Ethical Experiment

神へのアプローチ

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不気味な神性

 

 墓場に通じる深夜の小道を、動物は怖れはしない。しかし、人間は怖れる。幽霊の存在を信じていない人でも、墓場に通じる深夜の小道を、一人きりで歩くことには躊躇するだろう。そこには、不気味さがあるからだ。火を発見する前の人類が、暗闇を怖れたことは容易に想像できる。なぜ、人間は暗闇を恐れ、幽霊を怖れるのだろうか?

 宗教史の古層においては、幽霊と神の区別はなかった。もちろん、神と悪魔の区別もなかった。悪魔という観念は、絶対神という観念が誕生したときに、同時に誕生したのだ。絶対神という観念は、後期イスラエル王国時代に、イスラエルの民族神が普遍的正義と同一視されたために、それまで神の観念が含んでいた不気味さが独立して、徐々に悪魔として実体化された。本来、神は善の源であると同時に、悪の源でもあった。神は恐るべきものだった。神に近づく時は、儀式が必要だった。うっかり儀式の手順を間違えれば、神の呪いが降りかかった。旧約聖書の中には、神の箱が牛馬に引かれて行進中に地面に落ちそうになり、それを支えようとして神の箱に触れた人が即座に呪いに打たれて死ぬ物語があるが、聖なるものは、同時に恐るべきものであることが示されている。こういう神話は、普遍的に存在する。時代が進んで、キリスト教の神が「愛の神」として理解された時、神性の裏面、つまり陰の面は完全に分離独立して、悪魔として実体化されたのだ。

 神性の裏面である恐るべき不気味さは、現代の世俗社会においても消えていない。消えるわけがない。人間が人間である限り。神性の不気味さは、@偏在性、A曖昧さ、B全能性、という伝統的神の属性による。ホラー映画を例にとって、考えてみよう。

 ホラー映画が怖いのは、突発的な点にある。『リング』の山村貞子は、ある瞬間、突発的に現れる。『エイリアン』の異生物も、突然現れる。視聴者は、いつそれが現れるのか予想できないからハラハラしてしまう。ホラー映画の中で、もし幽霊や異生物が、のうのうと日常生活を続けるシーンが連続したら、何の怖さも感じるわけがない。「不気味なもの」は、予告もなしに突発的に登場するから怖いのだ。突発的に登場できるということは、逆にいえば、どこにでもいるということである。幽霊は、偏在しているから、どこにでも現れることができるのだ。貞子は、どこにでも潜んでいる。だから、どこにでも突然現れることができるのだ。ここがポイント。人間にとって恐ろしいのは、どこにでも偏在しているもの、つまり突発的に現れるものである。

 不気味なものとは、曖昧なものである。その意味を言語で表現できない、つまり「意味を特定できない」ことが、逆にメッセージになっているような存在である。『13日の金曜日』のジェイソンや、『犬神家の一族』の佐清(すけきよ)がのっぺりした仮面をかぶっていることを思い出していただきたい。本来、意味の最高の顕現であるはずの人格の顔が、反意味的形態で現れるのが、一番怖い。深夜の峠道で、前方から人が来る。周囲は真っ暗。あなたとすれ違う時、チラッと見えたその素顔が真っ白な仮面だったら、どれだけ怖いか。あるいは、真っ暗な寝室。ふと、窓に目をやったら、誰かが笑っていたら、どれだけ怖いか。この場合の笑顔は、文脈を無視した反意味的笑いとして、恐怖を増大させる。山村貞子やお岩さんも、乱れ髪が顔を覆っている。それは、意味の曖昧さの象徴である。アメリカ映画の異生物より、日本のホラー映画の方が怖いのは、意味の最大の担い手である人格が、反意味的形態で登場するからであろう。そこでは、意味の曖昧性が、最大限の効果を達成している。

 不気味なものは、全能である。それは壁を抜けてやってくる。それは鏡から飛び出してくる。それは、私を破壊するために、どんな手段も可能である。呪いは、世代を超えて襲い掛かる。時間の壁がない。日常的因果性が通用しない。不気味なものは、時間を超越できる。『八つ墓村』の呪いは、永禄9年の事件に端を発するのだ。つまり、ホラー映画を成功させようと思えば、神性のこれらの不気味な諸特徴を網羅することが肝要なのだ。

 不気味なものの特徴は、外傷性記憶(トラウマ)と共通している点が多い。突発的に侵入してくる。言語で表現できない(曖昧である)。対象化に抵抗する絶対的現在である。昨日のことのように(永遠のように)リアルである。自分史の連続性の中に位置づけることができない。

 さて、ここで、不気味なものの正体が明らかになる。不気味なものとは、分節化できないものである。つまり記号化できないもの。整合化できないもの。では、なぜ怖いのか? それは、人間として生きるということは、カオスを分節化して、記号化して、整合化して生きるということだから。安心して生きるとは、対象化できること、位置づけることができること、分類できること、整理できること、意味を与えることができること、つまり「認識」できるということである。

 科学的世界観とは、不気味なものを一掃しようとする努力である。科学に普遍的魅力があるのは、人類が不気味なものに耐えられないからである。人間とは、最高度の分節化ができる生物であり、分節化なしには生きられないから。不気味なものは、分節化に抵抗する。というより、完全な分節化・記号化は不可能なのだ。どんなに分節化しても、さらに分節化すべき空白が残る。そして、もっとも分節化に抵抗する存在が、人間自身(他者)である。たんに認識できないことは、不気味な対象にならない。最高度に認識可能な形態(人格)でありながら、分節化・記号化できないもの、これが不気味なものである。そういうわけで、真のホラー映画は、反意味的な人格的顔という逆説的な性格を持ち、それをもっとも先鋭的に表現できるのは、なぜか日本のホラー映画なのだ。

 そういうわけで、幽霊に対する潜在的恐怖は消えません。突発性、曖昧さ、全能性を象徴する「暗闇」に対する恐怖は消えません。したがって、「神性」に対する恐怖も消えません。世界や自分や他者は、永遠に完全には分節化できないから。「分節化」という試み自体が、分節化の無限性を暗示している。分節化・記号化の不可能性を受容する勇気は、「神秘」という言葉に暗示されている。それについては、またいつか。

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