Ethical Experiment

問題の背景

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近代道徳哲学の中心教義

 
 近代欧米の道徳哲学は諸派あるが、大筋において共通している中心的教義があるように思える。その3つのキーワードは、「規範と説明としての理由(Reasons)」、「意志による自己支配」、「理性による自己理解」である。この3つはそれぞれ互いに絡み合っているが、ここではそれぞれ別々に扱ってみよう。

「規範と説明としての理由」

 道徳性は欧米の道徳哲学において、行為の規範的理由として理解される場合が多い。例えば、Aさんが、お金を道で拾いました。そのお金をどうしようかと迷っていたら「警察に届けなければいけない」という考えが浮かびました。Aさんは「なぜお金を警察に届けなければいけないのか」自問自答して、「落とした人は困っているに違いないから、届けることは正しい行為だ」と自分に言い聞かせ、近所の交番に向かいました。Aさんは、「自分がなぜそうしなければいけないのか」と行為の理由を問うと、その答えとしての理由は、「〜すべきだ」という規範的性格を伴っていたはずだ。なそうとしている行為に規範的理由(〜だから、〜為すべし)を与えるのが道徳性だという考えである。

 また道徳性は欧米の道徳哲学において、行為の説明的理由として理解されている。Aさんを観察していたBさんは考えました。「なぜAさんは、拾ったお金を警察に届けたのだろう」。Bさんは、Aさんの行為の動機になった理由を推測しています。Bさんは「拾ったお金をネコババするのは悪いことだと考えて、交番に届けたのだ」という結論に達したら、BさんはAさんの行為の説明的理由を得たわけであり、これが道徳性の説明的理由という側面である。

 ここで暗黙の前提になっているのが、ある行為には必ず理由があるというドグマである。このドグマは前提されるべき公理であって、その証明は絶対的に不可能である。これはほとんど、「信仰」と云える。もちろん、私たち人間は「ある行為には理由がある」を信じなければ、1日たりとも社会生活を維持することはできないだろう。しかし社会生活における必要不可欠性は、真理の証拠にはならない。欧米の道徳哲学にとって道徳性とは、行為を導く、あるいは行為を決定する規範でなければならないと考えられているので、行為に理由がなければ道徳性自体が成立しないのである。

 そしてさらに、暗黙の前提になっているのが、ある行為の理由を私たちは知ることができるというドグマである。ある行為が為された理由がわからなければ、その理由の道徳的正当性を判断することはできない。しかし、近代以前には、道徳的非難を帰す時、その行為の理由を詮索しない社会もあったのである。どういう理由で殺したかにかかわらず、殺したら罪として裁かれるとか。しかし、道徳がもはや宗教に基づかなくなり、人間の理性に基づくとすれば、理性は、理由を「すべてご存知」でなければならないのある(理性も理由も英語ではReason)。道徳が宗教の一部であった時代は、「神はすべてご存知だから」で済んだから、神の後任としての理性もまた同様でなければなならい(と欧米の道徳哲学は信じている)。

「意志による自己支配」

 欧米の道徳哲学で中心的役割を果たしているのが、「意志」である。意志とは何か。意志とは、意図的行為を為す能力のことである。「意志を持つ」とは、意志に基づいて行為をする能力を持つことであるといえる。つまり自分の意図に基づいて、意図通りの行為を為す能力のことである。もちろん結果として、意図が果たせない場合もあるが、行為の出発点には意図があるとされる。すると私が行為に道徳的責任を持つのは、その行為が私によって意志された行為だからということになる。でもそうなると、私によって意志されていない行為は、私の行為であっても責任を負わないという意味でもある。では、「私によって意志されていない行為」とは何か、それは「わたしが望まなかった行為(でも何故か起きてしまった行為)」である。意志された行為は、私が意志した限りにおいて私の支配下にある。私がコントロールできる。つまり意志とは、支配する能力のことと云える。私が意志という能力を用いて、行為を意図的にコントロールしている限り、私は自分の人生の主人であると考えるわけだ。

 では意志でコントロールできない行為、あるいは意図的に支配できない行為はどうだろう。例えば、強迫神経症の患者は、何度手を洗っても十分洗った気がしなくて強迫的に手洗いを反復するが、手洗いをとめようと意志しても止められないわけだから、それは意志・意図の範囲外に存在する行為として、「私の行為」とは見做されない。刑法39条の「心神喪失」の定義は、「事物の理非善悪を判断する能力がないか、あるいはこの判断にしたがって行動する能力のない状態」だが、この定義がいかに密接に近代欧米の道徳哲学に関係しているかがお分かりになると思う。なぜ犯罪行為に至ったかの理由を判断できない場合、そしてこの判断(意図)に従って行動する能力がない場合は、道徳的に追求することができない。つまり私(彼)の意志に反する行為は、私(彼)の行為ではないとなる(ではいったい誰の行為?)。

 ところで、意志によって行為を決定する「私」、意図を行為に表す「私」とは、誰なのだろう? どういう「私」なのだろうか? 答えは、行為を意志したと意識された「私」である。つまり意識という鏡に映った範囲の「私」が、道徳的主体の私と見做される。そして意識に移っていない部分は、いかに身体的には自分に属していても「非・私」になるわけである。ここで、近代道徳哲学のもう1つの中心教義が明らかになる。それは、「私」とは、意識に昇る範囲での「私」であり、意識に昇る範囲の「私」は、意志によって行為を支配できるというドグマである。

「理性による自己理解」

 もし私たちが意志によって行為をコントロールできれば、私たちは自分自身を誰よりもよく理解しているといえる。なぜなら、行為の理由は私たちの意図の中に秘められており、私たちが意図したわけだから、私たち以上に行為の真実を知る人はいないだろう。自己に対する確実性の意識は、「われ思う、ゆえに、われあり(Ego cogito, ergo sum)」という定式で、デカルトを通して近代哲学の基礎となっていた。デカルトの定式は、必ずしも「自己の行為の意図を私は熟知している」ということと直接関係はないのだが、「認識は私に基づく」という自信は、デカルトの哲学の延長線上にしか生まれなかっただろう。

 私は、私の行為の理由を知っている。つまり私は、私の行為の動機を知っている。では、私の動機が私にとって不可知のものだったら、どうなるだろう? するとその動機は、「私」の動機ではない。私が私の行為の主人であるのは、自分の動機を知っている時だけである。「自分でも何であんなことをしたのかわかりません」といえば、弁護士さんは精神鑑定を申請し、あわよくば「心神喪失者の行為はこれを罰せず」ということで、病院暮らしで済むことも期待できるだろう。理性が行為を把握し、導いているときだけ、人間は「真の自分である」、これが近代欧米道徳哲学のドグマである。

 さて、こういう欧米の道徳哲学の中心的ドグマが、攻撃に晒されている。しかもこの攻撃が、まさに欧米的道徳哲学の精神によって養われているから皮肉である。欧米的道徳哲学の申し子である現代認知心理学、神経生理学が、中心的ドグマに異議を申し立てるのである。それについてはまた次回。

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