Ethical Experiment

Moral Psychology

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  自己受容できるのか?


 一時期、書店に「ありのままの自分を受容しましょう」系の本が溢れていた。スピノザが云うように、「自己保存の努力は、徳の第一かつ唯一の基礎」だから、自己嫌悪や自責感に逆らって、自分を肯定するのも道徳のうち。でも、待った〜! ありのままの自分を、自分自身で受容できるのかな?

 たしかに、自分で自分自身を受容できる場合もある。それは、自分の部分的欠陥や特定の失敗を受容する場合。恐怖と同じで、欠陥や失敗が特定されていれば、人間は勇気によって対峙できる。「オレは、頭が悪い、学歴もない」、でも「優しい面もあるし、子どもには好かれるよ」などと、特定の欠点を特定の良い面と比較して、自分を納得させる。自分の部分的欠陥を、自分自身全体が肯定する図式だ。これが、日常的な自己受容である。自己啓発系の「ありのままの自分を受容しましょう」は、この範囲なら、十分通用する。

 問題は、自分自身全体が、自己嫌悪や自責の対象になった場合だ。この場合は、ありのままの自分を、自分自身で受容できない。海に溺れている自分を、自分自身手で持ち上げるのが不可能なのと同じである。この場合、「ありのままの自分」を受容するはずの自分自身が、まず先に受容されなければならない。自己嫌悪・自責の怖れ(恐怖)は、克服しやすいが、自己嫌悪・自責の不安は克服するのが難しい。

 自己嫌悪・自責の不安とは、人格としての自分に対する不安である。この場合、自分の部分的長所をいくら賛美しても、不安を克服できない。人格以下のものは、人格自身に対する嫌悪を克服できない。以前にも書いたが、諸宗教で「神」が人格神として象徴されるのは、この理由による。そういうわけで、自己嫌悪や自責の不安は:
対人格関係の中でのみ克服される。

 壁やペットに向かって自分の罪や不安を正直に告白しても、私たちは受容を実感することができない。受容を実感することができるのは、人格による受容のみである。これが受容の心理学。自己受容とは、他者からの受容を通して、自己を受容することなのだ(と、思いますよ)。

 カウンセラーや、精神科医という職業があるのも、人間は、自己受容するためには他人を必要とするからだろう。安上がりに済ませようとしたいからか、ナルシストだからか、自己啓発系は、自分だけで自分自身を受容するように勧めている場合が多いように思える。しかし告白されている、自己嫌悪に悩む自分というのも、けっこう怪しい。ニーチェは、「あのれを蔑む者も、侮蔑者としてなお、おのれを敬う」と云っている。「自分の欠陥や失敗は、たいしたことではない・・」と言い聞かせようとすることは、受容ではなく、精神分析が云う「抑圧」や「合理化」である。

 友人であれ、カウンセラーであれ、精神科医であれ、自己受容を助ける人は、その人の現実的欠陥や失敗を否定してはいけないし、かといってそれを非難してもいけない。友人やカウンセラーは、自己嫌悪に悩む彼に対して、個人として接するのではない。個人としての友人やカウンセラーは、自分自身も自己嫌悪の不安を抱えているかもしれない(人間なら、みんなそうでしょう)。それでも、「治療者」として援助できるのは、受容の力は、個人を超えているからだと思う。プロであれ、素人であれ、自分のカウンセリングで、誰かが癒された場合は、
自分の中の何かも、同時に癒されたのを感じる場合が多い。

 受容の力は、個人から伝達されるのではなくて、個人と個人を結ぶ、でも個人を超えた力だと思う。カウンセラーは、媒体として働くだけで、受容の力の通路として機能するのだろう。しかし、それが人格という媒体だからこそ、可能なのだ。自己嫌悪・自責からの解放が、自分一人の時に起きた場合でも、そこには、やはり他の人格が関与していると思う。誰かの想い出として、誰かのメッセージとして、誰かの期待として。愛情を受けるって、大事ですね。

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