Ethical Experiment

神へのアプローチ

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      神的なものへの2種類のアプローチ

 

 宗教哲学には、「神の存在の証明」という主題があって、宇宙論的証明、目的論的証明、道徳的証明、存在論的証明、宗教経験による証明などと百家争鳴である。私は、神の存在証明には、2つの問題点があると思っている。まず第一に、神は「存在者」ではないので、「神という存在者」の証明はそもそも無駄であること。第二に、既存の議論は、神の根拠を、神以外の何かによって証拠づけようとしている点において、方法論的に誤っていることである。「神の存在」の証拠を要求する態度を、宗教哲学の用語でEvidentialismというが、外的証拠で証明できるものは、そもそも神と呼ぶに値するだろうか? とはいえ、圧倒的多数の宗教哲学者は、こういうアプローチなのだ。

 それに対して、極めて少数であるが、それとは正反対のアプローチをとる哲学者もいる。しかし、現在の英米系の学会では、彼らの存在はまったく無視されている。この立場は、まず第一に「神の存在」を証明しようとはしない。むしろ、神の観念がなぜ人間にとって普遍的なのかを分析しようとする。しかも、神の観念を、外的な事象にではなく、人間自身の内面を掘り下げることによってアプローチするのである。したがって、この立場においては、神を知ることは、すなわち自分自身を知ることになる。神を問うことと、自分を問うことは同じことである。神とは、人間自身の中に潜む人間自身についての謎である。古くは、アウグスチヌス、道元ならびに多くの仏教導師、ニコラス・クザーヌス、シュライエルマッハー、ヘーゲル、現代ではティリッヒ、西田幾多郎が、この立場に立つ。英米では、経験論や分析哲学の優勢によって、この立場は無意味な言説として無視されてきたが・・。もう一言云わせてもらえば、およそ真正の日本人であるならば、自覚する自覚しないに関わらず、誰でもこの立場である。

 英米系の宗教哲学が、神を対象化した時点、つまり認識する主体である私が、認識される客体である神を、外的な証拠によって証明しようとするアプローチであるとすれば、少数派は、神を問いの対象としてではなく、問い自体が成立するための前提として、人間自身の内面に直覚される何かとしてアプローチする。少数派のアプローチの特色は、主観−対象、主体−客体、という二分法に分裂する以前の時点において、神的なものを捉えようとする点にあるのだ。英米系が、神がすでに対象化されて、「神という存在者」になってしまった時点で捉えるのに対して、それ以前の、つまり対象化される以前の現場で捉えようとする少数派の方法論の根幹が無視されているのは、まさに不思議としか言いようがない。それを生涯の課題として追及したのが、日本では西田幾多郎である。西田幾多郎の哲学は、端的に云って宗教哲学である。私自身の立場を云えば、少数派支持であり、彼らの可能性を追求したいと思っている。

 先に、「日本人であるならば、誰でもこの立場である」と書いたが、これは別にごり押しではない。例えば、多くの日本人は、「桜を知る」という時、桜を対象化して、桜の外的要素を物理的に分析することに何の意味も感じない。桜について何か語る以前の直覚、つまり「主観−対象」に分裂する以前の主客未分の状態に、つまり言語で分節化する以前の直観に、言語で分節化できない何かに、桜の真実を見ようとする。桜の豊穣さとは、分析的言語では表現しがたく、詩的言語によってしかアプローチできないという直覚であり、ウィトゲンシュタインのいう言語ゲームには還元できないが、しかしウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」であるという直観である。云ってみれば、英米系が、「語りえる」ものだけに優先順位を置くのとは対照的に、「語りえぬもの」、つまり主客未分の状態を優先して、しかしそれに相応しい非命題的言語表現を与えようとする矛盾した態度が、上記の少数派であり、多くの日本人でもある。西田幾多郎は、それにあえて西田流論理学で挑戦した点が偉いと思うし、だから彼の論理は難解だ。

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