Ethical Experiment

なぜ宗教は消滅しないの?

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       神の概念と神の観念は、別物です。

 

 欧米の宗教哲学で常にホットな話題といえば、神の存在証明である。賛成する側も反対する側も、論理の蓋然性や妥当性を巡って、熱く火花を散らしている。欧米人には、常識過ぎて疑うことすらないのだろうが、日本人の小生が諸論文を読むと、そこにはまったく無批判に前提されている公理があることに気づく。その公理とは、「神とは肉体を持たない霊的実体であり、全能にして全知の宇宙の創造主、道徳の源泉である完全な人格である」というものだ。神の存在の反対者は、そういう存在には矛盾があり、したがって存在は不可能だと主張する。神が全能なら、なぜ世界は不条理で悲惨なのか?神の全能と人間の自由は両立するのか?神は、自分でも持ち上げることができないほど、重い物を創造することができるか?それらの疑問に対して、援護者は理屈をこねて反論する。すべては、この公理を前提しての擁護であり攻撃である。

 ここでは、その公理を批判しようとは思わない。問題にしたいのは、神についてのこの公理が、神の概念なのか、それとも神の観念なのかという点だ。答えは云うまでもない。それは神の概念である。キリスト教有神論の神の概念の1つだ(キリスト教と一口に言っても色々あるので)。イスラム神学者、ゾロアスター神学者、ヒンズー神学者は、それぞれ「神とは、○○○である」と定式化する。それに対して、無神論者は反論する。神学者が擁護しているのは、彼の神の概念であり、無神論者が反論しているのは、その神の概念である。神の概念と神の観念を混同してはいけない。神の概念は、歴史的、社会的、宗教的要因によって変化する。神の概念は、哲学的に、歴史学的に、社会学的に、心理学的に説明することができる。しかし、神の観念の起源と存在は、歴史的、社会的、心理的には説明できない。神の概念は、多様に分岐し発展してきた。それこそ、人の数だけ神の概念の数もあるだろう。しかし神の観念は、人類史を通して普遍的に存在してきたし、これからも消えることはない。神という用語が意味する概念は千差万別だが、神の観念は一貫して普遍的である。マルクスは、「神とは抑圧された民衆の幻想だ」といったが、彼が念頭においていたのは、当時ヨーロッパでポピュラーだったキリスト教有神論の神の概念である。ある特定の神の概念を批判した無神論者はたくさんいたが、いまだかつて、神の観念を批判した無神論者は一人もいない。なぜなら、神の概念の批判も擁護も、神の観念を前提にしない限り不可能だからである

 神の観念とは、絶対的なもの、究極的なもの、永遠的なもの、完全なもの、無限なものについての観念である。絶対的自己という近世以来おなじみの欧米的理想が神の観念に投影されると、通俗的キリスト教の神の概念になる。西田幾多郎のように、禅的無が神の観念のスクリーンに投影されると、「絶対無」という神の概念になる。無神論者は、絶対的なもの、究極的なもの、永遠なもの、完全なもの、無限なものについての観念に基づいて、ある特定の神の概念の非絶対性、非究極性を暴露するに過ぎない。無神論者が、神の概念を否定できるのも、神の観念のお陰なのだ。宗教哲学の課題は、無神論者の関心を、神の概念から神の観念に向けさせることである。

 人間の謎と神の観念の謎を解くことは、同じことである。なぜ人類には、神の観念が備わっているのだろうか?

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