Ethical Experiment

なぜ宗教は消滅しないの?

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    成功と破滅を約束する神

 

 神とは、たんてきにいって、成功と破滅を約束する存在である。神のこの性格は、数千年変わっていない。人類から宗教がなくならない理由も、ここにある。人類は、成功への願望と破滅への恐怖の狭間で生きる生物だからだ。旧約聖書の申命記には、

「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めを聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わないならば呪いを受ける(申命記11:26)」

と書かれているが、この神の命令こそ、宗教の原型であり、人格形成の原型である。神という言葉を親、先生、医者、上司、政治家、法律、社長、妻、評論家、カウンセラーという言葉に置き換えて読んでみればいい。

 幼少の頃は、親が成功と破滅を約束する。親の戒めを聞き従うならば祝福を、聞き従わないならば呪いを受けると脅されてしつけられるものだ。小学校に入学すると、先生がその役目を引き受ける。少なくとも、小生が学童の頃はそうだったが、現在では教師は、祝福も呪いも約束できない弱い立場にあるらしい。上述の申命記11:26は、人格形成の普遍的命令であって、この言葉で、ある時はおだてられ、ある時は脅されながら育てられない限り、人間は社会的存在になることはできない。

 人間が、自分の安定や幸福を保障する、あるいは脅かす対象を怖れるのは当然である。有限であるだけでなく、自己の有限性を意識している生物・人間は、自己の安定と破滅を外部に依存していることも意識している。人間は神に依存しているというより、人間が依存しているものが神である。宗教に頼る人を弱い人と断じ、自分は自立心の強い人間だと勘違いする人が多いが、かれの自立心が示しているのは、かれが依存しているのは宗教の神ではなく、他の神であるという当たり前の事実である。

 このサイトで、何度かファイエルバッハの宗教哲学を紹介したが、かれは「神とは、人間の理性を投影したものである」と定義した。この言明が示しているのは、フォイエルバッハにとって、人類の成功と破滅は、理性の命令に従うか、従わないかにかかっており、つまり彼にとって理性が神であったということだけだ。したがって、フォイエルバッハは理性を怖れ、理性に対して弱かった。理性に反して行動すると破滅を予感し、理性に従うとき成功を予感した。反理性的とは、最大の呪いだった。19世紀のドイツの知識階級の感覚の典型である。人間は別の神の名によってしか、神を否定できない。

 さて、フォイエルバッハの時代と現代の違いは、神がますます小さくなって細分化してきたことだろう。神は相変わらず、人間に成功と破滅を約束するが、神は小さな神となり、同じ顔で身近に何度も登場する。映画マトリックスのエージェント・スミスのように。世俗社会の神は、他人の欲望である。ジラールやラカンの理論は、その注解書であり、つまり神学書である。一昔前は、成功と破滅を約束する神の命令は、首尾一貫していたので、それに従うのも背くのも明確であった。どんな祝福が与えられ、どんな罰が与えられるのかも明確だったので、それに比例して人格の一貫性は強固になった。現代は、小さな神々が、微妙に違う命令を発し、その報いと罰も微妙に違い、しかもスミスのようにいろんなところに出没するので、人格の一貫性は揺らぎ、その場その場でコロコロ変わる。自分は自立心が強いと信じている人ほど、他人への羨望と嫉妬に弱い。いわゆる伝統的宗教の神への依存心が強い人ほど、人格と行動パターンが一貫している場合が多いのは、彼が依存する「成功と破滅についての約束と命令」が体系的で首尾一貫しているからである。

 人間は誰でも神を恐れる。というより、自分が恐れているものが神である。いわゆる宗教信者は、自分が神を恐れており、神の命令に従うことで幸せを成就しようとしていることを自覚している。そこには恥や卑屈の意識はない。「神からの自立」を自慢する人は、神への恐怖とその否定が並存している。したがって、自分に成功と破滅を約束し、その法を命じる「他人という神」に対して、羨望と嫉妬が、傲慢と卑屈が入り混じる。怖いものは怖いし、自分が怖がっていることを認める方が、はるかに健康的で、人格も安定するのだが・・・。

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