Ethical Experiment

神へのアプローチ

Welcome to my column


 Original Fact

 

 ティリッヒの『組織神学』に、Original fact(原事実)という用語が登場する。原事実とは、それ以上遡れない、直接与えられた事実である。例えば、言語はOriginal factである。言語は、言語を説明しようとすると言語でしか説明できない。言語に先行するものは存在しない。言語に先行するもの、あるいは言語を超えたものを、「語りえぬもの」と表現したところで、それも言語表現である。ウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」である。すべての思考は、言語活動であり、言語の終着点は、思考の終着点である。言語をOriginal factとして想定するのが、現代西欧哲学の傾向であろう。

 東洋の哲学者・西田幾多郎にとっては、純粋経験がOriginal factである。判断の加わる以前の純粋なクオリア、主もなく客もない直下に経験した事実が、純粋経験である。稲妻が閃いた時、「私が稲妻を見た」と言明する以前の直接的意識。いまだ「私」もなく、いまだ「稲妻」もない。意識に登場した稲妻そのものの状態のことだ。たしかに、純粋経験はOriginal factである。これに先行するいかなる経験も存在しない。「世界」や「私」や「他者」は、純粋経験の反省として登場するわけで、意識に直接与えられた経験に先行するものは存在しない。すべては、そこから生まれるのだ。

 西田の立場からは、純粋経験は言語に先行するので、純粋経験だけがOriginal factだと言える。発話(言語ゲーム)だって、純粋経験の事実である。直下に経験する事実なしに、言語ゲームが可能ですか?無の中で言語ゲームが可能ですか?言語なしの経験は可能だけど、経験なしの言語は可能ですか?

 ウィトゲンシュタインの立場からは、「純粋経験」だって言語ゲームに含まれている言葉であり、したがって純粋経験について一般的に語る言葉をどこから手に入れるのかと反論できる。純粋経験という言葉自体が、言語で概念化されているではないか?

 西田にせよ、ウィトゲンシュタインにせよ、純粋経験と言語ゲームが絶対的Original fact、つまり神だと云ったのではない。西田は、純粋経験の根底に絶対無を想定し、ウィトゲンシュタインは、言語ゲームを超越する「語りえぬもの」を暗示した。興味深いのは、日本人・西田はOriginal factの「下」に降りていき、ウィトゲンシュタインはOriginal factの「上」に飛んだ。これが、西洋と東洋の神へのアプローチの違いなのだろうか?

Copyright © 2007 All Right Reserved.