Ethical Experiment

なぜ宗教は消滅しないの?

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神の顔を見た者は死ぬ

 

 西田幾多郎の全著作は、正確に云えば宗教哲学に分類される。禅仏教的な視点を取り入れた宗教哲学なので、ユダヤ・キリスト教系しか知らない小生には、じつに新鮮だ。西田哲学の優れた点は、神が対象化されて、「神という存在」になってしまった水準で考えるのではなく、対象化される以前の現場で捉えようとするところにある。これが神という観念にアプローチする唯一正しい方法であり、これ以外にはありえない。

 神という観念の通俗的誤解があまりにも広まっているので、神の観念をテーマにして会話するのが不毛な地点にまで達してしまっている。「神の存在を信じない」とか「信じる」という意味のない主張のどうどう巡りで、最後は感情のぶつけ合いで終わるのは、たまに目にする光景だ。この不毛さの原因を作ったのは、トマス・アクィナスという中世の神学者だが、それが近代イギリスの理神論において欧米で普及して、現代の日本人まで知らぬ間に影響を与えている。

 そこで、神という観念について少し説明。私たちが何かを認識するという場合、「認識する私」と「認識される対象」が区別されることを前提にしている。認識する私(主体)と認識される対象(客体)という構図だ。ところが、神という観念には、この図式が当てはまらないのだ。神という観念は、主体−客体構造を超えた観念なのである。したがって、「認識する私(主体)」と「認識される神(客体)」という誤った枠組みで考えるから、有神論や無神論という不毛な議論に終わるのである。

 神という観念が、主体−客体構造を超えているというのは、どういう意味かというと、神が客体になるのは、神が同時に主体でもある場合だけであるという意味である。ここが、神の観念のユニークな点だ。類比として、生命現象を例にとろう。私たちは、生命自身を客観的に認識することが可能だろうか? 答え:不可能である。なぜなら、生命が認識の対象(客体)になるのは、生命が同時に認識の主体でもある場合だけだから。つまり、私たちが生命を認識しようとするとき、私たちの生命の働きなしには不可能だから。生命を認識する努力は、認識しようとする生命の働きによって為されるわけだ。この構図は、通常の主体−客体の構図を超えている。認識する主体と認識される客体が、同一なのだ。人間は、人間自身の中で主体となるものを絶対に対象化できない

 これは、全ての宗教行為(言語)も同じである。神(仏)に祈ることが可能なのは、神(仏)が、私たちの中で神(仏)に祈る場合だけである。神(仏)を愛することが可能なのは、神(仏)が、私たちの中で神(仏)を愛する場合だけである。こういう思考回路は、主体−客体構造の中だけで物を考える科学的思考法に慣れた時代にあっては、奇異に感じるられるだろう。しかし、認識の主体−客体構造の限界が指摘される現代においては、じょじょに復権の兆しが見られるのである。

 西田幾多郎が追及した問題は、主体−客体構図に分裂する以前の現場を論理化することだったと思う。生命自体は目に見えない。目に見えるのは、生命が維持している身体だけである。生命という作用は不可視だが、その働きは現実的である。宇宙を維持している作用は不可視である。目に見えるのは、宇宙の構造だけだ。しかし、宇宙を誕生・維持している作用・働きは現実的である。生命という作用や宇宙という作用自体は、対象化できない。それが対象化されるのは、生命という作用や宇宙という作用自体が、私たちの中で主体として前提される場合だけである。こういう思考回路は、神という観念が担ってきたものだ。しかし西田は、主体とならない限り対象化できないものを、言語によって対象化するわけだから、その試み自体が危うい問題を孕んでいるし、すべての宗教の危うい問題でもある。

 西田幾多郎は、仏教的背景から、客体であると同時に主体でもある作用を「絶対無」と呼び、ユダヤ・キリスト教は神と呼んできた。自らが主体にならない限り客体にはならないものを認識しようとする努力が抱える問題を、古典的に表現したのが、旧約聖書の神顕現の物語である。神はモーセに云う。「あなたは私の後ろを見るが、私の顔は見えない」。人間として生きるということは、「後姿は見えるが、顔は見えない決定不能性」に耐えて生きることである。身近な生活は、「後姿は見えるが、顔が見えない」もので、実は満ちている。後姿(記号)だけに認識を限定しようというのが、主体−客体構図の哲学。西田幾多郎は、そういう哲学を突破しようとした。とはいえ、西田は「顔」を見ようとしたのではない。「神を見たものは死ぬ」。内田樹氏の名言によれば、「おのれを示さないもの」は、「おのれを示すもの」を通して現れる。しかも、その二つは、同じ神の名で呼ばれる。それが神の観念である。

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