Ethical Experiment

オドロキの救済論

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    信仰について@

 

 フィリップ・アリエスによれば、子供という概念は比較的近代になって誕生したそうだ。それまでは、小さな大人しかいなかった。宗教についても同じことが言える。宗教という概念は、比較的新しい概念である。それまで宗教は存在しなかったのかと言えば、そうではない。何千年前から存在した。しかし、それがことさら『宗教』という用語で、意識されていなかっただけなのだ。生活の一部として、あまりにも当たり前すぎて、宗教という特殊な分野として意識されなかっただけなのだ。ある事柄が、空気のように前提されている間は、それが前提されていることすら気づかない。それが特殊なものとして意識されるようになるのは、それに対する否定が意識されるときである

 信仰もそうである。聖書を例に取ると、旧約聖書にはほとんど「信仰」という用語は登場しない。信仰は、信仰という特殊な事柄としては古代イスラエルでは意識されていなかった。ある意味で、生活全体が信仰だったとも言える。文化、宗教、信仰などといって、細分化されていなかったのだ。文化や宗教といった区分けは、近代の現象である。総理大臣の靖国神社参拝を、政教分離に違反するなどといって訴訟を起こす人たちがいるが、戦死者への参拝は、宗教という概念が生まれる前から存在している慣習であり、宗教という概念以前から存在する事柄を、宗教という概念に当てはめて騒ぐのは、無茶苦茶である。

 イスラエル人が、「信仰」を意識しだしたのは、バビロン捕囚によって祖国を追われて他民族の中で暮らすようになってからである。つまり、自分たちの価値観・世界観に対立するものに直面して以降のことであった。キリスト教における「信仰」はユダヤ教とローマの諸宗教との対立において、中世ヨーロッパの「信仰」はイスラム教や異端との対立において、宗教改革時代の「信仰」は中世的教会との対立において、近代の「信仰」は理性との対立において、それぞれ確立されてきた。つまり、昔は、全体の生活の中に融合していたものが、それを否定するものとの対立の中で、特殊なものとして区別され意識されるようになっていったのだ。

 さて、ここで対抗の法則というものを紹介しよう。ある事柄が攻撃されたときの状態と、その攻撃に対抗した後の状態は、決して同じではない。どういう意味かというと、何かに対抗するということは、狭くなるということである。あなたの意見が批判されたとしよう。あなたはその批判に対抗しようとする。つまり、反論しようとする。反論するためには、防御すべき意見を明確にしなければならない。すると、防御の対象になった意見は、批判される前の意見と決して同じにはならない。必ず狭くなるはずである。この法則は、政治、経済、すべてに当てはまる。アルカイダに米国が攻撃された。米国は自国を防御しようとする。攻撃を受ける前の市民的自由は、制限される。狭くなる。

 信仰という用語も同じ運命をたどってきた。例えば、中世ヨーロッパのキリスト教は多様で幅広かった。ある意味で、何でもアリだった。マルチン・ルターは自分への攻撃に対抗するために、どうしたか?信仰の意味を限定した(狭くした)。今度は、プロテスタントの攻撃に対抗するために、トレント公会議が開かれる。そこで、中世的な多様さは失われ、現代のカトリック教会の狭い信仰になる。啓蒙時代に、信仰が攻撃されると、それに対抗するために、教会は防御する。防御すると狭くなる。こうやって、信仰という用語は、ますます狭く理解され、現代に至っているわけだ。

 これは責められない。教会だけでなく、すべての個人も、つまり私たちも同じ運命なのだ。攻撃されて、それに対抗しようとすれば、必ず狭くなる。幅広く多様だと、突っ込みどころが満載になる。だから、定義を明確にして、防御範囲を限定しなければならない。裁判でも法でも、何でも同じである。現在伝わる宗教の教義を眺めると、なんと狭苦しいのだろうと感じる人も多いだろう。悪く思わないで欲しい。好きでそうなったわけではないのだ。最初は幅広く含蓄いっぱいだったのだ。世の中には、必ず悪口を言う人がいる、批判する人がいる、攻撃する人がいる。その攻撃から身を守ろうとすれば、幅広い教義を明確に限定しなければならない。防御に成功するほど狭くなり、今度は、「狭い!」といって批判される・・。前回の記事で、「信仰の誤解を少しイジワルに書いたが、それらの誤解とは、狭くなる過程で生まれた産物だったのだ。

 私たちの世代は幸いにも、歴史を振り返って、信仰という用語が「対抗の法則」によって狭まったことを知っている。だから、もう一度、その用語の本来の意味を回復する努力も可能なのだ。しかし、本来の意味とは、信仰という用語が登場する前の信仰の意味ではない。それは不可能だ。信仰という用語が狭くなる前、つまり信仰という用語が登場する前は、そもそも「信仰」という用語自体がなかったわけで、それを定義することは不可能なのだ。そこで、新時代の信仰の定義は、現在の定義よりは意味が幅広く、でも本来の意味よりは(それがどんなものか知らないが)狭いという程度にならざるを得ないだろう。

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