Ethical Experiment

神へのアプローチ

Welcome to my column


 自己を知るとき神を知る

 

 紀元2世紀から3世紀にエジプトで活躍したアレクサンドリア学派の神学者クレメンスは、こんな言葉を残している:「もしある人が自己自身を知るならば、そのときは神をも知るだろう」。この発想は、後にアウグスチヌスを経由して、中世において神へのアプローチの主流となった。しかし現在の宗教哲学界では、全く省みられていない。

 19世紀ドイツで、この路線を徹底的に推し進めたのは、フォイエルバッハという哲学者である。彼は、若き日のマルクスに決定的な影響を与えたことでだけ、現代では記憶されている。主著に『キリスト教の本質』がある。岩波文庫の表紙には、「人間学的唯物論によってキリスト教世界観の根底を揺るがす批判を展開・・」と紹介されているが、実際当時は、教会と正統的神学者をずいぶん怒らせたようである。現在でも、フォイエルバッハを無神論者と決めつける識者も多い。

 しかし、そんな悪評判を無視して偏見なく読んでみると、『キリスト教の本質』は無神論どころか、立派な弁神論にしか、小生には思えない。フォイエルバッハこそ、19世紀ドイツにあって、「もしある人が自己自身を知るならば、そのときは神をも知るだろう」というクレメンスの神学の継承者なのだ。

 フォイエルバッハによれば:「神は人間の鏡である」。つまり、神とは、人間が自分自身の最高の本質と考えるものを反映したものである。人間が自分の本質として、これ以上高いものを何も表象できないもの、これが人間にとって神である。人間に対して本質的な価値を持っているもの、人間によって完全なものや優秀なものとして認められているもの、人間に真の満足を与えるもの、ただこういうものだけが人間にとって神であると、フォイエルバッハは云っている。

 したがって、ある人の神は、その人が自分の本質をどう考えているかを示す材料を提供する。クレメンスの言葉をもじれば、「もしある人の信じる神を知るならば、そのときその人がどういう人間観を持っているかも知るだろう」となる。喜怒哀楽を表さない無表情な神を信じる人は、感情を人間の最高の本質とは考えない人である。「もし君にとって感情が立派な特性であるならば、そのとき感情はまさにそのために君にとって神的な特性なのである(『キリスト教の本質』・岩波文庫)。したがって、感受性の豊かな人間は、ただ感受性の豊かな神だけを信じる。あなたの神のイメージは、あなたの人間観の反映である。人間に対する評価の低い人は、神への評価も低い。神への評価の低い人ほど、人間に対する評価も低い。皮肉なことだが、人道主義ほど人間に対する評価が実は低い。人権主義者ほど人間を子ども扱いする。フォイエルバッハによれば、必然的にこうなる。なぜなら、「宗教は、人間が自分自身に対してとる態度である(『キリスト教の本質』・岩波文庫)」からだ。

 ある人が、「人間の最高の本質」として、人生や自分の中に見出すものは、その人にとって神になる。「神は人間を愛する」と信じる人は、その人にとって愛することが神的であるということ以外の何事でもない。「天上の神々は、酒池肉林を好む」と信じる人は、人間にとって最高の価値とは酒池肉林と信じる人間である。「神さまは、私が田畑で小便すると怒る」と信じる人は、田畑を尊重することこそ人間の最高の価値だと信じる人だ。ある人の神に対する評価は、その人の人間に対する評価であり、人間に対する評価は、神に対する評価である。人間不信でありながら、神を信じることはできない。同時に、神不信でありながら、人間を信じることはできない。しかし、「神は嘘つかない」と信じる人が、実生活で常に正直だと云う意味ではない。ある人の神観は、その人の実生活を必ずしも反映するわけではなく、その人の人間観を反映するのである。

 フォイエルバッハの宗教哲学は、反キリスト教的どころか、まさに正真正銘キリスト教的である。教父から宗教改革者に至るまで、偉大なすべての神学者たちの証言に一致している。たしかにフォイエルバッハは、神学を人間学に還元しようとした。彼自身はっきり明言している。神を人間の本質に還元したのだ。その意味では、唯物論的無神論である。しかし、同時に人間学を神学に高めたとも云える。神学者たちは、フォイエルバッハをもっと正当に評価しても良いと思うのだが・・・。

Copyright © 2007 All Right Reserved.