一致を、カントは神聖性と呼びます。実践的理性は、「意志と道徳的法則が完全に一致せよ」と命じますが、短い生涯の間に完全な一致に到達する人間はいません。すると道徳的完全性を追求して低い段階から高い段階に進むためには無限の時間が必要になります。そこでカントは、魂の不滅は、道徳的完全のための不可欠な条件・前提であるとします。道徳的完全が必然的に要求されるのに、それが不可能だったら矛盾する。すると魂の不滅が前提されるのは、実践理性(倫理的観点)から言えば必然である。

D神の存在

 道徳的に完全になっても不幸なままだったら片手落ちでしょう。しかし本来、道徳性と幸福の間には必然的関係がありません。そこで道徳性と幸福を結び付けてくれる最高存在者が必要です。道徳と幸福の一致という「最高善」は、神の現存という条件でのみ可能ですから、神の存在が必然的条件として考えられなければなりません。カントは「神の現存を想定することは、道徳的に必然的なのである」と言い切っています。さてここまでが、『実践理性批判』までのカント哲学の要約です。

E背景と理由

 啓蒙主義の時代は、合理主義神学の時代でした。ヒュームがこれに攻撃を加えて、合理主義的キリスト教神学に致命傷を与えました。ヒュームによってキリスト教とは、ただ歴史的にたまたま存在しているだけの宗教になりました。ヒュームは、物事の普遍性や必然性を否定したわけですから。カントはこれに対して立ち上がりました。「キリスト教の普遍性と必然性を論証しなければならない」。

 キリスト教を弁証するために、カントはまず理性に限界を定めました。「神の存在は理論的には証明できない」。これは逆にいえば、「神の存在は理論的に否定できない」という意味になります。カントは『神』を理論的理性の彼方に置くことで、神の場所を確保しようとします(純粋理性批判)。

 理性の届かないところに行った神は、それではどこで見出されるのでしょうか。カントは「道徳性の中に」と答えます。ヒュームの経験主義に対して、道徳性はいかなる経験にも関係なく、実践的な理性(道徳的な理性)の中に必然的に普遍的に前提される。そして神の存在は、理論的教説としてではなく、道徳的見地における条件として必然的なのである。ここでカントは、宗教の普遍性・必然性の場所を確保したわけです。そして気がついてみれば、「神の存在」、「魂の不滅」、「自由意志」という啓蒙時代の合理主義神学・三種の神器が手品のように復活しているのです。カントがキリスト教を理性の名によって攻撃したというのは少し違って、新しい知的状況に合うように再解釈したと言った方が、より正確でしょう。カントの哲学全体が、キリスト教弁証論という性格さえ持っているようにも思えます。

 歴史的には200年後の私たちが、カントのキリスト教弁証論を批判するのはたやすいのですが、彼は18世紀ヨーロッパの最高の知性の一人であり、制約された当時の環境と時代の中でそれなりにベストを尽くしたと評価しても良いのでは。制度的教会に冷ややかだったカントが、弁神論に熱心だったのは、幼い頃に母に蒔かれた信仰の種の成果でしょうか。

 「神の存在」、「魂の不滅」、「自由意志」の場所を確保したカントは、晩年いよいよカント流キリスト教神学、あるいは宗教哲学の完成に精進します。それが『理性の限界内における宗教』です。さて、その内容とは。
 

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