Ethical Experiment

Centered Person

Welcome to my column


 ひたむきさが統合の証し

 

 心や思考の中にギスギス感、イライラ感がうごめくと、私たちは反射的に一体感を取り戻すことでバランスを保とうとする。気が動転した子どもを、母親がギュッと抱きしめることで落ち着かせようとするのも、バラバラになった気持ちの不統合を、抱きしめることで一体感・統合感を与え、不統合を解消させようとする知恵なんだろう。哲学者・鷲田清一氏は、人間が衣服を着るのは、バラバラになった身体感覚を、外側からの感覚的圧力で統合するためではないかと書いているが、あたらずとも遠からずであろう。つめを噛むクセも、身体の感覚を確認して、一部そこに注意を集中することで、精神の統合感を取り戻す手段なのかもしれない(実は、私も爪咬み)。

 日本人は牛丼が好きだ。私は、吉野家の牛丼をこよなく愛している。牛丼ファンは、それぞれ独自の食べ方の流儀を確立している場合が多い。余談になるが、私の場合は、並みと卵を注文する。それが、最上のバランスだと信じているからだ。牛丼と卵が届くと、まず卵に醤油を少々たらす。そしてかき混ぜる。それから卵を牛丼に均質に注ぎ込む。次に、七味唐辛子を均質に満遍なく振りかける。最後に、紅しょうがを牛丼の半面だけに盛り付ける。23年間、この手順を1度たりとも狂わしたことはない。人それぞれ、流儀は多様だろうが、牛丼ファンに共通する、普遍的な食べ方ルールが1つだけあるように思える。そのルールとは、前準備が終わったら、わき目も振らずに、がむしゃらに集中して一気に食べつくすことだ。私は、吉野家で、おしゃべりを楽しみながら食べている人を見たことがない。

 なぜ日本人は、牛丼やラーメンを愛するのか? 私の仮説:理由の1つは、丼物やラーメンは、統合感を与えてくれるから・・。丼物やラーメンは、集中して一気にかきこむ時に、身体と精神の統合感を与えてくれる。先日、NHKの「試してガッテン!」を見ていたら、この仮説が科学的に証明されたような気がした。カツ丼を食べている人と、かつ定食を食べている人の、脳内の血液の分布を測定したら、カツ丼を食べている人の方が、圧倒的に脳内が強く広範囲に活発になったことが判明した。カツ丼を食べている最中の「幸福感」は、一気集中の没頭感が、一時的にバラバラ感を解消することによるものだと思うが、いかがだろうか? 日本人、ストレス多いし。ジョギングの「ランニング・ハイ」や登山の「登山ハイ」も、身体と精神が一体となった感覚、エクスタティックな統合感が、少なからず作用していると思う。欧米人は、身体を動かして統合感を回復する傾向があるが、日本人は食べて回復する傾向があるのかも(食文化が発達しているし)。

 私たちの人格に統合を与えてくれるのは、無我夢中の状態である。1つの目的に向かって、無心に取り組むことが、最大の人格統合を生み出す。ニーチェは、「すべての徳は、生理学的状態であり、高揚した状態である」と書いているが、意志と気力の充実感、生が充満した意識に達する時が、私たちの人格が最も統合されている時であると思う。私たちが、畏怖と尊敬を感じる人間とは、多くの場合、1つの目標、1つの使命、1つの仕事に、全身全霊自分を献げている人である。伝記上の人物は、例外なくそうだ。私たちが、仮にマザーテレサにお会いする機会があったとして、最も感銘を受けるのは、その偉大な事業であるよりも、その事業に対するマザーテレサの不動の信念、不屈の姿勢であることは、まちがいないと思う。人が実際に感動するのは、何をしているかよりも、その人の並外れた「ひたむきさ」である。なぜか? それは、1つのことに自分を奉げている人が発する「統合のオーラ」が、私たちに伝える「人格力の無限の強度」によるものだろう。無条件に心を奉げている献身が、私たちの中に「怖れ」を生み出す。

 ニーチェとティリッヒが云う道徳性とは、「ひたむきさ」が生み出す統合力の程度である。「小人閑居して、不善を為す」というが、目標を失い人格の統合が弱くなった人は、不善を為す。キリストは、「最も重要な十戒(倫理)の掟は何か?」と尋ねられた時、答えて曰く、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と答えた。世俗的に翻訳すると、「無条件に愛する対象、目指す目標、自分を献げる使命を持ちなさい」という意味である。十戒の残りの掟は、意志と気力が充実して生が高揚し、人格が最大限に統合されれば、おのずと意図せず遵守される。

 しかし、猟奇殺人に熱中する人、犯罪に没頭する人、テロに献身する人がいるではないか? おっしゃる通り。私の推測では、オサマビィン・ラディンは、平均人以上に統合された人だろう。それで周囲のテロリストの尊敬を集めているに違いない。ヤクザの親分、ギャングのボスは、まちがいなく平均以上に人格統合された人たちだろう。そうでなければ、下の者は敬愛しない。そういうわけで、ニーチェとティリッヒの「Centered Person説」は、まだまだ詳細な解説が必要だ。それは次回。

 ちなみに、暴力をふるうことによって、バラバラになりかけている何かを、その瞬間だけは統一することができると云われる。夫婦が長い口論の末、怒りで思考がバラバラになりかけ臨界点に達した時、夫(妻)が、暴力を振るうのは、殴ることによって統合感を回復するためかもしれない。しかし、残念ながら、殴っている最中は統合感が回復するが、その後は、以前の状態以上の分裂の圧力がやって来る。問題はさらに大きくなり、それに耐えて人格の統合を維持するためには、今まで以上の力を要する。当然それがないので、暴力は増長する悪循環になるだろう。

Copyright © 2007 All Right Reserved.