Ethical Experiment

オドロキの救済論

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    贖罪の教理とは、そもそも何なのか?

 

 贖罪の教理とは、「罪の赦し」の教理である。キリスト教の中心といえば、「罪の赦し」である。今回は、贖罪(罪の赦し)とは、何を意味しているのか、非宗教的に解説してみたいと思う。

 そもそも、「贖罪」とか、「和解」とか、「罪の赦し」というキリスト教用語が、本来意味しているのは、何なのか? 答えは、生に対する敵意の除去、生との和解である。生に対する敵意の例としては、自己嫌悪、空虚感、無気力、強迫的な敵意、外傷的記憶(トラウマ)、自己のバラバラ感、自己分裂、人間不信、絶望感、対人恐怖、異常な嗜好など、自己破壊の原因となるすべての要素のことである。

 自分自身と仲直りしていない人は、対人関係でも問題を抱える。対人関係に悩む人は、自分自身の中に問題を抱えている。私たちは、自分自身の矛盾や葛藤を社会に投影するが、そうすると社会が矛盾や葛藤だらけに見えてくる。こういう全てに隠れているのが、敵意である。「私は受け容れられていない」という不安だ。人生に不運や挫折や不幸が続くと、生全体が自分に対して敵意を抱いているように感じる。対人関係で悩むを抱える人は、他者の視線に敵意を感じる。自己嫌悪とは、自己のある部分が、自己の他の部分を拒否している状態だ。外傷性記憶は、その典型的な例だろう。というか、病気とは自己の内部の衝突である。運命からであれ、家族からであれ、友人からであれ、同僚からであれ、「私は拒否されている」と感じる人は、自分自身をさえ拒否せざるをえないし、自分自身を拒否している人は、その同じ視線を他者に投影せざるをえない。私たちが、せっせと他人に評価されたいとガンバルのも、自分をよく見せたいと思うのも、敵意を克服して自分を受容する努力であり、他者の受容を通して自己を受容する努力でもある。根底にあるのが、「拒否されているかもしれない不安」であろう。それは、生自体に対する不安であり、生自体に対する潜在的な敵意である。生は、私に敵意を持っていると感じるからこそ、私たちは、生を敵意のまなざしで眺め返すのだ。

 私たちは、生に対する敵意を、個人レベル・対人関係レベルでは克服できない。自分も他人も、全て生全体の一部であって、私たちをとりまく全てが生の一部なのだから。したがって、まず最初に、生自体と仲直りしなければならない。生自体と和解したら、自己嫌悪や対人恐怖は、おのずと克服されるのだ。これが、キリスト教の贖罪論のメッセージである。神という用語が嫌いなら、「生」という言葉に翻訳すればいい。云っていることは、同じことなのだ。

 さて、私たちは、自分という生、他人という生、社会という生、自然という生、つまり生と和解できるのだろうか? もし生という現象自体の中に、敵意を克服するパワーがなければ、私たちは、嫌悪感、拒絶感、空虚感を克服することは不可能である。生という現象は、矛盾・対立・葛藤に満ちているように見える。しかし、そんな表面の深層には実は、矛盾・対立・葛藤を克服する癒しの力が存在するのだろうか? 

 贖罪論とは、キリスト教という伝統における、生の深層の癒しの力の現象と、その体験の記述なのである。これが、贖罪論の正確な定義だ。したがって、贖罪論には、二つの側面がある。まず、分裂と矛盾を克服する癒しの出来事の記述。もう1つは、それを体験した人間の側の効果。つまり、客観的な面と主観的な面がある。これが贖罪論を曖昧にする。キリスト教の伝統の中で、贖罪論は、1つの普遍的な信条として集約されたことがなかった。一般人は、全クリスチャンが普遍的に信じる一つの贖罪論があると誤解しているが、そんなものは2000年間存在しないのだ。実はいろんなタイプの贖罪論があるのである。なぜなら、癒しの出来事を「体験した人間の側の効果」、つまり主観的な面が混入するので、時代、文化、社会によって多様な発展があったのである。次回は、贖罪論の主なタイプを紹介していこう。

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