Ethical Experiment

神へのアプローチ

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  接近を拒絶するもの

 

 少数派の神へのアプローチは、神が対象化される以前で捉えようとする。ウィトゲンシュタインは、宗教的命題や倫理的命題は存在しないと述べた。ウィトゲンシュタインは、宗教を否定しようとしたのではない。実は、逆のようである。最近の研究では、ウィトゲンシュタインは宗教固有の領域を守るために、あえて宗教的命題の存在を否定したという意見が提出されるようになってきた。神とは、対象化の最たるものである「命題」によっては表現されない。したがって、ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』において、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という文で締めくくるわけだ。「語りえぬもの」を安易に対象化するなと、彼は諌めているわけである。

 ウィトゲンシュタインの主張は、伝統的神学からそんなには遠くない。神学的に云えば、「神の威厳」とは、「神への接近不可能性」のことである。上下をひっくり返して云えば、接近されることを拒絶するものこそ、私たちにとって神的である。あるいは、語りえぬものこそ私たちにとっての、神になれる。逆にいえば、容易に語りえるものには、神性は感じられないという意味でもある。神とは、接近不可能性の別名である。そういう意味では、他人とは、「小さな神」である。父親にせよ、母親にせよ、恋人にせよ、妻にせよ、人格には、どんな接近をも頑として拒絶する決して触れられない中心がある。俗に、人間の尊厳といわれているものは、それである。人間の中には、「対象化」を拒む何かがある。実を言えば、「私」の中には、わたし自身の接近でさえ拒む何かがある。

 動物でさえ、対象化を拒む何かがある。動物は、自分が「食料」として、肉食動物に対象化されることを拒む。ライオンに捕らわれたシマウマは、自分が彼(ライオン)の対象(餌)として扱われるのを拒む。ある意味で、シマウマなりの「自由」の主張である。人間においても、恥や屈辱と感じられるのは、自分が対象化される時である。芸能記者に追っかけられる芸能人は、怒りを感じるはずだ。笑い「もの」にされたら屈辱を感じる。批評の対象にされたら、屈辱を感じる。さらし「もの」にされたら、恥を感じる。他人の視線や好奇心の「対象」にされたら、恥を感じる。人格の中心とは、他人が絶対に接近できず、だからこそ、人間は誰しも孤独でもある。そういうわけで、神の観念がなくならないのは当然である。神の観念の土台にあるのは、絶対に「接近不可能」な何かの体験である。

 これに同意できる感性を持つ人間にとって、対象化(主−客構造)において得られる知識は、二次的な知識に過ぎない。つまり対象化された「私」についての知識は、しょせん二次的である。対象化された「あなた」についての認識も、しょせん二次的に過ぎない。俗な例で云えば、結婚紹介所のプロフィールを読んで、「私」を知り尽くした気分でいる「あなた」は、「私」について実は何も知っていない。「私」を本当の意味で知りたいと思えば、対象化を越えた地点で知るしかない。

 人間についてでさえ、そうなのだから、対象化を拒む極点である「何か(神)」が、対象化の議論、つまり「神の存在証明」で。神へのアプローチとは、対象化を拒む極点へのアプローチである。じつに矛盾した試みである。でも、それが止まないのは、人間自身の中に、対象化を拒む何かがあるからだ。少数派のアプローチとは、まさに自分自身の中にある対象化を拒むX(エックス)へのアプローチである。

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