Ethical Experiment

オドロキの救済論

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    信仰についての誤解と批判

 

 多くの人が、信仰や宗教について批判するが、そもそも信仰や宗教という用語が何を意味しているかについて反省しながら批判している人は意外と少ない。信仰や宗教という用語の意味について一義的な理解があるわけではないが、神学者や宗教学者たちの長年の議論の中で、その意味もずいぶん範囲が狭まってきた。そういうわけで、よくある誤解を紹介して、なるべく信仰と宗教について有意義な話ができるための前提を書いて見たい。

 まずよく見かける誤解のナンバーワンは、信仰をある一定の信条についての盲信と勘違いしているケースである。たとえば、「キリスト教徒はこういうことを信じている」と言って、キリスト教の信仰を批判しているつもりになっている人がいる。その人が批判しているのは、英語で言えばBeliefであってFaithではない。信仰とは、Faithである。このタイプに属する人は、信仰を科学や常識では考えられないことを盲信することだと勘違いしている。このタイプのもう少し穏健な立場の人は、信仰を決定的な証拠はないが、でも確信することだと勘違いしている。どちらも、信仰を知的な事柄への態度、あるいは知識の一形態として理解している。このタイプの人たちにとって、信仰とは知的無責任・知的不誠実さに思えてくる。「こんなことを信じている奴はよっぽどバカだ」と思うのだ。不確定なことをあくまで不確定として、誠実な疑いにとどまることこそ、知的人間のとるべき態度であると。したがって、信仰を持つ人は、知的に不誠実な人だ。要約すると、こうなるだろう。つまり信仰とは非常識なのだ。。これはこれで立派な批判なのだが、信仰に対する批判としては単なる誤解である。

 次に見かける誤解は、信仰を信頼と誤解しているタイプである。英語で言えば、FaithをTrustと勘違いしているタイプだ。このタイプの人たちからすれば、信仰とは権威に対する盲従に思えてくる。教祖に対する信頼、経典に対する信頼、教会に対する信頼などなど。このタイプの人たちは、信仰者には自立心が足りなく思えてくる。信仰を持つなど、精神的な自立心が足りない証拠に思えてくるのだ。これはこれで立派な批判だが、信仰に対する批判としては、未熟な誤解である。

 次に見かける誤解は、信仰を意志的行為として理解する誤解である。つまり信仰とは強い信念である。百万人、我に反対せれど、我この道を貫き通す。このタイプの信仰批判者からすれば、信仰とは強情である。あるいは高慢である。信仰は、謙虚さと精神の柔軟さを失わせると。これはこれで立派な批判だが、たんなる信仰についての無知である。

 最後に見かける誤解は、信仰を感情の一形態として理解する誤解である。このタイプの人は、信仰の起源を感情的危機に求める。安心感が欲しいから信仰を持つのだ。孤独を癒すために信仰に走るのだ。死の恐怖を克服するために信仰を求めるのだ。まぁ、こんな風に解釈してしまう。このタイプの批判者にとって、信仰とは、精神安定剤である。これはこれでまあまぁな批判だが、やはり浅い見解である。

 さて、こういうありがちな誤解はどうして生まれたのか?主な原因は、多数の信仰者が、そのような誤解を生む印象を与える自己宣伝をしたからであろう。そうとしか考えられない気がする。そうでなかったら、信仰批判者とは単なるバカだということになってしまう。もちろん、信仰者だけに責任を押し付けるのも酷なことだが、今日、信仰について冷静に語ることがますます難しくなってきている。同時に、信仰批判者たちも自分が批判している対象の本質について異常なほど勉強不足である。まぁでも、あらゆる誤解と無縁なことなど、世の中にはないのだから、信仰もとうぜん誤解の一対象になるのだろう。小生も誤解の責任を負うことがないように気をつけないと。もうやっちゃったかな・・。

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