Ethical Experiment

神へのアプローチ

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 神と無限(2)

 

 無限は、有限な存在の否定的要素を否定することによっては導き出せない。例えば、人間は死ぬ。死という有限性の否定的要素を否定して、無期限に生きる存在を想定しても、それは無限な存在ではない。つまり神ではない。すくなくともデカルト的な意味では。無限は、有限の反対を考えることによっては得られない。有限の反対は、無際限(Indefinite)である。人間は、無際限に自己を反省できる。さっきの自分と今の自分を比較することができる。つまり人間は、自己と世界を潜在的には無際限に超越することができる。人間は、世界と自分を、限界づけられた1つの全体として、「外」から眺めることができる。無際限に続く数、無際限に広がる空間、無際限に終わらない時間を想像できるし、無際限に広がる空間の外には何があるのか、無際限に続く時間が始まる前の「時間」は何なのかを問うことさえできる。とはいえ、伝統的に無限として論じられてきたのは、無際限に過ぎなかった。

 前回、無限とは、有限性と無際限の自己超越の自覚を可能にする何かだと書いた。自分が有限であることは、いかにして自覚できるのか? 自分を無際限に反省できるのは、いかにして可能なのか? デカルトは、「われ思うゆえに、われあり」という命題は明晰判明に真であると云った。この命題が真であるのは、無限なる神の観念が、デカルトの思惟に先天的に備わっているからだとも云った。有限性を自覚させ、方法的懐疑(無際限な反省)を可能にするのは、無限なる神の観念だそうだ。これはいったいどういう意味だろう?

 フォイエルバッハが云うように、思惟するためには根源的には二人が必要である。理性はただ対話の中でだけ発生する。1人で考えている時でさえ、人間は自分と対話しているのでる。区別する能力こそ、思惟の絶対的発生条件だといえる。動物は、自分と他者を区別する。したがって、他者について思惟することは可能だろう。しかし、動物の思惟は、人間的な意味での思惟ではない。人間は、自己を思惟し、自己にとって対象であることができる。ここが決定的に違う点である。自分について自己問答する人は、自己を思惟している自己と、自己を思惟しているその自己をも対象化している自己が対話している人のことだ。有限性を自覚している自己とは、自己を有限な総体として見る自己である。無際限な自己超越は、その自己をも反省的に思惟する自己であり、延々と反復することができる。自己を自己から内的に区別する能力こそ、思惟の源泉である。「初めに区別あり」である。異なったもの(区別)は、差異性の原理からだけ発生する。私たちは、差異性を前提しなければ、差異性を引き出すことができない。差異性は、差異性自身によって説明する以外の仕方では説明することができないのである。差異性は、理性の中に必然的に横たわっている。デカルトが、思惟の中に発見したのは:原初的・絶対的差異性の痕跡である

 これをデカルトは神と呼んだのだ。そしてこれが、デカルトの云う無限である。したがって、デカルトによれば、「無限なるものの知覚は有限なるものの知覚より、言い換えると、神の知覚は私自身の知覚よりも、いはば一層先なるものとして私のうちにあることを、私は明瞭に理解する(省察・岩波文庫)」。

 無限(神)は、思惟自体を可能にする絶対的差異性として、思惟自体に先行する。ティリッヒが、「神は、神についての問いの前提である」と云ったが、デカルト的に翻訳すれば、こういう意味である。思惟自体の前提なので、無限は定義不可能である。デカルトの云うように、「有限であるところの私によって把握せられないといふことは、無限なるものの本質に属するものであるから(省察・岩波文庫)」。

 把握できないものを論じることは、無意味ではないだろうか? ウィトゲンシュタインは、この問題について徹底的に考えた。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない(論理哲学論考・岩波文庫)」。なるほど、たしかにそうだ。しかし、ウィトゲンシュタインでさえ、「語りえぬもの」を「語りえぬもの」と呼んでいるではないか。沈黙していないではないか。「たしかに語りえぬもの」は論じることはできない。しかし、それを名指しすることはできるのだ。なぜならウィトゲンシュタイン自身が云うように、「だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である(同上)」。無限は示される。神は示される。デカルトの失敗は、神の存在を論じてしまったこと、その存在を証明しようとしたことである。

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