Ethical Experiment

神へのアプローチ

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 神と無限(3)

 

 線分を切断すれば点が取り出せる。そしてそれを延々と続けていける。可能性としては無限に続けることができる。その可能性だけが無限であると考えるならば、それは『可能無限』と呼ばれる立場である。アリストテレスは、可能無限の立場に立った。可能無限の立場は、実際には有限しか認めない。果てしなく続く可能性といっても、現実にはいつも有限に留まるわけだ。『限界なき有限主義』と言ってもいいだろう。

 それに対する『実無限』の立場がある。たとえば、円周率が数として定まった値を持つと考えると、それは『実無限』と呼ばれる立場になる。円周率の値はすべて確定しており、私たちはそれを有限の位までしか知らないだけだと考えるのは、無限を実体としてみなす態度である。無限集合論を作ったカントールなどは実無限派と云えるだろう。

 さて、デカルトはと言えば、神の存在証明の前半までは、可能無限派でも実無限派でもない。ここがデカルトのユニークな点である。可能無限を無際限(Indefinite)と呼び、無限として認めなかった。しかし、神を「無限の存在」として結論した点では、突如として実無限派になってしまう。おそらくデカルト自身も気づいていなかったようだが、彼の論議は、可能無限でも実無限でもない第3の立場を提示する可能性を秘めていた。しかし残念ながら、無限なる神を実体として結論した時点で、実無限派に成り下がってしまった。

 第3の立場から無限を考えたのは、小生が知る限りでは西田幾多郎とティリッヒだけである。両者とも、無限を見えない仕方でのみ現れてくるものとして考えようとした。ここが、その他大勢の論者との決定的違いである。その他大勢は、無限を「対象論理」によって考えようとした。主−客図式の構図の中でのみ、無限を考えようとしたのだ。無限を対象として考えると、可能無限か実無限として以外に考えようがない。しかし、西田とティリッヒは、主−客が二分化する直前、つまり生成の現場で捉えようとしたのだ。言い換えると、両者は無限を形成作用として考えたのだ。

 通常、私たちが「主観」と呼ぶものは、客体を見る自己を対象化したものである。主観といえども、すでに対象化されているのだ。私たちが「主体」と呼ぶものも、対象論理における主体でしかない。すでに二分化された一方の極に過ぎない。しかし、二分化を実行する形成作用としての主体は、いわゆる「主体」とは別物である。ウィトゲンシュタインが云うように、形成作用としての主体は世界に属さない。それは世界の限界である。それは自己と世界の対象的二分法を形成する真の主体であり、したがって絶対に対象化できない。たしかに、およそ認識というものが可能であるためには、物事を対象論理で捉えなければいけないだろう。自己の認識を対象論理の範囲にだけ限定したのが、カントであり、論理実証主義者であり、分析哲学だった。それはそれで理由のあることだ。しかし、人間の知性はそれでも、対象論理を超えて考えてしまうことができるのである。成功するかどうかは別にして、人間はその可能性を自覚している。だから、ティリッヒや西田のように実行してしまう人が後を絶たないのだ。

 主−客が分離できる以上、差異がある以上、分離と差異が発生する「地」があることは、誰でも自覚できる。分離と差異は、何かが分離・区別されたはずなのだ。分離・区別されるはずの「地」がなければ、分離・区別されようがない。およそ思惟と認識は、区別と分離によって成立するとすれば、それに先行する分離以前・区別以前の「地」は認識の対象にはならない。しかしそれでも、「地」が先行していることは、誰でも自覚できる。今日の対象論理の圧倒的優勢は、科学の実利的完勝に負うところは多いと思うが、それでもアインシュタインのような科学者は、対象論理に先行する主−客以前の神秘を忘れることはなかった。無限とは、いかなる限定も受けず、しかし限定そのもの(差異・区別)が発生する何かであるというのが、第3の立場だろう。

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