A Theological Experiment

カントは神学者

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哲学者としてのデビュー


 大学を卒業したカントは、14歳に母を亡くし数年後父を亡くしたため、生活の糧を得るため家庭教師として職に就きます。その後31歳にしてようやく母校のケーニヒスベルク大学の私講師の職を得ます。私講師は受講者から直接授業料を得て給料としますので実力勝負ですが、カントの授業は人気があったようです。

 2回も教授昇進を申請しながら認められなかったカントは41歳にして恩師シュルツに昇進の手助けを願います。シュルツは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛するか」という問いに答えるまで昇進を手助けしないと言いましたが、彼はカントが本当にキリスト者かどうか疑っていたのでしょう。しかしカントが彼の疑いを鎮めたところを見ると、キリスト教の根本的教理を肯定していたことを示唆しています。

 46歳にしてようやくカントは教授の地位を得ました。11年後、57歳にしてカントは金字塔となる『純粋理性批判』を出版。64歳で『実践理性批判』、66歳で『判断力批判』を世に送り出し、カントはいまや、ケーニヒスベルク大学内どころか、全ドイツ、全ヨーロッパにその名を知られる哲学者となりました。

 67歳のとき、カントは『理性の限界内における宗教』の第1部を書き終えます。ところがこの著作がカントを政治的問題に巻き込みました。この頃のドイツでは、教育・教会省の監督下にある教師は、聖書の教理に反した場合、失職と懲罰が課せられることになっていました。また宗教関係の著作は、すべて検閲を受け、正統主義に反する著作は出版を差し止められました。現代ではイスラム国家イランがこういう国ですが、200年前のキリスト教国家ドイツでは、キリスト教信仰はたんに私的領域にとどまらず、国民生活を統一する国家的機能も担っていました。カントは『理性の限界内における宗教』の第一部を検閲に提出しました。検閲官は「学者を対象にした哲学書」として出版を許可します。

 カントは第二部を検閲に提出すると事態は一変。聖書と教会の教えに反するという理由で出版を差し止められます。カントは法的抜け道を利用して、1793年に『理性の限界内における宗教』を全巻出版。翌年、対抗処置として、国王フレデリック・ウィリアム二世自身がカントに書簡を送り、「聖書とキリスト教に対するこのような攻撃について弁明を述べなさい。これ以上の反抗は、あなたの望まない結果を招く」と強く警告しました。

 カントは弁明書の中で、「この著作の目的はキリスト教を批判するものではないこと。むしろキリスト教を高く評価し、聖書こそ最高の価値を持つ書であること」を訴えます。そして「国王の最も忠実な僕である私は、今後いかなる公的発言、講義、著作も宗教分野に関しては行わない」と書き、王への忠誠を誓いました。

 出版まで紆余曲折を経て、さらにカントと体制の間に緊張を生んだ『理性の限界内における宗教』。公平に読むならば、カント自身がいうようにキリスト教自体を批判する内容ではありません。むしろキリスト教と聖書の権威を弁護する内容であり、当時の理性万能を謳歌する啓蒙主義に対する批判の書だともいえます。その証拠に、この著作においてカントは、人間に宿る原罪を「Radical Evil(根本悪)」として論じ、啓蒙主義陣営から猛反発を食らいました。著作の歴史的背景はこのへんにして、カントの神学が現代に投げかける課題を次回から見ていきましょう。

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