Ethical Experiment

神へのアプローチ

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 神と無限(1)

 

 近代哲学の始祖といえば、デカルトだろう。近代哲学、とくに合理主義はデカルトに始まると云われる。デカルトといえば「コギト エルゴ スム」があまりにも有名だが、彼がなぜ「コギト エルゴ スム」を裏づけるために、必死になって『神の存在証明』に取り組んだのかに注目する人は少ない。小生は最近、デカルト関係の論文を読み漁ってみたが、「コギト エルゴ スム」と「神の存在証明」は、別々に論じられる傾向にあるようだ。デカルトは、宗教心が篤いから『神の存在証明』を試みたのではない。デカルトは、中世の哲学と決別するために、つまり近代哲学を打ち立てるために神の存在を証明しようとしたのである。近代哲学の開始は、神の存在証明から始まったのである。

 デカルトによれば、「われ思う、ゆえにわれあり」は確実な原理である。なぜか?デカルトの答え:神が存在するから。デカルトによれば、「われ思う、ゆえにわれあり」が確実である根拠は、神の存在に懸かっているのだ。デカルトの神証明に対しては、カントをはじめ、多くの批判がなされた。公平に見れば、デカルトは圧倒的に不利である。原因は、デカルト自身の論証にあるのだが、それについてはここでは触れない。おいおい後で。今日は、デカルトの神の存在証明の「無限論」についてだけ書きたい。

 デカルトは、方法的懐疑によって「われ思う、ゆえにわれあり」に辿りついた。そこでもう一度、デカルトは問う。「そもそも私はどうして疑うのか?」。答え:私は有限だから。なぜ私は自分が有限であることに気づいたのか? 答え:無限なものと自分を比べることによって。したがって無限は存在する。

 このデカルトの論証に対しては、当時も現在も批判が絶えない。英米系の代表的哲学者マッキーの批判を要約してみよう。マッキー曰く:無限を想定しなくても、自分が有限であることに気づくことはできる。過去の自分を対象化して、現在の自分と比較すれば、自分が進歩したことに気づくだろう。すると、自分が不完全であることが分かる。現在の進歩した自分を、未来のもっと進歩した想像上の自分を比較すれば、自分が有限であることが分かる。君が想定している無限とは、たんに有限性の否定から想像できるものだよ。無限に長い物は、短い物の「短さ」を否定して想像されたものだ。完全な物とは、不完全な物の「不完全性」を否定しただけだ。ほら見ろ、というわけだ。つまり、自分の不完全性や有限性は、完全な理想像を思い描いて、それと自分を比較すれば簡単に得られる。したがって、神などを想定する必要はない。

 こういうありきたりの批判に対しては、デカルト自身ハッキリ答えているのに、多くの哲学者はあまり気づいていないようだ。デカルト曰く:有限なものの有限性を否定して想像されたものは無限ではない。それはたんにINDEFINITE(無限界)である。デカルト自身の言葉を引用。

「無限の線があるとしたら、その半分も無限であろうとか、あるいは無限数は偶数か奇数かといったことをことを問う人々には、我々は答える労を取らないであろう。ある観点のもとではいかなる限界も見出さないものをば、我々は無限であるとは主張せず、無限界(INDEFINITUM)と見なすだろう(哲学原理・岩波文庫)」

 つまり、無限界とは、私たちがある観点において限界を見出さないものである。しかし:神は無限である。通常、ゼノンのパラドックスとかカントの二律背反といわれるものや、数学上の無限は、デカルトに言わせれば、無限ではなく、無限界である。無限界とは、自己を無際限に超越する有限である。しかし、無際限は無限ではない。ラッセルやフレーゲやカントールが格闘したのは、無限界に過ぎない。通常私たちが、無限とみなすものは、自己や対象を無際限に反省(対象化)できる人間の「超越的主観」の産物であって、デカルトに言わせれば無限ではない。人間は、量を可分的に無際限だと反省できる。人間は、無際限の質的延長を想像できる。しかし、デカルトに言わせれば、それは人間知性の無際限な自己超越の産物であって、そんなものは、無限には値しない。ではデカルト的に無限とは何か? 無限とは:
有限性の自覚と知性の無際限な自己超越を、同時に可能にする何かである

 懐疑は、2つの条件のもとでのみ可能になる。1つは有限性の自覚。もう1つは自己の有限性を対象化できる超越的主観である。つまり懐疑は、有限性と無限界の自覚を同時に可能にする何かによってのみ可能なのだ。私たちが無限と考えるものは、有限性の否定から想定できる無限界であって、しょせんは「有限ではないもの」という程度である。有限性の否定は、しょせん有限性の対概念であって、デカルトの云う無限ではない。多くの哲学者や数学者は、無限を有限の否定としてだけ捉えている。近代哲学の始祖様は、自分の子孫にため息をついているだろう。デカルトは偉かった。続きは次回。

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